第29話 ミンチン院長の後悔
「私が院長先生と初めて会ったとき、厳しそうな人だと感じました」
セーラお嬢様は昔を思いだしながら語る。
シャワーを浴びたとき、心から色んなものを落としたのだろうか。
聖母のように穏やかな表情。
ピーターは実況中継を行っている。U-チューブを通して、全世界へ向けての生放送だ。彼の知名度という後押しもあり、再生数は大きく伸びているはず。
スプリングフィールドも真剣な顔で撮っている。
「眼鏡をかけて、背も高くて、ちょっぴり怖い感じがする。私にとっての、立派な先生のイメージです。院長先生は思った通りの教師でした」
「ずいぶんと昔に感じます。まだ、1年ほどしか経っていないのに」
「私はセーラのことを、甘やかされたお嬢様だという印象を持ちました。父親に頼って、好き放題、我がまま放題に生きてきたのでしょう。厳しく躾けをしなければいけないと感じたものです」
「なるほど。納得しました。視線に棘を感じたものですので」
「フランス語の件で、私に怒鳴ったことを覚えておられますか?」
「えぇ。あなたは私を侮辱してくれました」
「ママがフランス人であるため、私はフランス語が堪能です。そのことを伝えようとしましたが、院長先生は耳を傾けてくれませんでした。そして、私がフランス語が苦手と勘違いをされました。なぜ黙っていたと後で怒鳴られても困ります」
「ふん。プライドが高いやつは困るよ。すぐに切れる」
ホーリエさんが鼻で笑った。
ミンチンは最初から、お嬢様を嫌っていた。
貧しい生活を強いられてきたんだ。両親を早くから失って、ずっと家庭教師をしながら、幼かった妹の世話をしてきた。そんな彼女は妬んでいたのだろう。
莫大な寄付金をくれたラルフ・クルーさんに遠慮して、表面上は穏やかに接していた。彼が亡くなれば、露骨に嫌悪感を表した。
「ラルフさんが亡くなったことで、あなたは天涯孤独になりました。本当は施設に預けるつもりでしたが、バロー弁護士に唆されて私が保護者代わりとなりました」
「セーラさんを虐めるためじゃないですか?」
「スプリングフィールドさんでしたね。これでも、最初は育てるつもりでいたのですよ。全てを失ったセーラに、世間の厳しさを叩きこもうとしたのです。これからはお嬢様でなくなり、誰にも頼れません。彼女一人で生きていく必要があります。甘えさせないようにしようと……」
「それで、あんな態度を取り続けたのですね。院長先生には感謝をしないといけません。早朝から深夜まで働かされ、悪口を言われ殴られる。高熱で倒れていたのに、無理矢理に起こされて仕事をさせられた。汚い馬小屋に放りこまれた。他の生徒達に、みじめな私を見せつけて、無視をするように煽ってくれましたね。あんな経験は初めてでした」
「あれは、セーラが仮病で怠けようとしていたから……」
「先生は私に親切だったことはありませんでした」
「ひでー話だな。屑もいいとこだ」
「ホーリエさんの言うとおりですね。デモの参加者が暴走したのは感心できませんが、気持ちは理解できますよ。許されない行為だ」
セーラお嬢様の言葉が震えていた。
がちがちと白歯を鳴らし、わなわなと拳を軋らせている。
ミンチンは弱々しく目を逸らす。
この憤怒は、心の底に残り続けるのだろう。
お嬢様は私の手に、美しい掌を乗せる。
ふぅと深く吐息をすると、顔から赤みを落としていった。
優しい眼差しを、私へと注ぐ。
「とても辛い生活でしたが、ベッキーのおかげで耐えられました。ミンチン女学院は私にとって家ではありませんでしたが、ベッキーのいた屋根裏部屋こそ私の居場所でした。生きる希望がありました。アーメンガードやロッティちゃんも慰めてくれて、私は幸せでした」
「セ、セーラお嬢様……」
目蓋が温かくなって、涙があふれてきました。
セーラお嬢様は強いお方だと憧れていたけど。
私は支えになれたのですね。
あんな労働環境に耐えられたのは、お嬢様のおかげですよ。私こそ叫びたい。
掌からの熱を受けて、私の心も揺さぶられてしまう。
ピーターが静かに言葉を投げる。
「ミンチンさん。あんたは少女時代に叔母から虐められたそうだな。嫌なやつだと軽蔑したんだろう。今度は自分が嫌なやつになった」
「たしかに。私の目のないところで、あの女は幼かったアメリアを叩いていました。ずいぶんと嫌味を言われたものです。金食い虫は消えろと。あいつを心の底から軽蔑していたのにっ。いつの間にか、そっくりになっていましたね」
「院長先生も苦労してきたのですね」
セーラお嬢様の顔には、色んな感情が混ざりあっている。
自分を虐めぬいた人であっても、その不幸な境遇を悲しめるんだ。
声を落として、じぃっと憐れみの視線を送りこむ。
マリア・ミンチンの情報を集めてきたから知っている。
彼女は叔母から酷い虐待を受けてきた。妹を守るために苦労を重ねてきた。貧しい生活から抜けるため、休まずに家庭教師の仕事を続けてきた。
セーラお嬢様の幸せさを妬み、ミンチンは冷たすぎる態度を取った。
あの憎しみようは異様すぎた。
「私は馬鹿ですね。セーラに当たったところで、何も変わらないのに」
「変わったじゃありませんか。ミンチン女学院はホーリエさんの手に渡って、あなたは教師としての権利を失った。財も世間からの信用も」
スプリングフィールドさんが嫌味を飛ばす。
「そうね。私が築いてきたものは、何もかも崩れた。こんな私の傍にいてくれるのは、アメリアぐらいでしょう。感謝しなくてはいけませんね」
「そうでしょうか?」
「セドリック・エロルさんは今でも、院長先生のことが大好きですよ」
その瞬間、ミンチンの頬を涙が伝わった。
たまらず、うつむく。
ミンチンが家庭教師をしていた頃の生徒さんだ。クラスメイトからの虐めにより登校拒否をしていたが、彼女に励まされて立ち直れたと語っていた。
今でも慕っているから、恩師を投石より庇って大怪我をしたんだ。
セーラお嬢様の言葉を受けて、壊れそうなほどに動揺をしている。
頭をかきむしって、唸りを零しだす。
「たしか、あなたが性的虐待をしていた元少年ですね」
「そんなことはしていません。何も知らないくせに、いい加減なことを言わないで。あの頃の私は精神的に追いつめられていた。あの女から離れて暮らしはじめ、アメリアの世話をしながら、貧しすぎる生活に耐えてきた。あの子を育てるために、自分の食費まで削って。そんな私を、セディは慰めてくれた」
「院長先生……」
「セディは優しすぎるのです」
スプリングフィールドは何かを言おうとするも、口を結んだ。
スマートフォンを取り出して、何かの操作をしている。
ミンチンの掠れた声は、聴きとりにくいほど揺れていた。
セディさんと彼女の再開劇を思いだす。
穏やかそうな青年は悔しそうにしていた。当然のことだろう。自分を救ってくれた家庭教師が、酷薄な虐待者へと変わっていたのだから。
『正直に申しあげれば、残念で仕方がないです。例の動画を拝見しました。セーラさんへの同情心も湧きますが、悔しくて涙が零れました。心から尊敬していたのに。マリア・ミンチン先生を』
『それでも、私は貴方からの恩を忘れられません。セーラさんと一緒に、この不当な状況を破ろうと決めました。貴方なら、きっと』
彼の言葉は、私の心に刻まれている。
ミンチンは思いだしているのだろうか?
私にとっては最低最悪の院長だけど、彼女を尊敬している人もいるんだ。
立派な先生だった頃もあるんだ。
誰かに何かを教えるのが好きで教師という職を選んだのだろう。辛くとも家庭教師に夢中となっていた時期もあるのだろう。少しだけ想像してみる。
マリア・ミンチンは青ざめた顔色でうつむいている。
昔の自分に責められているのだろうか。
セーラお嬢様が勢いよく立ちあがった。
「院長先生のことを知って、色々と納得できましたよ」
「まったく、私は酷い人間になったものです。ずっと長く溜めてきた怒りを、セーラに向けて吐いてしまった。いや、恵まれた環境で育ってきた生徒達を、心の底では嫉妬で憎んでいたのかもしれません。だから、躾と称して厳しく当たってきたのです。情けない……」
「昔のミンチン先生に戻れませんか?」
「セーラ。無理を言わないでください。私は教師としての資格を失いました。お金も信用も無くなりました。人生は終わったも同然ですよ」
「どうして、勝手に決めつけるんだ?」
ホーリエさんが部屋へと入ってきた。
「ミンチンさん。俺も新しい学校を創ることにした。あんたは失敗をしたが、ノウハウを持っている。力を貸してほしい。教員免許を剥奪されようが、アドバイザーはできるだろう。スタッフとして働けば、生活できる分の給料も払える」
「私を雇えば、評判は悪くなりますよ」
「それがどうした。どれだけ落ちても、人間はやり直せるんだ。罪を犯せば、信用も尽きるだろう。それでも逃げずに、前へと歩きだすんだ。ゼロに戻っても、ちょっとずつイチを足していくんだ。世間から誹謗中傷もされて苦しいだろうがな。人の可能性を、子供達に見せてつけてやろうぜ!」
「たしかに、私を雇ってくれるのはありがたいですけど、無理でしょう」
「やろうよ。今すぐにでも」
ホーリエさんが優しげな眼差しを送る。
まさか、このタイミングでヘッドハンティングをするとは。
予想の斜め上をはるかに超えていく人だ。
サロンメンバーも驚いているのか、ざわつき始めている。
評判最悪な虐待教師を迎えようとするのだから。
スプリングフィールドさんは子供みたいな顔で録画を楽しんでいる。
ミンチンの瞳から死色が抜けていく。少しだけ、顔を持ちあげた。
私はネットを使って業火を広めた。魂を焼きつくすほどの炎に炙られて、彼女の魂は灰と化している。それでも、立ちあがれるのか。
「院長先生が苦しんでいるのを見るのは、やっぱり辛いですよ。胸が痛くなってきました。ホーリエさんの言うとおりにしなくても、元気になってほしいです」
「やっぱり。院長先生が助かって嬉しいです」
「セーラ。あなたって人は……。私は、なんてことを……」
ミンチンも立ちあがった。
衰弱した体なので、よろめいて今にもこけてしまいそう。
そんな彼女を、私は急いで支えた。
滂沱の涙を零しながら、セーラお嬢様を力なく抱擁する。
お嬢様も受け止めて、ぎゅっと抱きしめた。
ぽろっと、セーラお嬢様からも何か落ちたようだ。どす黒いものが霧散していったように感じる。自然な微笑みは、まるで日光のように温かい。
スプリングフィールドさんがスマホを手にしたまま、笑顔で叫んだ。
「よかったですね。セディさんは無事に助かったそうですよ」




