III;レダ3
『…………』
声が、出なかった。
いや、実際は出せなかったのだ。扉を開いた途端に目の前に現れた、余りに異常な光景に驚いて。
『あ……』
確かに扉を開いた瞬間、細い冷や汗が背中を伝った。だけれど、レダはまだ少女の心を持っている。可憐で素敵な猫の心。現れた光景に対する不安よりも、関心と感動の方が先にくるのは当たり前。
艶やかに広がる広い広いホール。
天井からレダを見下ろしている、大きく豪華なシャンデリア。
ホールの隅々に建てられた大理石の高い柱。
『素敵……』
レダは思わず呟いた。彼女の瞳は美しく輝き、期待と興奮を秘めている。足が、勝手に動く。扉を閉めて、薄暗いそのホールに入る。広い。ただ広い。
レダは自然と踊り始めていた。広い空間で風の様に舞う彼女はまるで本物の妖精のようだった。髪の毛の金色を、ワンピースの黄色を、周囲に漂わせながら軽やかに歌い、踊る。頭の薔薇が、よく似合っていた。
『あら……?』
ふと彼女は足を止めた。その瞳はただ一点に釘付けられていた。彼女の目線の先には……
この広いホールは六角柱の形をしていた。そして、レダが迷い込んだあの扉と真向いの位置にある壁に、まるで何かを隠す仮面のように、白い布がかけられていたのだ。
他の壁は全て輝く大理石で、金色の妖精の姿を映すまでに輝いている。まるでついさっき磨かれたものであるような光沢。埃すらない。そんな中、ただ一面だけ、不自然な白い布が輝く大理石を覆っているのだった。
レダはその壁にかけより、躊躇はしたが――でも勢いよくその布を引っ張った。
例えば、そこに現れたのが鮮やかな色使いで描かれた妖精の姿の壁画であったとしたなら……、あるいは、その布の向こう側にまた扉があって、別の部屋への隠し通路だったとしたなら……。
レダがここまで驚くことはなかっただろう。彼女の瞳がここまで輝くことはなかっただろう。
レダの口は開いたまま。瞳も大きく開いたままの状態でまばたきすら出来ない。『……わぁ……』感動の吐息が漏れてくる。レダの表情はただただ驚きだけを宿していた。
鏡。
レダが白い布を壁から引きはがす。はらはらとその布は散るように下に落ちていく。だんだんと壁があらわになる。――だけどそこに壁はなくて。
鏡……?かしら……
白い布の下から現れたのは、大きな大きな鏡。壁全体が、鏡と化している。その鏡には、呆然と手をつくレダの可愛い顔が映っている。ワンピースは思った以上にぼろぼろになっていて、少し痛々しかった。頭の薔薇は相変わらず灰色だ。
しかし、それだけならレダはここまで驚きはしないだろう。いくら大きいと言っても鏡は鏡。珍しくもなんともない。
レダが驚いた原因は、その鏡に映っているものにあった。
もちろん、レダの姿は一番大きく映し出されている。金色の髪も空色の瞳もそのままに。ただ、その鏡の中では……踊っているのだ。たくさんの"人"が――。
暖かいシャンデリアの明かりのもとに、たくさんの人が二人一組になって踊っている。女性は皆がそれぞれに、美しい色とりどりのドレスで着飾り、その頭には羽帽子やティアラのようなものも。男性だって、黒いスーツに身をつつみ、金色の髪や黒い髪や……みんなが笑いあいながら、手と手をとってゆったりと踊っている。いつの間にか、美しい音楽や笑い声までも聞こえてきていた。『……夢?』
レダは素敵なその光景が信じられず、目を閉じた。ゆっくりと瞼の中が暗闇に染まったのを確認したのち、また瞼を開く。おそるおそる、ゆぅるりと。
けれど、やはり目の前で華々しく踊る人々の姿は消えなかった。鏡の中で、尽きることなく踊っている。
レダは鏡から目を離し、後ろを振り返った。思いきり……大きな瞳は開いたままに。
『!?』
しかし。
なんと……誰もいないのだ。鏡の中からは今でもずっと音楽も笑い声も聞こえるというのに、レダのいるホールは先と変わらずひんやりとして暗い。鏡の中のシャンデリアも、レダのいるホールの中のシャンデリアも、確かに同じもので、よくよく見比べると、大理石の壁も、六角形のホールの形も同じであったのに。
ただ――。
"こちら"のホールのシャンデリアには、明かりはついていない。それどころか、人もいない。誰一人。いや……あえて言うなら、レダただ一人が呆然と立ち尽くしているだけだ。
『何……これ……』
鏡の中をもう一度覗きこむ。先ほどとは音楽が変わっていて……でも相変わらず人々は踊り、鮮やかな色が目に痛い。そして、その風景をただ見つめているレダの姿も、しっかりと映っていた。
ただおかしいのは、その鏡の中で、確かにレダは存在しているはずなのに、誰もレダを見ていないのだ。気付いてすらいないように見える。綺麗に正装した人々の中で、汚れたレダのワンピースはみすぼらしく、金色の髪もくすんでいるのに……それなのに誰一人、こちらを見ないのだ。
ここで……踊っているはずなのに。
もう一度レダは振り返り、ホールを見、鏡によればそこで楽しく踊っているであろう人々の姿を確認しようとした。もちろん、出来なかったが。
漠然とした不思議な感覚が脳裏を支配し、何よりこの幻のような鏡が美しい。不安なんかよりも、ただ、美しい。レダは幼い子供が紙芝居に夢中になるかのように、ただただ鏡に見入っていた。
その時、レダの心の中に、小さな一滴の染みのように、小さな考えが浮かんだ。
鏡にうつるのに、目には見えないもの――
レダは幼い頃から、たくさんの物語を読んできた。可愛らしいものが好きな彼女は、童話の世界がまるでシャボン玉のように綺麗で、儚くて、魅力的なもののように思えていたから。そんな中で確かに出てきた。
『シエラ』
どこからともなくグラムの声がして、シエラは振り返った。小さな部屋の中を見回してもグラムはいない。いるはずがない――。彼は3日前、事故で亡くなったのだ。街で馬車にはねられて……雨の中。思い出すと、シエラの瞳から涙がこぼれ落ちた。
いつも二人で遊んでいた。隣りに住んでいたグラムは兄のようにシエラを親ってくれて、よく季節の花で冠を作ってくれていた。シエラは、静かに静かに、誰にも知られることなく、そんな優しいグラムに思いをよせていたのだ。
『グラム……』
ぽつりとその名を呼んで、涙を拭う。これ以上くよくよしてはいられないから、シエラは立ち上がった。部屋から出ようと、出口に向かう。
『シエラ……』
また、聞こえた。あの優しい声……シエラを包み込む、グラムの声。大好きな声が……
『……グラム?』
不審には思ったが、シエラはその声に応えた。もしもう一度グラムに会って話せるのなら……。藁にもすがる思いで、シエラはグラムの名を呼んだ。
『グラム?グラムなの……?』
『シエラ……僕はここに』
君の横にいるよ。優しいグラムの声は、確かにするのだけども、姿は見えない。天井、部屋の隅々まで探したのに、姿だけが見つからない。
『グラム……ッ』
泣きそうになりながら、その名を呼んで。 ふと……シエラは壁にかけてある鏡を見た。
いた……
グラムは確かに、シエラの横にいた。優しい瞳でシエラを見つめていた。涙がこぼれて……でも実際には彼の姿は見えなくて。複雑な心境になりながらも、鏡越しにシエラはグラムの瞳を見た。
グレーの瞳は澄んでいて、いつの日にも変わらなかった彼の穏やかな性格が染み出しているようだ。
いつまでもいつまでも、そばにあると思っていた瞳――
急に冷たい氷のような空気が、レダの背後を襲った気がした。
ここは錆びれた屋敷の中。
庭に咲くのは不思議な不思議な灰色の薔薇。
鏡の中でしか、踊らない人々――。
レダの顔は突然に青ざめた。夢見心地でこの素敵さに溺れていたのに、いきなり腕を掴まれて引きずり出されて夢から覚める。今では鏡の中で踊り狂う人々が恐ろしい。鮮やかに動く色達がおぞましい。
早く早く、出なければ
ただそれだけの衝動につき動かされ、レダは鏡に背を向けた。走り出そうとした、その時。
『ねぇ……僕と踊ってはくれませんか?』
鏡の中から、声がした。
驚きながらも振り返ると、一人の若い男性が立っている。
胸のポケットには……灰色の薔薇が、飾られていた。