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君と、桜の下で。  作者: つづれ しういち
第一章 如月
2/12

2 佐竹



 もうすぐ、その日がやってくる。

 今年のそれは、彼の受ける、最後の入試の行なわれる日だ。


 同学年であるにも関わらず、「自分たちの」とは言わずに「彼の」としか言わないのには理由わけがある。

 なにか申し訳ないながら、こちらはもうすでに、二月のはじめには推薦で進路が決まってしまったからだ。

 彼と彼の父、隆に対して少し後ろめたい気持ちをどこかに引きずりながら、それでも、そのお陰で今はこうしてなんの後顧の憂いもなく、彼の受験勉強のサポートに回れるのだと思えば、それはそれで有難い。


 それを伝えた時の彼は、ただもう手放しで喜んでくれた。

 そして、随分とほっとしたようでもあった。

 自分の学習のためにこちらの時間をひどく食ってしまっていることを、誰より彼自身が気に病んできたということのようだった。


(……そんな心配は、無用だと言ったんだがな。)


 あの時自分は、彼から恐る恐る「どうだった?」と訊かれて、ただ素っ気無く「ああ、受かった」と答えただけだった。

 彼は我がことのように喜んで小躍りし、いつものようにちょっと涙を浮かべてにこにこ笑った。

 そうして心から、「おめでとう」を言ってくれた。


(まったく――)


 他に家人のだれもいない、彼の家。

 その玄関先で、彼のそんな顔を見るのは何度目だったか。

 いずれにしても、彼はそんな時の自分の顔が、相手にどれほどの試練を与えているかを知らない。いや、だからこそあれほど安易に、自分に近づいて体に触れてさえ来るのだろうが。

 彼はあの時、喜びのあまりにこちらを押し倒すほどの勢いでとびついて、力いっぱい抱きしめてきた。そうして、「よかった。よかったよう……」と、ずっと同じことを繰り返した。

 多分また、少しべそをかいていた。


(……少しは警戒しろ)


 そんな風に思う自分が確かにいるのに、彼は「だって佐竹だし」とばかり、こちらの忍耐というものを信頼しきっている。まるで自分を、神や仏か何かと勘違いしているのではないかと思うほどだ。

 そんな無防備な奴を目の前にさせられるこちらはまったく、たまったものではない。

 彼の父親からは、自分たちが成人するまでは、とある一線は越えてくれるなと、重々釘を刺されている。そして自分たちはこれまで一年半近くもの間、その約束を守ってきた。

 内藤はそうは思っていないだろうが、正直「どうにかこうにか」と形容するのがもっともふさわしいだろう。少なくとも、こちらは完全にそういう状態だったと思う。

 「蛇の生殺し」などという、少し品のない言い回しもあるが、まあ言ってしまえばそういうことだ。


 触れるだけの口付けと、抱擁のみ。

 男女の付き合いではないとはいえ、今日び小学生にも笑われてしまいそうなこの関係を、決して嫌いではないけれども。間違っても悪意があってされたことではないのは分かっているが、忍耐を試されるという意味では、内藤の父親は自分に対して相当に高いハードルを設けてくれたと言わざるを得ない。

 ……もちろん、やり遂げて見せるつもりではあるが。



 そして今日も、自分は内藤の家を訪ねている。

 門扉わきの呼び鈴を押す前には、このところいつも、一度深く呼吸をして、腹を据えてからにすることが増えている。

 その理由は、わかりきっている。


「あ、……佐竹。いらっしゃい」


 玄関先まで出迎えに来た内藤は、やや顔色が悪かった。

 それも、無理のない話だった。


 このところ、思うように成績が伸びていない。

 いや、それはある程度、仕方のない話ではある。今まで勉強をしてこなかった連中も、この時期ともなれば必死に机にかじりついて努力しているはずなのだから。その中で今までよりも偏差値のレベルを上げていくというのは、なかなかに至難の業なのは当然だ。

 内藤は、新年が明けてすぐに受けたセンター試験の結果でも、彼が望んでいる大学に届くにはまだ少し足りないレベルにとどまっていた。本試験の日が近づくにつれ、彼の心には焦る気持ちが暗雲のごとくに覆いかぶさるようになり、自分と一緒に勉強しているときにもつい、ぼうっとしているようなことがある。

 最近ではどうやらあまり、眠れない日が続いているようだった。


「顔色が悪いな。ちゃんと寝てるのか」

「え? あ、うん……大丈夫だよ」


 こいつが頼りない笑みを浮かべてにそう誤魔化すのは、いつものことだ。

 それが決して、自分の目からはごまかしにもなっていないのも。

 少し青白い彼の顔を、眉間に皺をたてて見つめた自分を、彼は困ったようにちらりと見返した。

 今日の内藤は、また少し派手な色目のピンク色のパーカーを着ている。

 自分の母が、何故かまたしても贈りつけた()()()()の襟から見える彼の首筋が、いつも以上に白く見えた。

 自分は意識的に、その部分から目をそらした。


「ほ、……ほんとだよ。ちゃんと眠ってはいるから。勉強だって、やってるし」


 そんなことは分かっている。

 彼は彼なりに、ここまでで出来ることはすべてやってきた。

 そのことは、ほかならぬこの自分が、一番よく知っている。


 本当は、彼の父親である内藤隆氏は、息子が高校二年の冬の段階で、彼をとある予備校に入れることを考えていた。

 実は自分もその時、二人がその塾へ見学に行くのに無理を言ってついていかせて頂いた。そうして、その塾の講師には悪いながら、「これなら自分がサポートしたほうがまだしもか」と思ったのだ。

 ちなみに応対をした塾長は、どうやら自分を内藤の兄かなにかと勘違いしたらしい。それでかどうかは分からないが、何故か内藤の父親にではなく、自分に向かって塾のシステム等々について額に汗して説明したものだった。

 隣で聞いている内藤とその父親は、何かずっと変な顔をしてその話を聞いていた。

 結局、帰宅後、二人にも相談し、その後ずっと、自分は同学年ではありながら彼の「家庭教師」の真似事をすることになったのである。


 実際、受験生の時間は貴重だ。電車に乗って通うその塾に行くまでの間、ある程度の暗記や参考書を読み込むなどのことはできないわけではないだろうが、それでも時間のロスは当然ある。体力も奪われる。さらにこの時期もっとも怖い、余計な感染症をうつされるリスクも伴うことになるだろう。

 それならば、安全に落ち着いて勉強のできる自宅にいて、なるべく時間を有効に使えるほうが、内藤にとっては利があると言えるのではないだろうか。

 まして彼には、自分が側についていてやれるのだ。

 だからそれは、そうしたことを様々に考えた上での提案だった。


「いや、だけど、佐竹君。君だって受験生なわけだから……」


 隆氏ははじめのうち、さすがにそのことを気遣って色々と遠慮していた。自分に対してはもちろんのことだろうが、それ以上に自分の母、つまり馨子に対する気がねもあったのだろうと思われる。

 しかし、その旨を一応打診してみたところ、あの女は、

「まあ、いやだわ、内藤さんたら。何をおっしゃっているのかしら。うちのあきちゃんが、()()()()()()()で自分の勉強をおろそかにするような男だとでも?」

 と、あっさり一笑に付してくれたのだった。

 これには正直、感謝した。


「そ、そういうことなら……。佐竹君にお願いできるなら、私もそれ以上のことはないと思っているよ」


 と、隆氏も最後にはそう言って折れ、この件を了承してくれたのだ。




「あ……の。どしたの……? 佐竹」

 そんなことをつらつらと考えながらじっと内藤の顔を見つめていたので、気がつけば彼は少し頬を赤らめるようにして、そっとこちらをうかがっていた。

「ああ……いや」

 そう言って、また自分は彼から意識的に視線を外した。


 初めて会った頃には、ただ普通の容姿をしたクラスメートの男子に過ぎなかったこいつが、このところ、妙な色香を漂わせていると思うのは、自分の気の迷いなのだろうか。

 特に自分と付き合うようになってからこっち、例の耳のこと以外では容姿が変わったわけでもないのに、時折り内藤は、出し抜けにとんでもない「試練」をこちらに叩きつけてくることがある。

 彼の表情を、その涙を見なければ、縋るような声を聞かなければいいのだとわかってはいるが、実際、いつも唐突すぎて対処に困るというのが正直なところだ。


 ……そう、まさに、今のように。


 近頃は家事と勉強とに追われてほったらかし気味で、少し伸びた色の薄い髪。

 外に出ることが減って、日焼けしていた肌もこのところ随分と白くなった。

 勉強疲れと、迫りくる受験への不安のために、いま、内藤はつねに不安定だ。

 そしてそれは、自分と二人きりで居る時に、ふと近づいてきてこちらの肩に額をつけるようにするなどの行動になって現れやすい。

 そうされれば、そのやや茶色っぽい柔らかい髪に触れることになり、やがて唇に触れるようなことにもなる。


 内藤の指が、自分のコートの胸元を掴んでいる。

 彼の匂いが……する。


 彼の家に、ふたりきり。

 彼の弟の洋介は、この週末、彼の勉強の邪魔にならないようにと、父方の実家に連れて行かれているらしい。


(……いや、駄目だ。)


 はっとして、彼の肩に置いた手に力をこめ、その体を無理にも自分から引き剥がす。

 そうすれば、彼が傷ついたような顔をして、泣きそうな目で見上げてくることがわかっていてもだ。


 そろそろ、限界が来てしまいそうな予感がしていた。


「……少し、気晴らしに出かけるか」


 誤魔化すように彼の髪を掻きまわし、無理にも出した硬質な声を、彼がどう受け取ったのか。

 内藤は、少しうなだれるようにはしたが、やがて顔を上げたときには、いつもの顔に戻っていた。


「……うん。そう、だな」



 


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