第四話
ようやく町につきま~す。
人族領最南端。
コルドフリーズ山の麓から北へ数キロ、魔族領と最も近い最前防衛拠点である町がある。
その名を『カフス』と言い、辺境の町でありながらも商隊の出入りも多く、経済が発展し、町は活気に満ち溢れている。
また、防衛拠点であることから、通常の町より兵の数も多いので町の治安も保てている。
最前線の防衛拠点。そうでありながらも、町民の顔に暗い影は一切見受けられない。
――――まるで魔族の侵攻を恐れていないかのように。
そして、実際に脅威などありはしなかった。
百年ほど前、一度魔族の少数での襲撃があったが、それもあっけなく駐屯していた兵によって鎮圧されている。
それ以降は特に目立った事件はありはしない。ただ稀に町近くまで来た魔物を撃退したくらいだ。
防衛拠点と言えば聞こえはいいが、その実、本来の役割を果たしているかは疑問だ。
防衛も何も、攻めてくる敵がいないのだから。
コルドフリーズ山。
高レベルの魔物の棲みかでもあるそこは、魔族と言えど踏破するのは困難である難所だ。
一応の警戒措置として、町に兵士はそれなりの数を置いてあるが、ほぼ飾りあることがそのことへの証明だ。
最前線ながらに最大の自然防壁があるこの町は、不思議な事に比較的平和なのだ。
町民らが不安を抱かないのも頷ける。
……ただ、民を守る兵たちに不満――――暇と言う、
ある意味最大の敵と戦うのに辟易している者らが増えていっているのもまた仕方がないことだった。
町をぐるりと囲う防壁。その南側。
コルドフリーズ山方向の門。
魔族の侵攻などありはしない、その上人里もないこの方向から旅人など来るはずもない。
まるで無意味、本来の用途を為していない門。
だというのに一応の体裁で、見張り台として門の左右に櫓が置かれている。
そこに二人、暇を持て余した兵が、口々に不満を言い合っていた。
主にこの状況、見張りと言う飾り以外の何物でもない、突っ立っているだけの仕事に。
「――――ったく、何で俺らがこんなことやらにゃならんのかね」
「まったくだ」
「魔族や魔物どころか、人っ子一人居ない。いくらここに突っ立ってたって、何も起こりゃしねぇ。
変化があるとすりゃ流れてる雲だけじゃねえか」
「そうだな」
「年がら年中、ローテーションで回すとは言え、何でこう無駄な業務が残ってるのかねぇ。
伝統だか何だか知らないが、いくら魔族が怖いからって昔の事じゃねえか。もっと要領良くやってほしいもんだぜ」
「その通りだ」
「あ〜あ。ダンジョンがあるって聞いたときには、王都からここに飛ばされたときもわくわくしたのによぉ。
いちいちギルドに許可取らないと入れないし、冒険者たちのやっかみがうざったいし。
兵士なんてなるもんじゃねえな」
「ああ、確かに……」
「――――って、おい! さっきから全然俺の話聞いてないだろ!? 何やってんだよ!」
募る不満をいくらぶちまけてもまったく手応えの無い返事ばかりをされ、赤茶けた髪をした男の兵士が、右の櫓に立っている、同じく歩哨の任に就いている兵士に勢いづいて怒鳴った。
「……ん? ああ、悪い悪い。ちょっと使い方を見ていたもんでな」
怒鳴られた黒髪の兵士は、対して動じもせずに手の平で構っていた円筒状の物を、左右の櫓の間で多少距離があるが、見やすいように差し出してみせる。
「あ? なんだそれ?」
「さあ? 名前は知らないけど、なんでも魔力を通すだけで遠くのものがはっきりと見えるようになるらしい。この前露店で見かけたときに買った」
「はぁ? 嘘だろう? そんなんがマジだったら、金貨数枚はくだらないぞ。
どうせくだらない偽物の魔法具でも掴まされたんだろ」
「ま、そうだとしても構わないさ。大した値段でもなかったからな。
どうせ、この任にもうすぐしたら就くのは分かってたから、その暇つぶしに買っただけだし」
そう軽い調子で言って、黒髪の兵は手に持った魔法具の先端を遥か遠くの空へと向けた。
円筒の先端には、その形に合わせた丸いレンズが嵌め込められ、
反対側にも先の方が小さくなっているが同様の物が嵌めこまれている。
その小さいほうのレンズに顔を寄せて覗いて、円筒の外側に張り付いてある魔力導線に魔力を通す。
「はっ、どうせ見えやしねえよ」
「暇つぶしなんだからそれでもいいんだよ。たとえ一回こっきりしか使えなくても、あとでいじりがいがあるじゃないか」
横から降ってきたやじも気にせず軽く受け流し、導線に魔力が通ったのを確認し、魔力を流す量を慎重に調節する。
覗いて見えるレンズの向こうの景色は、青と白のグラデーションがぼんやりと掛かっている程度にしか分からない。
だが、徐々に魔力をコントロールしていくことで、もやが掛かっていた景色が輪郭をくっきりと表し、像を結ぶ。
そして――――
「おっ…………おおっ!!」
はっきりと、空を写しだした。
地上で見上げるだけではありえないほど近くに、その清々しいまでの蒼穹を見てとれる。
無論、上の上までいくには途方もなく遠いに違いないが。
それでも、まるで空を飛んでいるかのような近さに、黒髪の兵は興奮を抑えきれず喜びの声を上げる。
「すごい……っ! すごいすごいすごい! ほら、本物だよこれ!」
「はぁ!? 冗談だろ!」
驚きの声が自分以外からも上がって、それに彼はまた満足して再度円筒を覗き込む。
「――――って、ああ! しまった!」
興奮のあまり、魔力の調整を怠ってしまったらしい。
すぐに円筒の向こうの視界は、またうすぼんやりとしたものへ変わってしまった。
慌てて調整に入る。
――――細かい魔力調整と、一定の魔力放出量の維持の至難さを考えればなるほど、
確かに実用化には厳しい物があるかもしれない。しかし、それさえクリアしてしまえば、
例えば今の歩哨のときでさえ監視、警戒の範囲を大幅に広げることができる。
あとの問題は魔力消費の大きさと言ったところか……。
と、魔法具に並々ならぬ熱意を抱く彼の野望への実現を構想していく内に、調整が完了した。
思考を止め、目の前に写ってる物を見ることに集中する。
そこに、ちゃんとクリアになった景色を確認して――――
「……………………えっ?」
思わず、固まってしまった。
まさか、と。
そこにありえないものを見てしまったような気がして。
目を擦り、何度も瞬きして、やけに鼓動が速くなっている心臓の音を自覚しながら、
再度円筒を覗き見て、
「…………ど、ドラゴンっ!?」
そこに、図鑑でしか見たことのない大きな黒竜を確認した。
びゅう、と風が体を打つ感覚に目を細めて遠くの景色を見やる。
町を囲うようにぐるりと立つ背の高い防壁。
ほぼ円形状の壁の中には、住居やなんらかの建物であろう証拠である凹凸がちらほら見える。
そして極めつけは、町の東側にある、その高い防壁をも上回る巨大な建造物。
――――ダンジョン。
まだはっきりと町の全容が見える距離ではないのに、それだけがその威容を充分にこちらに伝えていた。
目的のものを見つけて、ようやく俺はコルドフリーズ山を越えたことを実感する。
……ここまで来るのには、かなり大変だったが。
「いやぁ、案外早く着いたようでよかったですね。ありがとうございます、ジェノさん」
「うむ。我もネリィ殿のお役に立てたのなら、光栄と言うもの」
「…………」
まるで何事もなかったかのように、ロリ淫魔と俺たち二人を背に乗せた黒竜が、礼を言ってそれを返している様子に、少しばかりの殺意を抱いたが、まあ黙っておく。世話になったのは本当だからな。
夜に山越えを開始して、日が昇りきったころにはほぼ目的地に着いたことも黒竜のおかげだ。
まあ、山と言っても空を飛んで越える分にはそれほどかかるものではない。
ただ、空を飛べたとして、そこは高レベル魔物の棲みか。
安全な空の旅とはいかず、下から高威力の魔法をぶっぱなされたり、直接岩や鋭利な物を投げつけられたりもした。
あれでも夜で多くの魔物が寝静まった頃だと思うと、ぞっとする。一歩間違えば死んでいた。
それにどっかの頭のいかれた黒竜が、背に乗せた俺たちの事を気にせずに、
いちいち魔物の敵意に反応して突っ込んでいこうとして大迷惑だった。
人族以外の相手にも簡単に頭に血を上らせているところをみると、黒竜が温厚なんて嘘じゃないかと本気で疑うとこだ。
なんとか俺とネリィ(ほぼこいつ)で止めたが、それでさえ一苦労だった。
…………と、まあ、一言で片づけるには安易すぎるほど死線をいくつも乗り越えてきたが、結果オーライと言うことにしておく。
「――――おい、そろそろ速度落としとけよ。さすがに町の人間に気づかれるのはマズイ」
「ふん、それぐらい言われなくとも分かっておる。
…………それにしても、無性にイライラしてくる。ああ、人間どもの匂いが鼻につく。煩わしい」
町との距離を見て黒竜に忠告をしたものの、すでに気が高ぶっているらしく非常に危なっかしい。
まだ町とはそれなりに離れているはずなのに。
どうやら人族が多ければ多いほど、黒竜に流れる血が怨嗟の念を訴えかけてくるようだ。
……これ以上近づいたらマズイな。
「ジェノさん、気を確かに持ってくださいね。我を忘れて暴れられたら、わたし怒っちゃいますから」
「人間、殺す。人間、潰す…………ん? ああ、ネリィ殿。大丈夫だ。まだ、大丈夫だ」
「……明らかに大丈夫じゃないだろう。もういいから高度を下げて降ろせ。
ここからなら歩いて行っても、そんなにかかりゃしない」
「貴様、ネリィ殿を歩かせる気か? ただでさえ寝ずに負担を強いているのだぞ。
何様のつもりだ?」
「魔王様ですっ! ……ジェノさん、お気遣いは嬉しいのですが、無理はなさらないでください。
わたしはさほど疲れていませんから」
「う、む……」
俺の言葉は軽く見ても、ネリィからのものは無視できないようで、黒竜は低く呻いた。
「……分かった。では、もう少しだけ近寄ってから降ろすことにしよう」
顔を叩いていた風の抵抗が弱まるのを感じ取る。
流れる景色の速度も緩やかになり、視界も落ち着いたものになる。
どうやら言った通りに、慎重に進むことにしたようだ。
さっきよりはずいぶんとゆっくりになったが、それでも地上に下りて歩くのに比べたら格段に速い。
ほんとこいつは、ネリィに関してだけは異常なほど気を使うな。
道中の俺とネリィとの態度の差を見ても感じたが、まさか…………。
「――――お前さ、ネリィのこと好きなのか?」
「……んなっ!? な、ななな、貴様、いきなり何を…………っ!?」
黒竜の背に乗っているわけだから表情は見えないまでも、これに似たような反応を最近どっかで体験したなぁ…………。
あからさまに動揺している黒竜に呆れつつ、俺は言う。
「いや、だってだな、お前ネリィに全然頭上がってねえじゃねえか。
そんなでかい図体しているくせに」
「…………ぬ。確かに我はネリィ殿を尊敬しているし、ネリィ殿の言うことなら出来る限り叶えて上げたいとは思っておる。
だがそれは、そんな柔な感情ではなく、恩義を感じているからであって――――」
「――――わたしはジェノさんのこと好きですよ?」
ぽつり、と。何でもないことかのように漏らしたネリィの一言で俺も黒竜も固まる。
俺は口を引き攣らせながらネリィを見るも、「?」とまるで自分が言ったことの意味が分かっていないかのように、首を傾げているだけ。
当の黒竜は完全にフリーズしていたが、数秒してから我に返る。
「ね、ねね、ネリィ殿! そ、それは本当に……?」
「? 本当のことですけど――――って、わわっ!」
ガクン、と黒竜がバランスを崩し、急に高度が下がった。
それに合わせて、ネリィの僅かな悲鳴。
……おい、黒竜。動揺するのは分かるが飛ぶならしっかりしろ。
済まぬ、と黒竜が一言詫びてから、話の続きにと黒竜が口を開く。
「な、そ、そのだな。わ、我も実はネリィ殿のことを…………」
「――――お友達だと思ってるんですよね? 嬉しいです。わたしもジェノさんほど頼りになる方は居ないと思ってますから」
「…………………」
「…………………」
あ、マズ、っと今度は転落の危機に身構えたが、意外にもそれは来なかった。
黒竜は至って安全に空を飛んでいる。
気にしていない……はずがないんだが、どうやら動揺を通り越して悟りの境地にでも入ったらしい。
微かに黒竜の全身が震えている気がするが、うん、気のせいだ。
「……なんか、悪かったな」
「……………………何の事だ? 貴様に謝られる覚えが無いのだが」
俺の素直な謝罪にも、素っ気なく返すだけ。
もはや、なかった事にしたいらしい。
それならそれで、俺もそういうことにしておいてやろう。
何気にきまずい空気から逃れようと、先の進行方向にある町に目を逸らす。
「……あ? 何だ、あれ?」
俺たちの進行方向。ちょうど町の南門。
そこに、小さい粒みたいなのが塊で集まり始めているのに気づいた。
「――――匂うな。薄汚い人間どもめ。わらわらと集まりおって」
唾棄するように、忌々しげに呟いた黒竜。
ああ、そうか。あれらは全部人間なのか……………って。
「おいおい、もしかして俺たち見つかったんじゃないのか?」
あれだけの人数を門前に集める理由。
まるで町を何かから守るかのような隊形。
何から? もちろん決まっている。俺たち…………というよりは、黒竜だ。
それを裏付けるように、微かにだが警戒の気配が遥か上空からでも感知できる。
「だからどうした? 邪魔なら、蹴散らせば良いだけのこと。
突貫し、吹き飛ばし、引き摺って、振り払えば片がつく。
殺す、殺す殺す殺すんだ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいジェノさん!」
黒竜の沸点が低いのは百も承知の上だったが、今は俺を襲おうとしたときよりも怒気の色が強い気がする。
まさかとは思うが、さっきの鬱屈をそのまま人間にぶつけようとしてるんじゃないだろうな。
「とりあえず、一旦引き返すぞ。今行ったところでどうしようも――――」
町と黒竜の様子を見て出した俺の提案はしかし、途中で掻き消えた。
小さな爆発音と、くすぶる炎によって。
それはまるで届かなかった。圧倒的に距離が足りていなかった。
遥か下方のところで、勢いを失くした炎が火の粉を残滓として下へと落ちてゆく。
――――恐らくだが、中級クラスの火属性の魔法。
どいつだかは分からないが、地上に居る兵が放ったものだろう。
あまりに距離がありすぎて、まるでこっちに届いちゃいなかったが。
おかげでこちらの被害はゼロ。
だが、それは問題ではない。
当たろうが当たるまいが些細なことだ。どちらも同じこと。
どちらにしても、してはいけないことだ。
敵意を向けるな。あいつの逆鱗に触れるな。
ああ、ほら、見たことか。
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアァァッッ!!!!!!」
――――厄介なことになっただろう?
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアァァッッ!!!!!!」
こちらの心身を引き裂くような雷鳴にも似た怒号を聞き、防衛部隊を率いている隊長はその身を強張らせた。
――――夢であって欲しい。
直視し難い途方もない現実を目の当たりにして、それに逃避したくなる想いに駆られる。
遠くからだが直に黒竜の圧力を受けたからには、齢五十を重ねたベテランの騎士であろうと、致し方の無いことだった。
報告があったのはほんの十分程前。
たまたま町の南側にある酒場で起きた、チンピラの騒ぎの鎮圧に来ていた隊長は、
慌てて駆けつけてきた南門で見張りをしていた兵士の報告を半信半疑で聞いていた。
おおきな黒い竜…………図鑑でしか見たことのない、冒険者たちに仕事を斡旋しているギルドでは、確かSランク指定の化け物。
――――ジェノサイドドラゴン。
その凶暴さと凶悪な力は、しばしば子どもたちに人気な絵本の中に出てくる悪役として有名な物である。
その、町一つなら容易く壊滅できるほどの力を持つ竜が、この町に向かってきていると。
そんなことがすぐに信じられるはずもなかった。
だが、報告に来た兵士の尋常でない様子に何かを感じ取ったのは、
伊達にこの町に駐屯している部隊を取り仕切っているだけのことはあろう。
すぐさま鎮圧の処理は他の者に任せ、一緒に来ていた兵を何人か引き連れ南門へと急いだ。
そして…………見てしまった。
疑念など一瞬にして吹き飛ぶ、見ただけで心胆が震え止まらないほどの存在を。
隊長はかつてない危機感に迫られ、声を荒げて急ぎ住民の避難勧告と兵を掻き集めるように指示した。
時間などほとんどない。
見張りの兵から借りた珍妙な魔法具でやっと見えるほど離れてはいるが、あの黒竜からしたら目と鼻の先だろう。
隊長のその懸念は当たっており、黒竜が魔法具なしの、ただの視力でも僅かながらに点として見えるようになった頃でも、
住民の避難はその報告すら十分に行き渡っておらず、
集まった兵も近場にたまたま居たような者を無理やり掻き集めた頼りないものになってしまった。
それでもなんとか隊列を整え、できるだけ避難の時間を稼ぐために極力黒竜を刺激しないように警戒だけに留めていた。
胸の内には、そのまま通り過ぎて行ってくれという、後ろ向きな懇願も少なからずあったのだが。
それも全て無駄に終わってしまった。
後ろに視線をやれば、呆然と、己の手を信じられないように見つめている後衛担当の兵がいた。
微かに煙で燻っている手の平は、中級魔法である『フレアランス』を撃ったためだ。
幾分か距離もあるので魔法を撃っても意味がないし無駄に刺激を与えるだけ。
まだ町を襲うとは限らないので警戒準備だけに留めろと強く言ったのだが……。
正当な理屈で、常に感情を塗りつぶすのは限度がある。
極度の緊張と恐怖の中、集中が途切れて先走った行動を取る者がいても不思議ではない。
それは充分に理解していたつもりだったが、この失態を見て、認識が足りていなかったことに隊長は深く恥じる。
兵の管理が甘かった。急造で組み上げられた編隊とは言え、指揮を執るのは自分だ。
何より大事なのは兵の意思を一つにして纏め上げること。綻びを出さないこと。
だというのに黒竜に圧倒され、自分のことで精一杯となり、部下を気遣うことすらできなかった。
――――未熟、何たる未熟。
あの者に責はない。
率いる身でありながら自己管理すら満足にできない自分こそが、何より現場の責任者として相応の報いを受けるべきだ。
避難が十分に出来ていないのも、黒竜の怒りを買ったのも全ては己の未熟さゆえ。
隊長は募りに募った自責の念に駆られる想いでいっぱいだが、残酷なことに時間はそれすらも許してくれない。
黒竜はひとしきり咆えた後、翼を二、三度はためかせて、こちらへ急降下してきた。
…………ひとまずの葛藤は置いておく。今は何よりも、目の前の脅威を何とかするべきだ。
隊長は向かってくる黒竜を強く見据え、
「総員、怯むなぁっ!! 何としてでも町を守りぬけぇっ!!!!」
死を覚悟しながら、声を張り上げた。
「ジェノさんっ! ジェノさん!! しっかりしてくださいっ!!」
「グガァアアアアアアアアアアアアアアアァァッッ!!!!」
ネリィの必死の呼びかけにも答えず、黒竜は怒りのままに町へと猛烈な速度で急降下する。
体を激しく打つ風圧に俺は目も開けられず、ただ振り落とされないように黒竜の背にしがみついていることしかできない。
見る見るうちに、町との距離は埋まっていく。
……本格的にマズイ。
このままでは俺のレベルを上げだどうの以前に、黒竜によって町が焦土と化してしまう。
それを止めようにも、唯一のストッパーであるネリィですら駄目なのだから、どうしようもない。
直撃こそなかったものの、人間に敵意を向けられ黒竜は怒り心頭。
一人、二人殺したところでその衝動が収まるとも思えない。
確実に、全てを殺し尽くすはずだ。
……その中に、俺たちが入る危険性もある。
「――――! 放てぇっ!!」
――――馬鹿がっ!
愚かしい地上に居る兵どもの軽率な行動に、内心で憤る。
有効射程距離に入ったからだろうが、一斉にさっきの『フレアランス』を兵たちが放っていた。
狙いも正確で悪くない威力だが、それが黒竜に有効だとは思えない。
あいつらだってそれが通じるなんて微塵にも思ってないのだろう。
せめて牽制くらいには、と。だが――――
「ガァアアアアアアアアアッッ!!!!」
十にも及ぶ炎の槍は、黒竜の突進の風圧だけで掻き消えていった。
……牽制にすらなっちゃいない。むしろ、火に油を注いだようなもんだ。
事実、さらなる雄叫びを上げ、黒竜はさらに加速していく。
その結果を見た兵たちに動揺が走る。
これで止まらないのだ。ならば、もう。
「――――っ! 魔王様!!」
「――――っぐ!!」
黒竜は、落下の勢いをまるで殺さずにそのまま墜落するように着地した。
地面との激しい衝突はクレーターを作り、盛大な土埃を舞わせるが、
それといっしょに俺まで衝撃に耐えきれずに宙に放り出されてしまった。
ネリィが慌てて黒竜の背から飛び出し、俺を捕まえようとするが間に合わず……そのまま俺は、地面に転がる。
激しい衝撃。全身に走る痛みと、暗転する視界に何が何だか分からない。
それでも長年に染みついた経験から、咄嗟に頭を守れた事だけは僥倖と言えた。
ようやく転落の勢いが止まり、視界の明滅も収まりがついたところで、頭を上げれば。
「「「う、うわああああああああああああああああ!!!!」」」
混乱の極地と言える光景が広がっていた。
恐れ逃げ惑う者、自身の恐れを無理やり抑え込んで足を震わせながらも黒竜に立ち向かおうとする者、
その場に蹲って現実を逃避する者。全てが全て、黒竜に圧倒されているということに関して言えば共通している。
まだ防壁の外だと言うのに、町に被害はないと言うのに。
もうすでに絶望の空気が漂っていた。
「――――黙れ」
その一言で、全ての者の動きが停止した。
叫び喚いた者も、必死に逃げようともがいていた者も、全て等しく瞬き一つしないで活動を停止させた。
混乱から静寂へ。
決して大声ではない。なんら感情も込められていないような平坦な声。
しかし、言葉の裏には抑えきれない、煮えたぎるような激情が隠されているのを感じ取り、
兵らは危険を察し、逆らうのを放棄した。
その激情を、軽率な行動で爆発させてはならない。
理屈ではなく本能が、兵たちに行動を諫めさせた。
今この場にいる全ての者の視線の中心にあるのは声の主、未だ自身の作ったクレーターの中心に佇んでいる黒竜。
「喚くな。慌てなくともすぐに殺しはしない」
知性が欠けた獣のような先の咆哮とはまるで違う、落ち着いた物言い。
だというのに、まるで不安が拭えない。
言葉の端々に滲み出る憤怒が、それを許さない。
張り詰めた空気の中、次の黒竜の言葉を待ち、全員が息を飲む。
「一思いに一瞬で消し炭になどはしない。
欠片も恐怖も抱かずに逝くことは許さぬ。
一人一人、頭から足の先まで全身に絶望の理解が及んでから殺してやる。
勿論、一人足りとて逃がしなどはしない」
淡々と言った、黒竜の死刑宣告。
意味が分からず…………いや、意味を理解したくないためにほとんどの者が呆けていた。
しかし、冷酷で激情家の死刑執行人はそれを待つほど甘くはない。
ゆるりと腕を高く上げ、門前に構えている兵たちに向かって突貫していく。
そして、そのまま真っ直ぐに振り下ろした腕は、町の要である防壁を紙のごとく容易く裂いていった。
瓦礫が舞う。人が吹き飛ぶ。
だが、奇跡的にも、壁を壊したのみで死人は出ていない。
呆けていた兵たちは、ガララと崩れ落ちる防壁の音でようやく我に返った。
そして再び、絶望が兵たちの心を占めていく。
今の一撃で死人が出なかったのは黒竜が意図的にしたことだと、遅れながらに俺は気づく。
何も考えてなどいない、ぼうっとした人形を壊してもつまらない。
感情を、恐怖と絶望で埋めさせるため。
己の激情をぶつけるに値する人族を殺すために、あえて目を覚まさせたのだ。
だから、血はここから咲いていく。
「――――ネリィっ! おい、どこだ!」
逃げるならここしかない。
黒竜が兵たちに注意が向いている内に、我を忘れた黒竜がこっちに襲ってこない内に。
そう判断し、ネリィの姿を探すが見当たらない。
あいつも俺を助けようとして黒竜から離れたのだから、近くに居ると思ったのだが…………。
なかなか見つからない相方に、痺れを切らしそうになりながらも懸命に左右に首を巡らす。
「…………な、にしてやがるんだあいつはっ!」
ようやく見覚えのある特徴的な姿を見つけたが、胸の内に湧き出たのは安堵ではなく焦燥。
あろうことか、ネリィは黒竜に向かってゆっくりと歩いていた。
――――説得でもしようってのか。馬鹿が、愚かしいにもほどがある!
「おい、ネリィ! 止まれ! おい、聞いてんのか!」
兵士たちの阿鼻叫喚に遮られて、俺の声が聞こえなかったのだろうか。
ネリィは止まらず進んでいく。
ちっ、と舌打ちして、俺は焦燥に駆られてネリィを追って走る。
まだ黒竜との距離があるから攻撃範囲には入ってはいないが、それでも危険な事には変わりない。
竜族特有のブレスを放ったら? 先の突進のように一足で来られたら?
距離など関係なく、反応さえ許されずに殺される。
そもそも本当の攻撃範囲などあってないようなものだ。
黒竜が単純な怒りを超えた憎しみで、自ら行動に制限を掛けているから助かっているにすぎない。
その気になりさえすれば、この土地一帯全てが有効範囲へと変わってしまう。
その懸念があるからこそ、俺は必死に呼びかけているのだが。
「――――死ね」
ネリィを引き戻すより先に、黒竜の殺意が爆発する。
恐怖に打ち震えながらも勇敢に立ち向かう数人の兵らが、黒竜を止めようと魔法を放った。
色とりどりの鮮やかな魔法は黒竜に次々と直撃するが、黒竜の身体には傷一つ付かず、
結果として注意を自分に向けただけになってしまった。
黒竜は、先の宣言を実行する。
ぐっ、と足に力を込め、またも腕を高く上げ、そのまま目にも止まらぬ速さで魔法を撃った兵たちに突っ込む。
――――粉砕。
そう、表現するしかないような一撃だった。
斬るのではなく、潰すのではなく、対象の一切合財を粉微塵にする鉄槌。
その威力は、振り下ろした腕が勢い余って地面にまで激突し、土砂を空高く舞わせていることからも明らかだった。
直撃もないのに、衝撃波だけで周りに居た者たちまで吹き飛んでしまう。
ならば、中心に居た者たちは悲惨なものとなっていよう。
「…………あ?」
目を、疑った。
俺の予想していた光景とは違い、黒竜が作りだしたクレーターの中心には何もなかった。
何もなかったのだ。
肉片一切残らないような一撃だったことは認めるが、それでもいくらかは血か何かが飛び散っていないとおかしい。
ということは、まだ誰も死んでない?
黒竜が狙いをわざと外したと言うことか。いや、何故そうする必要があるんだ。
恐怖を煽るだけなら一撃目で成功している。
無論、続けて外してもさらに煽ることができるかもしれない。
だが、初撃とは違い、二撃目は本気の殺意だった。
純粋な曇りない、余分なことなど一切考えてない死の鎌。
それが狙いを外れる? まさか、ありえない。
矛盾が生じている事象に困惑した俺の耳にするりと、何かが入ってくる。
――――歌。
どこからか、混沌と化した場にふさわしくない、綺麗な歌声が流れる。
不思議と耳に心地よく、荒れた心を癒し、冷静さを取り戻してくれる。
ゆっくりと、身体の隅々まで浸透していくように。
見れば、歌に惹かれて混乱していた兵たちも幾分か落ち着いたようだった。
皆が足を止め、歌に聴き入っている。
「…………ネリィ」
波打つ金の髪と、宝玉のような鮮やかな赤の瞳を持つ少女が歌う。
淀んだ空気を払拭するかのように。
清涼な声を響かせて、ゆっくりと黒竜の元へと向かう。
「グ、ガ……」
黒竜の動きが鈍る。
ネリィが近づくほど、歌が良く聞こえるほどに。
苦しげに呻いて、凝り固まっていた殺意を散らしていく。
――――精神作用の魔法。
淫魔ならではの、ある意味最大の武器と言っていいものだ。
淫魔は食事行為…………性交渉時に、相手の興奮と快楽を最大限に高めようとする。
それは匂いでありフェロモンであり、媚薬効果のある体液であり直接的なテクニックでもあるが、魔法でもそれを補える。
体ではなく心を侵す魔法。
相手の感情の波を操作する、精神系の魔法を淫魔は使える。
それは主に興奮といった、感情を高めることだけに使われがちだが、その逆もまた可能だ。
高ぶった心を静め、元の精神状態に戻す。
静めることは食事の際には滅多に使われないが、今ネリィが使っているのはまさしくそれだ。
言葉に乗せ、聴覚から入って心へと浸透させる。
歌にしたのはより浸透率を高めるため。
黒竜だけでなく、周囲の兵たちの心も静めるため。
不用意に黒竜を刺激させずに、一対一で向き合えるようにするため。
…………思えば先の黒竜の一撃が外れたのも、歌の影響があったからだ。
怒りによって研ぎ澄まされた殺意を散らして、攻撃を鈍らせた。
効いている。ネリィの魔法は黒竜の心を僅かにだが捉えている。
ならより効かせるためにはどうすればいいか、単純だ。
近づけばいい。
現に今、ネリィはそれをやっている。
だが、あまりにもそれは危険だ。
「ジェノさん…………大丈夫、大丈夫ですよ」
包むような優しさが黒竜に向けられる。
ゆっくりと、ゆったりと、傷つけないような気遣いまでも見られる慎重さで。
もうすでに黒竜との距離は、黒竜の手の届く一歩前程度。
その最後の一線はより慎重になって越えようとしている。
危険すぎる……だが、俺にはどうすることもできない。
下手に動くと黒竜を刺激することになる。
だから、立ち止まって見届けるしかない。
「グガ、ア、アアアア…………」
「ちょっと気が立っただけですよね。少し我を忘れてしまっただけですよね。
……でも大丈夫ですよ。ここにはあなたを害することができる人なんて居ませんから」
一歩、ネリィがその境界線に踏み込む。
直後に黒竜の動揺が大きくなり、邪魔者を排するように出鱈目に腕を振り回す。
狙いなどなく滅茶苦茶だが、それでもネリィに当たる可能性がある。
俺は、ただ固唾を飲んで見守る。
一歩、さらに一歩。
ゆっくりと腕の暴力を掻い潜り、黒竜に近づいていく。
そして、あと一歩で黒竜に触れられる。そんな距離に近づいたときに――――
「ガァアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
「――――っ! ネリィっ!」
とうとう、太い大木を束ねたほどある巨大な腕が、ネリィを捉えた。
鮮血が舞う。
誰もが息を飲み、唯一の希望が消え去ったのを悟って。
「――――ほら、大丈夫ですよ。怖いことなんて何もないでしょう?」
肩から夥しい血を流しながらも、安心させるようにネリィは微笑んだ。
優しく、黒竜に寄り添うようにして。
「……………………ね、リィ殿?」
正気に返った黒竜が、驚愕の眼差しでネリィを見る。
それに心配させないようにともう一度ネリィが笑みを浮かべた。
誰もが口を閉ざし、その光景を呆けたように見ている。
少女が放つ、お伽話の聖女のような暖かさを胸の内に感じて。
魔族の少女が纏っている、あまりの神々しさに圧倒されて。
しばし、静寂の時間が訪れる。
そして――
「…………ぁ」
緊張と大量の魔力消費、極度の消耗からネリィは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
タグに『魔法』入れといたけど、ようやく初めて出たなぁ。
……異世界なのに、なんか魔法少ないやこの作品。