息衝く夜
夜が息衝いている。
世界の裏と表。宵闇の中でも煌々と照る光の隣で、影は確かに存在していた。
荒い息。
呼吸を整え、熱を帯びた体に冷たい空気を送り込んだ。
ビルの屋上。階段室の壁に背を預け、全神経を集中させて辺りの気配を感じ取る。
地上は遠いと言うのに、喧騒が聞こえてきた。
極めて平穏な日常を送る、何も知らない者達の音。
車のエンジン音にクラクションの音、風に乗ってこだまする大小様々な話し声、どこからか鳴り響く軽快な曲。夜だというのに、街は眠る事を知らない様子だった。
それは、本来ならば徹がいるべき場所。平穏という加護と、無知という祝福に満ち満ちた生者の世界。
肺に溜まった空気を一気に出した。唇の間から零れる空気は、酸素を引き剥がした二酸化炭素ではなく、吸った時と全く同じもの。
近い。
耳に感じる低い音、足裏を伝う振動、腹に響く衝撃、肌全体を撫で回す存在感。
片手に持ったハンドガンの使い方を今一度思い出す。激鉄を上げ、引き金を引く。イメージはできていた。
大丈夫、できる筈だ。
徹は自らにそう言い聞かせ、もう片手に持った刀の刃を見た。新品のそれは、よく磨き上げられており徹の目元を映し込んだ。
「徹!」
少女の声が聞こえる。綾倉ミクリ。徹がここに隠れて待っていた人物。
ミクリは一人で来た訳ではなかった。ビルの屋上を疾走する彼女の背後を追うのは一体の化け物。
見なくても理解した。ジンから渡された資料にあった悪霊だ。人の背を優に超える戦車のような巨体は、圧倒的な暴力を纏いながら凄まじい速度でこちらに突進する。
「わかってるよ!」
刀の峰を肩に乗せ、跳躍する。階段室を易々と飛び越える放物線を描く跳躍は、生きていた頃には想像もできなかった人外の力。
跳躍の最中、足元の存在を捉える。複雑な機構を擁する大鎌・フレキシブルサイスを構えたまま低い姿勢で疾走するミクリ。それを追うのは予想通りの悪霊。
「おオッ!」
何度も訓練でやった動き。夢にまで出てきたイメージを再現するように、徹は引き金を引いた。
狙いは悪霊の鼻先。しかし外れ、弾丸は悪霊ではなく地面に当たる。
やはり動く的は違う。だが、ミクリに夢中になっていた悪霊の意識を向けさせるのには十二分の効果がある。
速度が緩まる。
「ようやく止まったわ――」
ミクリはその瞬間を見逃しはしない。
「ねっ!」
一気に踵を返し、鎌の刃を悪霊の体にめり込ませた。
無論、高さだけで人の背を越える巨体だ。これだけで仕留められる訳はない。
「よっしゃあ!」
そのまま空中で用済みとなった銃を手放し、両手で握った刀を振り上げる。
着地の瞬間、振り下ろす。
分厚い毛皮を切り裂き、硬い頭蓋骨を叩き割る感触。
血は出なかった。
だがその代わり、悪霊は雄叫びを上げながら黒い煙となって消えていった。
不穏な気配が消え、地上の喧騒が耳に戻ってくる。
「あー……」
足の力が抜けた徹が、その場にへたれ込んだ。
「初陣にしてはやったじゃない」
フレキシブルサイスを肩に担いだミクリが、へたり込んだ徹の目の前に手を差し出す。
「こんなに大変なのか、悪霊との戦いって」
「ジンだって言ってたでしょ。身を粉にするのも生ぬるい、って」
ミクリの言葉を聴きながら差し出された手を握り返すと、そのまま腕を引かれて立ち上がれた。膝がまだ笑っている。立つのがやっとであった。
「で、早速結果がわかるの」
ミクリが胸元から出して見せたのは銀細工の施されたペンダント型の懐中時計である。同様のものが徹のズボンのポケットに入っており、おもむろに取り出して蓋を開ける。
針が規則正しく並ぶ文字盤の中に、回転ドラム式のカウンターが配置されていた。
「うげっ」
徹は回転ドラムに加算された数字を見て苦い悲鳴を上げる。
「どうしたの?」
「こんな……こんな低いのか……こんな気に揉んで……たったの48……?」
一度は徹を案じて文字盤を覗いたミクリであったが、その反応を見て呆れたように頭を引っ込めた。
「あんたは足止めしてトドメ刺しただけ。私はあんたが手をつけるまでの工程を全部やったから。報酬としては半分半分よ」
「だからってこんな……アリなのか」
「初陣なんてみんなそんなもんよ」
対するミクリのカウンターは二千も半ばに到達していた。これが、両者の徹底的な違いでもあった。
「さ、ゲットーに帰るわよ」
先ほど空中で徹が手放した銃を拾い上げ、ミクリは呟く。
「あんまり居心地のいい所でもなくなったでしょ、現世」
まだ不本意な事が多かったが、ミクリの言葉の通りであった。
「……ああ、ゲットーに帰ろう」
心のどこかに芽生えてしまった後ろめたさを感じながら、彼らは息衝く夜に背を向けた。
彼らは死んだ。
地獄から逃げ出した悪霊により、若くして非業の死を遂げた。
しかし悪霊から逃げ延びた彼らの魂は、神の温情を受ける。
「自分自身が望む未来」。神が求めるだけの働きをすれば、自分が望む存在に生まれ変われる。
だからこそ彼らは存在を懸けて悪霊と戦うのだ。この世界から悪霊という害を取り除く『掃除人』として。
死んだ彼らは、生きるために戦うのだ。