されど婚礼は続く
銃声がしたので、わたしの婚礼を祝っているのだと思った。
けれども祝って欲しくなどなかった。
わたしは、義理の兄の事業のために、ある水運会社の社長の一人息子に、身売り同前で婚礼を結ばされるところなのだから。
わたしは家族と共に母国の内戦を逃れ、この二つの巨大な河の合流地点に栄えた町の中でもとびっきりの良家に拾われ、長い間出来そこないの末弟の家庭教師をしていた。実の両親は母国を出る途中、国境付近でわたしと弟を庇って倒れ、その弟は栄養失調で藁のように儚い命を落とした。
そして生き残ったわたしが、先程も言ったように、召使を大勢抱える良家に拾われたのだ。
すでに〈わたし〉と呼べるほどの確かな一貫性は失われていた。わたしを生かしてくれる存在から求められる姿かたちに自らを馴らし、教会の鐘が戦の武器に変えられるように、己を在り様をその場その場で錬成することが、あまりにも多く繰り返されたからだ。
彼らは同族での結婚を繰り返していた。それゆえ、かのスペイン・ハプスブルグ家の青い血の末路に触れるまでも無く、身内に知恵遅れの人間を複数抱えており、そのお目付け役としてわたしが宛がわれていた。けれども亡命の最中で極貧の生活に耐えてきたわたしにとって、その知恵おくれの末弟の相手をすることはさして苦痛では無かった。その良家の義父も義母も、実の父母より遥かに温厚であり、わたしを大切にしてくれていた。今の事業を無から造り上げた叩き上げの先代の下で裕福に育てられてきた彼らが、先祖代々貧農であったわたしの父母よりも温厚であるというのは別段驚く事でもない。わたしの実の両親が厳しいのは、住む環境の厳しさと不可分だったからだ。彼らは厳しい大地の試練に撫でられ続け、撫でられた通りの厳しさを正確に写し取ってしまっていた。
これまでの人生において小説は両親の目を逃れ、隠れて読むものであったのに、この家に来てからはどうしてか褒められるばかりで、そのことには少し動揺した。かつてわたしにとって小説を読むことは、酒やタバコを嗜むのとまるっきり同じことだった。禁止の裏で、ほどほどに嗜んでおけよと囁かれるような悪事。
つまりは規律に従うことと表裏一体でしかない、反社会的に見えて、とても社会的な行為ということだ。ただわたしは、それを「ほどほどに」ではなく、やたらめっぽうに耽溺することで反社会性を発露することを忘れなかった。その背徳感こそが悦びの核であったせいなのか、小説に対する愛着というものがここ最近薄らいでいるような気がしてならない。
とはいえ。
わたしはこの成り上がりに満足していた。
美しい朝食のテーブルが好きだった。
白いテーブルクロスに並ぶ、陶器の食器。
本物の銀で出来たフォークとナイフ。
わたしがそれを並べたことが誇らしい。
決して家の裏林の木から切り出されたものじゃない。決して、偽物の高級品ではない。
やかんが黒い煤に覆われておらず、つやつやと光を反射していることが嬉しい。
出来そこないの末弟に言い聞かせる、シェークスピアの戯曲。その音の響き。口に出して、誰かに聞こえるように言っても構わないという事実に満足を覚える。あるいは、掛け算や足し算。あるいは、彼をあやす時に寝そべるシーツから香ってくる陽射しの祝福。
けれども、地元の有力者との婚姻を前にして、わたしはどういうわけか満足を覚えない。
今夜結婚することとなる夫は、わたしに釣り合っていないとさえ思う。
かつてのわたしは、知恵遅れの男の相手をするのにも大した嫌悪感を覚えなかったというのに。
今では、町の友人の手で化粧をされながら、その友人にこれから結婚する夫の悪口をぐだぐだと撒き散らしていた。会ったのは一度だけだったので、わたしの愚痴は主にその容姿に集中する。
「あれでなかなか男前よあんたの旦那さん。男前で、お金持ちで、お優しいの。それはいいじゃない。いいことじゃない。それに比べてあたしなんかね」
「分かってないわ。分かってないよ。分かってないのよあの人のことを。男前なんかじゃないわ。鳥みたいで」
「贅沢言いなさんな。あたしなんかね」
「そうじゃないわ。なんていうかね。なんと言えばいいのかね、わたしにはもっと別の人生がある気がするの」
「そうかい。そうかい。だとしたら、あたしには人生なんてもんないよ」
祝砲は続いていた。
ただ少し不思議だったのが、一斉に放たれた銃声が四度聞こえた事だった。わたしの母国では、祝砲は三度と決まっているからだ。それを口にすると、友人が「そうかね。とはいえ、この地域では、四度なのかもしれない」と言った。友人もまた移民であるゆえか因習に詳しくないので、曖昧な言い方をした。
「でも、四度というのはへんよ。へんだわ。へんに決まってる」
「どうして?」
「どんなお話でも、繰り返しは三回じゃない?」
そこまで言うと友人は、「そういえばそうね」と納得してみせたが、表情を見れば、単にわたしの頑なさを面倒くさがって話を打ち切ったようにしか見えなかった。友人は世間慣れしているが、衝突からは逃げる癖があった。その証拠に彼女はわたしの顔から眼をそらして、窓の外を眺めていたかと思えば、式のために用意された皿の上の果物に手を伸ばして、それをひとかじりした。
口元に垂れた汁が顎まで落ちてしずくになり、窓から入ってきたそよ風に揺れた。
「祝砲じゃなくて、戦争が始まったのかもしれないね」
友人は笑った。
それとほぼ同時に、五度目の銃声が鳴った。
婚礼の儀式は、花婿と花嫁を小船に乗せ、それを先頭にした船団が両岸の観衆の間を華々しくパレードすることで行われた。
この町の富を担っている海運を止めてまで婚礼を開くことの出来る力を見せつけるつもりらしかった。
白い花嫁衣裳に包まれたわたしと、その肩に腕を回す黒の燕尾服の花婿が船団の尖頭を務めている。その後ろからは、様々な土地より訪れた親族たちや有力者たちの乗る長い船がやって来て、さらにその背後を音楽隊が流れてくる。バグパイプとリュートの音が背後からするのが分かった。
河の流れは緩やかで、船もゆっくりと動く。だから、祭り上げられる当の二人にとってはこれで結構退屈な時間だった。それに畳み掛けるように、冬の風が吹く。何も遮らない、幅の広い河を通ってきたそれは春先のはずの季節にそぐわず、冬と海の匂いを運んでくる。
両岸には町の人々が大勢いて、酒に酔ったままこちらに手を振っていた。動物も沢山見える。羊や、牛や、雌鶏が人の隙間から覗き、みちみちと空間を満たしていき、酔っ払いが何人か河に落ちかける。かと思えば、群衆の一点がみるみるうちに盛り上がり、人影がぼとぼとと零れて、その人混みの中から真っ赤な肉牛が跳び出し、河に飛び込んだ。
鳥たちも空を旋回し、地面をじっと眺めているように見えた。落ちた食べ物でも狙っているのだろうか。
普段は見かけないサーカスの一団も、太鼓の振動と共に町に現れ、移動遊園地を引き連れてやって来ていた。
わたしは両岸に集まった群衆のその向こう、遠目にメリーゴーランドや観覧車を眺める。それは一晩で組み上げられたものだから、ほんの小さな代物でしかなかったが、遊園地に行った事の無いわたしのような田舎者には大層珍しく見えた。そのせいか、どんなに大勢の町の人々や賑やかな家畜の群れよりも、わたしの婚礼を祝福しているかのように見えた。むしろ無数の群衆が身を乗り出すことで、その裏のメリーゴーランドや観覧車の大部分を隠してしまう事に苛立ちさえした。
かと思えば、祝い事や祭りに際して組み立てられるそれらが、本当は誰かを喜ばせたくも祝いたくも無いのに、遊具に生まれついた宿命から己の仕事を淡々とこなしている戦友のように見えるような気もした。夕陽の光を吸収して、オレンジ色に燃えるそれらが眩しい。
その眩しさから逃れるため手をかざした時、指の隙間からピエロが覗いた。
遠目からでも、その紫やら緑やら赤やらで彩られた道化の衣装はよく映え、泣いているのか笑っているのか判別のつかない化粧も目立った。その周りには、着飾った小男が、バーベルを持ち上げる大男が、赤い玉をジャグリングする真っ黒な人影が、ペンキで花を描かれた犀が、うろうろと蠢いていた。
わたしは、そのピエロが機関銃でもってこの退屈な行事にむらがる人々を薙ぎ倒してくれないかと願った。
それは稚拙な悪意だったが、稚拙さがむしろ妄想の絵を広げてくれるものだと、わたしはよく知っている。
わたしの人生はもっと別の何かであるはずなのだ。こうでない何かであるはずなのだ。だから目の前にあるものを消し去って欲しかった。
その名は機関銃。先の大戦でも各国の軍隊を、血や肉の零れた死体の山に変えたというあの殺戮機械。それが一瞬の空転の後に、おびただしい弾丸を浴びせ、女も男も、貧乏人も金持ちも、教師も農民も牧師も娼婦も金物屋も、人も羊も牛も雌鶏も犀も猿も、一つ残らず平等に引き千切る姿を目に浮かべた。
音楽家はその様子を、ただ享楽的な音色で祝福して欲しい。
そうした妄想を豊かにしているうちに船団はひときわ大きな蒸気船に辿りつき、花婿が細い橋を渡したかと思えば手をこちらに差し伸べている。
わたしはそれを手に取ると、ゆらゆらと揺れて危なっかしい橋を渡り、蒸気船の側面にある階段をのぼった。背後からは義理の家族が、そしてその親族が、そして音楽家たちがみな真っ黒の燕尾服でついてくる。当然の事ながら、その間だけパレードに参加していた音楽家たちの演奏が止まり、代わりに群衆の喧騒やそこに混じる家畜の鳴き声、サーカス団の鳴らす奇怪な騒音が鮮明になって散らばり弾け、階段を一歩また一歩と上がる度に、肉体に当たる音の波は、頭を叩くのをやめて肋骨をくすぐり、ゆるると尻肉を振るわせていったかと思えばすぐにスカートの中に入ろうと地べたを這いずり始める、という風に一段ずつ降りていく。
船内に入り、食事の準備の整った食道に入り扉が閉まったところでようやく、喧騒は立ち消えた。
「本日は」とわたしの義父が盃を揚げる「遠路遥々お集まり頂きありがとうございます」
その演説はすぐに、数十名による食事の音に横やりを入れられた。
ナイフとフォークが陶器に当たる音。
歯が、羊の肉や、サラダボウル一杯のレタスやトマトを咀嚼する音。十本以上のシャンパンを開ける景気の良い破裂音。演説について交わされる噂話や小言。あるいはそれとまったく関係のないのない商談。卵の値上がりについて、北の地での石鹸市場について、ここのところ頻発する海賊について。有力者たちの話題は多様なようでいて狭い。
どこぞ良家のお嬢様が、あの観覧車に乗りたいと言って窓の方にのけ反ったせいで椅子が軋む音は格別に心地が良い。
祝宴の場では、他人の演説を小耳に挟みつつ、食事も滞りなく進め、周囲の人間との社交にも気を抜かないというある種複雑な技術が要求される。演説を聴くのはその内容に興味があるというわけではなく、ただ黙々と食事をするのははしたないという振舞いに口実を付け加えるためであるし、お祝い事というのは何かしらの環境音が必要だということでもあるのだろう。環境音と言えば、さっきから音楽家のリュートやバグパイプが耳の意識の裏をゆっくりと縫っていた。メヌエットではなく、バラッドがふさわしい場にあって、ドンチャン騒ぎはゆっくりと増幅され、振る舞いは華美に、お喋りは下世話にかしましく、音の氾濫は度を越し、演説は既に掻き消されていた。
銃声。
祝砲かと思って誰も気にしなかったが、少しだけ場の雰囲気が強張ったのは明らかだった。わたしが窓から外を眺めてみたが、誰が発砲しているのかは分からなかった。
そして、もう一発。
遅れて窓ガラスが砕け散る音がし、グラスや食器を取り落とした音がそこら中でした。だから誰も、ある婦人の胴体を弾丸が貫く音を聴くことは無かった。
気圧の関係でくしゃりと風船のように潰れた肺、破れた胃腸か先ほど口にしたばかりの物が散乱する様子。わたしは出来ればそれを見たかった。
誰かが悲鳴をあげる前に、一方の窓を通して無数の弾丸が飛来した。
会場の人間の皆が皆が耳を塞いで頭を下げ、床を転がった。食器は砕け散り、飛び散った破片で肌を切られた婦人の、真っ赤な血がテーブルクロスを汚す。破裂した果物が髭面の紳士の顔をへばりつき、そこにシェリー酒が飛び込んでくる。
わたしは身じろぎしないままその光景を見つめ、人間の肉体と食物の相性の良さに思いを馳せていた。
繋がったソーセージと腸の類似を指摘するのは凡庸でも、詰め物一般に目を移してみればいかがだろうか? 丸々と太った聖職者がライフル弾を三発受けて、吹き飛ばされたのぱんぱんに張りつめた胃腸をナイフで切り開けば、そこにレタスに挟まれた山羊の脳髄が顔を覗かせ、豚肉と鹿肉とポテトとニンジンが程よくかき混ぜられたスープが床に零れていく。聖夜の晩に食べられる七面鳥の腹の中には、その肉の風味を仕上げるためにハーブやレモン、セロリ、パセリ、オリーブが詰められていることをわたしは思い出す。
その温かい詰め物は、割れた窓から入ってきた冬風に吹かれることで、今やはっきりと白い湯気をなびかせている。
その湯気が揺れると同時にわたしの鼻がぴくぴくと刺激され、袋が引き裂かれることで、中に詰まっていた香りが爆発的に充満するのを嗅ぎ取っていた。
先程、ピエロに虐殺を願った時には想像していなかった細部が贅沢に提供され、わたしは久しぶりに現実の豊かさを味わった。現実は一つ一つの細部についてよく設定してあり、よく描写してくれる。
窓の外に目を移せば、戦火が家々を燃やし、黒々とした煙をあげている。そしてあの観覧車はゆっくりと倒れているところであった。
わたしはそれに少なからぬショックを受けた。なにか無数の影が蠢き、悲鳴をあげ、河にぼとぼとと零れ、ぷかぷかと浮いて下流に流されていっている。
詰め物のにおいを吹き消すように熱風が室内に侵入し、今まで嗅いだことの無いような悪臭が鼻を貫いた。
町が燃えている。
わたしにはどれくらいの規模の破壊が行われているのかが分からなかった。蒸気船の二階という見晴の良い場所からも、町のごく小さな一区画を見渡せるだけで、全容は掴めない。ただ、赤い屋根が並ぶ景色の奥の奥の方にも黒々とした煙が途切れること無く渦巻いていることは明らかだ。
その時、床が大きく揺れてわたしは躓いた。
片膝をついたせいで痛みと熱が走ったが、それは一瞬で、すぐに鈍いじくじくとした悪寒が皿小僧を撫でまわし始める。すると床についた膝を伝って、蒸気船の縁が川岸を削っている振動を感じた。その細かな振動はわたしの肌を揺らし、肉を揺らし、骨と共鳴して増幅すると、わたしの両足はそれに呼ばれるようにして食堂を出た。
肌をねっとりとした熱の膜が包み込むのが分かる。
毛穴が開き、汗が噴き出る。空気を漂う脂肪分を吸って髪が重くなる。
べたついた髪を触りながら、ゆっくりと空を仰ぎ、燃えながら空を舞う服や、灰、焦げ付いた肉片を見つめる。吹き上げられて雲まで曻る前にきっとあれらは落ちてくるだろう。だからわたしの肌や髪の毛に付くべたべたした煤や脂はきっと、元々は人間の一部だったのだろう。
わたしは熱風に花嫁衣装のスカートをはためかせながら、階段を下りる。がりがりと削られていく蒸気船の縁をじっくりと見つめ、するすると滑っていく地面に目を凝らし、飛び降りるタイミングを伺う。
ほどなくその瞬間はやってくるだろう。
そしてわたしはあのピエロの手を引いて、彼と駆け落ちをするだろう。
スカートが揺れる。
結婚式を呪っていた数時間前のわたしならばきっと、この結果を祝福してくれることだろう。
絶叫が聞こえる。
これは彼女が夢見た人生であり、ここではないどこかへと旅立つために越えなければいけない一線なのだろう。
足はがくがく揺れ、ヒールが折れそうな音を立てている。
わたしはさっきまでの退屈な婚礼を懐かしんで奇妙に感傷的な気分になっているが、それも飛んでしまえば消えるのだろう。
祝砲は続いている。