留守番
毎晩、娘が階段の上から僕を呼ぶ。
「パパ」
時計を見ると、決まって午前一時三十分。
最初の頃は普通に返事をしていた。仕事で帰りが遅くなることも多かったし、寂しくなって起きてくるのだと思っていた。
でも、ある日気づいた。
娘はもう、この家にいない。
半年前、妻と別れてから、娘は妻の実家で暮らしている。引っ越しの日、泣きながら手を振る姿を、はっきり覚えている。
なのに、声だけが残っている。
「パパ」
階段を見上げると、暗闇しかない。
怖さより先に、胸が締めつけられた。
疲れているんだ、と自分に言い聞かせた。幻聴だ。ストレスだ。そういうことにして、酒の量を増やした。
それでも声は消えなかった。
ある夜、意を決して二階に上がった。
娘の部屋は、引っ越した日のまま。カーテンも机も、小さなベッドもそのまま残してある。ぬいぐるみだけが、きれいに並んでいた。
クローゼットを開けた瞬間、スマホが震えた。
元妻からのメッセージ。
明日そっちに行くね。
娘も一緒。久しぶりだから楽しみにしてる。
その時、背後で小さな足音がした。
振り返ると、廊下の奥に娘が立っていた。
パジャマ姿で、笑っている。
「パパ、まだ?」
心臓が凍りついた。
じゃあ、ここにいるこの子は何なんだ。
声が出なかった。
娘は首をかしげた。
「だってパパが言ったじゃん」
一歩、近づいてくる。
「ママはいらないって」
その瞬間、思い出した。
別れ際、感情的になって吐き捨てた言葉。
——お前たちなんかいなくても生きていける。
娘の笑顔が、ゆっくり歪んだ。
「だから私、残ってあげたよ」
背後で、玄関の鍵が開く音がした。
現実の娘と、妻が帰ってきたのだ。
目の前の“娘”は、安心したように微笑む。
「よかった。これで交代できるね」
次の瞬間、視界が暗転した。




