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第1話

冷たい氷水が降ってきた。わたしがその冷たさに目を覚ますと、氷水を被った馬が嘶き、その蹄が起き抜けのわたしの顔の側を通った。恐怖を感じるような場面だが、何度も経験しているからか何も思わなかった。ずぶ濡れのまま、上を振り仰ぐ。


「若様、なにかごようでしょうか」

「別に何も。やってこいって姉さんに言われただけ」


近づいてきたのは、わたしが仕えるこの邸の主人のひとりである、二の若様だった。


「姉さんがお前のこと呼んでた」


つまらなそうにそう言って去っていく若様を見送ってから、わたしは立ち上がった。氷水をかけられた直後、それも雪の積もった外はとても寒かったが、躊躇うことなく服を脱ぎ、十分に絞ってからまたそれを着た。


「おどろかせてごめんなさい」


二次被害に遭った馬に謝罪して、わたしは厩を出た。いつものように空を振り仰げば、青い空にちらほらと白い雲が浮かんでいた。





邸の中を歩くと、自然と他の使用人とすれ違う。濡れているわたしを見て顔を顰める者、見なかったことにする者、或いはー今のように、足を引っ掛けるなどして嫌がらせをする者と、使用人も多種多様である。


「あーあ、絨毯が濡れちゃったわぁ」


地面と挨拶したわたしを見て、女使用人はクスクスと笑った。わたしは無言で立ち上がると、顔を伏せて言った。


「すぐにかわかしますので、おゆるしください」

「あらぁ、お嬢様に呼ばれてるんじゃあないの? そんなことをしている場合?」

「わたしのふしまつですので、お気になさらず」

「そぉ? じゃあ失礼するわねぇー」


とはいっても、わたしができることは、せいぜい乾いた雑巾で絨毯を叩くことくらいである。それが終われば、もうわたしにできることはない。

わたしは立ち上がると、早足でお嬢様の部屋に向かった。




この邸におけるお嬢様とは、二のお嬢様のことを指す。一のお嬢様は一の若様同様、首都の学園に通っておられるため、この邸には帰って来られないのだ。そしてわたしは、お嬢様の機嫌次第でお嬢様の側仕えをしたり、皿洗いをしたり、仕事が定まっていなかった。


「およびでしょうか、お嬢様」

「入りなさい」


歌うような声音と共に、内側から扉が開けられた。同時に、熱湯が降ってくる。氷水で冷えた体は急な熱に悲鳴を上げたが、顔色は一切変わらなかった。熱いとは思ったが、すぐにその感覚も薄れた。

慣れてしまったのだ。

 

「あら、声も表情も出さなくなってきたわね。つまらないこと。そろそろやり方を変えたほうがいいかしら?」


何の反応も示さないわたしを見ながら、お嬢様は首を傾げた。焦茶色の巻き毛が揺れる。わたしが黙っていると、興味を失ったかのように視線を逸らした。


「まぁいいわ。入りなさい」

「かしこまりました」


わたしは首を垂れた。頭に被った熱湯が、ポタリと落ちて絨毯にシミを作った。




わたしは部屋の隅に控えて、目を閉じていた。他の執事や侍女は、お嬢様の指示に応じて茶や菓子を給仕したり、服を変えたりするが、少女は何も命じられることはない。まだ幼く、満足な給仕が出来ないからだ。茶器を運ばせればその重さに耐えきれずに盆ごと落とし、服を着せる手伝いに回せばば背丈が足りず役に立たない。運が悪ければお嬢様に害を及ぼす可能性があるので、お嬢様の悋気を恐れた他の使用人によって、それらは回避されていた。


「ー何を見ているの、ゴミ!」


罵倒と共に、皿が一枚飛んできた。皿は、載っていた菓子をぐちゃぐちゃにして、わたしに届かず墜落する。

以前お嬢様を見ていると誤解された時は、直に額で皿を割られたが、今度は何を見ていたと誤解されたのだろう。こういうことが起きないようにするために、いつも目を閉じているのに。


「何も見ておりません、お嬢様」

「嘘おっしゃい!」


怒りも顕に近付いてきたお嬢様は、わたしの濡れた頬を打った。


「何も見るなと言ったはずよ」

「申し訳ありません、お嬢様」


顔色を変えずに謝罪するわたしを、お嬢様は憎らしげに睨み付けていたが、少しして自分の椅子に戻っていった。

わたしは赤くなった頬を押さえることもせず、ただ立っていた。

目を閉じて、何も見ない。

ただの物になる。


それが一番生きやすい道なのだと、わたしは既に割り切っていた。




昼餉の時間になると、お嬢様はわたしを含めた数人の侍従を連れて食堂に向かった。食堂には、既に若様が到着していた。


「早いわね、ポール」

「そう」


いつでも若様は、すべてに興味がない。


「本日の前菜は、アボガドのマリネでございます」

「ナナシ」


柔らかい声で、お嬢様がわたしを呼んだ。わたしは返事をして、お嬢様のそばに寄る。わたしは、お嬢様が次にとる行動を知っていた。


「これはお前にあげるわ。ひと欠片も残さずにお食べなさい」


お嬢様は、言うや否や、前菜の器をひっくり返した。その上で、お嬢様は床にぶちまけられた具材を踏み潰す。普段は厳しい執事長も、この時ばかりは何も言わない。


「主人からの褒美よ。手を使わずにお食べなさい?」

「……ありがたく、いただきます」


少女はそう言うと、蛙のように地面に這いつくばって、踏みつけられた野菜を食べた。這いつくばる少女の背に、お嬢様はピンヒールをめり込ませた。一瞬痛い、と感じるが、すぐにそれも霧散する。

このやり方も、散々慣れている。


「……」

「あら、これも効果なし? つまらないわねぇ。まぁいいわ、お前は蛙のように惨めに這いつくばっていればいいのよ」


お嬢様の笑い声を背後に、少女はひたすらに踏みつけられた野菜を食べていた。

蛙と言われようが、使用人に嘲笑われようが、少女にとっては3日ぶりとなる食事である。どんな形であっても胃に入れておきたかった。


「ーこんなのあんまりです!」


そこに、ひとりの女使用人が飛び出してきた。新人なのだろう、優しい手つき少女の体を起こさせると、お嬢様を見据えた。お嬢様は目を細める。


「お嬢様、彼女をいたぶるのはおやめください。まだこんなに小さいのに、可哀想です!」


女使用人は果敢にも声を張り上げたが、少女はそれが無駄に終わることを誰よりもよく知っていた。


「お前は何様? あたくしはお父様やお母様不在のこの邸において、使用人をいつでもクビにできる主人なのよ? 主人のやり方に口を挟むつもり?」

「っ、ですが、まだ5歳くらいの子に対する仕打ちとしては、あまりにも……!」

「仕打ち? それ(・・)はあたくしたちに返しても返しきれない恩があるのよ? その上、こうしてあたくしが構ってやっているのだから、感謝してもし足りないわね」

「なっ……お嬢様、構っていると仰いますが、この子に対する扱いは家畜に対する扱いと同等じゃありませんか!」

「当たり前でしょう? |それ《・・』の存在価値は家畜以下なのだから」

「……! 家畜以下の人間なんて、そんなこと」

それ(・・)は魔力なしよ。あたくしが面倒をみてやらなければ、今頃殺されていたのであろう魔力なし。それでもお前は、それ(・・)に家畜以上の価値があると言えて?」


自分の肩を抱いていた女使用人の瞳が、驚愕に見開かれていくのを少女は見た。やがてその手が離され、眼差しは、哀れみから、嫌悪と侮蔑に満ちたものに変わっていく。

ー知っている。

かつて少女が魔力なしと知っていても助けてくれた使用人がいた。けれどその人は結婚して邸宅を去った。


「……そうだったのですね。出過ぎたことを申しました。お嬢様の寛大さに気付かず、差し出がましいことを申してしまったこと、どうかお許しください」

「許すわ。あたくし、今とっても気分がいいから」


ねぇ、ナナシ?


そう言うお嬢様の顔には、確かに嗤いが浮かんでいた。

女使用人はもう一度礼を言うと、元いた場所に戻っていった。少女は顔を伏せる。


「さぁ、ナナシ。まだまだサラダは残っているわよ」

「ーはい、お嬢様」


少女は再び地面に這いつくばった。

その様子は、まるで少女の人生を表しているかのようだった。




魔力なし。

それは、誰もが神からの祝福として、誕生と共に与えられるはずの魔力を持たない者たちのこと。生まれながら神に罰を与えられた罪人として、その多くは誕生から程なくして殺されるが、ごく稀に、権力者の奴隷としていたぶられるため、或いは遊ばれるために生かされる者がいた。わたしも恐らくその類で、物心ついた時にはこの邸で働いていたというわけである。


だからわたしは、歯向かわないし、逆らわない。


わたしが異端で、お嬢様たちが正しいこの世界では、逆らったところで意味などないから。


ー少女は既に、誰かの奴隷にならずに生きることを諦めていた。







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