3 寒風
「わ〜、さむっ。やっぱ、誰もいないなあ……」
内藤が分厚いダッフルコートの襟を立て、ぐるぐる巻きにしたマフラーの上からさらに巻きつけるようにしながら、寒風にあおられて漣のたつ水面を見やった。
このあたりは、電車に小一時間も揺られれば、狭い範囲ではあるがこうして海岸線に出ることもできる。
内藤の言ったとおりだった。
普段なら、犬を散歩させたりランニングやウォーキングをしたりするような人々もいるのだろうが、吹きさらしの海岸にはいま、自分たち以外、誰も歩いてはいない。
海面はいま、冬場の曇天のもと、ただどんよりと灰色にくすんでいて、強めの風がそこから潮のにおいを空へ、陸へと吹き散らしている。普段は穏やかな内海なのだが、今日は少し風があるせいで、やや波も高かった。
本来なら、この大切な時期、内藤に風邪でも引かせては一大事だ。だからこんな場所に連れ出そうとは思わないところだったが。
「少し歩くか。……が、あまり長居をするのはやめておくんだぞ」
「うん。わかってるよ」
内藤は少しだけにこりと笑うと、コートの首元を両手で握るようにし、肩を縮めて歩き出した。スニーカーの先で砂を蹴るようにしながらとことこと歩くのについてゆきながらちらりと見やると、大きめのニットマフラーに顔を半分埋もれさせるようにしているにも関わらず、彼の耳や頬、鼻の頭は真っ赤になっていた。
(やっぱり、すぐに帰るか――)
佐竹は、わざわざこんな時期に彼をこんな場所に連れてきたことを後悔した。そして、彼とあの家に二人でいることに耐えられず、こんな暴挙に出た自分を、心の中で密かに叱咤した。
「う〜。ほんっと、冷えるなあ……」
内藤の声に目を上げれば、彼は手袋をした手で自分の両肩を抱くようにしながら、その場でちょっと足踏みをしていた。
佐竹はひょいと手を伸ばすと、彼の片手を掴み、指を絡ませて握り合わせてから、自分のロングコートのポケットにつっこんだ。
「あ、……あ」
内藤がびっくりして、目を真ん丸くする。途端、かあっとこれまで以上に顔や耳が赤くなったのが分かった。
ポケットの中で、彼の手をさらに強く握りこむ。内藤は、それにつられるようにして自然に体を寄せてきた。俯いたまま、こちらを見ることもできなくなっているようだ。
と、内藤は、かさりと佐竹のポケットの中で手に触れた別のものに気付いて、目を上げた。
「……ん? なに……? これ」
佐竹は何も言わず、ただ内藤を見返した。
そうして、彼の手を握ったまま、指先でそれを摘むようにして、そろりと引き出した。
そのまま、それを彼の手のひらの上に乗せる。
「……あ」
内藤の目が、さらに見開かれた。
それは、西の地方にある有名な、学業の神を祀った神社の御印のある、ちいさな紙の袋だった。中にはもちろん、その神社の合格祈願のお守りが入っている。
内藤はそれを取り出してみて、きゅっと唇を一瞬だけ噛みしめた。
紫の地に金糸の刺繍で縫い取られた「合格祈願」の文字をじっと見つめている。
「これ……、俺に?」
「ああ」
内藤は困ったような目で佐竹を見上げた。
「だ、……だって、初詣のとき、一緒にお揃いの……もらったのに」
声がどんどん、尻すぼみになる。
それでも、その手がしっかりお守りを握り締めて、小刻みに震えているのが分かった。
確かに今年の正月には、佐竹は内藤と彼の父親、さらにその弟も一緒に近隣の神社に初詣に行き、彼と揃いの、同じ合格祈願のお守りを手に入れたのだった。
「あれは『センター用』だろう。これは、今回のお前の受験用だ」
「でも、あの――」
「心配いらん。どちらも菅原道真公だ。よしんば違うお方だとしても、幸い日本の神様がたは、こういうことで喧嘩などはなさらんがな」
「そ、そうじゃなくてさ。……これ、あの、わざわざ行って来てくれたの? ……遠いのに」
「俺の受験は終わったからな。……まあ、このぐらいはさせてくれ」
「…………」
当然のことをしただけなので、当然のこととしてそう言ったのに、内藤は途端にくしゃっと顔をゆがめた。
何も言えなくなって、また例によってべそをかきそうになっている内藤のことにはお構いなしに、佐竹は彼の手からお守りを取り上げると、勝手に彼のコートの内ポケットに突っ込んで、また襟をかきあわせてやった。
ぽんぽんと、軽くその胸を上から叩く。
「ありが、……佐竹――」
「だから、泣くな。風邪をひくぞ」
涙声の内藤の言葉を遮って、また先ほどと同様に彼の手をつかまえると、佐竹は無造作にそれを自分のポケットに突っ込みなおした。
内藤には海岸側を歩かせ、自分は陸側の道路のほうから彼の姿を少し隠すようにして歩く。
こうしていれば、ちらりと見られる分には、男同士で歩いているようには見えづらいはずだった。
ふたりは無言で、しばらく歩いた。
内藤の目からぽろぽろこぼれていたものが少し収まってきたのを見計らって、佐竹はやがて、足を止めた。
ここに彼を連れてきたのには、もうひとつ、目的があったからだ。
立ち止まった佐竹を見上げて、赤い目をした内藤が不思議そうな顔になった。
「……内藤。なにか、欲しいものはあるか」
「え? 欲しい……もの?」
「ああ。……次の試験で合格したら、だが」
「…………」
内藤はびっくりした目でしばらく佐竹を見つめていたが、何を思ったのか急に黙り込んだ。
(……分かりやすすぎるぞ、貴様。)
途端にそう思って、ちょっと佐竹は半眼になった。
そして、即時に防衛線を張った。
「とは言え、お前の親父さんの許容範囲内でのことだぞ。……当然ながらな」
低く、抑揚をおさえた声音でそう言ったら、内藤は一瞬だけ、「ひくっ」と喉を震わせて固まったようだったが。
「……あ。……う、そっ、な、なな何も俺、言ってないじゃんっ……!」
そんなことを言っているが、彼の考えたことなど、もはや佐竹にはお見通しだった。
むしろもう、「本日、最大級に真っ赤な顔になっておいて何を言う」と突っ込まずに済ませた自分を褒めてほしいぐらいのものだ。
じたばたしだした内藤の腕をさきほどよりも強く握り締めて押さえ込み、ポケットの中に突っ込んだまま、佐竹はまた歩度を変えずに海岸線を歩き出した。
あまり目立つ動きをしていると、無駄に陸側の通行人の目に留まる。
やがて。
しばらく無言のままで歩いたあと、隣から蚊の鳴くような声がした。
「……したい」
「ん? 何だ」
佐竹は足を止めて、隣を見下ろした。
ポケットの中で握っている彼の手が、手袋ごしにもひどく熱いように思えた。
「だって、いつもさ……。一回とか、二回とか……だから」
「何の話だ」
佐竹は俯いた内藤の声がよく聞き取れず、少し腰をかがめるようにして、彼の口に耳を寄せた。
「だ、……だから――」
内藤はもう、片手で必死にマフラーを引きずりあげて、真っ赤になった顔を隠しながら、それでもどうにか、その言葉をそっと、佐竹の耳に囁いた。
『ちゅう、したい』――
佐竹と、もっと、……もっといっぱい、
ちゅう……したいよ。
「…………」
佐竹はしばらく呆然と、恐らくは相当困った顔で、自分の相手を見下ろしていた。
他人が見れば恐らくそれは、「非常に機嫌の悪くなった顔」だと誤解されかねないほどの、険しいものだったのに違いない。まあ幸い、内藤はもう、そうは思わなくなってくれてはいるが。
そんな変な顔になった相手をちらっと見上げて、もう内藤は耐えられなくなったらしく、あっという間に佐竹の手を振りほどいて、ぱっと駆け出した。
「待て! 内藤――」
佐竹も、すぐに追いかけた。
恥ずかしさのあまりにか、内藤の足は随分と速かった。
脇目もふらずに駆けてゆくグレーのダッフルコートの背中を追って、そこから四、五十メートルほどのところで、佐竹はやっと彼の腕を捕まえた。
内藤はもう、自分の腕で自分の顔を覆うようにして隠し、ぶんぶん顔を横に振りながら、腰を曲げて喚いている。
「ごめん! ごめん、ごめん……!」
「内と――」
「違うから! ぜんっぜん、違うから! 俺っ、なに言ってんだろもう――ほんっと……ごめん!」
羞恥のあまり、もはやすっかりパニックになって泣き喚くに近い状態の内藤を、佐竹はそのまま、力を籠めて両腕に抱きこんだ。
「落ち着け。内藤――」
「あ、う……」
急に走って冷たい空気が肺にどっと入ってきたために、内藤は少し咳き込んでいる。二人の吐き出した白い息が溶けて混ざって、潮味のする大気の中にまたとけては消えてゆく。
そうやってしばらく、二人はものも言わずにそこに立ち尽くしていたが。
やがて、内藤が静まってきたのを見計らって、佐竹はやっと口を開いた。
「……それでいい」
「え……」
腕の中で、内藤の体がぴくりと震えた。
佐竹は聞き間違えられることを恐れるように、落ち着いた声音ではっきりと、彼の耳にその言葉を囁いた。
「お前がそれを励みにできるというなら、それでいい」
「…………」
恐る恐る、胸のところから内藤が顔を離してこちらを見上げてきた。
その目が「本当に?」と訊ねている。
佐竹は彼の顔を両手に挟んで、すぐ目の前、真正面から見つめ、ゆっくりと頷いた。
「約束しよう。……俺に二言はない」
内藤の目がいっぱいに見開かれて、じっとこちらを見つめている。
「だから……頑張れ」
そのまま、こつりと額を合わせてやる。
内藤が、途端にまた、くしゃっと泣き笑いの顔になった。
佐竹はたまらず、目の前にあって震えている、涙味のする彼のそれに、自分の唇を静かに重ねた。