2話 記憶
ユージは、電車に揺られながら、変わっていく外の風景を見ていた。線路沿いの家々、家と線路の間の道、そこを走る車や自転車、そして歩く人。そこには人々の生活がある。その人たちの名は歴史に残ることなく、時間という線路の片隅に消えてしまう。それでも、人々の命は途切れることなく続いている。悲しいようで、それでいてしたたかだと思った。
時折、踏切警報機の音が近付いて来たかと思うと、すぐに通り過ぎていく。その音は煩いようでいて心地よい。遠い世界にいる様で、不思議なノスタルジーをかもしだす。
ユージは、その過ぎ去る音を聞きながら、電車の中に目をやった。そこには、美咲がいた。美咲もまた外を見ていた。その横顔の先にあるのは、遠くの、建物の間からチラチラと見える海だ。
ユージは、美咲と一緒の電車に乗っていた。自分の家へ帰る方向とは逆の電車だ。体が勝手に動いて美咲の後を追い、同じ電車に乗ってしまったのだ。ユージには、なぜ自分がそうしたのか分からない。ただ、そのまま家へ帰ることが出来ないでいた。
ユージは、自分が美咲を見ているのを、彼女は気付いているはずだと思う。それなのに、美咲はこちらを見ない。目も動かさない。それは彼を無視しているという風ではない。というより、そこには誰もいないかのように、自然に、ただ遠くの海を見ている。
ユージは頭の中で、美咲のことを整理しようとしていた。自分は、彼女を知っているはずだ。知っていると思う。夏には、浩太や友人たちも一緒に、美咲が今見ている海にも行った。ところが、それさえ現実にあった事とは思えない。記憶が不確かなのだ。どうして自分は、美咲のことを知らないと思ってしまうのだろうと混乱していた。
美咲は、自分を怒っているのだろうかと思ったりする。こうして、何も言わずに後を付けているのだから当然だと思ったりするが、これは後を付けるというより、一緒にいると言った方がいいのかもしれないと考える。
美咲は、それを嬉しがることも、嫌がることもしない。それがユージにとって、更にどうして良いのか分からなくなっていくようだった。
電車が止まると、ドアが開いた。美咲は、その駅のホームに降りる。そして、後ろを振り向き、ユージを見ると言った。
「うちへ来る?」
二人は、大きな家が立ち並ぶ住宅街の中を歩く。その先に美咲の家が見えてきた。
木々に囲まれた白い壁の家だ。ユージは、美咲の後から門をくぐり、階段を上り、玄関の鍵が開けられ、ドアが開くと中へ入る。吹き抜けの玄関は広く、上の方の窓から外の光が優しく落ちていた。
美咲は、ユージをリビングルームに案内すると言った。
「ここで座ってて。のどが渇いたでしょ。今、ジュースを持ってくるわね。」
そして、ダイニングルームのカウンターの向こうへ行き、冷蔵庫のドアを開ける。
ユージは、カバンをソファの横に置いた。そして、大きな窓の外を見る。住宅街なのに緑が多くて、自然の中にいるような気がする。
その時、玄関の開く音がした。ユージには、誰が入って来たのかくらい予想は付く。両親は外国へ行っている。あと、玄関の鍵を開けられるのは一人しかいない。
「あら、お兄さん、どうしたの? 早かったわね。」
美咲は、ダイニングルームへ入ってきた蓮に、グラスに入れたジュースを盆に乗せながら、カウンター越しに言った。
「書類を取りに戻っただけだ。」
蓮はそう答えながら、無愛想に「お前が呼んだんだろ?」という顔をした。
美咲は、にっこりと笑う。
そして蓮は、リビングルームにいるユージを見た。ユージは、蓮にペコッと頭を下げると口を開く。
「お邪魔してます。」
蓮は、表情を変えずに言った。
「ユージ君だったよね。美咲の学校の」
ユージは、それに答えず黙って蓮を見る。そして考える。「この人に会ったのはいつだったけ・・・」
蓮はキッチンへ行き、ジュースのグラスを盆に乗せている美咲に言った。
"Why is he here?"
ユージはそれを聞いて、あ、英語だ、と思った。そして、やっぱりね、とも思う。自分に聞かれたくないことは、英語で話すんだ。
"He followed me. What am I supposed to do? He may not be well, yet."
"I see. From the first day, we've had troubles."
ユージは、蓮の言った「ファーストディ」と言う音を捉える。そして、何となく、彼らの言っていることが分かるような気がしてきた。
"He also tried to answer the physics fluid dynamics question at school."
"I've heard that, too."
「流体力学の問題」それがどうしたと言うんだ? ともユージは思う。
別の言葉を理解するのは、訳すのとは違う脳の働きがある。どちらかと言うと、意味をなして聞こえてくると言う感覚だ。とは言え、この二人は、慣れた、かなり早いペースで話をしているので、ユージは上手く聞き取れない。それに英語が得意な方でもないので、ダイニングルームの向こう側で話している二人の声はよく聞き取れない。
"The imprinting may not be completed."
「インプリンティング?」
蓮が言った言葉を、ユージは思わず口にした。
蓮はそれを聞くと、美咲に言った。
"Misaki, bump into me."
"What?"
"Do as I say, immediately!"
美咲は盆を持ったまま、蓮にぶつかった。ジュースの入ったグラスが床へ落ち、蓮は、バランスを崩しカウンターに手をやる。そしてカウンターの上の花瓶に触れ、それが倒れて砕け、蓮の手を切った。
「お兄さん!」
美咲が叫んだ。ユージも急いでキッチンへ行く。ユージは何が起こったのか良く分からなかったけれど、美咲が蓮にぶつかったのだけは見ていた。
蓮は、右手で怪我をした左手を押さえる。蓮の指のあいだから血が流れ出て着ているシャツを染める。
「大丈夫だ。美咲、汚れた服を着替えるから手伝ってくれ。」
そして階段へ向かい、二階へ上がっていった。
「御免ねユージ。兄は時々英語で話すのよ。不愉快に思わなければいいけど」
美咲は床を拭きながら、すまないさそうに言った。
ユージはカウンターの上の破片を拾う。
「平気だよ。俺こそ、誰もいない美咲の家へ勝手に上がり込んだんだ。変に思われてもしかたないよ」
そしてカウンターの上を布巾でふく。
「とにかく、兄の様子を見てくるわね。あ、その間、テレビでも見てて。ユージの好きなお笑い番組をやっているわよ。」
美咲はそう言って、テレビを点け、チャンネルを変える。スクリーンに二人の漫才師が映り、にぎやかな声が聞こえてきた。そして美咲は、二階へと蓮の後を追った。
ユージは思う。「テレビ?」
美咲は、蓮の部屋のドアを閉めると言った。
「怪我までする必要があったの?」
蓮は、治療を終えガーゼを乗せた手を美咲に差し出す。
「さあ、その必要があったのかどうかは分からないけれど、同じ人間だって言いたかったのかな」
美咲は、蓮の手に包帯を巻きながら言った。
「それって、私は違うから?」
「そうだな…」
美咲は、蓮の顔を見る。 そしてため息をついた。
「まあ、いいわ」
そして、包帯を巻き終える。
「素直なんだな」
蓮が言った。
美咲はクローゼットからシャツを取り出し、振り返る。
「そう言う設定でしょ?それとも、設定を変える?ユージの様子も予定とちょっと違うし」
蓮は汚れたシャツを脱ぎ、美咲から受け取った新しいシャツの腕を通す。
「いや、まだ始まったばかりだ。それに、変化を繰り返すのは良くない。我々にとって、ユージはとても貴重な存在なんだ。とにかく今は、精神の安定より身体的な回復が優先されている。精神の安定は、君と浩太に任せてあるはずだ。」
美咲は、蓮のシャツの袖のボタンをはめながら言った。
「もし、ユージが知りたいって言ったら?」
「真実をか?」
「ええ、そうよ」
蓮は、今度は自分で、怪我をした左手の袖のボタンをはめる。
「それはユージ次第だ。その覚悟がユージにあるのなら、それでもかまわない。もちろん、こちらでコントロールするけどね。とにかく、それは君と浩太にまかせるよ。好きにしていい」
「そう、それなら気が楽だわ。蓮も、それを通ってきたのだしね。」
そして美咲は、床のシャツを取ると言った。
「ああ、そうだわ。ユージが英語を理解できるなんてどういうこと?あなたは以前にユージに会っているけれど、私が彼に会うのは今日が始めてなのよ、ちゃんと教えてよね。」
「俺も知らなかったんだ。ユージが救出された時、すでに意識はなかったから、どんな記憶があるのかは、はっきり分からない。出来るだけ用心して新しい情報をインプリンティング、刷り込んでいるけどね。とにかく、自然体での完全な日本人のDNAを持っている男子は珍しいんだ。だから手探りの状態だし、しばらく観察して、後で対処するらしい。それに、以前の記憶は潜在意識の奥深くに残してあるから、必要な時に取り出せるようにもしてあるはずだ」
「と言うことは、不完全な今は、その記憶が時々顔を出すかもしれないってわけね」
「そういうことさ。脳は、断片的な情報の穴を埋めるため、何かを入れようとするところがある。もしかしたら、それで何かを思い出したりするかもしれないけれど、混乱もあるはずだ」
美咲はため息をついた。
「結構、難しいじゃない」
蓮は、苦笑いする。
「大丈夫、君ならできるよ。だが、あまり、こちらをはらはらさせるようなことはしないでくれよ。この前の事件でも言われただろう」
美咲は、蓮を見るとふふふっと笑った。
「だから、あなたは私をパートナーに選んでくれたのでしょう。あなたは難しい事件ばっかり受けるんですもの。それに、最後にはすべて上手くいったじゃない」
「そうだね、結果は予想以上に良かったが、とにかく、ユージをここに連れてくるのは、これで最後にして欲しいものだね」
「分かってるわ。ここはあなたの家で、私の部屋なんて無いから困るのよ」
美咲は首をすくめながら言った。
「もし、ユージの精神が安定するのに時間が掛かるようだったら、君の部屋も作るよ。それから両親にも帰ってきてもらうことにする」
「あ、それはいいかも」美咲は笑う。
「私、そう言うの好きよ。美咲の暖かい家族って設定はどう?」
蓮は美咲を見ると、一瞬呆れ顔をしたが笑顔で答えた。
「ユージにも、それが必要なんだ」