第三話
うおぉ……。
少し前に書いた物だから今見返すと、グダグダ感がありすぎて、ちょっと痛々しいぜ。
少しだけ長くなりそうなのでと、半壊状態の部屋から脱し、近くの小部屋に移動した。
そしてソファーにお互い対面する形で座り、ネリィに話を聞き、それを一つ一つ確認するように情報を整理していく。
―――俺が封印されてから約二百年ほど経っていること。
――――人族との戦争は、魔王の俺を含め指揮を執っていた広間に居た多くの魔将が死んだことにより魔族側に混乱が起き、その隙を付く形で人族が辛くも勝利をもぎ取ったこと。
――――勝利した人族はその後数年かけて奪われた領土を取り返し、逆に魔族領だった土地を侵略して領土を広げていったこと。それに伴い魔族側は残された土地へ退散していったこと。
――――領土を増やし魔族の襲撃も減り、比較的安定してきた頃に、戦争時には緊急時として一つに統合していた大国の三国が、再び三つに分かれたこと。
――――敗れた魔族の中には密かに人族領に紛れこんでいる者もいること。さらには人族と結託しているやつもいるとのこと。(ここらへんは服飾魔神とか心当たりがあるが)
…………などなど。
他にも色々と訊きだしていったが、さして重要なものでもなかった。
自分から訊いておいて何だと言う感じだが、
できるだけ二百年の空白を埋める意味での手探りの状況だったと言うことを考慮して欲しい。
「あの…………魔王様? 大丈夫ですか?」
話し終えてからいきなり押し黙った俺を、ネリィが心配そうに見つめてくる。
「ん……ああ、別に何でもない」
「そ、それならよかったです」
小柄な体型に似合わないその大きな胸を揺らして、ネリィは安堵の息を漏らした。
――――さて。
色々と情報を聞きだしてみたものの、あまり俺にとっての有益そうなものはない。
復活していても特に目的意識のない俺からすれば当然のことなのかもしれんが。
しかし、あと二つほど訊きたいことは残っている。
重要だからこそあえて後回しにしておいたのだが、どう切り出していいのか迷う。
一つは重要と言ってもあくまで興味の範囲に入るもので、俺個人には何らかかわりのないもの。
もう一つは、恐らく今後の俺の行動を決める上での指針となるもの。
だが、後者はほとんど答えは分かっているような物だ。
それでも訊きたいのは藁にもすがるような感じか。
「あの、何か?」
と、ネリィが恐縮といった感じで聞いてくる。
……つくづく目敏いやつだな。
さっきといい今といい、俺がちょっと顔を見ているだけですぐに反応してくる。
それだけ良くもまあ他人を観察できるものだと感心するが、これで訊きやすくはなった。
「……お前、言ったよな。俺に忠誠を誓うと、裏切らないと」
「は、はいっ! その言葉に嘘偽りはありません」
「何故だ」
「……はい?」
「――――何故、そこまで俺に固執する?
分かっているだろう、魔族社会が実力主義の世界だということくらい。
人族の戦いに敗れた王など、ましてや今のこの体たらくではなおさら仕える価値などないというのに、
どうしてお前は俺に付き従う? 何か目的でもあるのか?」
ある意味、一番の疑問。
もはや先の対応でこいつが俺を利用したり、反感を持っていたりなどは思えないが。
だからなおさら曇りの無い忠誠を向けられるのが、不思議に思う。
特にこいつに何かを恩を売った覚えもないし、そもそも存在自体うろ覚え。
いや、それは当人にとってはそうでないのかもしれないが、俺が覚えていないということは、
裏を返せばそれほど接触はなかったということだろう。
その数少ない出会いの中でそれほどまでに信頼が、それも一方的にどうしたら築けるのか。
疑念ではなく、純粋に俺は知りたいと思った。
「――――…………からです」
「あ?」
微かに零れた呟きを、俺は拾えることが出来ずもう一度訊き返す。
「えっと、その…………きだからです」
「あ? 聞こえん。もう少し大きな声で言え」
「だからっ――――魔王様のことが好きだからです!!」
キーン、と耳鳴りするほどの大声で叫ばれ、一瞬言葉の中身を理解するのに遅れる。
徐々に頭の中の残響音が消えていき、俺はネリィが言ったことを自分の中でも反芻して――――意味が分からず呆ける。
ネリィはというと、顔から耳の先まで真っ赤に染めて恥ずかしそうに俯いている。
っていうか…………は?
「あ、それ、どういう意味……だ?」
「どうもこうも、そのままの意味です……」
俺の呆けた発言にも、律義に、消え入りそうな声でネリィは応えてくれた。
言葉じゃなく、その反応だけでもう答えは出ているようなものだったが。
何だ、これは…………やってしまったのか?
さすがに次に、その好きってどういう意味だ? ……なんて、無粋なことは言わないが。
事前に察しておくべきだったんだろうか。
思い返せば俺に対して最初から好意全開で接してきてたんだし。
読みとれる情報は多々あった。
が、あまりにこれは予想外すぎる。
人族は魔族を魔物に知性が少しついたケダモノくらいにしか捉えていないが、それは間違いだ。
息して食べて寝て、普通に他の魔族と話して、つまり人族と変わらない生活をしている。
感情がちゃんとある。
感情があれば、誰かを嫌ったり怒ったり、その逆……好きになったり恋して結ばれることもある。
だからだれかを好きになること自体は自然なことだが――――よりにもよって、俺にそう言う目を向けてくるとは。
今はこんなナリだが、一応魔王だぞ俺は。
魔族を統べる王。実力世界の頂点に君臨する暴虐の化身。
恐れ、畏怖されることはあれど、そんな無垢な感情を向けられたことなど一度たりとてありはしない。
それこそネリィが言いそうな、「不敬」に当たりそうなことだ。
そんな気持ちを魔王様に対して持つことなど、恐れ多いことです〜!! ……なんて。
だが、こいつは否定しない。許しも請わない。
むしろ、その感情を誇りに思っている節がある。
まあ、当然といえば当然か。
俺に仕える理由の第一としてソレを挙げたのだから。
その想いを蔑ろにしては、自身の根幹が崩れることも同じなのだろう。
…………ったく。淫魔が一個人の男に対して恋愛感情を持つこと自体珍しいことなんだがな。
いくら容姿が幼く、男を誘い快楽に溺れさせる淫魔の本質として姿とはかけ離れた変わり種だとしても。
「あの、やっぱりご迷惑でしたか……?」
ネリィの視線が不安そうに、俺に向いては下に行ったりを繰り返す。
頬を極限まで赤らめて、瞳は涙で溢れそうになって。
…………む。何だか少し愛らしいな。
別にこいつの想いに応えるものじゃなく、ただの小動物的可愛らしさと同義だが。
「別に構わん。お前みたいな奴に好かれて悪い気分になるやつなんていないだろう」
「え…………っ!?」
驚き、呆けて……数秒後には満開の笑顔が咲いた。
狙ったものではなく正直な気持ちを言っただけなのだが、ほんとに単純なやつだ。
「えへへ……まさか、妻の座をもう勝ち取れるなんて、うへっ、うへへへへへ…………」なんて言って、早くも陶酔している。
……いや、かなり話を飛躍しすぎだがな。
別にそういう意味で言ったわけでもないし。
このまま妄想世界に浸らし続ければ、まちがいなく日を跨ぐことになるに違いないと思った俺は、
とりえあずネリィの目を覚まさせることにした。
「……おい。訊きたいことがまだあるんだが、いいか?」
「やっぱり子どもは五人くらいですかね。魔王様の子だからきっと強く凛々しく育つのでしょうね。そうして休みの日には子どもたちが無邪気遊ぶ姿をわたしたちは微笑ましげにみるのです。そして、夜には遊び疲れて寝静まった子どもたちをよそに、激しく熱い甘美な一夜をキャーーーーーー…………はい、何でしょうか魔王様?」
……妄想から現実への切り替えが異常なほどに早くて怖い。
まあ、今から真面目な話をするから、それ相応の態度で向き合ってもらわねば困るから助かるが。
俺は、自分でも知らずに声を低くして喋り出す。
「確かお前、二百年前から俺の傍に居たんだよな?」
「はい、そうですが?」
いったい何が言いたいのだろうと怪訝そうな表情を俺に向けてくる。
まあ、そうだな。直球で言わないこと自体、俺らしくないのだから。
それほど、デリケートな問題だった。
「俺は、その…………そのときから、この姿のままだったか?」
僅かに硬くなった俺の声に、ネリィも俺の言わんとすることを理解したのだろう。
数秒の沈黙の後、目線を下に落としたまま固く結んだ口を開いた。
「…………わたしが大広間に駆け付けたときには、すでに魔王様の御身体はそのようになっていました。
姿形も陰気のなさもまるで人族のように。
以来二百年監視…………もとい、魔王様の様子をたびたび見に行ったのですが変化はありませんでした。
恐らく、勇者の封印の影響であることは間違いないと思うのですが、申し訳ありません。
わたしも、なんとか元のお姿に戻る方法をここ二百年で探して見たのですが」
「そうか……」
自分のことではないのに沈痛な面持ちでいるネリィを気遣う余裕もなく、ただ音としてだけの頷きが出る。
予想はしていた。ほとんど分かっていたことだった。
だが、正面切って事実を突きつけられると、いかに自分が現状に向き合っていないのかよく思い知らされた。
元に戻れないかもしれない。それを認識しただけで、自分の周りが途端に窮屈になった気がした。
どれだけ俺が魔王としての力に依存していたのか、それ以外には何も持っていないと言うこと。
その両方がうまく受け止められないでいる。
「あの、これからどうしましょうか?」
ほんの一瞬のことかと思ったがかなりの時間頭の考えに引っ張られていたようだ。
おずおずと逆に質問してきたネリィの声で、意識がクリアになる。
どうするか、か……。
人族から恐れられている魔境の森の中心の魔王城。
城の周りには魔物だらけ。今の俺がそれらに敵うわけもなく、唯一対抗できるのがネリィのみ。
かといって城内部が安全なわけではなく、ネリィが留守中には魔物入ってくる模様。
食糧とかを取りに行ってもらう時には、俺は完全に無防備状態というわけだ。
元に戻る方法を探す、というのもなくはないが、そんなに簡単に戻れるような術を勇者がかけるはずもない。
というわけで、まさにどうにかしなければならない状況だ。
そのためにも――――
「強くならないとな…………」
もう何百年も前に置き去りにしてきた感情が呟きとして零れた。
「なら、ダンジョンにでも行ってみますか?」
「ダンジョン?」
「はい。コルドフリーズ山を越えた先、旧テリスの辺りに低級クラスの魔物がいるダンジョンがあるそうです。
今では人族領になって、そのダンジョンを中心に町もできていますが、魔王様はその姿のままで大丈夫だと思いますし、
わたしも人化を使えば怪しまれないで済みます」
ダンジョン……魔物生産型建造物の通称。
いつ出来たか、誰に作られたか、何故あるのか、何一つとして解明されていない謎の遺跡。
ただそこには絶えず一定数の魔物が、減らされては補充を繰り返して保たれているということだけ確認されている。
確かにそこなら経験値を稼ぐにはうってつけの場所だ。
人族と比べて魔族は総じて生まれたときから能力が高く、それゆえの弊害かレベルは上がりにくいが、
人族はその逆で生まれた時は周囲に守ってもらわねば生きていけぬほど脆弱だが、
その分驚異的な成長率を体が大きくなるにつれ見せる。
今の俺が人族に近いと言うならば、そこで経験を積むことで強くなることができるかもしれない。
「そうだな、悪くはない。……だが、どうやってそこまで向かう?
コルドフリーズは魔狼フェンリルが縄張りを張っている、渡るのは魔将クラスでも苦戦する難所だぞ。
それに、俺が居ては森を抜けるのでさえ難しいのではないか?」
「さすがに今のわたしではフェンリルに勝つのは無理でしょうが…………一つ、わたしに考えがあります」
訝る俺に、やけに自信満々でネリィはそう言ってのけた。
北と南。
人族と魔族の領土の境界は大陸の北部南部と大雑把に言った形で分けられるが、
その境界線となっている物はちゃんと存在している。
――――コルドフリーズ山。
極寒雪山の大山脈。魔狼フェンリルを主とした高レベルの魔物の棲みかでもある。
これを渡る方法はあるにはあるが、大所帯でぞろぞろ行って全員の生存を見込めるほど甘くはなく、少数でしか渡れない。
例え少人数を何度かして分けて送ったところで、向こう側では人族が魔族に対して万全の警戒をしているので、
その少数はすぐに排除されているだろう。
よって、領土を広げるのが難しい。それは人族魔族両方とも言えることだ。
戦争時には俺が強引に境界線付近にある町を破壊したから、配下を人族領に送り込んで魔族の拠点を作ることができたのだが、
今ではその拠点も残っていないらしい。また元の人族の町に戻ったそうだ。
その人族の町に俺たちは向かうわけだが、それにはその山を超えなくてはならなくて、
さらにその前に今居る森を抜けなければならない。
鬱蒼と広がる、広大な原生林。
それらはただの自然ありのままの木々ではなく、うねりくるった奇妙な形の物もあれば、
他とは明らかに色合いが異なるものもあり、魔的な印象を与えていた。
自然形態の異常変質。その原因はこの土地に溢れんばかりに漂う、異常な量の魔素だ。
魔素とは全ての生物、物質の元素と言えるものでまさに命とも同義であるが、異常な量を浴びたり含んだりするとそのモノに悪影響を及ぼしたり異常変質を促したりすることがある。
その結果がこの森であり、または凶暴な魔物どもであったりする。
一応のところ、魔族は違う。
魔族は元々からして体を構成している魔素の密度が大きいため、魔素の許容量が高い。
なので魔素の濃い土地にあっても、何ら影響は受けない。
むしろ、魔素は言いかえれば生命エネルギーなので、
単純な運動や魔法を使う際に消費した魔素をすぐに吸収できるこの土地を魔族は好んでいる。
景観が損なわれている森だろうとも危険な魔物がいようとも、大抵の魔族はこの森で生まれ育って暮らしてきたのだ。
この森は魔族にとって危険地帯などではなく、家であり遊び場だ。
森に愛着が湧き安心感を得ることはあれど、不安や恐怖は決して抱かない。
それは魔族の絶対的支配者である魔王でも同じことであるはずなのだが…………今は何故か落ち着かない。
それが弱体化したことで魔物などの脅威への対処をしきれなくなった恐れなのか、
――――今のこの状況から来ているかは不明である。
「……なあ、ネリィ」
「何です、魔王様?」
「ほんとにこのままずっと行くのか」
「当たり前じゃないですか。これが一番最適なんですから」
「いや、だが――――」
「異論は認めません。魔王様も納得していたじゃないですか」
「…………」
「それに、畏れ多いことですがわたしは光栄に思ってます。
森を抜けるために仕方がないとは言え、魔王様とこうして密着することができるなんて………ハァハァ」
恍惚とした表情で熱い吐息を漏らしている…………であろう上にいるネリィの様子を想像して、俺は嘆息した。
後悔と諦観の念で。
――――飛んでいる。月が浮かぶ夜の空を。
闇に紛れ隠れながら慎重に、かつ最速に少々歪な形の影は空を疾走している。
遠目から見ても分からないが、よくよく近づいて見れば分かるであろう。
背に生えた左右の黒い翼で優雅に風を切りながら飛ぶ淫魔と、
その淫魔に両脇を抱えられ、さも連行されているかのような憐れな人族の…………俺の姿を。
屈辱だ、と思うことに躊躇いはない。だが、こんな醜態を晒していることが耐えがたい。
端目から見たら誤解されるに決まっている。
淫魔が人間を強引にどこかに連れていくなんて、容易にその後が想像つくだろう。
それもこんな、見た目幼い淫魔に。…………なんだか泣けてくる。
『地上では木が密集しすぎて不意の事態に対応できなくなるかもしれません。その点空なら視界良好ですし、不意を突かれることもないでしょう。飛行ができる魔物も限られていますしね』
…………なんて、もっともな意見に安易に同意した俺を殴りたい。
ガキに抱えられ運ばれる大人の姿なんて、情けなさすぎる。どんな羞恥プレイだこれは。
「……ほんとうに大丈夫なんだろうな?」
「心配無用です。これでも身を隠すことには自信があります!」
「いや、そうじゃなくてだな。その……手引きしてくれるやつは信用できるのかってことだ」
――――ネリィが俺に対して語ったコルドフリーズ山を越えるための案。
それは至極単純なこと。雪山を踏破できるほどの実力者に協力を要請するといったものだった。
どうやら一人、その魔族に心当たりがあるらしく、今現在そいつがいるであろう付近に向かっているところ。
城からさほど離れていないようだし、その間までならネリィと俺だけでも大丈夫であろうと言うことで飛び立ったのだが。
「大丈夫ですよ。あの方はとても親切ですし、わたしにいつも優しくしてくれます。きっと今回も助けてくれますよ」
言葉の表面上だけでは楽観的にしか聞こえないが、言葉に乗った自信はその相手を信頼していることが窺える。
何か釈然とはしないが、俺も渋々と呑み込みそれ以上は口にはしなかった。
言ったところで俺に選択肢なんてないのだから。
「なあ、そう言えばお前自身の強さはいったいどのくらいだ」
「え……何です、急に?」
「ただの興味本位…………もあるが、同行する以上パートナーがどれだけ出来るのかくらいは把握しておいた方がいいだろ」
山を越えるにしろ、その後もこいつにはしばらく世話になる。
目的地である町がどの程度の治安なのかは分からないが、アクシデントの一つや二つくらいは覚悟しておいた方が良い。
そのとき、こちらの実力次第で行動パターンの範囲が変わる。
それを冷静に見極めるためにもお互いに最低限の手の内くらいは明かしてという意図だ。
「えっとですね……正確には分からないのですが、恐らく先ほど倒したドラゴンゾンビより少しばかり上程度だと思います。恥ずかしながら、年々力が落ちていっているもので……」
ふむ。まあ、淫魔にしたら破格の強さだな。
が、それより――――
「力が落ちている? 何だそれは、病気か何かなのか?」
「いえ、そうではなく…………」
「? 何だ?」
何故、急に言い淀む。
今は空で運ばれていて顔をネリィの方へ向けづらいから、表情が見えない。
だが、ちょっと上に向けて見えたネリィの耳は、どうしてか真っ赤に色付いていた。
「あの、食事がちょっと、とれてなくて…………」
恥ずかしそうに言うネリィに俺は、ああなるほどと納得する。
食事、と言えばもちろん肉だの野菜だの魚だの食って栄養を補給することだ。
人族でも魔族でもそこのところは変わらない。
ただし、淫魔に限ってはそれは当てはまらない。
必要性がないのではなく、しても意味がない。いや、正確には食事でも栄養が少しは補給されるが効率が圧倒的に悪い。
淫魔にとっての食事に当てはまる行為とは…………誰もが言わずとも知れたこと。
異性との粘液接触。
……まあ、要するに性行為だ。
その特徴的な栄養補給が淫魔と呼ばれる所以と言われている。
淫魔が美しいのも官能的な肉体を持っているのも、それが全て関連している。
生き抜くため、ただシンプルな生存本能が理由で淫魔の誰もがそうなっている。
だから『食事』に基本困ることはないのだが…………ネリィは少々異端だ。
その、肉体的に…………残念と言うか、不憫と言うか。
「まあ、何て言うか……ドンマイ」
「何でわたし急に慰められてるんですかっ!?」
「いや、だから、そんなナリしてるから男に相手してもらえなかったんだろ?」
「いくら魔王様でも失礼ですっ! わたしだって誰かに言い寄られたことくらいあります!」
んー……まあ、見てくれは悪くないどころか一級品だろう。
欲をぶつける相手として見るには色気が些か足りていないと思うが、逆にそういう方が好みというやつも確かにいる。
「じゃあ、何でだ? 相手がいたならそいつから精気を分けてもらえばよかったろう?」
「なっ――――わ、わたしがみだりに殿方と一夜を共にするとでもっ!?」
「しないのか?」
「し ま せ ん! 大体、そういうのは好きな相手とするものでしょう!!」
……まあ、そういう考えもありっちゃありだ。
魔族でも恋愛感情なんてそこらへんに転がってるし、貞操観念だっていくらでも強い女もいる。
ただ、淫魔がそれを言ったらお終いだろうという話だ。
感情も何も、生きていくために男の精が必要なのだから仕方がない。
股を開くのに躊躇して死ぬのなら、より強い快楽を得られるように行為を楽しむ。
それが基本的な淫魔の考えだと思うのだが、どうやらこいつにとっては違うらしい。
「だが、それでは生きていくのもままならないだろう。今までどうやって生を繋いでいったんだ?」
「それはその、細々とそこらにある木の実を採ったり、魔物の肉を食べたりしてなんとか……魔王様がご健在のころは、魔王様ご自身からその…………たくさん注いでもらいましたから」
うっとりとした最後の方の呟きに、思わず背筋が震えてしまった。
……だが、俺は努めて気にしないようにする。
「魔王様に初めてを奪われてから、魔王様以外の方とは致してませんし、そのようなこと考えたくもありません。…………わたしは、魔王様のものだけを覚えていればそれでいいのです」
…………気にしない。絶対、気にしない。
初めてだの、ってことは俺としか経験がないだの、一途なのはいいがその想いは受け止めきれそうにないだの、そんなことが一瞬頭によぎった気がしたが、気にしない。
「そう言えば、さすがにもう何百年とまともに食事をしていないのはマズイですね。
ですので、魔王様。よろしければわたしと――――」
「さて、そろそろ目的地に着いたのかな」
むー、と頭上で不機嫌そうな唸り声が聞こえた気がしたが、当然スル―。
これ以上無駄に会話を続けていたら、何かマズイことになる強い予感がした。
どうやらこの体になっても、危機察知能力は鈍ってないようで安心だ。
「――――我の領域に無断で侵入してくるとは、どこの者だ」
……前言撤回。
遅れて最大音量の警報を鳴らす俺の危機察知は、やはり鈍っていたらしい。
重々しく、臓腑が縮み上がるような冷たい声。
それに反応して周囲を見渡すも、何もない。
残るは…………上か?
「――――っ」
見上げる、その前に上空から大きな黒い塊が滞空している俺たちの眼前に現れた。
とてもとても大きな、全長十メートル強はありそうな黒光りするごつごつとした巨大な体。
左右に大きく開かれた両翼も、その大きな身を包みこめそうなほどにある。
両の手足の爪で引き裂こうか、頑強な牙で噛み千切ろうか、どうしようかと迷っている風に、
巨大な黒い竜はルビー色の瞳で俺たちを睨みつける。
――――ジェノサイドドラゴン。
相対しただけで感じ取れる巨大な力と、獰猛さ。
最悪だ。こんなやつに不覚にもここまでの接近を許してしまうとは…………。
マズイ、非常に。
魔将…………歴代魔王から拝命された将の位を持つ、言わば魔族のトップクラスの実力者たちのことだが、それに近いものをこいつは持っている。
力の桁が違い過ぎている。絶対に俺たちでは敵わない。
それだけでも絶望的だと言うのに、加えて最悪なことがもう一つ。
その者を魔物と定めるか否かは、人族と魔族で見解が異なっていることがある。
人族は知性があるなしで魔物か魔族どうかを決める。魔族も似たようなものだ。
だが、その生物によっては人族と魔族に接するときの対応が違うものがいることもある。
このジェノサイドドラゴンがそうだ。
魔族では知性が高く、温厚な黒竜として知られ、
人族では気性が荒く、知性の欠片も持たないような魔物として知られている。
つまり、どういうことかと言うと――――
「…………人間? 人間、だと? 人間、人間だ!? 何故人間がここにいる!!
人間如き畜生が何故我の空を穢しているのだアアアアアアアアアアアアアァァッ!!!!」
――――こいつは、人族が超絶に嫌いと言うわけだ。
人族を見ただけで、理性など吹っ飛び野生化するほどに。
…………ああ、終わった。さすがにこれは、無理だろう。
ドラゴンゾンビのようなちゃちなものではない、本物の竜種。
それに敵と認識されただけで、もう命など無いに等しい。
なんて運が悪いのだろうか。
あともう少しで、協力者(仮だが)のところまで辿り着けていたはず。
そいつが本当にコルドフリーズ山を単独踏破できるくらいの者だったなら、
この黒竜と出会ったとしても何とかなったかもしれないと言うのに。
「殺す! 殺す殺す殺すぅアアアアアアアァアァァッッ!!
刻んで、細切れにしたあとで、灰も残さず消滅してやらァアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!」
大気を震わす咆哮より、明確に向けられる殺意が恐ろしい。
理性が失われているからこそ、純粋に残った暴力への衝動。
話し合い? 逃げ? 何だそれは知らん。
徹底的に相手を肉片の欠片すらも残すことを許さない。それ以外の選択肢など与えない。
だから希望的観測は止めろと、音には乗らず、眼光の圧力がそう訴えかけてくる。
勝負に絶対はない。
強者が弱者に負けることは、常としてあること。
それは、油断であり慢心であり、不意をつく予想外の横槍でもある。
だが、今果たしてそれはあるのだろうか。
眼前の黒竜には油断も慢心もない。
ただ俺たちを地の果てまでも追い詰めて見せるという、飽くなき暴力衝動に身を任せているだけだ。
だとすると、残るは不測の事態しかないのだが。
そんなものはありえない。奇跡、なんてものはそうそうに起きはしない。
そもそもどんな事が起きたら、この黒竜を退けることができるというの――――――
「――――ジェノさんっ!! 止めてください! わたしです、ネリアージュです!!」
――――だ?
「……………………ね、ネリィ殿?」
…………は?
声を張り上げたネリィに今気付いたかと言うように、黒竜がネリィを驚愕の表情を顔に張り付けながら見ている。
身震いするかのような強烈な狂気は、すっかりと霧散させて。
えっと、これは…………何だ?
固まってしまった空間に、俺はただ息を顰めて時が流れるのをひたすら待ち続けた。
「もうっ! 何度も言ってるじゃないですか、もっと落ち着いて行動してくださいと」
「…………」
「あの程度で冷静さを失ってどうするんですか! 仮にも竜族の古参でしょう?」
「ぬ、しかし、我ら黒竜は昔から人族との折り合いが悪く…………」
「そんなの言い訳になりません! 人族が嫌いだからと言って何だというのですか!
誰彼構わず襲っていいことにならないでしょう!」
「う、ぬ…………」
「それにもし、あのまま魔王様に危害を加えるようでしたら…………ジェノさんのこと絶対嫌いになってました」
「ぬぐっ!? …………ね、ネリィ殿! 本当にすまなかった!」
「――――謝る相手が違うでしょう?」
「うっ…………す、すまなかった。ま、魔王(?)よ」
「いや、もういいから」
ネリィにこってりと絞られ、すっかり意気消沈の…………ジェノサイドドラゴンもとい、黒竜に気にはしていないことを伝える。
それを聞くと、黒竜はあからさまにほっとした。
俺に許してもらえたからではなく、ネリィにもう怒られる心配がなくなったからであろう。
黒竜がまさか淫魔に怯えるとは、その様だけ見てればさっきまでの絶体絶命のピンチが嘘のようである。
和気藹藹とではないが、先ほどまでの剣呑な雰囲気はまったくと言っていいほど皆無だ。
何故こんなことになっているのか、正直今も実感が湧かない。
ただ事実として残っているのは、黒竜とネリィが旧知の仲であることと、
人族の町まで運んでくれる協力者がこいつだったということだ。
まさか人間嫌いのこいつに、人族の町まで運ばせるのは人選(竜選か?)ミスなのではと正直思う。
だが、他に適任がいないのであれば仕方がない。
何はともあれ。
――――飛んでいる。月が浮かぶ夜の空を。
人族の男が両脇を淫魔に抱えられ…………ではなく、今は黒竜の背に俺とネリィの二人で乗っている。
濃い闇を切り裂き奥へ奥へと、森の終端、さらにその奥のコルドフリーズを目指して飛んでいる。
「…………魔王様がお許しになったのならこれ以上は何も言いませんけど。
もし、魔王様に害を為した時には許しませんよ?」
「う、うむ、心得た。…………ところで、一つ気になることがあるのだが」
「? 何です?」
そこで一瞬、黒竜が躊躇したように見せたが、疑念が勝ったのだろう。
「――――この者は、本当に魔王なのか?」
そう、黒竜は言った。
……言われてみれば、本人ですら納得の当然の疑問だ。
ネリィが言うには、世間……魔族も人族も全体から見て、俺は死んだことになっているらしいからな。
一部の者は俺が封印されたことを知っているらしいのだが、
それを証明しようにも番犬が居たため近づくことができず、
結果として時が過ぎていってそのまま死んだということ噂が定着してしまったらしい。
その、魔王が今ここに居る。
しかし、どう見たって人族にしか見えない。
それが魔族の王を名乗るのはあまりにも不自然と言うものだろう。
だが――――
「当たり前じゃないですかっ!! 魔王様を侮辱しているのですか!!」
そう言われてネリィが怒るのも、予想できることであった。
「そ、そうではないが、ただあまりに陰の気配が感じ取れぬもので…………それに我は魔王に会ったことがないのだ」
うろたえ、少し怯えたように弁解する黒竜が、もっともなことを言ってるからこそ哀れに見える。
そう言えばネリィも、俺の顔を知っていたからこそ俺が魔王だと判別できたんだったな。
竜族は基本、竜族の中の王を崇拝しているから、俺の顔を知らないとしても仕方がない。
魔族全体が魔王に従っていたわけではないからな。
全体としてはひとくくりに魔族とされているが、魔族の中でもさらに別の種族として小分けされている。
ちょうどここにいる、淫魔族と竜族が良い例だ。
「正真正銘、魔王様です! 今はこんなんなっちゃってますが、
本来の魔王様ならジェノさんでも数秒経たずとして消されちゃうくらいすごい方なんです!」
こんなんって、何だおい。
「う、うむ。我とて、ネリィ殿の言葉を疑っているわけではない。
ただ……本来、ということは今の姿が元ではないと言うこと。
それが、人族の領内に入るのに、わざわざ我に協力を要請せざる負えない状況になった原因でもあるかと、気になっただけだ」
「……ほぉ、意外だな。俺が魔王であることはすんなり受け入れるってのか?」
「ネリィ殿が我に嘘を吐くはずがないからな」
……何だその異常な信頼は。
こいつらがいったいどういった経緯で知り合ったのかは知りえないが、
ここまで黒竜のネリィに対するヘコへコした態度を見れば、力関係は一目瞭然。
実際の実力で言えば、逆のはずなのに何故だ。
俺とネリィとの接し方では、あからさまに温度差があるのに関係してるのか。
「……ま、大体のところはお前の言うとおりだ。
何でかは知らないが、力をほとんど失っている。人族領に向かうのは、それを探すためでもあるな」
――――強くなる、というのも目的の一つとしては挙がっている。
だが、それで元の姿に戻るのを諦めたわけではない。戻れるものなら戻りたいと言うものだ。
最低限の実力を先につけて、その後に元に戻る方法を探すと言うのが当面の方針。
あくまで方針なだけで、いくらでも変わることはあるが。
元に戻るのは強さを取り戻すため、逆に言えばこのままで強くなれば別に元に戻らなくても良い。
魔族の体自体にはさほど未練はないからな。ただ弱い今の現状が納得いかないだけだ。
「当人ですら原因が分からないか。それは前途多難にも程があるな」
「分かっているさ、そのくらい。……まあ、今まで強さにあぐらを掻いてた分、ちょうどいい暇つぶしになるかもしれんがな」
「ふん、それはお気楽で結構なことだが――――気を付けろよ?」
冷たい口調は変わらないが、急に鋭く刺すように黒竜は言った。
俺は自然と黒竜の言葉に耳を傾ける。
「貴様、妙だぞ。今は魔族ではないのは姿で一目瞭然であるが…………人族としても怪しい。
そこのところを鋭い奴に勘繰られないように気を付けた方が良い」
「何? いったいどういうことだ?」
人族としても怪しい……その言葉の意味が図りかね、黒竜に問う。
「…………不快でない。そのこと自体が不快であるのだが、貴様にまるで人族に対する嫌悪も排斥感も湧き上がらんのだ。
我ら黒竜はそれまで人族と接していようがいまいが、先祖の血、古の黒竜の人族に対する遺恨がおぞましいほどに強く残っているため、人族を本能的に拒絶するようになる。
昔に黒竜と人族との間に何があったかは伝えられてはいない。
だが連綿と、次の世代ごとに憎しみの継承は血を通じて行われる。
その血に抗うことなど不可能。血こそが我らを黒竜たらしめんとする証であるからな。
だが、だからこそ不可思議なのだ。
最初こそ、姿で人族であると認識したから我を忘れたが…………今は貴様を背に乗せても平静を保てている。こうしてまともに会話ができていることが良い証拠だ。我は貴様を、本能的に人族と見なしていないらしい」
「…………」
俺は、二の句が継げず固まっていた。
魔族でも、人族でもない?
陰気が失せていることから魔族として見られないのはいいにしても、人族としても見られることはないだと?
それはつまり…………うん?
「……何か問題でもあるのか?」
「…………はぁ」
聞えよがしにため息を吐かれた。
ちょっとイラつく。
「言っただろう? 鋭い奴ならそれに感づく可能性があると。得てしてそう言う輩の中には、
要らぬ好奇心を働かせる者や過剰に警戒する者が多い」
「つまり、付け狙わると?」
「そういうことだ」
ようやっと、黒竜の言いたかった事が分かり、思いのほか重要なだったことに気づく。
どこにいたとしても得体の知れないモノと出会った時に、誰しもが警戒を抱くのは当然だ。
それが弱者ならいい、害が及ばないようにソレを避けようとするだけだからだ。
それが、強者なら? ……どうだろうな。
強者には癖のある者が多い。藪の中にドラゴンが居ようと平気で突くような馬鹿も居る。
まあ、仮にドラゴンならその強者とも渡り合えるかもしれないが…………この場合藪の中に居るのはただの弱者だ。
自分のことを卑下するのはあまり好きではないが、客観的に見てそうなのだから仕方がない。
力が弱体化していると言うのに、強者に興味を引かせてしまう、か。
強くなろうとしている矢先に、なんというか幸先が悪いな。
「――――大丈夫ですっ! 魔王様はわたしが守りますから!」
なんとも頼もしい事を胸に手を当てて、ネリィは堂々と言う。
こいつの発言にもいい加減慣れてきた所だが、論点がズレて……いや、
「……まあ、そうだな。何かあったら、頼む」
「はいっ!」
――――現状の所ではそれしかないだろう。
今のところはこいつに頼るしか、突発的な事態は防ぎようがない。
不甲斐ないことだが俺の力ではできることが限られているのだから。
ネリィを利用するしかないだろう。
それに罪悪感を抱かないと言うのは嘘になるが、仕方がない。
だって、自分が一番可愛いのだから。大事なのだから。
それに、俺の事が好きなのだろう? なら、それの犠牲になることは、むしろ光栄なことじゃないか。
そう、俺は何も間違っちゃいない。
こいつが望んで、俺がそれに応えただけだ。
…………そんな風に考えて、俺は胸の内に這いずる気持ちの悪い何かを無理やり抑え込む。
何故だかそんな俺の気持ちを見抜いているかのように、顔は向けていないはずの黒竜が俺を責めているような気がして、それから逃れるようにして俺はただ真っ直ぐに前を睨み続けた。
――――目指すは人族領シュリテン王国、最南端の町『カフス』。
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