紗弥の恋③
次の日、わたしは圭介くんの顔を真面目に見られなかった。数学の授業はあったけどずっと下を向いていたばかりで圭介くんに視線を向けてはいない。それでも圭介くんはわたしを注意したりはしなかった。
「紗弥、今日はラッキーだったね!寝てたのに当てられなかったなんて!」
「いいなぁ!うちなんて何回も当てられたのに!」
休み時間に乃愛と麻由がいつものようにわたしの席にやってきた。でも2人の話はほとんど聞いていない。わたしの頭の中は昨日圭介くんにキスされたことでいっぱいだったもの。
「聞いて聞いて!さっき圭介先生に今日の放課後のことについて話されたの!『放課後、選択室に来てください』って言われたの!」
坂井さんの声が耳に入った。正直今のわたしは乃愛達の話より坂井さんの話の方が気になる。
「へぇー!2人きりなの?」
「多分ね!圭介先生と2人きりだなんて楽しみ!」
「で、キスしちゃうの?」
「えー、そういう雰囲気になったらしちゃうかも……」
そういう雰囲気?そういう雰囲気ってなに?なんでそんなに圭介くんとキスがしたいの?本気で圭介くんのことが好きなの?ただかっこいいから、好みだから、そんな理由でキスするわけじゃないよね?圭介くんは教師。教師と生徒の境界線を超えてしまったら責められるのは教師である圭介くんのはず。もしそんなことになったら、圭介くんはもう教師でいられなくなるかもしれない。圭介くんの昔からの夢が終わってしまうかもしれない。坂井さんは責任をとれると言うの?
「放課後楽しみだなぁ!早く放課後になってほしい!」
無邪気な笑顔を浮かべる坂井さんを見てわたしはイラッとした。軽い気持ちでそんなことしないでほしい。わたしなんて、昨日のキスを誰かに見られていたらと考えるだけでゾッとする。圭介くんが責められると考えただけでも怖くなる。わたしが原因で圭介くんが責められることになったらわたしは自ら身代わりになる覚悟がある。坂井さんにそんな覚悟があるの?
「……や……ねぇ紗弥!」
名前を呼ばれてはっとした。顔をあげると乃愛と麻由が心配そうな顔でわたしを見ていた。
「え、あ、なに?どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。ボーっとしてて大丈夫?」
「まだ具合悪いとか?昨日も倒れて今日も倒れたりしないでよ?」
「ごめん……。大丈夫だよ」
いくら大好きな2人でも言えない。わたしが先生に恋しているなんて言えるわけがないの。それでいて、キスしてしまっただなんて。わたしの体調のことを心配してくれている2人を騙しているのは胸が痛いけど、この恋だけは口外できない。
「そうだ、今日の放課後カラオケ行かない?」
麻由が手をパンッと叩いて提案した。
「いいね!久しぶりに行く?」
「ね?3人で行こうよ!」
「……あ、ごめん。わたしはパス。今日の放課後は用事あるんだ」
『なんだ……。残念』
乃愛と麻由が残念そうな顔で言った。ごめんね2人とも。今日の放課後は絶対にダメなの。坂井さんが圭介くんにキスするのを阻止したいの。それに、圭介くんに昨日のキスのことについて聞きたいことがあるから。
圭介くんはわたしが守る。圭介くんの昔からの夢をつぶさせたりはしない。
***
放課後、選択室に行ってみた。坂井さんはまだ来ていない。もちろん圭介くんも。もし本当に圭介くんにキスするつもりなら見張っていよう。しないと分かればわたしはすぐさま帰る。……なんかわたし、ストーカーみたい。
「あれ?林原さん?」
後ろから声をかけられる。それは今一番会いたくなかった人物。でもわたしはなにもなかったように接しないといけない。
「坂井さん。どうしてここに?」
「林原さんこそどうしてここに?わたしは圭介先生に数学を教えてもらいに……」
「へぇー、そうなんだ。わたしはただここを通りかかっただけだよ」
「そうだったんだ!てっきり林原さんも数学を教えてもらいにきたのかと」
「違う違う。本当に通りかかっただけだよ?それじゃあわた……」
「お待たせしました。……あれ、林原さん?」
ビクッ。今度は今一番会ってはいけない人物の声。
「圭介、先生……」
「どうしたんですか?」
「別になにも……。ただ通りかかっただけです」
わたしは圭介くんと目を合わせないようにして言った。感じ悪く見えるけど仕方ないの。
「じゃあわたしは帰るね。ばいばい坂井さん。先生さようなら」
「待ってください林原さん!」
帰ろうとしたわたしの腕を圭介くんが掴んだ。昨日のことを思い出して身体がビクッと一瞬こわばった。
「あ、すいません!」
そんなわたしに気付いたのか、圭介くんが急いで手を離した。
「林原さん、先日のことで話したいことがあります。15分くらい待っていてはくれませんか?」
先日のこと……。坂井さんがいる前でそんなことを言うなんて一体なにを考えているの!?
「……わかりました。待っています」
「では坂井さん、教えますので中へ」
「は、はい!」
坂井さんと圭介くんは選択室の中に入って行った。圭介くんはドアを閉めたけどわずかに隙間が開いていて選択室の中が見えた。わたしは廊下で圭介くんの坂井さんへの数学指導が終わるのを待っていた。
***
そして廊下で待っていて大体15分が経った。もうそろそろ終わるかなと思ってわたしはそわそわし始めた。中から椅子を引きずる音が聞こえた。もう終わったのかな?と思ってそっとドアの隙間から中を覗いた。
わたしは、見てはいけないものを見てしまった。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「圭介先生。わたし、先生のこと好きです。わたしを先生の彼女にしてください!」
そう言って坂井さんは圭介くんの胸に飛び込み、顔をうずめた。やだ、やめて。圭介くんから離れて……。圭介くんの胸に、顔をうずめないで……。
「僕は教師です。生徒と付き合うなんてことはしません。それに、坂井さんの言う好きは『教師』として好きであって、『異性』として好きではないはずです。憧れと恋愛における好きは似ているのでそう勘違いしてしまう人もいます」
圭介くんは坂井さんの肩を掴んで身体を離した。
「そんな……違います!わたしは本当に先生が……」
「でははっきりお答えします。僕は教師である以上生徒とは付き合いません」
圭介くんははっきりと言った。その言葉はわたしだけでなく、恐らく坂井さんをも傷つけるほどの破壊力を持っていた。圭介くんは教師。だから生徒とは付き合わない。つまりわたしとも……。じゃあ、昨日のキスはなんだったの?あのキスには一体どんな意味があったというの?わたしが1人そんなことを考えていると坂井さんは既に次の言葉を発していた。
「それは、教師と生徒の関係じゃなかったら付き合うかもしれない、ということですか?」
「……まぁ言い方を変えればそうなるでしょう」
「わかりました。先生、わたしは先生のこと諦めませんから!」
坂井さんは再び圭介くんに近づき、背伸びをした。そして自分の唇を圭介くんの唇に重ねていた。
わたしは思わずドアを一気に開けてしまった。ガラッと言う音に反応した2人の視線はわたしに向けられた。
「……お、お取り込み中失礼しました!」
なんとか動揺を隠しつつ言葉を繋いで急いでドアを閉めた。
「おい待てよ紗弥!」
圭介くんはわたしの名前を呼んだけど、わたしは止まることなくその場から走り去った。
「……“紗弥”?」
圭介くんの後ろで坂井さんがそう言ったのを聞いた人物は誰もいない。