第2話
「ナナシ! さっさと仕事をしろ!」
翌朝、馬の世話をしている時に、使用人が怒鳴り込んできた。厩の入り口を見ると、若い男の使用人が立っている。
「……何をすればいいでしょうか」
「皿洗いと洗濯と馬の世話をしろと昨日言っただろう! 覚えていないのか、このクズが!」
言われた記憶はないが、彼が言ったというならそれが事実となる。わたしの記憶も言葉も、何の価値も持たない。
「申し訳ありません。すぐに取り掛かります」
「早くしろ!」
吐き捨てて、使用人は厩を去った。わたしはぼんやりその後ろ姿を眺めてから、馬の世話を再開した。
厩番がいないわけではない。屈強な騎士団がある伯爵家の馬ともなればかなりの数を有しており、厩番は何人かいたのだが、数年前に始まった戦争で騎士団と共に出征したため、当時幼かったり、病気だった馬しか残っておらず、2人の厩番を残すだけとなった。が、2人の厩番のうちひとりが実家で不幸が起こったとかで一時帰省し、折悪くもうひとりが病に罹ったため、厩番が帰省から帰ってくるまでは馬の世話をするのはわたしの役回りとなった。使用人は誰も、進んで馬の世話をしようとしなかったのである。
が、わたしが馬の世話を素早くこなせるかと言ったら無理な話で、わたしはもたつきながらゆっくりと馬の世話をした。藁を運び、餌を与えている途中で、使用人が再び怒鳴り込んできた。
「ナナシ、まだか!」
「掃除が終わりましたら、すぐに」
「この愚図が! 馬の世話くらい、さっさとしないか!」
使用人が大きく手を振りかぶった。藁を持っていたわたしは、バランスを崩してよろめく。藁が舞い、使用人の手が空を切った。
拍子抜けしたのか、使用人は忌々しげにわたしを睨み付けると、踵を返した。
「……チッ! 早くしろよ!」
「申し訳ありません」
既に日は高く昇っていた。わたしは可能な限り急いで厩を掃除すると、小走りで邸に戻った。
洗濯物が高く山をなしていた。全て干してこいと言われたので、少女は屋根に登って洗濯物を干し始めた。平らな屋根は、外から見えにくいように工夫された場所にある。
少女は五回往復して洗濯物を運ぶと、一枚一枚干し始めた。住み込み使用人の服全てともなると、その量は膨大だ。物干し竿に手が届くように台をいちいち置かなくてはいかないから、それもまた面倒である。少女が全て洗濯物を干し終わった頃には、太陽は中天を過ぎていた。
少女は安堵して、手摺によじ登った。この地域では最も高く大きな邸、その屋根から見える景色は、少女の心を踊らせた。
高く澄んだ空。広々とした庭園は色とりどりの花で満たされ、遠くには民家が見える。
少女は物を眺めるのが好きだった。
物言わぬ物は、少女を慰めはしないが、傷付けることもないから。
とりわけここから見る景色は、少女お気に入りのものだった。景色を見ながら、あれは撫子色、とか、あれは夕焼け空の色、とか、そんなくだらないことを考えるのも好きだった。
少女は暫く景色を眺めていたが、扉が開く音を聞いてパッと手摺から飛び退いた。すぐさま台を抱えると、扉を開けてやってきた使用人が口を曲げた。
「終わったか」
「はい」
「ちょうどいい、皿が溜まっているからそれを洗え」
「はい」
少女は頷いて、台を戻しに向かった。
皿洗いを終えると、日が暮れかけていた。洗濯物を取り込みに、少女は急いで屋根へ登った。洗濯物を回収するのは、干すよりも簡単だ。畳むのは後でやればいいので、ひとまず籠の中に放り込んでいく。夜の景色も見たかったが、洗濯物は使用人たちの生命線とも言える。早くしないと怒鳴られるどころの騒ぎではない。残念に思いながらも物干し竿を片付けて邸の中に戻れば、何やら使用人たちが浮き足立っていた。何事だろう、と思うが、聞いたところで答えてくれるとは思わないので、黙って洗濯物を運んだ。
「ーねえ、うちのお父さん、賞金もらえるかもしれないんだって」
「ちょっと、この子のお父さん出征して亡くなってんのよ。騒ぎ立てないでよ」
「そうは言ったって、伯爵様も爵位が上がるんでしょ? 戦勝に貢献した英雄だもの」
噂話をまとめると、どうやら戦争に勝ったらしい。この邸の主人が「英雄」だから浮かれているのか。
少女はあったことのない「伯爵様」のことを思う。
魔法師団第二隊の隊長で、西の戦争に出征されている方。西の戦争は少女が生まれる前から始まった戦争なので、面識はない。ついでに言うと、療養中の奥様とも、学園に通っていらっしゃる一の若様と一のお嬢様とも、面識はない。
上機嫌なお嬢様がいたぶってくるかと思いきや、何もなかった。逆に不気味だ。
使用人たちは、誰が凱旋式の付き添いで行くかでもめている。王都でたまのこしというものを狙うらしい。一方の居残り組は主人の不在ともなれば、多少羽目を外してもバレはしない。厳しい執事長に咎められはするだろうが、それだけだ。真面目な使用人は変わらず勤めるだろうが、サボりがちな使用人などは正しく天国のような時を過ごすだろう。万が一やらかしたとしても、この邸には|責任を押し付ける都合のいい人物《少女》がいる。彼らが何かやらかしたところで、子供に押しつけられることであれば彼らに罰は与えられない。
一週間食事抜きの上で川に投げ込まれなければいいが、と少女は思った。
あの時生きていたのは、ひとえに親切な使用人が助けてくれただが……影に日向に少女を庇ってくれたあの女使用人は一年前に姿を消したから、今あの罰を受けたら生きていられる自信がない。
ーまぁ、死んだところで何の問題もありはしないけれど。
逆に喜ばれるだろうか。魔力なしが死ぬことに。
或いは、落胆されるだろうか。当たり散らす先がなくなったしまったことに。
ーどちらにせよ、碌なものではないが。
少女はそう考えて、洗濯物の入った籠を抱き直した。