3話 混迷
蓮の運転するシルバーのレクサスは、駅まで来ると歩道に寄せて止まり、ユージを降ろした。美咲が助手席の窓を開けて、歩道に立つユージを見上げる。
「ユージ、御免ね、また今度ね」
ユージは、複雑な思いで笑顔を見せながらそれに答える。
「うん、また明日、学校で」
それから、蓮に向かって言った。
「お大事に」
蓮は、運転席からユージを見るとにっこりと笑う。
ユージは、走り去る車の後ろを見送った。
「ユージは一人で大丈夫かしら」
美咲は、遠くなっていくユージを見ながら言った。
「一人でいるはずないだろ?君か浩太が一緒じゃなければ、誰かが見ているはずだ」
美咲は、蓮の答えに、そういう意味じゃないんだけどと思いながら、見えなくなったユージを諦め、前を向く。
「やっぱり病院じゃない」
不機嫌そうに言う美咲を、蓮はちらっと見た。
「仕方が無いさ。宇宙開発技術機構だなんて物々しい会社前だけど、名前だけで、政府の管轄下だから正規の診断書がいるんだ」
蓮はそう言ってため息をつく。
「傷は思ったより深かったわね。21世紀初頭の治療だから縫うの?」
美咲は、ハンドルを握る蓮の手を見ながら言った。手に巻かれた包帯は、血で濡れていると言った方がいい状態だ。
「そこまでする必要はないと思うよ」
蓮はそう言うと、ハンドルを切る。前方に、総合病院が見えてきた。
「そうね。そこまでする必要はないわね」
美咲はそう言って、外の景色を見る。何の変哲の無い町並み。季節は秋になり、美しい紅葉は人を感動させると共に、寂しさも感じさせる。
「秋が深まっていくわね」
美咲がぽつんと言った。
ユージも、その秋の景色を、電車の中から見ていた。そして考える。
…自分は何をしようとしていたのだろう。美咲の家へ行っても、ただ美咲の兄の蓮さんが怪我をしただけだった。だけ、じゃない、怪我をしたのは良くない。そうだけど、なぜ怪我をしたのだろう。ああ、それは事故だった。美咲がぶつかったから。じゃあ、なんで、美咲はぶつかったんだ?大体、あのタイミングで蓮さんが家へ戻ってきたのは都合が良すぎやしないか?偶然? それとも? 美咲は、電車に乗る前に携帯電話を見ていたけれど、電話を掛けなかったし、メールを打っている風でもなかった。美咲は蓮さんに連絡したとは思えない。それに、「ファーストディ」そして「インプリンティング」とは、どういう意味だ?
そう考えながら、ユージは、うっすらと頭痛がするのを感じる。
ユージは、家へ戻ると自分の部屋へ行き、パソコンを開けた。
そして、「インプリンティング」を検索する。
『インプリンティング』
刷り込み、生まれたばかりの動物にみられる学習。
母親の胎内から出たばかりで、外の世界の情報が入っていない脳に、一瞬の出来事が印刷される。
「印刷される・・・」
ユージは言った。
…では、ファーストディとは?
ファーストディに問題が起こったって?
"The imprinting may not be complete."
蓮さんは、そう言ったような気がする。
インプリンティングが、コンプリートしていない?
刷り込みに失敗した?
"Misaki, bump into me."
突然、ユージは、蓮が怪我をする前に美咲に言った言葉を思い出した。
自分にぶつかれ? 蓮さんはそう言ったんだ!
あれは事故なんかじゃない、わざとだったんだ。
蓮さんは、自分を追い返すためにそんなことをしたんだろうか?
あんな怪我をしてまで?
そして美咲は、それに従った?
美咲は、自分に何かを隠している。
「ユージ、下に降りて来て!」
その時、階下から母親の呼ぶ声がした。
ユージが一階へ降りると、甘酸っぱい香りがあたりに漂っている。
「パイナップルを切ったから、一緒に食べましょう。手を洗ってらっしゃい」
母親の久子が台所から言った。
ユージは言われるがままに洗面所へ行くと手を洗い、タオルを取ろうとして反射的に右手を上げた。そこにタオルは無い。そして、左を見る。タオルがあるのは反対側だ。
「今朝もそうだった」とユージは思う。
左側のタオル賭けには、自分と両親それぞれの、きれいな色のタオルが掛かっている。右側にあるのは扉の付いた棚だ。
すべてのことが、まるでばらばらになったパズルのように、ユージの頭の中で散らばっている。そのパズルを繋げようとしても、上手く繋がらない。すると不意に懐かしい匂いに気づいた。甘酸っぱいパイナップルの匂い、気持ちを落ち着かせる快い良い匂いだ。
「いい匂いだね。このパイナップル、どうしたの?」
ユージは、キッチンのテーブルに着くと、自分用の小皿に盛られたパイナップルを口に放り込んだ。甘いジュースが口いっぱいに広がる。
「今日、恵子姉さんに貰ったのよ。ハワイ旅行のお土産ですって。もちろん植物権益証明書付きよ」
恵子姉さんとは久子の姉で、ユージの伯母だ。久子は、話し続ける。
「こんがりと日焼けしててね、これから日焼けケアが大変なんだって。まあ、こちらとしては羨ましい問題ではあるわよね。お父さんに言って、今度、私たちも行きましょうか。あ、ユージには、家族旅行だなんて恥ずかしいかしらね」
そう言って、久子は笑う。
「そうだよ、止めてくれよ」
ユージもそう答えながら、久子の笑い顔を見る。そして、「旅行もいいな」と思った。
ユージの中に、母親としての久子に対する違和感はない。
そしてその時、検索した「刷り込み」の記事の一つを思い出した。
『新生児覚醒状態』
生まれたばかりの赤ちゃんは、一時間ほど母親の顔を一心に見つめ、それから眠る。
その時の「刷り込み」によって赤ちゃんは安心感を得、その後の心身の発達に大きく寄与する。
「パイナップルって、収穫した時点で熟成は止まるんですって」
久子の声に、ユージは我に戻った。
「だから、お店で買う時も、いい匂いのする熟成したものを買った方がいいらしいわよ。新鮮なものは美味しいわね」
「おかあさん、洗面所のタオルはいつも左側だったっけ?」
ユージの唐突な質問に、久子は
「えっ? どうしたの? 洗面所は、あなたが幼稚園の時に引っ越して来てからそのままよ。あ、でもそうね、そろそろリフォームした方がいいかしら」
そう言って、また笑う。
久子は幸せそうだ。その微笑が、ユージを和ませる。一口大に切られた黄色い色をしたパイナップル。
テーブルを挟んで、母子でそれをつまんで食べる。こんな、ささやかな幸せがあってもいいのでは、と思ってしまう。
…自分は今、高校2年だ。進学するのなら、来年はもっと勉強しなければならない。一人っ子だし、きっと両親は進学を望むだろう。そして大学へ行き、就職して結婚し、このような家庭を築いて、それが普通の幸せなのかもしれない。それ以外に、何かあるのだろうか・・・
「そう言えば、さっき浩太君から電話があったわよ」
母親は、小さなパイナップルのキューブをポンと口にほおり込みながら言った。
「あなたが携帯に出ないんで、大丈夫かって。心配してたから電話したら?大体、着信音が聞こえたら、一応チェックをしてよね。お母さんだって、用事があって電話するかもしれないんだし」
それを聞いたユージは凍りついた。
…携帯? 携帯電話? 美咲も言っていた。あの、時々なる音は、着信音だったのか。何の音だろうと思っていた。自分は携帯電話の使い方を知らない?どう言うことだ?
ユージは、うっすらとあった頭痛が、さらに強まるのを感じた。