4 雪舞う朝に
その日は、朝からちらほらと雪が舞っていた。
内藤が乗る予定の電車の時間に合わせて、佐竹は最寄りの駅まで彼を見送りに行った。お互いの家は徒歩で十五分ほどの距離であり、この駅はその中間にあるわけなので、家まで迎えに行くことはしなかったのだ。
「あ。おはよ、佐竹……。待った?」
「いや」
いつものグレーのダッフルに大きめのマフラーをぐるぐるに巻き、小ぶりのバックパックを担いだ姿で現れた内藤は、やっぱり少し緊張しているように見えた。
あまり子供にするようにして世話を焼くのもどうかとは思うのだったが、それでも佐竹は一応、彼の持ち物、受験票や筆記用具、時計そのほかのものをチェックした。
内藤はぎこちない様子でそれらをひとつひとつ確認し、佐竹に見せてからまた慎重に、担いできたバックパックに戻した。
やっぱり、顔色は良くなかった。
予定している電車までには、まだ少し時間がある。
佐竹はちょっと考えてから、内藤を駅構内を歩く人々からは死角になる、隅の柱の陰に連れて行った。
とはいえ、何か事前にしようと思っていたことがあったわけではない。
こんな時、気の利いた台詞のひとつ、行動のひとつもさらりと出せるような人間ならよかったのだが。あいにくと佐竹には、そういう都合のいい機能は備わっていないのだった。
だから、ただ言えるのは、こんなごくごくありふれた言葉だけだ。
「落ち着いてやれば大丈夫だ」
「……うん」
「お前は、それだけのことはやってきた」
「うん……」
「教えた呼吸法は、覚えているな?」
「う、……うん……」
内藤は小さな声で答え、わずかに頷くだけである。ちょっと見ただけでも、その肩がまるで鎧でも着こんだかのようにしてがっちりと固まっているのがわかった。
彼が自分で思っている以上に緊張しているのは明白だった。
佐竹はしばし黙って、青白くなっている彼の相貌をじっと見た。
そうして、さりげなく言った。
「この間、渡した物は持ってるか?」
「あ、……うん」
内藤はごそごそとコートの下に着た上着の内ポケットに手を入れた。
が、出てきたのは、あのお守りだけではなかった。
内藤の手には、あの時わたした青紫色の合格祈願のお守りと、去年佐竹がホワイトデーのお返しとして渡した無骨なデザインの黒いシャープペンシルが、大事そうに握られていた。
佐竹の目の色を見て、内藤が「へへっ」と、照れたように少し笑った。
「……どっちも、大事なお守りだから」
そうしてさも大事そうに、それを握って胸に抱きしめるようにした。
(……!)
佐竹は、思わず両の拳を握りしめた。
いくら死角に居るとはいっても、こんな所で、そうすることは許されない。
しかし今、目の前の彼をすぐにも抱き寄せたいと思った。
眉間に皺を立て、一見怖い顔になったのだろう佐竹を、内藤はそっと見上げて、やっぱり困ったような顔をしていた。
それからやっと、少し柔らかい笑みを見せてこう言った。
「大丈夫だよ、佐竹。心配ばっか、させてゴメンな……?」
「…………」
沈黙している佐竹を見上げたまま、内藤はちょっとまた、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「だって、うまく行っても、行かなくっても……お前は、そばにいてくれるんだろ?」
「……勿論だ」
ほとんど憮然としたような声でそう応えたら、内藤はついに、いつもの柔らかな笑顔になった。
それは本当に、嬉しそうな笑顔だった。
「だったら、俺……大丈夫。ほかの事はなんにも……怖くないから」
(……!)
もう、駄目だった。
佐竹は瞬時に覚悟を決めると、周囲の気を即座に読み取り、誰の目もこちらに向いていないことを確認して、強引に彼を抱き寄せた。
そのまま、内藤の唇を奪った。
電光石火の早業だった。
「……!」
佐竹が彼の体から手を離した時、内藤は目を白黒させて、そのときになってやっと、いま何が起こったのかを理解したようだった。
しばらくは口をぱくぱくさせて、金魚か何かのような状態だったが。
「あ、……あわ、あわわ……」
次にはもう、トマトかなにかみたいに、彼の顔は真っ赤に茹で上がった。
「なっ、……ななな、何すんだっ、バカ! こんなとこで――!」
片腕で口許を隠すようにし、もう片方の拳を振り上げて、軽く佐竹の胸元をぽかぽか殴る。いや、そんなものは全く痛くも痒くもないが。
佐竹は思わず口端を歪め、自分と瓜二つだったかの異世界の王さながらの、ちょっと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「少しは、緊張がほぐれたろう」
「な……っ」
絶句してまた口をぱくぱくしている内藤の肩をぐいと掴んで、佐竹は彼を通路の方へ押しやった。
「もう行け。そろそろ電車の時間だぞ」
自分としては、非常に珍しい表情と、行動だというぐらいの自覚はある。
内藤がもう、「くっそう!」と言わんばかりの顔になってこちらを振り向き、歯を剥きだした。
「おっ、覚えてろよ、バカ佐竹っっ……!」
そしてそのまま真っ赤な顔で、何度もこちらを振り向いてはべえっと舌を出し、「バーカ、バーカ」と言い続けながら、ホームにつづく階段をぱたぱたとのぼっていった。
その背中が先ほどまでとは打って変わって、いつもの彼の、あの自然な柔らかい気をまとっていることを見て取って、佐竹はひとつ吐息をついた。
わずかに口角を引き上げる。
(……頑張れよ)
あとはもう、自分にしてやれることは何もない。
せいぜいが、このまま近隣の神社にお参りでもして、試験中、何事もないようにと祈るぐらいのことだろうか。
(まさに、『人事を尽くして天命を待つ』、だな――)
結局のところ、人の活動のすべてはそれに尽きよう。
佐竹はそこで、内藤の消えた駅改札の奥をしばらく眺めていたが、くるりと踵を返すと、あとはもう振り向きもせず、大股に駅構内から外へ向かって歩き出した。