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lack emotion  作者: A.L
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はじまりはじまり

次々とこだまするソプラノ。

余韻の残る透き通った金属音。

風の呟き。

大地の鼓動。

水泡のやわらかな破裂音。


目に映るのは青、緑、黄色。

原色に近いものもあれば、頼りない淡色もちらりと現れることもある。

視覚と聴覚だけが支配する世界。

その中で、

「彼女 停止 ○□☆●・・・」

聞こえた。


//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


薄暗く狭い部屋の中心に光るものがあった。

青白い光だ。

目を瞑ればいとも容易く無視できるような、それでいて皆、あえてそれを選択しえないような、淡く幻想的な光だった。

その光に映された部屋は奇妙なことに六角形をしている。しかしながら、煩雑におかれた、これまた奇妙な形をした道具やらなにやらのため、内側からはそれをうかがい知ることは難しい。その中央にバスケットボールほどの光源が浮かんでおり、それを囲むようにして立っている人影が三つ。その人影から伸びる影が壁に張り付いていた。

「ディス・グランヒェ・ベント・アルジェン」

司郎教授がそう唱えると張り詰めた空気と共に淡い光もほぐれて消える。年齢的には初老程度だか,顎に蓄えた自己主張の強い髭のせいで,見かけ以上に年老いて見える教授だった。

その様子を見て,左隣に立った女教師,史那先生が頷く。栗毛色の髪を後ろで結び、パンツスーツという格好だ。

「教授、アエル君お疲れ様でした。」

司郎教授は満足そうにうなずいた。

「ふむ、二人ともご苦労だっ・・・。」

「お疲れ様でした。」

すかさず言葉を被せる。言葉を遮られ、顎に葡萄のような形のひげ蓄えた老人が少しムッとしたようだ。

少々いらだった様子の教授が何か言いかけたその時。

「それでは今日はこの辺でお開きとしましょう。」

図ったかのようなタイミングで、部屋の蛍光灯のスイッチ入れられると、暗闇から史那先生の笑顔が現れる。

なかなか発言の機会を与えられない不幸な老人は眉間に若干しわを寄せていた。

「あ、あとアエル君、本来なら2回生に任せるような仕事ではないのですがよくがんばってくれました。通常は教員が三人で更新を行うのですが、先生がどうしてもというので・・・。」

うぉっほん、とお手本のような咳払いが小さな部屋に響き、失礼するよ、と年配の教授は足早に部屋を立ち去った、もとい逃げ出した。威厳たっぷりの外見に反して彼は案外打たれ弱いようだ。

照れているんですよ、と史那先生が能天気に笑う。

「さ、帰りましょうか、アエル君。」

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


辺りの闇は光栄なる奉仕活動(タダ働き)の前よりずっと深まっていた。

僕らがいた建物、六角館。学園の西側小さな(本当に小さな)円形の森の中心にある。一見してサイロのようなレンガ造りの建物だが、サイロより背は低く、地面に近づくほど建物の幅が広くなっていた。その建物の入り口はちょうど二階くらいの高さの所にあり、そこまでは梯子が伸びていた。

その梯子を降り、闇深き森を進み、その木々が開けたところで改めて体が疲れていることに気づく。体を伸ばし、すんだ空気をいっぱいに吸い込んだ。草の匂いが心地よい。長時間、気を張っていたためであろうか。その反動でゆるんでしまった口元から自然と言葉が漏れた。

「彼女、停止か。」

男子寮へのレンガ道。周りには同じくレンガの外壁を持った5階建て程の建物がいくつも並んでいる。そのせいで空が狭くなっているが、その空に浮かぶ月のおかげで夜道はそれほど暗くはない。

隣を歩く女性教授は隣を歩く人物の独り言に反応し、そのくりくりとしたまんまるい瞳を隣人に向けながら

「え、なんです?」

「いや独り言なんで。」

すると先生は両目を閉じ、若干あごを上げ、ぴんと立てた右手の人差し指を左右に振りながら

「いえいえ、生徒の悩みを聞くのも教師の務め。その分もお給料の中に入っているんですよ。」

悩みか。悩みではないんだけど。

きっと進路や人間関係の悩みを勝手に想像しているのだろう。

進路か。

今はまだ考えたくないな。

「いや、でも大学の教員は教師である前に研究者でしょ。そんなのおまけ程度のサービスはいりませんよ、史那先生。」

「いえいえいえ、他の先生方はどうか知りませんが私は生徒のことを第一に・・・。」

「いや結構ですよ。」

「いえいえいえ、だまされたと思って、ためしに。」

「先生は俺をだましたいんですか?」

う~といって史那先生は黙る。

少し悪かったかなと思いつつ、これで良かったんだと自分に言い聞かせる。

この人になにを相談しても、決して良い方向いは転ばないだろう。

先生はそのほんわかとした外見に反して、いわゆるデキる女だ。平凡な優秀さだけではこの年齢で教授職にまで上り詰めることはできなかっただろう。

しかし、それはあくまで専門の精霊学の領域の話。

間違っても人の悩みをたちどころに解決してくれるという人間性を兼ね備えているとは思えない。

「いやいやいやいや、やはりここは人生の先輩でもある、お姉さんに相談してみるべきです。絶対。」

彼女はしばしば、こうやって相談を受けたがる。彼女は、どうやらお姉さんでいたい病らしいのだ。生徒や困っている人、弱者の面倒を進んで見ようとする。

いや、それも一面においては彼女の美点となりうるのだが、とにかくしつこい。

こういう場合は、話を逸らすに限る。今夜は三日月。偏見だろうが、三日月というのは古くからニタニタとイタズラっぽく笑っているイメージがある。そんな彼ならきっと笑って許してくれるだろう。恩師の話を逸らす程度の不義理な行いを。

「先生。」

「はい。」

「いま、彼氏いますか?」

先生の表情が凍る。

「だ、だめよ。私とアエル君は先生と生徒で・・・。」

今度はあっという間に真っ赤になる。少しだけ開いた口からはワナワナという音が聞こえてきそうなほど小刻みに震えていた。

以前、まだ俺が学園へ入学して間もないの頃。大講堂での授業後に、挨拶のための握手を求めたときも顔を真っ赤にしていた。あの時、大学教授とは勉強しかできない人がなるものなのだろうかと本気で考えてしまった。

本人いわく、自分の予測の範囲を超える出来事が起きるとあわててしまうようだ。仮にも人生を26年も生きているのだから、そのぐらいのことであわてないでほしいのだが。

「いや、そういうボケはいらないから。」

「えっと、い、いないわよ。だ、だからって私たちは先生とせい・・。」

この人はあわてると言語の理解力を失うのだろうか。

「・・・じゃあ今までの彼氏に面倒くさいとか言われませんでした?」

思わずそんなことを聞いてしまう。先生は(黙って、ひたすら黙って動かなければ)綺麗だ。

だが、そんな美点を塗りつぶしてしまうほどのめんどくささを兼ね備えているのが史那という女性教授だった。

「し、失礼ね。そんなの言われたことないわよ。」

「へ~意外ですね。あ、彼氏いたことないから言われたことないとかですか? 」

「むむぅ~。ア~エ~ル~く~ん?」

今度は唇を尖がらせている。

「じゃあ先生は結婚願望とかあるんですか。」

「アエル君、私まだ26歳なんですけど。まだ結婚には早いです。」

「いや、でもどうせすぐ三十代になって、親がうるさくなってきて、いい人ぐらい自分で探すわよ、とか言って理想を追いかけるも、四十手前になり取り返しのつかないことになるんですから。そんな悠長なこと言ってると痛い目見ますよ。」

「う、・・・そんなことありえません!で、でも、まぁ無いこともないんですよ。結婚願望っていうの。でも仕事も楽しいですし、今はまだ。でも33歳くらいまでにはって自分でも思っているんです。最低限の条件として、仕事をすることを認めてくれる人がいいなって思ってるんですけど。そもそも今の職場って、そのお年を召した方が比較的多いので、年が近い人もいませんし。出会いがないなって。あ、あと性格はやさしい人がいいですね。男らしくひっぱてくれる人もいいなって思うんですけど、気が強い人だと気後れしちゃいますし。」

「でも先生、そんな人はなかなかいませんよ。そもそも男の人にとって家庭っていうのは団欒の場ですから。女性は家庭に入るべきなんて思いませんけど、やっぱり一般の男性はそういうのを求めがちなんじゃあないんですか。」

「う、やっぱり男の人って家庭的な女性が好きなのかしら・・・。」

「いや、俺が言ったのはあくまで一般論ですから。でも本当に結婚したいんだったら多少は妥協したほうがいいと思いますよ。どうせ後で妥協することになるんだったら、選択肢(同年代の男性)が多い時によりよい人を見つけたほうが現実的です。幸い、先生は美人ですから、自信持ったほうがいいですよ。だからそんな不安そうな顔しないでください。」

「そ、そうよね。まだ時間はたっぷりあるわよね。先生なんか自信が出てきた。よし、がんばるぞ。」

かわいらしく小さなガッツポーズを作る。

「まあ、その意気ですよ。あ、それじゃあ男子寮こっちなんで。」

「え、あ、うん、相談に乗ってくれてありがとう。それじゃあまた明日の講義でね。おやすみ。」

「おやすみなさい。」

そういって、ぶんぶん手を振りながら去っていく女教員。

生徒相手にガチで結婚願望を語る年上のお姉さん。

「やっぱりめんどうくさいよな、あの人。一般的に。」

そう思いつつも、真面目にアドバイスしてしまう自分も相当普通じゃない。まぁかなり適当なアドバイスだが。

「やっぱり俺って他人に流されやすいのかなぁ?」

人生において何百回と一回目の言葉をつぶやき、青年は寮へのレンガ道を歩く。


//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////     


進入成功

作戦完璧

後は捕獲だけ。

ふふふ・・・。

階段を辛そうに上がる男の後姿を見て私は呟く。彼の肩は呼吸と共に大きく上がったり、下がったり、上ったり。獲物は十分息が切れているようだ。霧吹きの中の無色の液体を転がしながら私は舌舐めずりをした。

じゅるっという音が小さく鳴る。

「是非とも抵抗しないで欲しいわね。」

自分でも口元が歪んでいるのがわかる。普通の人は嫌悪感を覚えるであろうこの笑みを私は気に入っていた。チャームポイント。

青年が階段を昇りきった瞬間、私は走り出す。

相手に気づかれない限りで、できるだけ早く。

体は緊張で多少強張っている。でも、私の一歩一歩は羽のように軽い。

自らの体の重みを忘れるかのように、私はピョンピョンと会談を上がっていく。

本当に長かった。いろんなものを捨ててきた。だから、こんなに軽やかでいられるのかしら。

やっとスタートラインに立てる。

「やるよ、お母さん。」

少女の顔はよりいっそうの歓喜に歪む。


//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


気絶。ブラックアウト。

ソレはいつも後ろからやってくる。

当たり前だ。気絶に気づく頃には既に闇の中。

恐怖はない。何もない。死ぬというのはこんな感じなのだろうか。

束の間の「時間」という怪物からの解放。一瞬が数時間にもなる。

俺は眼を開けてからそんなことを考えていた。

手は後ろで縛られ椅子に座らされている。抜け目なく椅子の足と自分の足もロープで巻かれ繋ぎ止められていた。

こんな状況だが不思議と狼狽はない。こういうときほど冷静になってしまうのが人という生物なのだろうか。

それとも、俺が人間から外れてしまっているのか。

少し前に意識は回復したが、相変わらず目の前にあるのはまたもや闇だった。

目は開いるのだけれど、何か袋のようなものを被されたらしい。

自分の息の熱と湿気で若干の息苦しさを感じる。

加えて、視覚を遮られるのは人間とってストレスになる。

しかし、それら以上にストレスになるのは周りから聞こえる調子の外れた鼻歌だ。

壊れたラジオから流れるような調子の外れた音だ。高さからして、性別は女だろう。

あちこち歩き回っているようだ。足音の数からして、動いているのは一人だろう。

このまま、気絶したふりをすれば、いずれこの近くから離れてくれるだろうか。

だとしたら、その時が逃げ出すチャンスだ。

「さ~てと。そろそろかしら。」

アエルがそんなことを考えていると、不意にそんな言葉が聞こえた。

「あんた、そろそろ起きてるでしょ。あなたの身長と体重からおおよそ求めた麻酔薬の効果持続時間は約10分前にきれているはずよ。何か、喋ってみなさい。」

身長と体重・・・いつの間に計ったのか。それとも個人情報が漏れているのか。

いや・・・今はそんなことより、この問いかけに答えるか否かの方が大事だ。どうすべきか。


「あたしは、人に騙されるのが嫌いなの。ついでに人を殴るのもね。私に拳をつかわせないでね。ふん。」

・・・俺は殴られるのか。

「起きてるよ。」

とりあえず、無駄に殴られるのは避けよう。

「私の名前はルカよ。工学部二年。橘ルカ。」

「僕は精霊学部二年、御剣アエル。とりあえず、顔を見ながらよろしくと言いんだけど、顔の袋を取ってくれないか。」

「だめよ。」

「なぜ?」

「私いまマッパだから。ふふん。」

ふ~ん。

「初対面の相手の目の前で裸になるなんて、さぞかし自慢の身体なんだな。」

「っ!」

「どうした? 違うのか?」

「あんた、自分の状態、理解してる? いたずらに挑発して得することなんて何もないのよ。」

「でも、俺が君の獲物だとして、食用ならとっくに殺されてるだろ。わざわざ覚醒するまで待ってくれるってことは、話があるんじゃないのか?」

「ふん、私がまともな精神構造をしてるって保障はどこにもないのよ。目的の無い単なる愉快犯で相手の悲鳴を聞きながら、じわじわと痛みを与えていくことの喜びを感じるサディストかもしれないわよ。」

「そこまで言われたら何も言えないけど、でも。」

「何よ?」

「可能性は低い。」

「・・・ふん。そうね、可能性は低いわ。でもね。」

そういうと、彼女がこちらへ近づいてくる気配がした。

「可能性なんてもんはね、いくら低くても、もしそれが事実ならいい訳なんかにはならないのよ。」

そう言うと彼女は頭に被せられている麻袋を乱暴に取り払った。一瞬暗闇に慣れてしまった眼が必要以上の光を取り入れ、思わず眼をつぶってしまったが、慣れてくるとそれほど明るい部屋でもないことがわかった。

「可能性が低いから仕方がありませんでした、じゃ済まないことがあるのよ。覚えておくのね。」

「覚えておくよ。」

あたりを見渡す。オレンジ色の淡い光に照らされた室内は鉄くずやら何やらでごちゃごちゃしている。壁は古いレンガ作りであり、古めかしく西洋の牢獄の壁を彷彿とさせる。そんな部屋の中央にあって自分の真正面にある、これまたごちゃごちゃの広いテーブル。用途のわからない機材が置かれているが、テーブルの外側に一つだけスペースがあけられている。 

そんな風に部屋を眺めていると後ろで、状況分析はすんだ? という声がした。

そして、それとほぼ同時に目の前の白衣姿の少女がスタスタと通り過ぎていく。

ホワイトの髪と赤い目、良く通ったその鼻筋が印象的だった。髪はその若干小さめな体に不釣り合いに長い。その分、手入れは行き届いていないようで、毛先は痛み、極細の白い針金のようになっていた。また前髪も同じように長く、レンズの若干曇ったメガネに前髪がかかっている。そこからのぞく赤い眼はぎらぎらと光っており、その目つきの悪さとあいまって兇暴そうな印象に拍車をかけていた。

うんしょ、と言って彼女は目の前のテーブルの上に腰かける。足を組み膝の上に肘をのせ、その細い指を遊ばせながら顎を触りながらこちらを見ていた。その半分閉じたような目つきの悪さで。

「あんたさ、私が誰だか覚えてるわよね?」

「もちろん、友人ではないけど知り合いではあるね。」

 ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

入学式での出来事である。

学園内の芸術ホールで行われたそれは、大きく膨れた人の感情で満ちていた。期待が大半。不安などかけらほどしかない。新しい場所、環境では漠然と良いことが、何か劇的なことが起こるものだと大半の者が思っている。それに加えて、長くつらい受験勉強の期間に夢のような場所だと信じ込まされた場所だ。皆が浮足立っていて、慣れないスーツを着て、慣れない場所で新たな出来事を待ち望んでいる。黙って期待を膨らます者。今のうちに人脈を作ろうとぎこちない会話を繰り広げる者。緊張した面持ちで周囲をきょろきょろと見渡す者。さまざまな者がいた。そして、彼らが座る半円を描くように設置された席は、強制的にその中心、講演者が上がるであろう高台に注意を向けさせるがために存在しているかのようである。

ここは式開始1分前の劇場だった。

「ねえアエル。ほんとによかったのかなぁ?」

黒のスーツに身を包み、下を向いているアエルの横に座った青年、添木ヨウがつぶやく。彼もまた黒のスーツに身を包んでいた。その服の黒が少し癖のついたショートの金髪をより印象的にしていた。

精緻な顔立ちとその金髪が相まって日本人らしからぬ印象を周りに与える彼は現在伏し目がちに前を見つめていた。そして、アエルは呆れたということを自己主張するかのようなわざとらしい大きなため息をつくと顔をあげた。

視線は前方の空をとらえているようだ。

「何回同じ質問するんだよ?そしていまさら、また同じ質問を。」

アエルはその視線を若干下に移し、前の席の背の上に両の肘を乗せ、腕を組んだ。前に座るだろう者には大変迷惑だがどうやら今前の席は空いているようである。

「いいんだよ。こうしたほうが俺の大切な人たちはみんな幸せになれる、と思う。」

お前には苦労をかけるけど、と心の中で付け足した。そしてまた若干視線を上へ上げる。


ふと見ると、学園総長が壇上に上がるところだった。不思議なもので何の号令も掛けてはいないのに、騒がしかった生徒たちが一斉に静かになり、静寂を受け入れている。

彼らの顔はみなある程度緊張していた。新しい世界の糸口をその住人から学びとろうとしているのか、はたまた自分とその両親や近しい者たちの期待が重く感じられたのか。だがアエルはすくなくとも後者ではない。彼は誰からも期待されず、誰からも望まれず、誰からも許されずにここにいる。唯一の親友だと自分に思わせてくれるとなりの友人にさえ迷いを抱かせている。

もともと彼の実家は先祖代々精霊師として生活の糧を得てきた。そしてそのような家は現代のこの国に1つだけだ。御剣家と言われれば、唯一何百年もの歴史を持つ精霊師の一族であり、多数の分家を抱える精霊術師の大家であった。

長い時の中で力を保ち続けたその歴史はそのまま血に染まった歴史だということを意味する。

その長い歴史の中で御剣はあらゆる方法で他の精霊師たちを管理してきた。現代で表立って直接的な力による管理、そして粛清は行っていないが、現在でも新興の精霊師集団達の追随を許す兆しすらない。その一族に生まれたものは大学で学ぶ必要もなく、国や企業のあらゆる中枢に入り込むことができた。

そしてアエルは分家の当主というわけではない。

「大切な人達、か。大切なら離れたくないよね・・・本当は。」

「当たり前だ。そんなの。」

この1年は本当に大変だった。大学に入るための学費と生活費その他もろもろの必要費を自分で稼がなければならなかったからだ。もちろん家の者には秘密だった。

父親と母親、それに使用人達に隠れ仕事をするのは本当に難しかったし、何より後ろめたかった。その秘密が後ろめたさとなって、重さになって余計に自分を疲れさせたのだ。と同時にその重みを免罪符にできたから1年間頑張れたのだ。皆が大切だから苦しい。大切だから重い。

そう思う。

自分は家族を、家が嫌いなわけじゃないと。ただ、大切な人のために。

仕事は、御剣の名を出せば仲介のものがすぐ用意してくれた。仕事はもちろん精霊術に関するものだ。

精霊術。物理や化学に対置される学問、技術。

物理法則、化学法則の例外。それら法則を捻じ曲げる術。

1人で出来る仕事を中心に紹介を求めた。これは仕事をするのが自分ひとりであり、大規模なことはできないということでもあるし、また管理団体である、御剣家にばれないようにするためでもあった。家には秘密にしてくれと仲介者に伝えたときには妙な顔をされたが、どうせお坊ちゃんの気まぐれだろうというくらいにしか思われなかったようだった。もしかしたら、本家の長男に恩を売っておくことで後々得になるのだと考えたのかもしれない。その目論見は大外れなのだけど。

両親に目論見が知られたのは、去年の1月のことだ。年明け、分家へのあいさつ回りに追われた日々から解放された久々の休日だった。お節介にも大学側が連絡を入れたのだ。大学側にしてみれば、入学を望むはずのない者が来たのだから当たり前だ。

家の中は混乱した。と同時に怒号に包まれた。結局両親には大学に行きたい理由、大学の寮で独り暮らしをする理由を言わなかった。いっそ嘘をつけたらどんなにいいと思ったことか。

中途半端な、本当に薄っぺらい正義感が嘘をつくことを躊躇わせたのだ。ここで嘘をついたら自分がこの家を出る理由が汚れてしまう気がした。

でも今となっては嘘をついたほうが良かったのではないかと思うときがある。両親が納得できる嘘をついたほうが、あんな悲しそうな顔をさせずに、あんな喧嘩をせずに済んだかもしれないと思うからだ。

「でもよかったのか? お前は俺についてきて。」

「何度も言わせないでよ。アエル。昔から一緒だったんだから、問題ないじゃん。確かに不満はあるよ。でもそれはいきなり大学に行くなんて行った事じゃなくて、こんなに心配している親友に家を出た理由とか教えてくれないことだよ。もちろん無理に言えとは言いたくないし、無理して言うなら逆に怒るけどさ。」

と言って彼は腕を組んだまま屈託なく笑う。彼の表情を見ていると本当に同じ歳なのかと疑いたくなる時がある。

あまりに子供っぽい、無邪気な笑顔だ。それに・・・。

「親友か・・・。」

アエルは隣の青年に聞こえないような小さい声で呟く。対人関係において臆病な自分が友達に対して親友といえる日が来るのだろうか。たぶん来ないだろうな、と思う。同じ年月の分だけ生き、同じような家庭環境で育ったのに、自分の成長の結果はこのありさまだ。本当に人とは十人十色だな、と思う。

この友人の笑顔に何度も救われてきたことを感謝しなくてはならない。口には出せないけど。

「添木のおじさんとおばさんには感謝してもしきれないな。変な息子とはいえ大事な息子を家から出すんだから。」

「変じゃないよー。・・・そんなには。」

変という発言に抗議の声を上げる青年、ヨウの実家の添木の家はアエルの母方の姉の家だった。

御剣では精霊師としての、他と一線を画する才能を守るため親戚同士の婚姻が通例化していた。その中でも添木は最も古い分家の一つであり、長い歴史の中で何度も本家と交わり、強い関係性を維持してきた。そうした経緯からアエルとヨウは小さい頃から友達だったのだ。

そして、特にアエルにとっては、その存在が他に代え難いものだ。

御剣家、つまり本家に生まれた者は幼いころから精霊師としての知識を学ばなければならなかった。そのため学校に行くことも許されず、家から出ることも少なかった。

ヨウはアエルにとって学校の様子や自分と同年代の子供の話をしてくれる、少ないながらも外界との接点を持たせてくれる唯一の存在だったのだ。

アエルが15になったころ、強引に両親に高校進学を訴えたのも、長い間ヨウが話し続けてくれた学校の様子があまりにも楽しく、魅力的に思えたからだ。

結果として、外の世界は彼が言うほど素晴らしいことばかりではなかったけれど、彼やほかの友達と過ごす日々は、アエルにとってとても大切なものとなった。

家の中に閉じこもっているだけでは知らないこと。また生きていく上で知らなければならなかったことをたくさん学ぶことができた。ヨウはアエルにこの世界に「生きる」ことを知る機会をくれたのだ。

「とにかく、家の話はなるべくしないでくれ。ついてきてくれたことには・・・その、感謝してけど。いつか全部話すから。」

「まぁ、いつか話してくれるならいいけどねー。」

そして彼はなんでもないことのように笑う。

2人は話すのを止め、前を向いた。ヨウにしてみればこの件についてこれ以上聞くつもりはもう無いようだ。いまだって、深く聞くつもりはなかったのかもしれない。ただ単に俺が暗い表情をしていたから、心配して気をまわしてくれたのかもしれない。。

とにかく話も終わったので、とりあえず式に集中することにした。

壇上では学園総長の話がちょうど終わり、次のプログラムに移行するようだ。スーツのポケットで、若干しわのついてしまった進行の予定が書かれた紙を取り出す。どうやら次は新入生代表のあいさつのようだ。

「ねえねえ、新入生代表ってどんな人なのかな? やっぱ、頭いいのかな? かっこいいのかな? メガネなのかな? それともマッチョなのかな?」

ヨウがその大きな眼をくりくりとさせている。どうやら彼の中ではメガネとマッチョは対立する概念らしい。それにマッチョってなんだよ。

「まぁ、一般的に考えれば入学試験のトップとかじゃないか。偏見かもしれないけど、メガネって言うのはいい線いってるかもな。どうせ眼鏡の暗そうな奴が、当たり障り無いこと言うだけだろ。時間さえ取らなければ、正直どうでもよくないか?」

そう言って、アエルは両手を上に伸ばす。長時間座っていたため、体が固まりそうだ。


ふと、自分の前の席で何かが動く気配がする。

目の前の席、誰も座っていないと思っていたその席から白い頭がにょきっと出てきた。一瞬何が起きたか分からなかったが、どうやら一般のものより少し高めの背もたれに小さな体が隠れ、立ち上がってはじめて見えるようになったようだ。

目の前の少女、白髪の少女。

良く見ると、白い髪の隙間からのぞく耳が真っ赤に染まっている。彼女・・・だろうか、髪の長さからしておそらく女性でいいのだろうその人物はこちらをゆっくりと振り向くと、すごい目つきで睨んできた。長い前髪の隙間から覗く赤くするどい瞳。

あと・・・彼女はメガネをかけていた。

壇上の進行役らしき教員が左手に持った紙を見下ろしながら、新入生代表の生徒の名前を呼んでいる。どうやら彼はこの少女の奇行に気づいてないようだ。

「人を凡人扱いするな、この凡人。」

そう言うと彼女は早足で通路の階段を一段飛ばしで駆け降り、早足で壇上に向かっていく。

下まで下り壇上の前まで到達すると、礼も何もせずに、壇上にズカズカ上がっていく。

そして、司会者のマイクを何も言わずにひったくると、壇上の中心に進んだ。

司会役の教師は彼女の傍若無人な行動に呆気にとられていた。会場全体も、その異様な空気を感じ取ってかより深い静寂に包まれていた。彼女の行動がこの、劇場という小さな世界を支配していた。

そして彼女はしゃべり出す。

「みなさんこんにちは。突然ですが、私はメガネをかけています。でも決して暗いわけでもないですし。平凡な言葉を吐く平凡な口も持っていません。・・・よく聞いていてください。」

彼女の声が若干震えている。声に怒気がこもっているのがわかる。彼女はその眼をキッと見開いた。

「科学に不可能はない。不可能にしてるのは私以外のすべての凡庸な野郎共よ。わたしなら、いつかどんな存在もひれ伏さざるを得ないものを作って見せるわ。だから、ここの教授も、あなたたちも、ううん、この大学すべて、その機能を私に捧げなさい。いい? 分かった?」

会場が鎮まる。あらゆる音が彼女の声に恐れをなして一斉に散っていったかのようだ。しかし、ただ一言だけ、アエルの耳は言葉を捉える。

「怒らせちゃったみたいだねぇ~。」

楽しそうに喋ったのは、隣の友人だった。


そのあと当然だが、先生方に引きずり落とされた。彼女はそれに抵抗し、手に持ったマイクを振り回していた。その約3秒後、彼女の手から勢いよくリリースされたマイクは司会者の男の鼻に吸い込まれていった。


これが彼女とのファーストコンタクトだった。

//////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


一般的に考えて良い出会いじゃなかったな、と思う。普通なら謝らなければいけない状況だったのだが、あのとき彼女は壇上から降ろされ、別室に連行されて行ってしまい、結局その場で謝る機会がなかったのだ。

彼女とは学部が違うこともありそれ以来会っていない。

「大学始まって以来の変わり者同士の私たちが再開する、これは記念すべきことね。うん、まさに。」

「俺は君ほど変わり者のつもりはないんだけど、橘さん。君に関する話はどれも、とてもおもしろい。」

「ふん、どんな話なんだか、今度じっくり話したいけど、今はその時じゃないわ。話を進めるわね。」

彼女は俺を指さす。

「単刀直入に言うわ。欲しいのはあなたの機能。差し出してくれる?」

機能、か。人を物と割らないとでも言いたいのだろうか。そのわざとらしいともとれるほど不自然な言葉使いに若干呆れてしまう。

「で、機能っていうのは肉体的なもの? それとも知識のほうか? あるいはそれ以外のこと?」

「知識のほうよ。あなたの精霊学の知識が必要なの。」

アエルは黙って彼女の次の言葉を待つ。

彼女は放っておけば自分の主張を勝手にしゃべるタイプだと判断したためだ。

さらに言えば、なぜ科学の申し子のような存在の彼女がソレとは正反対に位置する分野の知識を欲していることが突拍子もないことのように感じられ、純粋に聞き入ってしまったからだ。

「あなたも知っての通り、私は、そう、自分で言っちゃうんだけど、ここの学府の長い歴史の中でもトップクラスの天才と言われているわ。正直言わせてもらえばこの大学へは知識を得に来たわけではないの。大学で学ぶレベルのことはとっくに頭ん中に入ってるし。ここの大学に入ろうと決めたのは独立学士研究制度があったからよ。」

組んでいた足を組み直し、その白髪の硬そうな毛先をいじりながら彼女は続ける。

「精霊学部のあなたには馴染みがないと思うわ。だからこの制度の説明をしてあげる。」

と、彼女は制度の説明を始めた。どうやらこの制度は大学側に、その能力と知識、および研究理念と志を認められ、その活動が大学、ひいては現実社会に有益になると認められた学生に、個別研究室の提供と研究費の全額支給を約束するものらしい。

そしてその資格ありと認められた生徒は大学からの一定の独立性を有し、その研究内容において他の教授のほか大学の職員の干渉を受けない。

ようはそれに認められた生徒は好き勝手できるのよ、と彼女は簡単にまとめた。

どうやらこの制度は伝統的に、工学部などの各種理系学部の首席たちによって利用されてきた制度ようだ。

「私が入学式に言った言葉、覚えてる? 」彼女はいった。

「科学に不可能はない、だったけ?」

「さすが、記憶力はいいよね。そう、それよ。科学に不可能はない。今の科学に不可能があるとすれば、それは人間のせいよ。くだらない常識や固定観念にとらわれたつまらない思考しかできない老人たちのせい。」

彼女は胸を張り言い放つ。その姿が数か月前の入学式の壇上の、彼女の華々しい大学デビューの姿と重なった。

「そこで私は考えたの。この大学の学部のトップで独立した環境、多くの研究費がある今だからこそできること。好き勝手できるうちにタブーに、だれも到達したことのない領域を制覇しようってね。」

「その領域って言うのは? 」とアエルは尋ねた。

彼女は一呼吸の間をおく。アエルにはその1つのため息が不思議な現象に思えた。現象、まるで人の作為ではないかのような表現だがそれで正しいだろう。傍若無人、唯我独尊、そんな印象の彼女の神経が張り詰めるのを感じたのだ。人の作為と呼ぶには不自然すぎる。南極の氷山が崩れ落ちる直前の静けさが頭に過る。

あんた、と少女は切り出した。

「魔科学って信じる?」と、低く重く響くような声。

「質問には答えなさい。魔科学、有ると思う?」

魔科学、稀にだが、人の会話に上る話。与太話、伝説、フィクション。

話しをするにしても、真剣な議論など行われないような事柄のものだ。

ある研究者がその理論を発見したが、ある秘密結社に消されたため、日の眼を見ることはなかっただとか、古代文明では魔科学によって現代の文明に匹敵するほどの高度な社会が形成されていたとか、そんな話がテレビの胡散臭い特番で取り上げられるような存在だ。

アエルはすこしだけ考えてから

「俺は幽霊がいるとは思わない。」

そういって、相手の反応を見た。

続けなさいと顎でサインされた。

「でも、幽霊がいない証明はできない。俗に言う悪魔の証明ってやつだ。俺が生きてきた中で体験した事、得た知識、相手の幽霊というものに対する認識があいまいに混ざり合って、いないっていう結論を出してるだけだ。」

「魔科学に関してもそれと同じってこと?」

「ああ、だから俺の答えに信憑性はない。だから、俺の{答え}はお前の確信のための助力にはなれない。」

そう、と彼女は短く言った。彼女がその答えに満足したのか落胆したのかはわからない、そんな無表情な声だった。

「じゃあ、もうひとつ質問していい?」

「ああ、なんだ?」

彼女はこちらをまっすぐと見つめてくる。射抜くような、ギラギラとした視線だ。

彼女の眼鏡の向こう側、赤い眼のさらに奥に何か絶対的な意思が感じられる。

射抜くような視線に居心地の悪さを感じるが決して視線を外してはいけない。そう思った。

そして、彼女は尋ねる。

「信じる気はある?」

シンプルな質問だった。ただ答え難い質問だった。

信じる気はあるか。この問いかけには一体どのような意味が込められているのだろうか。

一変した、先ほどからの重い空気。真剣なまなざし。

俺はここでどう答えるべきか。その答えが後にどんな影響を与えるか。

わからない。

予想できない。

でも、答えるべきだ、と思う。

でも、わからない。

「どうしたの? 簡単な質問よ。」

彼女は視線を外さない。きっとそれは答えさせるため。視線で逃げ場を塞ぐため。

「その質問の意図は、やっぱりそういうことなのか。」

「そういうことってどういうことかしら?」

「魔科学の話、加えて俺が精霊学部の首席であること、からの予想だけどな・・・。」

ふぅ、とため息をついたのは自分だ。

「魔科学を発見、ないしその理論を構築するってことだな?」

「ええ、そう。」

短い返答。

「精霊学部生、というか精霊の声が聞ける者から言わせてもらえば、あれは冒涜だ。」

「何に対する?」

「精霊達に対するだ。」

「私は精霊達の声も聞けないし、声もかけられないからわからないけど、精霊には意思があるもんなの?」

「俺は声が聞こえるし、声もかけられる。どの程度の意思があるかはわからないけど、それは確かに存在している。」

そういうと、ルカは体をこちらに向け足を組んだ。視線は依然として俺を絡め取っている。

「じゃあ、協力はできないってことかしら?」

「ああ。」

そう答えると、彼女は、やれやれと芝居じみた口調で呟いた。

すると、突然、無表情だった彼女の口元が笑みが浮かぶ。

「あんた、なんで大学なんかに来たの?」

突然の方向転換。攻撃方法の転換。

それに対して無表情を保つアエル。

しかし、ルカにはわかっていた。アエルの顔の筋肉がほんの少しだけ強張ったことに。

その糸口を逃すことのないよう続ける。

「学園始まって以来の変わり者。私たちはこう呼ばれているわ。いろいろ理由はあると思うけど、私の場合は主にその人格が。ふふん。で、あなたの場合は・・・。」

ルカの口元がさらに歪む。

「その立場が。」

・・・・・・・・。

沈黙。

その沈黙に対し、ルカがナイフで傷口をえぐるように、ねちねちと会話を押し込んでいく。

「みんな、思っているわよ。なぜ御剣のお坊ちゃんが大学に、ってね。あんたと同じ学部の奴ら、何人かの奴らに聞いたわ。あんたが大学に来てる理由。でも誰も知らなかった。だれもわからなかった。御剣といえばこの国の精霊術関係の仕事のいっさいを仕切る家。その本家に生まれたものは、義務教育を免除され小さいころから精霊術をたたきこまれる。もはや、大学で学ぶべきことなどほとんどないはずなのになぜ? もちろん、私にもわからないわ。でも想像はできる。ほんの少しだけどね。」

ふと、ルカはアエルの視線に棘を感じた。が気にせず続けた。

「私の予想聞きたい?」

「聞かせてもらおうじゃないか。」

ほとんどルカの発言に被せるようにアエルは言った。苛立った自分に悔しさをおぼえる。。

「ふふん、あんたはね、家が嫌いなのよ。」

・・・・・・・・・・。

沈黙。

「あんたは家に居たくないと思った。何らかの理由でね。誰かとケンカでもしたか、外の世界にあこがれたのかはわからないけどね。そして、その気持ちは今も変わっていない。だって、あんたはこの一年とちょっとの間、大学の外に出てないんだもの。大学の入口のカードキーにログが残っていたわよ。」

「さっきから好き勝手なことを堂々と言ってくれるな。大学のデータを盗み見たくせして。で、仮にその予想が正しいとして、さっきの魔科学の話とどうつながるんだ?」

「それは簡単よ。金儲け。」

「は?」

「あんた、大学卒業後はどうするつもりなの? この国じゃ御剣の管理下に入らない在野の精霊師なんてほとんど仕事はできないらしいわね。業界を仕切る、いや支配する御剣家がいるから。たとえ海外に行っても、その影響があるかもしれないしね。そこで、魔科学よ。」

魔科学、自然にアエルの口が開き、言葉を紡ぐ。

「魔科学。精霊の声を聞き、精霊に発言することで会話を成し、精霊に働きかけ物理現象、化学現象を捻じ曲げて現象を起こす精霊術の本来のプロセスを無視する仕組み、道具、装置、だな。精霊達を強制的に随わせ、お願いするのではなく命令する。」

「そう、それよ。もしそれが実現できればそれだけで莫大な財産が入ってくるわ。国内

では御剣が働きかけて商売ができないかもしれないけど、海外でなら確実に売れる。そうなればこっちのもんよ。たとえ御剣が反対しても、政府と財界は世界の潮流とやらを無視できない。どう?」

どう? か。

ここで、初めて視線を逸らし、うつむくアエル。

ルカは続ける。

「それに、このままいけばあんたは家に連れ戻されるわ。わかって無いわけないわよね、その現実。あんたの家はあんたしか男子がいない。どんな手でも使うわね。私ならそうする。」

たしかに、とアエルは思ってしまった。

たしかに、あの家ならやりかねない。まだ父や母だけならなんとかなる。しかし、祖父母や分家の当主達はどうするだろう。父と母は本家の当主とその妻だが、一族全員の反対を押し退けられるとは到底思えない。

卒業後に連れ戻される。それは確実だろう。

いくら精霊師として優れた者になろうとも。

いくら頭が回ろうとも。

いくら人脈を作ろうとも。

しょせん学生のすることにすぎない。いや、学生でなくとも人一人の出来ることでしかない。

御剣家のような大きな存在に太刀打ちできるはずもない。

ルカの言うことは的を射ている。正確に中心を。

家を出てから、大学に来てから、何度も考えていた。

近い将来の話。

しかし、どのアイデアも決定打を欠いていた。

この国ではどの場面でも必ず御剣が邪魔になる。たとえ、精霊術を仕事にしなくとも、一般的な企業に入って仕事をしようとしても御剣家は邪魔をするだろう。科学技術の発達した現代社会においてもなお、町の精霊灯、都市の大気浄化。発電、など様々な領域で精霊術が使われているからだ。その繋がりによって御剣の言葉には様々な集団に対しての「力」が宿っている。

必ず、直接的にも間接的にも邪魔が入る。

生きていくためには金がいる。

今回のこの提案は御剣という障害をすり抜けるものになる可能性を十分に秘めている。

たとえ、彼女が予想した理由、家が嫌いだから戻りたくないという理由は間違いでも、ここは彼女の話に乗るほうが何かと上手くいくかもしれない。

そんな予感があった。

だが、一方でその可能性に見合うだけの危険性を秘めているのも事実。

魔科学は基本的には世の中に歓迎されていない。けしからんと考える人も多い。少なくともこの国の中では。

ということは、その研究にはアンダーグラウンドなアプローチが必要になる可能性もある。

また、もう1つの気がかりな点。それは時間だ。

御剣の家に戻らずに生きていく方法。それがほかにもあった場合、そのために費やすべきはずの時間を魔科学という眉唾な事柄に充てることになるのだ。

ルカはまだこちらを見つめている。にやにやといやらしく。

彼女は迷わないのだろうか。魔科学という存在を確信する証拠をつかんでいるのだろうか。

自分は彼女のようにはいかない。決定するための時間が必要だった。

「考える時間をくれ。」

「わかったわ。」

予想に反してあっさりと返答するルカ。まるで、その答えを予測していたかのようだ。

「即答を求めないのが意外? 私はうかつな人間より、慎重な人間のほうを評価しているの。良く考えてきなさい。もっとも。」

一拍、間を置いてから、

「私は、あなたがいくら時間をかけようがこの話に乗るしかないと確信してるけど。」

「そういうと、協力したくなくなってくるな。返答はいつまで待てる?」

「そうね、1週間くらい待ってあげたいけど。動くなら早い方がいいから・・・明日、またここに来なさい。」

「明日か、もう少し待ってもらえないのか?」

「待ってあげたいけど、こちらにも事情があってね、それについては明日話すわ。どうせサークルにも入って無いんだし、暇なんでしょ?」

それについては明日話す、か。もし俺が断っても話してくれるのか。いやそんなはずはない。どうやら彼女の中では、俺が断るという可能性は考慮されていないらしい。

考える期間としては少々短い気もするが、ダラダラと引き延ばすよりはいいだろう。

「わかった、明日だな。」

橘ルカ。

はたして、彼女の提案は天の救いか悪魔の誘いか。

顔に浮かべる表情だけ見れば後者なのは確実だ。


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