表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/31

第29話 ミンチン院長の後悔

「私が院長先生と初めて会ったとき、厳しそうな人だと感じました」


 セーラお嬢様は昔を思いだしながら語る。

 シャワーを浴びたとき、心から色んなものを落としたのだろうか。

 聖母のように穏やかな表情。

 ピーターは実況中継を行っている。U-チューブを通して、全世界へ向けての生放送だ。彼の知名度という後押しもあり、再生数は大きく伸びているはず。

 スプリングフィールドも真剣な顔で撮っている。


「眼鏡をかけて、背も高くて、ちょっぴり怖い感じがする。私にとっての、立派な先生のイメージです。院長先生は思った通りの教師でした」


「ずいぶんと昔に感じます。まだ、1年ほどしか経っていないのに」


「私はセーラのことを、甘やかされたお嬢様だという印象を持ちました。父親に頼って、好き放題、我がまま放題に生きてきたのでしょう。厳しく躾けをしなければいけないと感じたものです」


「なるほど。納得しました。視線に棘を感じたものですので」


「フランス語の件で、私に怒鳴ったことを覚えておられますか?」


「えぇ。あなたは私を侮辱してくれました」


「ママがフランス人であるため、私はフランス語が堪能です。そのことを伝えようとしましたが、院長先生は耳を傾けてくれませんでした。そして、私がフランス語が苦手と勘違いをされました。なぜ黙っていたと後で怒鳴られても困ります」


「ふん。プライドが高いやつは困るよ。すぐに切れる」


 ホーリエさんが鼻で笑った。

 ミンチンは最初から、お嬢様を嫌っていた。

 貧しい生活を強いられてきたんだ。両親を早くから失って、ずっと家庭教師をしながら、幼かった妹の世話をしてきた。そんな彼女は妬んでいたのだろう。

 莫大な寄付金をくれたラルフ・クルーさんに遠慮して、表面上は穏やかに接していた。彼が亡くなれば、露骨に嫌悪感を表した。

 

「ラルフさんが亡くなったことで、あなたは天涯孤独になりました。本当は施設に預けるつもりでしたが、バロー弁護士に唆されて私が保護者代わりとなりました」


「セーラさんを虐めるためじゃないですか?」


「スプリングフィールドさんでしたね。これでも、最初は育てるつもりでいたのですよ。全てを失ったセーラに、世間の厳しさを叩きこもうとしたのです。これからはお嬢様でなくなり、誰にも頼れません。彼女一人で生きていく必要があります。甘えさせないようにしようと……」


「それで、あんな態度を取り続けたのですね。院長先生には感謝をしないといけません。早朝から深夜まで働かされ、悪口を言われ殴られる。高熱で倒れていたのに、無理矢理に起こされて仕事をさせられた。汚い馬小屋に放りこまれた。他の生徒達に、みじめな私を見せつけて、無視をするように煽ってくれましたね。あんな経験は初めてでした」


「あれは、セーラが仮病で怠けようとしていたから……」


「先生は私に親切だったことはありませんでした」


「ひでー話だな。屑もいいとこだ」


「ホーリエさんの言うとおりですね。デモの参加者が暴走したのは感心できませんが、気持ちは理解できますよ。許されない行為だ」


 セーラお嬢様の言葉が震えていた。

 がちがちと白歯を鳴らし、わなわなと拳を軋らせている。

 ミンチンは弱々しく目を逸らす。

 この憤怒は、心の底に残り続けるのだろう。

 お嬢様は私の手に、美しい掌を乗せる。

 ふぅと深く吐息をすると、顔から赤みを落としていった。

 優しい眼差しを、私へと注ぐ。


「とても辛い生活でしたが、ベッキーのおかげで耐えられました。ミンチン女学院は私にとって家ではありませんでしたが、ベッキーのいた屋根裏部屋こそ私の居場所でした。生きる希望がありました。アーメンガードやロッティちゃんも慰めてくれて、私は幸せでした」


「セ、セーラお嬢様……」


 目蓋が温かくなって、涙があふれてきました。

 セーラお嬢様は強いお方だと憧れていたけど。

 私は支えになれたのですね。

 あんな労働環境に耐えられたのは、お嬢様のおかげですよ。私こそ叫びたい。

 掌からの熱を受けて、私の心も揺さぶられてしまう。

 ピーターが静かに言葉を投げる。


「ミンチンさん。あんたは少女時代に叔母から虐められたそうだな。嫌なやつだと軽蔑したんだろう。今度は自分が嫌なやつになった」


「たしかに。私の目のないところで、あの女は幼かったアメリアを叩いていました。ずいぶんと嫌味を言われたものです。金食い虫は消えろと。あいつを心の底から軽蔑していたのにっ。いつの間にか、そっくりになっていましたね」


「院長先生も苦労してきたのですね」


 セーラお嬢様の顔には、色んな感情が混ざりあっている。

 自分を虐めぬいた人であっても、その不幸な境遇を悲しめるんだ。

 声を落として、じぃっと憐れみの視線を送りこむ。

 マリア・ミンチンの情報を集めてきたから知っている。

 彼女は叔母から酷い虐待を受けてきた。妹を守るために苦労を重ねてきた。貧しい生活から抜けるため、休まずに家庭教師の仕事を続けてきた。

 セーラお嬢様の幸せさを妬み、ミンチンは冷たすぎる態度を取った。

 あの憎しみようは異様すぎた。


「私は馬鹿ですね。セーラに当たったところで、何も変わらないのに」


「変わったじゃありませんか。ミンチン女学院はホーリエさんの手に渡って、あなたは教師としての権利を失った。財も世間からの信用も」


 スプリングフィールドさんが嫌味を飛ばす。


「そうね。私が築いてきたものは、何もかも崩れた。こんな私の傍にいてくれるのは、アメリアぐらいでしょう。感謝しなくてはいけませんね」


「そうでしょうか?」


「セドリック・エロルさんは今でも、院長先生のことが大好きですよ」


 その瞬間、ミンチンの頬を涙が伝わった。

 たまらず、うつむく。

 ミンチンが家庭教師をしていた頃の生徒さんだ。クラスメイトからの虐めにより登校拒否をしていたが、彼女に励まされて立ち直れたと語っていた。

 今でも慕っているから、恩師を投石より庇って大怪我をしたんだ。

 セーラお嬢様の言葉を受けて、壊れそうなほどに動揺をしている。

 頭をかきむしって、唸りを零しだす。


「たしか、あなたが性的虐待をしていた元少年ですね」


「そんなことはしていません。何も知らないくせに、いい加減なことを言わないで。あの頃の私は精神的に追いつめられていた。あの女から離れて暮らしはじめ、アメリアの世話をしながら、貧しすぎる生活に耐えてきた。あの子を育てるために、自分の食費まで削って。そんな私を、セディは慰めてくれた」


「院長先生……」


「セディは優しすぎるのです」


 スプリングフィールドは何かを言おうとするも、口を結んだ。

 スマートフォンを取り出して、何かの操作をしている。

 ミンチンの掠れた声は、聴きとりにくいほど揺れていた。

 セディさんと彼女の再開劇を思いだす。

 穏やかそうな青年は悔しそうにしていた。当然のことだろう。自分を救ってくれた家庭教師が、酷薄な虐待者へと変わっていたのだから。



『正直に申しあげれば、残念で仕方がないです。例の動画を拝見しました。セーラさんへの同情心も湧きますが、悔しくて涙が零れました。心から尊敬していたのに。マリア・ミンチン先生を』


『それでも、私は貴方からの恩を忘れられません。セーラさんと一緒に、この不当な状況を破ろうと決めました。貴方なら、きっと』



 彼の言葉は、私の心に刻まれている。

 ミンチンは思いだしているのだろうか?

 私にとっては最低最悪の院長だけど、彼女を尊敬している人もいるんだ。

 立派な先生だった頃もあるんだ。

 誰かに何かを教えるのが好きで教師という職を選んだのだろう。辛くとも家庭教師に夢中となっていた時期もあるのだろう。少しだけ想像してみる。

 マリア・ミンチンは青ざめた顔色でうつむいている。

 昔の自分に責められているのだろうか。

 セーラお嬢様が勢いよく立ちあがった。


「院長先生のことを知って、色々と納得できましたよ」


「まったく、私は酷い人間になったものです。ずっと長く溜めてきた怒りを、セーラに向けて吐いてしまった。いや、恵まれた環境で育ってきた生徒達を、心の底では嫉妬で憎んでいたのかもしれません。だから、躾と称して厳しく当たってきたのです。情けない……」


「昔のミンチン先生に戻れませんか?」


「セーラ。無理を言わないでください。私は教師としての資格を失いました。お金も信用も無くなりました。人生は終わったも同然ですよ」


「どうして、勝手に決めつけるんだ?」


 ホーリエさんが部屋へと入ってきた。


「ミンチンさん。俺も新しい学校を創ることにした。あんたは失敗をしたが、ノウハウを持っている。力を貸してほしい。教員免許を剥奪されようが、アドバイザーはできるだろう。スタッフとして働けば、生活できる分の給料も払える」


「私を雇えば、評判は悪くなりますよ」


「それがどうした。どれだけ落ちても、人間はやり直せるんだ。罪を犯せば、信用も尽きるだろう。それでも逃げずに、前へと歩きだすんだ。ゼロに戻っても、ちょっとずつイチを足していくんだ。世間から誹謗中傷もされて苦しいだろうがな。人の可能性を、子供達に見せてつけてやろうぜ!」


「たしかに、私を雇ってくれるのはありがたいですけど、無理でしょう」


「やろうよ。今すぐにでも」


 ホーリエさんが優しげな眼差しを送る。

 まさか、このタイミングでヘッドハンティングをするとは。

 予想の斜め上をはるかに超えていく人だ。

 サロンメンバーも驚いているのか、ざわつき始めている。

 評判最悪な虐待教師を迎えようとするのだから。

 スプリングフィールドさんは子供みたいな顔で録画を楽しんでいる。

 ミンチンの瞳から死色が抜けていく。少しだけ、顔を持ちあげた。

 私はネットを使って業火を広めた。魂を焼きつくすほどの炎に炙られて、彼女の魂は灰と化している。それでも、立ちあがれるのか。


「院長先生が苦しんでいるのを見るのは、やっぱり辛いですよ。胸が痛くなってきました。ホーリエさんの言うとおりにしなくても、元気になってほしいです」


「やっぱり。院長先生が助かって嬉しいです」


「セーラ。あなたって人は……。私は、なんてことを……」


 ミンチンも立ちあがった。

 衰弱した体なので、よろめいて今にもこけてしまいそう。

 そんな彼女を、私は急いで支えた。

 滂沱の涙を零しながら、セーラお嬢様を力なく抱擁する。

 お嬢様も受け止めて、ぎゅっと抱きしめた。

 ぽろっと、セーラお嬢様からも何か落ちたようだ。どす黒いものが霧散していったように感じる。自然な微笑みは、まるで日光のように温かい。




 スプリングフィールドさんがスマホを手にしたまま、笑顔で叫んだ。


「よかったですね。セディさんは無事に助かったそうですよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ