87.好きな理由
あの後、紗弥は家でゆっくり話そうと誘ってくれたがあたしはそんな気分になれなくて断った。まだ心が落ち着かない。泣き足りない。いろいろありすぎて頭がついていけない。そんな状態で紗弥と乃愛と話すことはできないから。
家に帰るとすぐ、着替えもしないでベッドに寄りかかった。あたしは嘘をついた。ヒロくんの好きな人が乃愛だなんてヒロくん本人から聞くまで知らなかったしそうは思わなかった。なのにあたしは、ヒロくんの好きな人が乃愛だということを知っていると言った。それはあたしの強がりの証。
だって、ああでも言わなきゃあの場であたしの心は崩れていたもの。あの場ではなんとしてでも耐えたかった。悲しくて辛くて胸が痛かったけど心が壊れるのだけはなんとか耐えた。でも……。
「やっばり、無理……。だって好きだもん……!耐えられない!」
涙が止まらなくなって枕に顔を埋めた。涙で枕が濡れていく。涙によって枕に染みがつくられた。
好きな人に好きな人がいるのを好きな人本人から言われただけでこんなに苦しいなんて。その人の好きな人がまさか自分の友達、しかも親友だったことを知っただけでこんなに胸が痛いなんて。これ以上に辛いことがある?
「……もう今まで通りにできないのかな?」
今まで通りにしてほしいとあたしは言った。ヒロくんは優しいから多分今まで通りに接してくれるはず。でも問題はあたし自身。多分あたしの方が変に意識しすぎてギクシャクしてしまいそう。それに、乃愛とヒロくんが話しているところや一緒にいるところを見たらきっとすごく苦しくなる。乃愛が桐崎くんと付き合っているってわかっていても乃愛に嫉妬してしまいそう。……あー、こんなことになるなら告白しなければよかったのかな?でも言わなかったら多分あたしは今以上に後悔していたかもしれない。そう思ったら告白したことがあたしにとっていいことだったのか悪いことだったのかよくわからないよ。
その時、スカートのポケットに入っていたケータイが振るえだした。メールかと思って放っておいたが振るえは止まらない。渋々ケータイをポケットの中から取り出した。
「もう……こんな時にケータイなんていじりたくないのに」
ケータイが振るえていたのはメールを受信したからではなく、着信があったからだ。あたしは相手が誰かも確認しないでキーを押した。
「もしもし……」
《……》
電話の相手は無言だった。てっきり電話が繋がっていないのかと思って一度耳からケータイを離して画面を見たが画面には電話が繋がっていることを証明する文字や数字しか表示されていなかった。これで電話の相手がわかればよかったのに電話の相手の番号や名前が表示されていないのが残念。
「あの……?」
《……あ、俺、加賀美です》
「っ!」
ヒロくん!?なんでヒロくんがあたしに電話を!?
《突然電話してごめん、今忙しかった?》
「え、いや、大丈夫だけど……。ど、どうしたの?」
さすがにさっき告白して失恋したばかりのあたしが好きな人から電話が来たら戸惑うに決まっている。今のあたしは失恋の痛みと悲しみ、好きな人からの突然の電話で頭と胸の中がぐちゃぐちゃ。戸惑いを隠しきれているわけがない。
《あのさ、さっきのことなんだけど》
ドクン。胸の奥に何か重いものがついた気がした。ヒロくんの話したいことはさっきのこと。つまり、放課後の告白のこと。
《どうして俺なんかを好きになったの?》
「えっ……?」
《……ってごめん。こんなこと聞いちゃって。やっぱなんでもない、忘れて》
ヒロくんがなにを考えているのあたしには全然わからない。どうしてそんなことを聞くの?まさかそれだけのためにあたしに電話してきたの?忘れてってことは話はもう終わり?つまり、電話は終了?
《それじゃ――》
「どうして知りたいの?あたしがヒロくんを好きになった理由」
《それは、その……》
「いいよ、話すから。だってあたし、ヒロくんに今まで通りにしてほしいなんてわがまま言ったんだし、ヒロくんが知りたいなら教える。ちょっと長くなっちゃうかもしれないけどいい?」
《俺は構わないけど、そんなことしたら池波さん――》
「あたしは大丈夫。むしろヒロくんに知ってほしいもん、好きになった理由」
あたしは電話越しにヒロくんを好きになった理由を話した。失恋した相手にこんなこと言うのはおかしいかもしれないけど、どうしても言いたかった。本当はあの場で言いたかったから……。
***
高1の冬休み、あたしは先生に呼び出されて補習を受けていた。補習が終わりやっと帰れる!と思いながら廊下を通った時、音楽室から綺麗なメロディーが聞こえた。音楽室のドアの前に立ち、よく聞いてみるとそのメロディーは綺麗だけじゃなく弾いている人の感情を感じ取ることができた。すごく温かくて優しいメロディー。きっとこの曲を弾いている人はすごく素敵な人なのだろうと思って中にいる人に気付かれないように静かにドアを開けた。そして中を見るとピアノの近くに人影があるのを確認した。その時気付いたの。ピアノを弾いていたのは女子ではなく、男子だということに。
それが、あたしが加賀美宏希という人を初めて知った日のこと。
「綺麗ですね。あなたの奏でるメロディー」
そう声をかけると彼はピアノを弾いていた手を止めてこちらを見た。
「あ、ごめんなさい……。あまりにも綺麗だったからつい聞き入っちゃって……」
「いや、別に構わないですよ」
彼は立ち上がって窓辺に寄った。背は男子にしてはそこまで高くないがすらっとしている。さらっとした髪の毛は日の光を受けて茶色く見える。あたしはそんな彼の後ろ姿を見入ってしまった。
そんな時、彼は振り返ってあたしに言った。
「冬休みだからてっきり誰も来ないと思って弾いていたけど、まさか聞かれてしたなんて思いませんでした」
「ご、ごめんなさい!その、補習を受けてて……」
「え?補習?」
「はい、1年のうちから補習受けるなよと先生に愚痴られながら受けてました」
苦笑いながら言うと彼は驚いた顔をした。
「え?1年?もしかして俺らタメ?」
「え?1年なんですか?」
すると彼は笑い出した。
「あはは、なんだタメだったのか!1年のうちだと見る人みんな先輩に見えるんだよ。なんだそっか、タメなのか」
彼の笑った顔は子どもみたいに無邪気で可愛くてドキッとした。見た目からしておとなしい感じの人だと思ってたけど可愛い系の人なんだなぁ。
「えっ!?てっきり先輩だと思ってた……」
「俺みたいな奴でも先輩に見えるんだ。あ、俺は加賀美。1組」
「あたしは池波。3組です」
「3組ってことは……女クラ?」
「うん!」
「だからわからないんだな。ぶっちゃけ女クラとは関わりないし」
「あたしも1組に知り合いいないし」
なんか新鮮だなぁ。同い年でも今日知り合った人とここまでフツーに話せるなんて。
「ねぇ、また加賀美くんのピアノ聴きに来てもいい?」
「池波さんがそうしたいならいいけど……ただのピアノだよ?」
「そんなことないって!加賀美くんが奏でるメロディー、綺麗だけじゃなく優しくて温かいの!きっと弾いている人の人柄を表してるんだね!」
「そ、そんなことないから!」
「でもあたし昔聞いたことあるんだ。ピアノのメロディーは伴奏者によって変わるって。同じ曲でも弾く人が違うだけで曲の雰囲気が変わるって!」
それが本当かどうか今のあたしにはわからない。でも彼の奏でるメロディーは確かに優しくて温かかった。まだ今日初めて話したばかりだから彼のことはよくわからないけどきっと彼は優しくて心が温かい人なんだとあたしは思った。
「そんなに言われるとその、すげぇ恥ずかしい。つか照れる……。俺の弾くピアノの音でいいならいいよ、聴きに来て」
「ホント?ありがとう!あ、明日も来たりする?」
「あぁ、一応明後日まで音楽室は自由に使っていいって言われてるから明日明後日も来るよ。池波さんは補習?」
彼は笑いながら言った。その顔を見て笑顔が素敵な人だなぁと思った。
「そうなの。今週1週間ずっと。だから聴きにくるね!それじゃああたしはこれで!邪魔してごめんね!また明日」
「あぁ、じゃあね」
あたしは彼に挨拶をして音楽室を去った。
翌日、補習を終えた後に音楽室へ向かった。音楽室に近づくにつれ鮮明に聞こえてくるピアノの音色。今日も音楽室に彼がいることは明白だった。あたしは音楽室の扉を開けて彼に話しかけた。
「おはよう。今日も聴きに来ちゃった」
「おはよう。そこら辺に適当に座ったり寄りかかったりでもして自由に聴いていいよ」
彼はピアノを弾いたままあたしに言った。ある意味弾き語り……。弾き語りなんて技、あたしにはできない。いや、それ以前にピアノも弾けないけどね!
「そうだ」
彼は演奏を止め、椅子から立ち上がった。
「聴くだけじゃなくなんか弾いてみなよ」
彼はそう言ってあたしに歩み寄った。
「……えぇっ!?あたし、ねこふんじゃったしか弾けないよ!?」
「ねこふんじゃったって……マジ?」
彼は笑いながら言った。マジと言われたらマジ。あたしは滅多にピアノを弾かない。だから弾けない。昔やったねこふんじゃった以外はね!
「そうです!マジなの!」
「じゃあそれでもいいから弾きなよ」
「だからあたしは……!」
「伴奏者によって曲の雰囲気が変わるんだろ?そう言われたからには聴きたくなるじゃん」
「うぅっ……」
そんなこと言われたら弾かざるを得ない雰囲気。これは弾くしかないのかな……。あたしは諦めてピアノのそばへ行き椅子に座った。
「……ホントにいいの?」
「うん。池波さんのピアノ聴きたい」
そこまで言われちゃやるしかないか。あたしは鍵盤に指を当て、ねこふんじゃったを弾き始めた。彼はすぐ横であたしの弾くねこふんじゃったを聴いていた。
弾き終わると彼はパチパチと拍手をした。
「池波さんは元気で明るい人なんだね。そしてたまに空回りしてしまう」
「えぇっ!?なんで!?」
「池波さんの弾いた曲が教えてくれた」
弾いている本人には奏でられたメロディーがどんなふうに聞こえているのかわからない。でも彼はあたしの弾いたねこふんじゃったを聴いただけであたしの性格を当ててしまった。やっぱり伴奏者によって曲の雰囲気は変わるものなのかな?
「池波さんってコロコロ表情が変わるよね」
「えっ?そう?」
「うん。見てて飽きない。そうだ、もし良ければメアド教えてくれない?」
「あ、うん!いいよ!」
あたし達は制服のポケットからケータイを取り出して赤外線通信をし、お互いメアドを交換した。
「ありがとう。池波さんとはなんか話しやすいな。時間あるならもう少し話さない?」
「うん!いいよ!」
あたしは笑顔でそう返事をした。
今思えばその時から気になっていたのかもしれない。かっこよくて優しくて温かい。ピアノを弾いている時の表情は真剣そのもの。でもすごく楽しそうに弾いていた。
これはまだ恋じゃない。ドキッと胸が高鳴らない。恋をするのはきっとまだ先か、それとも友達で終わるか……。
今のあたしにはわかる術もない。