5 ともしび
「まったくもう、バカ佐竹、バカ佐竹、バカ佐竹……!」
試験会場までの道すがらも、会場に入ってからも、内藤はその理由が怒りだか羞恥だかよくわからないままにもずっと赤面したまま、大股にどんどん歩いた。
「ほんとまったく、何やってくれてんだよ……!」
受験票を見て、試験を受ける部屋を探し、長机の端になっている自分の席に着いてからも、周囲の受験生に聞こえないように小さな声で、内藤はそんなことをぶつぶつ言い続けていた。
ふと、妙な視線を感じて目を上げると、少し離れた隣の席にいた受験生の女の子が、ちらっと不審げな目でこちらを見たようだった。内藤は慌てて持ってきていた参考書を開き、さも暗記したことの確認をしていたかのような振りをしなくてはならなかった。
(まったく、佐竹のやつ……!)
だから、うっかり忘れていた。
これが、第一志望の本試験で、自分の行きたい大学に行けるかどうかの瀬戸際の、もっとも大事な試験なんだということを。
いや、本当は忘れてなどはいなかった。
けれども多分、あのまま何事もなく佐竹と別れて電車に乗ったりしていたら、内藤はそれに伴っていたはずの余計な緊張だとか萎縮だとか恐怖心だとかを、今この場にもずっと引きずっていたのに違いなかった。
そうだ。
それは間違いない。
しかし、そうしてまとわりつくはずだった色んな余計ごとは、あの時の彼の口付けひとつで、きれいにどこかへ飛んでいってしまったのだ。
だから。
その日の試験科目のすべてが終わって、試験会場であるその大学の門を一歩出たところで、ふと、内藤は首をかしげた。
「えーっと……。これで終わった、……んだよなあ……?」
ぽりぽりと、頬を掻く。
いや、本当はまだ、明日の二日目の試験もあるし、このあとも第二志望、第三志望の大学を受験するつもりではあるので、これが最後なわけではないけれど。
なんだか、狐につままれたような気分だった。
きっと、もっとがちがちに緊張して、問題文なんか最初は頭に入ってこないんじゃないかなんて思っていたのに。
実際、これまで受けた模試の中では、あまりに緊張して頭が真っ白になってしまって、読んでも読んでも問題文の質問意図がわからなくて非常に困ったこともあったのだ。
でも今回は、あたかも家で佐竹が目の前で家庭教師をしてくれているときのようにして、普通に設問に向かうことができてしまった。余計なことは何ひとつ、考えることもしなかった。ただ無心に、問題そのものに向き合えた。
もちろん、試験前に佐竹に教えてもらった呼吸法や精神統一のやりかただって、役に立っていたのだろうと思う。
内藤にとってはもう今さらな話だけれども、剣士の精神性というのは、やっぱり凄いものなのだ。
(佐竹……)
鉛筆を走らせていたその間じゅう、自分の脳裡に浮かんでいたのは、目の前で文庫本などを読んでいる、静かな彼の相貌だった。
年に似合わぬ落ち着いた雰囲気を身につけたあの男――本来まだ、「少年」と呼ばれてもおかしくはない年齢なのだが、やっぱり彼をそうは呼びにくい――を思い描くだけで、内藤の心は、まるで静かな水面みたいに凪いだのだ。
そうして驚くぐらいにするすると、出てくる問題のひとつひとつに、ただ純粋に取り組むことができた。
まるで目の前に、彼が今もいるかのように。
そうしてさらに驚いたことに、ときには問題を見たとたんに、彼のあの落ち着いた声が聞こえるようなこともあった。
「あの時、佐竹がこんな風にして解説してくれたな」とか、「あの時はあいつ、こんな顔をしていたな」とかいうようなことを、内藤は問題用紙のあちらこちらで発見した。
そして思わず、微笑んだ。
こんな場面で。
この自分が、こんな風に笑っていられるだなんて、考えてもみなかったことだった。
そのことが、ひどく心強くて、嬉しかった。
「……あ」
内藤は、ふと我に返った。
そして、自分が道の真ん中でぼうっと立ち尽くして、ちょっと迷惑そうな顔の他の受験生たちからじろりと睨まれたり、鞄をぶつけられたりしながら、どんどん追い越されていることに気付いた。
「っと。ご、ごめんなさい……」
そして、慌てて道の端に寄り、自分も駅に向かって歩き出した。
昼下がりの冬空はぼんやりとした薄曇りで、今日も少し、風が強かった。
雪はもうやんでいた。
ちょっと見回せば、学生ではない街の人々はごく普通の顔をして、自分たち受験生とはまったく別次元の世界を生きている。かれらはしごく当たり前の日常の中にいて、コンビ二で立ち読みをしたり、スーパーの前で顔見知りを相手に立ち話をしてみたりしているのだった。
内藤は上着の内ポケットに手を入れて、その二つのものを取り出した。
それをしばらくじっと見つめ、一度ぎゅっと握って、自分の胸に押し付ける。
お守りと、シャーペンと。
それはどちらも、彼が自分のことを思い、本当によくよく考えた上で、手に入れてくれたものだ。
ここには彼の、自分への想いがいっぱいに詰まっている。
決して大声で、好きだのなんだの言い続けたり、叫んだりするわけではないけれど。
やたらにべたべたしてくるわけでも、「自分が好きか」なんて訊いてくるわけでもないけれど。
それでも彼のその想いは、十分すぎるぐらいに伝わっている。
最初はあんなに、「怖い奴だな」なんて思っていたのに。
いや、確かはじめのうちは自分だって、彼のことをほかの高校生と同様に「とんでもない変人だ」なんて思って、敬遠してさえいたというのに。
今ではもう、この世にあんなに優しい奴、いないんじゃないのかって思っている。
(佐竹……)
唇を噛み締めると、自分を追い越していったほかの受験生たちや、通行人たちの姿が、ゆらゆらと熱くぼやけてかすんだ。
(佐竹……!)
内藤は、ぱっと走り出した。
自分を追い越して歩いていた学生たちが、驚いたような目をしてこちらを見ていた。
それには構わず、内藤はどんどん走った。
会いたい。
いますぐ。
お前に、……会いたい。
ぽろぽろと頬を伝って落ちてゆく雫をぬぐいもしないで、内藤はただもうまっしぐらに、その駅に向かって駆け込んでいった。
……が、しかし。
「馬鹿もん」
家に帰りついた途端、内藤のそんな想いは、こんな台詞ときつい拳骨一発とともに、当の男によって一蹴されることになる。
「試験は明日もあるんだろうが。気を抜くな」
まあ、それは事実だったが。
ともあれこのときの内藤は、そういうちょっと残念な自分の未来をまだ知らない。