4 ネクタイ
『先輩の、第二ボタンください……!』
かけていた掃除機のスイッチを切った途端、テレビからいきなり女の子のそんな声が聞こえてきて、内藤は思わずどきりとした。
見れば、家事をしながらなんとなくつけっぱなしにしていたリビングのテレビ画面が、平日の昼間にやっている昔のドラマの再放送になっていた。朝の情報番組なんかには結構お役立ちな情報も多いので、それを見てからそのままほったらかしにしては、こんな状況にもよくなるのだ。
ちょっと覗いてみたら、いかにも昔の番組らしく画面の左右が黒く切れた映像の中に、セーラー服の女の子と詰襟の男子学生二人が映し出されていた。
(そっか……卒業式って、そんなこともあったっけ)
内藤はなんとなく、身の置き所がないような気がしてちょっと頬をぽりぽり掻いた。
もちろん、こんなこと、自分に直接の関係はない。
何をどう考えてみたところで、自分にそんなことを言いに来る女子などおそらく一人もいないだろうから。
だから問題は、そちらではない。
(あいつ……きっと、言われるんだろうな)
そうだ。
問題は、かの強面、長身のあの男のほうだった。
彼は間違いなく、今までは声も掛けにくく思って勇気の出なかった女子たちから、この種のことを頼まれるはずだった。それも同学年のみならず、下級生の女子たちからまで。
なぜなら、内藤は知っているからだ。
彼の居ない場面で、女子たちがどんなふうに彼のことを噂してきたのかを。
「佐竹君って、とっつきにくいところはあるけど、話してみるとけっこう常識的よ」
「そうそう。黙って荷物なんかも持ってくれるし。顔はちょっと怖いけど、中身はそうじゃないみたい」
「告白られても前ほどきっつい断り方もしなくなってきてるみたいだしね。最後ぐらい、勇気だしてみたら?」
「今年も、あんた結局、チョコ渡せなかったんでしょ? 佐竹先輩、もう今年は卒業なのよ? 頑張らなきゃ」
とまあ、大体こんな風な噂話だ。
要するに、内気な友人の女の子を励ましている、その友達の子たちの声である。
日常的に耳に入ってくるそんな声を、内藤は友達の翔平なんかとへらへら笑ったりしつつ、胸に棘の刺さるのを覚えながら聞いてきた。勘のいい翔平は、あんな風でいてちゃんと人の表情を見ているので、下手に変な顔はできなかった。
「どしたあ? ユーヤ。なんか元気なくなくねえ?」
と、どっちなんだかよく分からない軽い仕方ですぐに訊かれてしまうからだ。
いや、というか、きちんと確認してみたことがないからはっきりとは分からないのだけれども、翔平はことによったら、自分と佐竹の「友人」とは違う関係のことを、薄々は気付いているのではないかとさえ思うことがあった。
学校から帰ろうとしているとき、それまでだったら当然のように駅まで一緒に帰っていた翔平が、最近では佐竹の顔を見た途端、「そんじゃな」と笑って姿を消すことが増えている。だからといって何を確認してくるのでも、何かを揶揄しようという風もない。
上にちょっと年の離れた姉がいるせいなのか、翔平はあんな風に制服を着崩したり、明るい色に染めたツンツン頭をしていながらも、中味はけっこう大人なのだ。いや、最近は受験のこともあって、教師や親からさんざん言われ、いやいやながらも髪色だけは少しばかりおとなし目の茶色に変えてしまっているけれども。
佐竹は佐竹で、どこでどう翔平と話をしたものか、ある程度彼のことを認めている節がある。要するに、翔平は今ではすっかり佐竹の中で「内藤のいい友人」としての立ち位置を勝ち得ているのだ。
内藤としてはなんだかそれも、ちょっと羨ましいような妬けるような、変な気分になるのだったが。
昼の明るい日差しのさしこむリビングで、内藤は何となく窓の外を見た。
数日おきに温かくなったり、寒くなったりを繰り返しながら、空気が少しずつ、春へ向かってゆくのがわかる。
(明日……卒業式かあ)
再放送のテレビドラマは、エンディングなどはばっさりと切られてとっくにコマーシャルに移っている。
平日昼間の視聴者層向けらしく、やたらに健康食品を推奨するにぎやかなあおり文句を聞き流しながら、内藤はぼんやりと考えていた。
(言って……みようかな。あいつに)
だって、うかうかしていてだれかに取られるのはやっぱりイヤだ。
そうなってしまってからでは、絶対に自分は後悔するから。
そうしてテーブル上のリモコンでテレビを消すと、ふたたび掃除機の電源をいれ、内藤はまた黙々と部屋の掃除を始めたのだった。
◇
「ネクタイ……?」
卒業式、その日の朝。
学校へ向かう道すがら、内藤からそう言われて、佐竹は少し面食らい、彼の顔をじっと見返してしまった。
自分たちの通う高校の制服はブレザーで、上着はグレー、ネクタイはこの臙脂色のものと決まっている。ちなみにこうした式の日には、いつもの大きなスクールバッグではなく、黒い制鞄を持ってくるのが決まりである。
卒業式の日、自分を想ってくれている相手に乞われて、自分の詰襟のボタンだの、ブレザーのネクタイだのを渡すといったことは、けっこうな昔からあちこちの学校で行なわれてきた。さすがの「朴念仁」佐竹でも、そのぐらいのことは知っているが。
「俺のネクタイが欲しいのか? ……妙な趣味だな」
正直言って、あまりそういう色事めいた「お約束ごと」には興味のない佐竹にしてみれば、「くだらない」と一蹴したくもなるような習慣だったが、やはり相手が内藤となると話は変わってくる。
まして相手が、そう答えたら急に捨てられた子犬よろしく盛大にしょんぼりしてしまったのだから、これはもうどうにもならない。
それに、否やを言う理由などは別になかった。
もしも誰かにそれを渡すのだとしたら、自分にとってその相手は内藤を措いてほかにない。だから佐竹は、やや間は置いてしまったものの、やがて内藤に頷いて見せた。
「……もちろん、その程度のこと、構わんが」
「ほ、ほんとっ?」
途端、ぱあっと内藤の目が明るくなる。
「ああ。だから、そんな顔をするな」
佐竹は周囲の人間がこちらを見ていないことを確認してから、内藤の頭をがしがしかき回す。珍しく、彼が慌てて佐竹の手から逃げるようにした。
「うわ、やめろよ。一応、式だから髪、整えてきたのにい!」
「そうなのか? 大していつもと変わらんぞ」
「あ、ひでえ!」
と、急に背後から声がした。
「う〜っす。今日も元気にじゃれてんなあ……」
「あ、翔平。おはよ……って、おい! 髪、もとにもどしちゃったの!?」
内藤の言う通りだった。
黒い制鞄をひょいと肩に掛け、スラックスのポケットに手を突っ込んだ今井翔平が、後ろでにやにやと笑っていた。
いつも何が入っているのか疑問に思うほど薄いスクールバッグを担いでいたが、今日もまたご多分に漏れず、「ぺったんこ」という形容がぴったりの鞄である。その髪が、以前どおりの明るい色と、ツンツン尖ったものに戻っていた。式だというのに、いつも通りパーカーの上から制服のブレザーを重ねた姿である。
人目がないことは一応確認したはずだったが、彼はどうやら物陰からこっそりとこちらを窺ってでもいたようだ。
(……どういうつもりだ、こいつ)
佐竹はじろりと意識的に鋭い視線で今井の顔を睨んだが、当の相手はそんなもの、「どこ吹く風」といった様子だった。
今井は内藤と同じぐらいの背丈の、痩せ型の少年だ。
その肩をちょっと竦めて、にやっとこちらを見て笑う。
「だあってよ。式っつったら、最高の格好で行くのが礼儀ってモンでしょうが」
「いやそれ、『最高』の意味が違うんじゃ……」
「ま、いいってことよ。ほれほれ、遅れっちまうぞ。さっさと行こうぜ〜?」
今井は平気な顔で内藤の肩にひょいと腕を回して、そこに引っかかるような体勢になる。
そうして、なにやら意味ありげな目でちらりと佐竹を見上げてきた。
(……この野郎。)
内藤の首に肘までかかったその腕を即座に掴んで引き剥がしたい衝動に駆られつつ、しかし佐竹は、実際には何もやらなかった。
ただぎゅっと眉間に皺をたてると、ついと二人から離れて校門に向かった。
「あれ? 佐竹――」
後ろから戸惑ったような内藤の声が聞こえたが、佐竹はもうそれには構わずに大股に歩を進めて校門をくぐった。
「ゴルァ、今井ぃ! なんっじゃその頭はぁ! 卒業式に、えらい根性見せよるのう――!!」
背後では、校門前にいた生徒指導の教師が早速今井に噛み付いている。
いつも服装のことにはうるさかったその教師にとっつかまり、今井に雷が落ちるのを、佐竹は涼しい顔をして背中で聞いた。
「オラ、内藤! お前も友達なんじゃったら、ちいっとは注意とかしたらんかい! 友達甲斐のないやっちゃのう……!」
「うわ、こっちもッスかあ……?」
それがさらに今井の隣にいる内藤にまで飛び火しているのは、ちょっと可哀想には思ったが、まあ彼の服装ならば直接なにかのお叱りが来るはずもない。
佐竹は背後で展開されている彼らの楽しげなすったもんだを聞きながら、さっさとそんな結論を出し、校舎の中に入っていった。