十八歳未満の方はご遠慮下さい、な乙女ゲームでありながら攻略対象の八割方が隠れロリコンの世界に私は転生したらしい。③
「はあああああ……」
のっけから深い溜め息が漏れる。
ホームルームが始まる前の、担任が現れていない時間帯の教室というものは、とかく賑やかで、私の溜め息など周囲の喧騒に紛れて、誰にも気が付かれずに消えてしまう筈であった。
「なになに、美鈴っち、恋の悩み?」
だが、本当に小さなそれをしっかり拾い上げたらしき、私の前の席に座っていた同じクラスの友人、渋木望愛 (しぶき・もあい)がワクワクとした表情を浮かべて振り返ってきた。何とも心臓がドキュンとするネーム……もといキラキラDQNネームだ。
漢字の意味が良いだとか、並べて書いた時の印象が良いだとか、画数がどーの風水がどーのなんて、はっきり言って名付けられた子供にとってはどうでも良い事。そんな由来なんてものよりも先に、彼女の自己紹介を聞いて、イースター島の石像を連想しない人は少数派だ。そしてその少数派は、えてして渋谷のモヤイを思い起こす。
地味顔な私に『美』とか名付けた以上の突き抜けた命名センスの親を持っていても、彼女、通称アイは虐めにも屈せず、心無い嘲笑に卑屈にもならず、強く逞しく毎日を生き抜いている。「二十歳の誕生日のその日に改名してやるんだ」とは、アイの口癖である。
日本の法律は『変な名前だから』って理由で改名を許されていて良かったね。まあむしろ、百パー子供の人生を歪めるDQNネームを取り締まる法律を作って欲しいものだけど。自分の子供に変な名前を授けるって、立派な児童虐待だと思うんだ。
読みにくい漢字、人名らしくない何か別物を連想する読み名は、他の全ての美点を粉砕して掻き消すものだ。
「恋の悩み、ねえ……そんな甘ったるいもんじゃないんだけど」
「な~に? ここじゃ話しにくい事でも、後で相談乗るけど?」
もごもごと歯切れ悪く濁す私に、察しの良いアイは周囲の賑わいに目をやってから声を低めた。
「うん、じゃ、後で」
教室の扉を開け放つ担任の姿を認め、私は短く頼んだ。
という訳で、お昼の休み時間に私はアイに引き摺られ、滅多に人が来ない防音の音楽室に連れ込まれた。いやはや、見事な手際である。この子は将来、人目を盗んで校内で密談やらイチャつきやらが得意になりそうだ。というか学校って結構あちこちに、人目を忍べるスポットがあるもんだなあ。
音楽室の座席に二人並んで腰掛け机の上でお弁当を広げながら、早速アイが待ちきれないとばかりにこちらを見てきた。
「で、何か楽しいハナシ?
うりうり、吐きなさいよ~」
うりうり、などと言いながら私の頬をつつくのはご勘弁願いたいものだ。
「えーっとね、実は探してる人がいるんだけどさ」
「『探してる人』? 時枝先輩関係じゃなくて?」
「は? 何で急に時枝先輩の名前が出てくるの?」
意を決して相談すべく口火を切ったというのに、この場で出てくるには予想外の人物の名を発したアイに、むしろこちらの方が疑問に思ってしまう。それはさておき弁当である。
私とお父さんのお弁当のおかずは大抵昨日の残り物を詰めるのだが、夕べはお弁当に詰めれるようなおかすが残らなかったし、一昨日のメニューは火を噴く危険ブツだったので、今日は父お手製の愛父弁当である。
わざわざ早起きしてタコさんウィンナーやら甘い玉子焼きやら、ミートボールといったお弁当定番のおかずを作り、よそったご飯の上におかかでハートマークを描く、うちの中年のセンスは本当にどうにかして欲しい。何故、白米の上に茶色いハートを描くのか。そこはピンク系の何かだろう。いや、私がピンク色したでんぶをあんまり好まないからだろうけど。
「だあぁって、さあ。
昨日遅くまで二人して美術室で話してて、帰りは仲良く並んで帰ったんでしょ?
ついに美鈴っちにも春が!? ってワクワクしてたアタシの期待を返してよ」
「んな無茶苦茶な。
で。いったい誰に聞いたの、その話」
私は速やかにおかかとご飯が均等になるよう混ぜ合わせつつ、冷静に問い掛けた。
「いんや。昨日の部活の後、美術室に美鈴っちを迎えに行ったら、偶然見掛けただけ。別に広めたりしてないから安心してちょ?」
友人の悪びれない態度に、私は思わず溜め息を吐いて片手で額を抑えた。一年C組の葉山美鈴は二年A組の時枝芹那に気がある、だなんて噂が広まったりしたら、時枝ファンの女子達から爪弾きにされた挙げ句に虐め倒され、時枝先輩本人からも冷たい眼差しを向けられ美術部から追い出されてしまう。
「マジで勘弁してよ……風評被害ってホント怖いんだから」
「で、本当のトコはどうなの?」
「昨日はたまたま、私と時枝先輩が最後まで美術室に残ってて、ついでに帰りは大学の図書館の行き方教わっただけ。
美術部部員はレポート提出を言い渡されたのよ」
「……それだけ?」
「ん~……時枝先輩のイメージは、多少良くなったかな。今までは部員を排除しまくる暴君っぽかったけど、昨日話してみたら普通の男子よりも話しやすい先輩だった」
「ほっほ~」
ひょんな事から誰かの耳に入るのが恐ろしくて、決して口に出して言った事は無いけれど。時枝先輩の才能に嫉妬していたりだとか、ゲームシナリオでのうちの中年への容赦の無い対処だとか、そういった点から警戒心やなんやかんや、マイナス感情を抱いていた私だ。頭の良いアイは、そういった私の心境をそれとなく察知していたのではないだろうか。
しかし、そのニヤ~っとした人の悪い笑みは何だ。
「ふ~ん、でも時枝先輩なんて、自分の才能を鼻に引っ掛けてアタシら凡人を見下してるみたいなトコあんじゃん?」
「いや、私もまあそう感じてたんだけど、それ百パー被害妄想。あの人は別に、周囲の人を馬鹿にしてる訳じゃないみたいだよ、うん」
「葉山美鈴……」
「は? 何、急に」
アイの勘違いの訂正を試みてみたところ、唐突にフルネームで呼ばわれて、私は幾度も目を瞬きさせた。
そんな私に、アイはビシッと人差し指を突き付けてくる。何でも良いが、あと数ミリで人の鼻先にぶつかるところだったぞ、我が友よ。
「それはズバリ、恋だねっ!?」
「何でやねん」
「いやいや。気になる相手を友人にこき下ろされたら、ついムキになって庇って否定しようとするその心境!
何の気なしに相手とのやり取りや姿を思い起こしては、周囲の状況を忘れる物思い!
これを恋と呼ばずになんとする!?」
数ミリの距離をあっと言う間に詰められて、アイの指先は私の鼻の頭をグリグリと押してくる。やめれ、ただでさえ低い鼻が見るも無惨な姿になる。
「色々あるんじゃないの?
家族愛だとか友情だとか……」
「では聞こう、美鈴っち。
あなたはここ数日の間で、お父さんやアタシが居合わせない場で、脈絡もなく思い出し物思いに耽ったりしたか!?」
「え? いや、多分無いけど」
私の返答を受け、アイはアメリカンな仕草で「ふぅ~」と語尾を上げながらの溜め息を吐き、両手を軽く持ち上げ肩を竦めた。どうでも良いが、箸を片手に持ったままそんなポーズを取るのはお行儀が悪いぞ。
「もう分かっただろう?
美鈴っちのそれは、ズバリ恋だねっ!」
「何が何でも、色恋に結び付けたいんだね、アイ……」
いや、私だって恋バナは別に嫌いじゃあないけど。これが『そこそこ素敵で、ちょっと人気があるかも』な先輩なら、「え~っ、そっかなぁ?」などと、ノリノリで友人の相手をしてあげるんだけど。相手が悪すぎるよ。
「時枝先輩ファンに、ターゲッティングされるよーなごり押しは遠慮してくれたまい」
「つまらんっ。
それで何だっけ。探してる人が居るんだっけ?」
私が眉をしかめて抗議すると、アイはあっさり引き下がった後、私の相談目的を蒸し返してきた。
うん、私が何を言ったか忘れてなかったんだね。私は忘れかけてたけど。チミの切り替えの早さに、こっちはついて行くの大変なんですけど。
「うん。顔も名前も知らない人を探し当てるには、どうしたら良いと思う?」
「何その無理ゲー?」
流石だ我が友よ。私と全く同じ感慨を抱くとか、共感し過ぎてハイなテンションの勢いで難題を投げ出してやりたくなるわ。
「あのね、アイ。ちょっと変な話するんだけど」
「美鈴っちはいつも変だから、今更多少の変な話題程度、問題にもならないさ」
「アイに言われたくない」
ビシッと親指を立てて請け負ってくれる友人にすかさず突っ込んでから、私は本題に入る。
「顔も名前も知らないその人がね、放置しておくとヤバい犯罪に踏み切る可能性がある事を、私は知ってる訳さ。
だからその人を探し出して、さり気な~く犯罪防止に努めたいんだけど、どこの誰だか分からないのが問題なのね。何とか探す方法って、無いかなあ?」
「……ん~。よくは分からないんだが、美鈴っちは未然に防止したいと思うぐらい、その謎の人物・怪人Xの危険性は熟知してる訳だね?」
「まあ、そうだね」
私の適当命名によるチャラ男先輩に、危険人物怪人Xなどというなんとも言い難い凄い仮称をサラリと付けたアイは両腕を組み、「手掛かりすら無いの?」と、首を捻った。
「んと、附属大学の学生だってのは分かってる。多分三回生で、性別は男。無駄に美形で女の子に目がない軟派で、チャラくて茶髪。学部は……確か、文学部だったと思うけど、専攻は分かんない」
「なんだ、案外絞り込めてるんじゃん。
ああ、だから昨日大学に足運んだの?」
「うん。でも、大学生ってむしろ茶髪ばっかりでさ。あんまり特徴にもならない。まさか、図書館を利用している初対面のお兄さん一人一人に、『学部は何ですか?』なんて聞けないし」
「いやあ、そこは顔で判断すれば良いんじゃない? 美形のハズなんでしょ?
あと、閲覧する本をチェックして、当たりをつけて」
何とも曖昧で、雲を掴むような話だというのに、アイは真剣に助言してくれている。有り難くて涙が出そうだ。
「でもさ、基本的な疑問なんだけど、美鈴っちはなんでそんな、見ず知らずの相手が犯罪を犯しかねないって知ってて、ついでに未然に防ごうとしてる訳? そもそも無関係な相手なら、放っておいても罰は当たらないと思うけど」
当たり前と言えば当たり前の疑問を、アイは小さく呟いた。
「いや、偶然ね、偶然……えと、気になるblogを見掛けて、それが私の家のお隣に住むお姉さんのプライベートに関わる事っぽくて。あ、なんかコレ、ヤバそうだな? って」
「うっそ、よくそんなの見つけたね」
「いや、私ネット中毒だしね」
咄嗟にもっともらしい事を言って誤魔化してはみたが、これ以上は墓穴を堀りかねないので、話題の転換を試みる。
「それでさ、アイ!
えーと、柴田とか葉山とか広瀬に共通する物って何だと思う?」
「……何で急にクイズ? そんなの、全部日本人の名字でしょ」
「いや、他に何か無かったかなー、と」
私を見詰める友人の眼差しが、ますます胡乱げになってくる。すまないアイ。電波な前世話を全部抜くと、私では上手く説明出来ないんだ。
「アタシにゃーよく分かんないな。それこそ、ググってみたらヒットするんじゃないの?」
友人は呆れた顔でヒラヒラと手を振り、頬杖をついた。
「な、なるほど。ちょっとゴメンね」
私は早速お弁当箱の上に箸を置いてカバンからスマホを取り出し、キーワード入力ボックスに名前を全て入れていく。全文一致じゃヒットしないだろうし、一番簡単なスペースを入れたAND検索で良いか。恐らく、共通する意味を解説してくれるページがヒットするはずだ。
『葉山雅春 柴田雲雀 広瀬嘉月 時枝芹那 陽炎』と書いて、検索開始ボタンを押す。するとどうだろう!
『葉山雅春 柴田雲雀 広瀬嘉月 時枝芹那 陽炎』の検索結果
検索結果に該当するページが見つかりませんでした。と表示されたではないか!
「……美鈴っち、知りたい結果が出てこなかったんだね?」
「うん」
音楽室の机に突っ伏す私の頭を、アイはヨシヨシと撫でてくる。
「どれが抽出に必要な情報か分からない時は、うぃき様に一つずつお尋ねしてみれば良いさ。
さ、昼休みも終わるからお弁当食べたら教室に戻ろうね」
「うん……」
おのれ融通が利かぬ……というか、私の情報検索能力が低いだけなのだろうか?
憔悴している私を見かねたのか、その日、アイは私にそれ以上深く突っ込んではこなかった。それをいいことに、そそくさと大学の図書館へと足を向ける。
閲覧する図書から判別……って、言ってもなあ。大抵の利用者はパソコンを使っているので、棚の分類だの読んでる本の背表紙をこっそりチェック、なんて出来ない訳ですよ。
辛うじて、貸し出しカウンターの近くの目立たないスペースを確保して、図書館を利用する大学生の顔をコッソリ眺める。手に持つカモフラージュ書籍は画集だ。ルネッサンス期の絵画、華やかな色使いがくっきり写っていて素敵だ。
先ほどから、カウンターの前を行き来する学生達。私の目には、顔立ちが整っているように見えるお兄さんが何人か現れはするのだが、どーもピンと来ない。
数時間粘ったが、ずっと立ちっ放しでは足がしんどい。手掛かりも曖昧過ぎるし、今日のところはこれで帰るか……と無言のまま肩を落とし、貸し出しカウンターに向かった。ここ数時間であまりにも見飽きた茶髪頭の後ろに並んで順番を待ち、無事に画集を借りて図書館を出た。
「ふわあ、ちょっと遅くなっちゃったかな」
太陽が傾き薄暗い夕闇が支配するキャンパス、図書館の外に出た途端に私の頬をひんやりと冷えた空気が撫でていく。明日は無為に立ち尽くしているよりも、宿題でもしてよう。
スケッチブックや画材が入ったカバンに、教科書やノート、筆記用具が入った通学カバン。それに今度は重たい借り物の画集まで加わって、私の肩はダルさを訴えてきている。
私の目の前を歩いていき、片隅に設置された自販機に硬貨を投入している茶髪の男子学生。一足お先に図書館で借りた本以外は、何も持っていない彼らのような男性が何だか羨ましい。何故、大概の男性はバックを持ち歩かなくても事足りるのだろう?
さあ、そんな事よりも帰って夕飯を……
「うわっ!?」
正門に向かって歩き始めた私の背後から、素っ頓狂な声が聞こえてきた。何気なく振り向いた私の前で、走り去るぶち猫とくしゃみを繰り返す茶髪の男子学生、そしてコンクリートの上には取り落とされた本と、蓋の開いたミネラルウォーターのペットボトルが転がり……とめどなく零れ落ちていく水。
「ぬぉあぁぁっ!?」
私は無我夢中でコンクリートを華麗に回転するペットボトルに飛び付き、カッ! と正しい向きに置き直した。即座に本を取り上げ、カバンの中を探ってタオルを取り出す。本の上部は哀れにも水に濡れてふやけているが、反射的に飛び込んだお陰で全体的な水没はどうやら免れたようだ。
タオルでページから水分をなるべく吸い取り、水濡れしたページ一枚一枚に、丁寧に白紙を挟んでいく。その白紙はどこから取り出したって? ノートは掛線が印刷されているタイプなので、選択の余地無く落書き帳……スケッチブックを千切ったのですよ……
幸い水を被った部分は少なかったので、これで後は平らな場所で重しを掛けて真っ直ぐになるよう矯正しておけば、乾いた後もページがヨレヨレに波打たないはずだ。
「ふうっ……一仕事終えた」
浮かんではいないが額の汗を拭く動作をし、私はやり遂げた達成感に浸った。
そこへ、パチパチと拍手の音が。
振り向くと、書籍を水没させた元凶の茶髪にーちゃんが、「おー」とやる気の無い声を発しながら手を叩いている。
「あー、お嬢ちゃん。それ、一応俺が借りた本なんで、返してもらっても良い?」
お礼を言うでも無い、何とも呆れたお言葉に、私は自分の眉がつり上がっていくのを感じた。確かに本の危機を救ったのは、頼まれもしていないのに私が勝手にやった事だけれど、他人の借り物を横からいじられて困ってる、とでも言いたげだな。
「この後の対処をご自分できっちりなされるのなら、どうぞ?
司書さんから、大学生にもなって、図書館の蔵書すら丁寧に扱えない杜撰な人物だと思われれば良いんだわ」
「おいおい、それよりお嬢ちゃん足が」
「図書館の本は図書館の財産であって、水濡れなんて器物損害も良いところじゃない」
私はその男の腹に本を押し付け……身長差的に、腕を伸ばしたら届く場所がそこだったのだ……すっかり日が暮れてしまった夜道を、煌々と照らし出される幾つもの外灯の明かりを頼りに足早に歩き出した。
はあ。早く帰ってお夕飯の支度……って、しまった。そういえば、今日は特売セールの日じゃないか。なんという事だろう。チャラ男先輩捜索で頭の中がいっぱいで、大切な特売の曜日を忘れ去ってしまうだなんて! 今から買い物に行って、目当ての安売り品は残っているのだろうか?
「お嬢ちゃん、ちょっ、待てって」
肩に掛けたカバンの紐を手でしっかり握り締め、慌てて走り出した私を後から悠々と追い抜いてきた男が、併走しながら呼び掛けてくる。
「何、急にキレて走り出してんだよ」
「私は今、タイムセールに行かなきゃならないの!」
「はあぁぁぁぁ!?」
文化部のもやしである私が全力疾走をしたところで、大学の正門を出て歩道にまろび出た辺りでフラフラとよろめき、疾走から牛歩になってしまった。
しかし、私は後ろや足元は見ない。ただひたすらに、目標に向かって前だけを見据え突き進むのだ! 亀の歩みだけど!
「はぁ、はぁ……た、たいむ、せぇる……」
普段通っている通学路から遠回りになるが、買い物をして帰らねば今夜の夕食のおかずも危うい。すっかり……そう、これもすっかり忘れていたのだが、お父さんは早起きしてお弁当をこさえてくれた。今夜の夕食のおかず予定の材料で。
つまり、今日これから買い物に赴かねば、今夜と明日の朝と昼は侘びしい食生活が待ち受けている! 嫌だ! 絶対に嫌だが、足が痛くて痛くて、思うように進まない!
「だあ! もう、お嬢ちゃんはスーパーに行ければ良いのか!? ほら、おぶってやるから」
スーパーへの遠き道のり半ばで、壁に手を突いて荒い呼吸を繰り返す私の前に、まだ隣を走って何事かを喚いていた茶髪にーちゃんが、こちらに背中を見せて屈み込んできた。
「よく知らない人について行っちゃいけません、て、パパやガッコーのセンセに言われてるの」
何とか息が整ってきたので、敢えてお子さま口調でたどたどしく断ってやると、にーちゃんは舌打ちと共にズボンのポケットからパスケースのような物を取り出し、私に突き付けてきた。
「学生証……?」
「ほら、身元判明しただろ。これ以上ゴネると抱き上げて運ぶぞ」
附属大学の学生証、そこには茶髪にーちゃんの顔写真と学部と名前……って、眺めてる間に本当に抱き上げられた!?
ちょっ、せめておんぶ希望! 俵担ぎって言うの? 掛けてたカバン取り上げられて、私自身は荷物のように肩に担がれた。高くて怖い上に、お腹の辺りが圧迫されるせいで苦しい。
茶髪のにーちゃん……石動ナントカさん。まだ握ってる学生証に記載されてる名前は見損ねた。とにかく彼は、私を担いで走り出したので、余計に痛いし苦しい。でも、口から出るのは、「がふっ」とか「げふっ」なんていう、末期の吐息のような、肺から絞り出された空気が立てる情けない音だけ。
石動にーちゃん、今の私達の姿を誰かに見られたら、多分誘拐現場だと思われるよ……
本当に目的地のスーパーにまで連れて行かれた私だったが、石動にーちゃんは真っ直ぐに敷地内のドラッグストアに直行し、消毒液やらガーゼやら包帯、ミネラルウォーターを買い込んでいる。うん?
「タイムセールだかなんだかよりも、まずは手当て! まったく、そんな足で走ったりして……」
駅前のスーパーは大型のチェーン店で、一階の広い食品売り場の他にも色んなテナントが入っている。まあそんな広大な建物なので、あちこちにお客さんが自由に座って一休み出来るベンチがあるんだけど。私はそのうちの一つに問答無用で座らされて、石動のにーちゃんは私のバックと本を私の傍らベンチの上に置き、彼本人は私の前に跪いた。
……へ? などと、展開が掴めず固まっている間に、にーちゃんは私の膝をミネラルウォーターで洗って綺麗に砂埃を落とし、消毒液を浸した脱脂綿をポンポンと当て……あれ?私、いつの間に怪我なんかしてたんだ?
「まったく。図書館に救急箱ぐらいあるから借りに行こう、って言ってるのに、聞く耳も持たずに『タイムセールが!』とか言って走り続けるんだもんな」
「何か足が痛いと思ったら、私、いったいいつ怪我なんかしたんだろ」
「そりゃ、俺の前で華麗にスライディングして本に飛び付いた時でしょー」
呆れたように肩を竦めるにーちゃんの方から、唐突に明るいテンポのJ-POP音楽が発生した。長いから多分着信の方。しかし、にーちゃんは小さく舌打ちしただけで、作業の手を止めない。
うら若き乙女の生足を前に、石動にーちゃんはまったく動じる素振りもなくテキパキと手当てをし、まるで保健室の先生並みの包帯巻きの腕前で作業を終えた。この手慣れた手付き……さては元・保健委員か、怪我が絶えない類いの運動部部員だな!?
「わざわざありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた私に、にーちゃんが何か言いかけて唇を開きかけたところで、またさっきと同じ音楽が鳴り響いて遮った。
だけど、にーちゃんは携帯に手を伸ばす素振りも見せない。そういやさっきまで図書館に居たのに、携帯をマナーモードにしてなかったのかな?
「私の事は気にせず、どうぞ出て下さい」
「これは良いの。それで何、タイムセールだっけ?
そんなのんびりしてて、まだ間に合うの」
私は慌てて自分のバックからスマホを取り出して、現在時刻を確認した。ヤバい!?
「い、行かなきゃ!」
「はいはい、食品売り場ね」
そう言って、にーちゃんは当たり前のように私のバックを二つとも自分の肩に掛ける。
「ちょっと、それ私の荷物!」
「ここに来るまでも思ったけど、このバックやったら重いね。中学って、こんなに荷物必要だったっけ?」
「教科書とノートと辞書、毎日持ち運んでるもん。それより返してよ」
「ははあ、辞書が鎮座してたか。
ケガ人は大人しく野郎に荷物を運ばせておきなさい、お嬢ちゃん」
「でも」
反論しかけた私の額を、石動のにーちゃんは軽くデコピンしてきた。
「怪我してる子どもに重たい荷物を運ばせるのは忍びないし、このまま別れて遅い時間に一人歩きさせるのも、無事に帰宅出来たかどうか、後から無性に気になってくるの。
いい女になりたきゃ、黙って荷物持ちさせておきなさいお嬢ちゃん」
「いや、それ、警戒心の無い女になりそうです!」
「あははは」
反射的に繰り出した私の反論に、笑い転げる石動のにーちゃんからバックを取り返そうと手を伸ばしても、身長差のせいでちっとも奪い返せれない。仕方無く、私は石動のにーちゃんが借りたまだ濡れてる本を、私のバックの中に入れて重量を追加してやった。
「そういやお嬢ちゃん、昨日ショートカットの可愛こちゃんと一緒に図書館に来てた子でしょ? 名前はなんていうの?」
……恐るべし、天使。いや、見た目だけだけど。昨日ちょこっと図書館に降臨なさっただけで、大学生の瞼にその麗しきご容姿の残映をしっかり残すとは。やっぱり時枝先輩パネェ。
ていうか、まだよく知らない人に勝手にあの人の名前を教えたり、個人情報を吹聴して回るのは躊躇われる。
しかもこの人、確実に時枝先輩を女の子だと思ってるっぽい。『可愛こちゃん』って形容するって事は、やっぱり好みのタイプなのかなあ。ロクに話しもせずにオトすとか、時枝先輩男なのにマジ悪女だぜ……!
「私は葉山美鈴です。附属中学の一年生、十三歳」
時枝先輩の情報を求められているようだが、敢えてすっとぼけて自分の名前だけを名乗る。うん、別に空気読んでやる必要も無いしね? 時枝先輩、女の子に間違われた事、すっげー怒っていらしたし?
にーちゃんは、私の答えに特に焦れた様子も見せず、鷹揚に頷いた。
「美鈴ちゃん、ね。俺の方は、これ見たと思うけど石動 (いするぎ)ね。石動椿 (つばき)」
これ、と言いながら石動のにーちゃん……良かった、読み仮名合ってた。にーちゃんは、私の手から取り戻した顔写真付きの学生証を、軽く顎の辺りに持ち上げて示してから、ポケットにしまい込んだ。そして、当然のように置き場からカートを持ち出し、その上にカゴを置いて、押し始めた。
「石動のにーちゃん、ちょっ、私一人で……」
「にーちゃんて。はいはい、お目当てのセール品はどこかな」
人の話聞けよ!
非常に不本意なのだが、バックが人質……もとい、モノ質に取られている以上、私は石動のにーちゃんの後についていくしか無い訳で。
あ、この野菜鮮度良い。
「これ買うの?」
「うん」
目当てのタイムセール売り場に向かう途中、通り掛かった野菜売り場で目に留まったキュウリを、石動のにーちゃんは目敏く察知してヒョイと取り上げ、彼が運んでいるカートのカゴに入れる。
「野菜も見たいけど、まずは玉子売り場ー」
「玉子は……もうちょい先か」
思わず石動のにーちゃんの服の袖を引っ張って促すと、彼ははいはいと抵抗もせずにカートを押し運ぶ。うん、なんで私こんなに順応してんだ。多分、このにーちゃんが当然のような顔してにぱっと笑ってるからだ!
「にーちゃん、玉子売り切れてる……」
そして、目当てのタイムセールの玉子のパックは見事に空っぽで、私は衝撃のあまり売り場でよろめいていた。
「まあまあ。セールじゃない玉子なら、いっぱい並んでるじゃないか。これなんてどう、美鈴ちゃん?」
そう言って、にーちゃんが私の前に差し出してきたのは、一つン百円もする超高級品質のブランド玉子……
「高い! そんなお高い玉子様を買う贅沢をする余裕は、ウチには無いよ、にーちゃん!
す、すすす、すぐに元に戻して! 落として割れたら大変!」
「えー? 美味しそうなのに」
「美味しけりゃ良いってもんじゃないの! お財布の中身と釣り合ってるかどうかが重要なの」
「美鈴ちゃんはしっかり者だねぇ。偉い偉い」
自分が食べる訳でも無いのに、石動のにーちゃんはさも残念そうに、お高い玉子様を売り場に陳列し直す。そして、ついでのように私の頭を撫でた。
「あらあら、仲の良いご兄妹ね」
「ホント。うちの王子様達なんか、毎日ケンカばっかりよ」
「男の子は何かと大変ねえ」
なんか、見ず知らずの主婦の方の会話が、どーも私らの事を噂しているような気がして落ち着かない。私と石動のにーちゃんは当然ながら顔なんか似てないし、多分兄妹に間違われたりはしないと思うんだが。ああでも、大学生と中学生の組み合わせって、兄妹以外の関係性って思い浮かびにくいかも。
「にーちゃん、次はお魚」
「ほいきた。お魚と野菜と……あ、調味料とかは良いの? 他にも小麦粉とかお米とか」
「そう言えば、お米少なかったなあ」
「さっき遠目に売り場が見えたけど、お米に広告の品ってPOPが付いてたよ」
「え、ホント!? 買っておかなきゃ!」
セールの玉子を逃したのはかなり痛いが、次点の価格の玉子パックをゲットし、私は次なる獲物……もとい、お買い得品を求めて売り場を移動した。お買い物中の女は、すべからくハンターである。
三日分の食料と、ついでに備蓄が減っていたお米も追加してレジを通った私は、当然のようにお買い物袋とお米を担ぎ上げる石動のにーちゃんを前に、ハタと我に返った。
何、今日は荷物持ちが居るからお米が買える。とかルンルン気分でお買い物してるんだ!? そうじゃないだろう、サッカー台でお買い物袋に食料品を詰めたら、そのままバックを返してもらってその場でさようならをすべきだろう!
「さて、これで後はもう買うもの無いね?」
「ハイ……」
「じゃ、家まで送るよ。どっち方面?」
バックは辛うじて返してはもらえた。だが、今度は私がお金を支払ったお米やら諸々の食料品がたくさん詰まったお買い物袋を、文句の一つも口にせず自分の義務と言わんばかりに持ち上げ、石動のにーちゃんはスーパーの出口に向かって歩き出しながら、後を着いて来ない私を訝しげに振り返った。
私一人では、お米は運べない。だから家まで運ぶついでに送って頂けるのはとっても有り難い。
だけど、どうしてだか何かが腑に落ちない。
夜道を石動のにーちゃんと並んで歩きながら、私はう~む? と、首を捻っていた。
「美鈴ちゃん、どうしたの? 何か買い忘れた?」
「ううん、大丈夫。
石動のにーちゃんこそ、私に付き合って荷物持ちなんかしてて良いの? さっきから何回か携帯鳴ってたけど、返信してないよね」
私は首を思いっきり上向けて、隣を歩く石動のにーちゃんの表情を見上げてみた。
「あー、ゼミの飲み会だったけど、元々行かないって言ってたやつだから良いの。
どーせ可愛い子は来ない、気が乗らない集まりだったし」
「ふうん?」
何かよく分からないが、このにーちゃんにはにーちゃんなりの、気が乗らない付き合いとかがあるらしい。
どんなゼミなのかといった取り留めの無い話題から、専攻している学科について、ふんふんと石動のにーちゃんの愚痴混じりの話を聞いている間に、私の家が見えてきた。
「あ、私の家、あれです」
「そっか、じゃあお米は玄関先までで大丈夫?」
「はい。有り難うございました」
今までの態度からして、このにーちゃんは平然と家の中まで上がり込んでこようとするかと警戒していたが、別にそこまで厚かましくは無いらしい。
ぺこりと頭を下げる私を、お米とお買い物袋を玄関先に下ろした石動のにーちゃんが、ぐりぐりと頭を撫でてくる。なんというかこれは……犬とか猫とか、それ系の動物を可愛がる時の手付きだ。
「じゃあお大事にね。
女の子なんだから、もう転んで怪我とかしちゃ駄目だぞ」
ここまで荷物持ちしてくれた人を、このまま帰すのも礼儀知らずだろうか? とは思う。だが、家には今誰も居ないので、よく知りもしない男性を家に上げるのも良くない。
「あ、美鈴ちゃん! もう、こんな遅くまで電気がついてないから、何かあったのかと思ったじゃない!」
まごまごしていた私に、隣家の敷地から早口で叱りつけてくる声が飛んできた。そちらを振り向くと、部屋着に突っかけを履いたスタイルの皐月さんが、隣家の庭先でスマホ片手に仁王立ちしてこちらを見据えていた。彼女の表情が、みるみるうちに驚きに染まる。
「え、椿先輩!? 何で美鈴ちゃんと一緒に?」
「皐月ちゃん!? そっちこそどう……あ、いやそうか、皐月ちゃんの家って、ここだったんだ?」
うん。何だろう。何だか嫌な予感なのか、変な感じがする。
ずっと自分の意志で動いていたはずなのに、知らず知らずのうちに見えない大きな力で操られてるような……強制力、という単語が脳裏を掠めるのは何故?
「今日はゼミの飲み会じゃなかったでしたっけ?
椿先輩、参加されなかったんですか?」
「まあね。飲み会っつっても、君が居ないのに飲んでてもつまんないし?」
「またまたあ。
それで、どうして美鈴ちゃんと? 知り合いだったんですか?」
どうやら、石動のにーちゃんが参加意欲を減じさせてしまった飲み会不在の華とは、皐月さんの事だったらしい。
キョトンとした表情で私と石動のにーちゃんのあいだを、皐月さんの視線がいったりきたりする。確かに、不思議な組み合わせだろうなぁ。
「今日、図書館で知り合ったんだよ。
よりにもよってフェミニストな俺の目の前で転んじゃうもんだから、荷物持ちを買って出たの。
どう、皐月ちゃん。そんな心優しい俺に惚れちゃう?」
冗談めかしてコナをかける石動のにーちゃんに、皐月さんは笑って手を左右に振った。
「あははは。自分で言ってたら台無しですよ、椿先輩」
「いや、こういうのはしっかりアピールしておかないと」
他人に良く思われたい親切って、逆に偽善的でムカつくものだけど。こうもあっけらかんと『褒めてくれたまえアピール』を堂々と言い放たれると、逆に微笑ましく思えてくるのは何故だろう。
「美鈴ちゃんの荷物持ち、有り難うございました、椿先輩。
もし良かったら、うちでお茶でもどうですか?」
にこやかに誘いかける皐月さんに、石動のにーちゃんは顔を輝かせた。
「本当に? 嬉しいな皐月ちゃん。君のおうちで二人っきりのお茶会だなんて、俺達凄い勢いで仲が進展してるねこれ!?」
「美鈴ちゃんもおいでよ。
お兄ちゃんも心配してたんだよ。今日は何だか美鈴ちゃんの帰りが遅くないか? って」
「うん! 荷物片付けたらお邪魔するね」
「え、スルー?」
何だかとても都合の良い妄想を口の端に上らせた先輩を華麗に無視し、皐月さんは聖母のような笑顔で私の事も誘ってきた。
という訳で、食料品をしまってから私は隣家の御園家にお邪魔していた。
皐月さんが自宅に男性をお招きしたので、嘉月さんは微妙に機嫌が悪そうだ。四人で囲むテーブルには、何だか目に見えない火花っぽいものが散っているようにも感じられるのだが、嘉月さんルートに乗ってなくても実は結構シスコンなのね。
さて、今日の嘉月さんは変身を遂げていた。先日のモサモサしていた髪は整えられ、髭はサッパリ剃られて、眩いばかりの美男子として、御園家のダイニングにご光臨されている。本日のお召し物な部屋着は、妹さんとお揃いの『I LOVE FUJIYAMA』Tシャツなのは、仲良しアピールの一環ですか。それとも世界遺産登録祝い?
美少女と美男子が平然と、富士山の写真と謎のローマ字がデカデカとプリントアウトされた部屋着を纏っていらっしゃるのは、客を迎え入れる側としてどうなんだろうか。いや、めかし込む前に、こちらが急にお邪魔したからだろうけど。
皐月さんも嘉月さんも、恥入る事なくあのTシャツを堂々と着こなしていらっしゃるせいで、単なるプリントアウトの富士山が、何だか神々しくさえ見える……
おかしい。せっかくの嘉月さんの美貌が現実では初お披露目なのに。何故かどうしても、FUJIの輝きの前に嘉月さんや皐月さんの美貌が霞んでしまう。恐るべしFUJIYAMA。
「……皐月と同じゼミだとか?」
「はい、簡単に解説すると、西洋の昔話からの人間心理や歴史的背景の研究ですね」
「ふむ。となれば当然、欧州各国の語学も堪能なのだろうな」
「目下、勉強中の身ではありますが」
……何だろう、この空気。皐月さんが彼氏連れてきた訳でもないのに、嘉月さん、めっちゃ値踏みしてる!?
先日の激辛カレー覚醒に引き続き、今日はFUJI覚醒・嘉月でも引き起こされたのか、しゃっきりとした喋り方で石動のにーちゃん相手に、チクチクと重箱の隅をつつくような会話を繰り広げている。
「皐月さん、皐月さん。こ、このお茶美味しいですね」
「ホント? 有り難う。わたしもこれ気に入ってるんだ。
やっぱり日本人は、焙じ茶とおせんべいだよね」
テーブルの空気を変えるべく、無理やり明るく皐月さんに話し掛けてみたら、気取らずばりばりとおせんべいを齧る皐月さんが、ほっぺたにせんべいかすをくっ付けたまま、満面の笑みを向けてきた。
この気を抜きまくった態度……皐月さん、石動のにーちゃんの事、完全out of 眼中なんですね?
「やっぱり良いなぁ、皐月ちゃん……この取り繕ろわない自然体が、人工っぽい子とは一味違う」
私の隣に座っている石動のにーちゃんが、めちゃくちゃ嬉しそうに呟いた。ああ、はい。皐月さんはどっかあどけないとこがありますからね。
しかしにーちゃんや、皐月さんは柴田先生にメロンメロンらしいですよ。
「いっけない、もうこんな時間!? 美鈴ちゃん、椿先輩。わたしそろそろ夕飯の支度しなくちゃ」
「あ、でしたら私ももう帰りますよ。今日はお父さん、いつもよりちょっと早いらしいから」
「そう。気を付けてね?」
「あ、それなら俺は……」
「石動君も、背後には十分気を付けて帰りたまえ」
柱時計に目をやった皐月さんが、慌てた様子で立ち上がるので、私は暇を告げた。今日もお夕飯作りをお手伝いすれば、ちゃっかりお裾分けを頂けるかもしれないが、うちの中年はすっかり皐月さんの手料理に対して、警戒心を最大Lvで抱いてしまっている。
そして石動のにーちゃんは、内心このままお夕飯の席にお呼ばれまで期待していたようだったが、嘉月さんからシッシッと追い払われてしまった。流石は覚醒済み嘉月、容赦がない。
「え、椿先輩、美鈴ちゃんを家まで送って下さるんですか?
近いからって、油断は禁物ですもんね。どうぞよろしくお願いします」
「うん、もちろん。任せておいてよ」
何か言い掛けた石動のにーちゃんの発言を皐月さんは見事に曲解し、意中の美少女の純真な笑みに石動のにーちゃんは力一杯請け負う。おいおい。
そのまま御園宅を辞し、自宅玄関まで徒歩40秒の道のりを、私は大人しく石動のにーちゃんに送られてやった。
「それじゃあね、美鈴ちゃん」
「はい、お休みなさいにーちゃん」
何だかんだ言って、この人皐月さんに本気なのかなあ? そうだとすると、どうにかしてこの人の事も足止めしないといけないんだよね。チャラ男先輩の、もしくは柴田先生の嫉妬が石動のにーちゃんに向く可能性もあるから。
石動のにーちゃんの中で挨拶の言葉とセットにでもなっているのか、「お休み」と言われながらまた頭を撫でられた。
閑静な住宅街の夜道に消えていく茶髪の背中を眺めて、私は溜め息をついた。
自宅に引き返して、私は早速夕飯の支度に移る。炊飯器でご飯を早炊き設定し、野菜やお魚に玉子焼きなど、材料を切って用意しておくだけな手巻き寿司という手抜きな晩ご飯の支度をちゃっちゃと整える。
ご飯が炊けたら酢飯を作る準備だけしておいて、私は二階の自分の部屋に駆け上がった。
勉強机のイスに座り、通学カバンと部活動用のカバンを適当に投げ出して、本立ての下から秘密ノートを引き抜く。
パラリと、問題のチャラ男先輩疑惑の人物の呼び名のページを開いた。机の上にやや乱雑に引き上げて、通学カバンのチャックを開けて中からスマホを強引に取り出した私は、嫌な予感に苛まれながらうぃき様にお伺いを立てつつググってみる。『葉山 広瀬 柴田 時枝 うぃき』検索……それらしいページヒットが出ない。
次、『雅春 嘉月 雲雀 芹那 陽炎 うぃき』検索……やはり、いかにもな共通点だと認識させられるページは浮かび上ってこない。
なんで? 前世の私は、何を見て「あー、如何にも乙女ゲーの攻略対象っぽい共通点」なんて思ったんだっけ?
そう言えばゲームヒロインの皐月さんには、ゲームではデフォルト名が無いけど、皐月って陰暦の五月の事だよね。お兄さんの嘉月さんの名前の意味は……五月じゃないのかな?
『嘉月 うぃき』検索……一月と三月の異名? 何で二つの月を跨いでるんだ。
雅春、春……もしやと思い、私は三月のページをタップした。うぃき先生は、三月について事細かに紹介して下さっている。
ページをスクロールしていくと、季語の項目が目に付いた。三月の季語は、春と付いた単語が多く……雲雀と陽炎、芹も三月の季語に含まれていた。
「ああ……前世の私もやっぱり、『嘉月』の意味を知らなくて」
デジャヴ? いいや、まるで現在の私が、前世の何気ない行動をなぞっているかのように。
やはり、前世の私も同じようにうぃき先生に質問したのだ。そうして、皆、名前が三月を表してるんだって。うん、そう思ったんだっけ……
ノートの上では、四人の人物の名前が踊っている。今日のにーちゃんの言動や、皐月さんの呼び方。そしてうぃき先生が告げる、三月のカテゴリー。
三月の季語の一つ、椿。石動のにーちゃんは、皐月さんにとって『椿先輩』で……
「石動のにーちゃんが、チャラ男先輩……?」
その時、勉強机の上に置かれていた私の通学カバン、チャックが開きっぱなしの口から、重たい物がドサッと床に滑り落ちた。
「……わっ!?」
まだたっぷり湿気っている、外国語で書かれた分厚い書籍が、私の自室のカーペットの上で鎮座していた。
乾いた後、ページが波打たないように、慌てて平べったくて重石になりそうな物体を探し求めて室内を見渡し、普段はその存在を意識の端にも留めていない、よく分からない造型の置物を上に乗せた。
うちの中年からの日帰り出張土産だが、無駄に重くて単なるゴツゴツした岩っぽく見える謎センスの置物で、貰ってから初めて役に立った。
ああ、しかし、石動のにーちゃんが借りていた本が、何故うちにあるのかって。
落ち着いて冷静に改めて考えてみれば。私が自分で自分のカバンに突っ込んだんだけどさ! だって、本をむき出しのまま持ち歩きたくなかったし、重さを足して細やかに嫌がらせしてやろうとか、可愛らしいイタズラ心が働いたんだからしょうがない。
この現実世界を生きる人間の半分は男性であり、皐月さんが通っている附属大学で出会う男性の中でも、魅力的な人物はたくさん居るだろうに。皐月さんは攻略対象の男性と、恋愛する事を義務付けられてなどいないのに。
攻略対象である准教授、柴田雲雀に惹かれた皐月さん。
そして、何かに導かれるかのように図書館の前で私は石動のにーちゃんと出会い、そうするべき理由が薄いにも関わらず彼は私の買い物に付き合い、そして私の家の隣に皐月さんが住んでいる事を知った。
そして私もまた、自分の深い意味の無い些細な行動から、もう一度石動のにーちゃんに連絡を取らねばならない必要性が生じてしまった。
修正力、だとか、強制力、という単語が幾度も脳裏を掠め、指先や足下が急速に冷え、背筋を冷たい何かが這い上がってゆく感覚がするのは何故?
「ただいまー。美鈴、もうご飯出来てる? お父さんお腹ペコペコだ」
そして、玄関先から急に脳天気な父の声が響いてきて、私の震えを吹き飛ばして一瞬にして張り詰めた空気は霧散した。
うちの中年は、その存在がチラリと介在するだけで、何か脱力感だとか雰囲気破壊だとか、特殊でソレ系なスキルを常時発動する人間超越存在に違いない。