婚約者を寝取られたので、領地に引き籠りました。
彼の名はバーブル・フェルトという。
サクラカンド王国に仕える騎士である。
武勇の誉れ高く、これまで数多の戦で功績を挙げてきた。いずれ栄えある王立騎士団の幹部の座に上るだろうと目される、若手の星とも言うべき存在だった。
年の頃は二十三。
そんな彼には将来を誓い合った女性がいた。
彼女の名はアンナ・ヘイワード。年の頃は二十。
下級貴族の娘だが、絶世の美貌の持ち主と評され、実際彼女を狙っている男は多かった。しかし、幼友達であるバーブルには敵わなかったのだ。バーブルとアンナが婚約した事が知れ渡った時、密かに涙した者は多かったという。しかし将来を嘱望された騎士バーブルが相手では文句を言う事も出来ず、あるいは多くの祝福の声にかき消されて、何か問題が生じるような事はなかった。
バーブルは幸せを謳歌していた。
そんなある時、バーブルの下に招集命令がかかった。
王国に仕える騎士たる者、王命による招集には応じなければならない。
王命に曰く、隣国ハスラードが攻め込んできたので、防衛の為に出陣するのだと言う。国の危機と言う事であれば、なおのこと従わぬわけにはいかなかった。
「なあに、一ヶ月もすれば戦いは終わるし、終わってしまえばすぐに帰ってこれるさ」
心配げなアンナに対して、バーブルは事も無げに言った。
「それに今回の戦に勝ってハスラードを撃退できれば、しばらくは戦もなくなるよ。そうなれば、俺達も落ち着いて新婚生活を楽しめるというわけだ」
そう言いながら、バーブルはアンナを抱き寄せようとした。
「もう」
顔を赤らめながら、アンナは抵抗する。
甘噛みにも似た可愛らしい抵抗が、よりいっそう男の劣情を煽った。
「まあ、なんだな。この戦から帰ってきたら、正式に結婚式を挙げよう。褒美も貰えるだろうから、その金で盛大な結婚式を開くんだ」
男は昂る想いを強引に抑え込みながら、努めて淡々とそんな事を言った。女の方は、嬉しさを隠そうともせずに、昂りをそのまま形にしたような声で「はい!」と答えた。
次の日、バーブルは出陣した。
この時、彼は弟のハルンに留守を任せ、ついでに婚約者アンナの事も託しておいた。武勇こそ自分に劣るとはいえ、何かにつけて気が利いて、女の扱いにも長けたハルンであれば、アンナを危険に晒す事はないだろうし、不自由にもさせないだろうと思ったのだ。バーブルは弟に全幅の信頼を寄せていた。
バーブルは一ヶ月もあれば戦いは終わると思っていた。
実際、サクラカンド軍は精鋭で名高き王立騎士団を中心に三万の兵を擁し、また防衛戦だけに地の利もある。一方、ハスラード軍は数こそ十万と多くともその大半は庶民を糾合して編成した寄せ集めの雑軍に過ぎず、かつ遠征軍だけに地の利も欠くし、物資の供給とてままならないとみられていた。その辺りの弱点を突けば、決して勝てない相手ではないし、長期戦に陥る事もないと踏んでいたのだ。
だが蓋を開けてみると、ハスラード軍はなかなかに手強く、というより強く、精強無敵という看板に驕り切っていたサクラカンド軍を返り討ちにしてしまったのだ。それでもサクラカンド軍は態勢を立て直し、国境沿いの防衛拠点たるエルミラ要塞に拠りながらハスラード軍に立ち向かった。
サクラカンド軍が態勢を立て直し得たのは、バーブルの貢献が大きい。
彼は自ら兵達を叱咤し、時に自ら先頭に立って敵と戦って見せる事で、混乱状態の兵達を何とか収拾してエルミラ要塞に逃げ込む事に成功したのだ。エルミラ要塞においても実際の戦闘指揮は彼が担った。王やその側近の将軍達は悉く逃げ出しており、結果としてエルミラ要塞には彼より上位の軍幹部が少なかったからである。
戦いは一年に渡って続いた。
結局、ハスラード軍はエルミラを攻略しきれず、逆に物資切れに陥って撤退せざるを得なくなった。
辛うじて勝利を収めたバーブルは、救国の英雄として王都エンリルに凱旋を果たした。
万民が彼に拍手喝采を送り、謁見した国王も領地を与え、男爵の位を授けて、貴族に叙すなどして、その功績に報いた。
彼は得意満面の絶頂にあった。
後は、自分を出迎えてくれているはずのアンナの下に帰って、再会を祝し、盛大なる結婚式を挙げれば、万事めでたしめでたし。……そのはずであった。
家に戻ってみると、アンナは確かにいた。
だが彼女の腕の中には、生まれて間もないと思しき赤子が収まっていた。
「だ、誰の子だ?」
思わず問うた彼に、答えがしたり顔でやってきた。
「おや、兄者。無事に帰還したとは聞いていたが、本当に無事だったんだな」
それは弟のハルンだった。
「ああ、その子は俺の子だよ。可愛いだろう。兄者から見れば甥っ子に当たるのかな」
「……」
ハルンは少しも悪びれない。
どころか甥っ子が出来て嬉しいだろうとでも言いたげなのである。
「ど、どうして」
その疑問に対して、アンナは何も答えなかった。
代わりにハルンが滔々と答えた。
「どうしてって、俺は昔からアンナの事が好きだったのさ。だから兄者が出てってからすぐに告白して結婚した。そして子供が出来た。それだけの事だよ。ああ、安心してくれ。この結婚は王様の許可も得ているんだ。王様は、兄者が生きて帰る事はあり得ないから、代わりに幸せにしてやってほしいと仰っていた。実に偉大なる王様だと思わないかい。兄者の婚約者の事にまで思いを馳せておられたのだ。仕えるに値する名君と言うべきだな」
ハハハと笑うハルンを、バーブルは無言で睨みつけていた。というより、猛る気持ちを抑えつける事に忙しくて、言葉など発している余裕がなかったと言うべきか。そうでもしなければ、今頃バーブルの鍛え上げた鉄拳は弟の顔面をぶち抜き、叩き割っていた事だろう。
「ああ、兄者。まさか無事に帰ってくるとは思っていなかったが、帰ってこれたんだし、兄者も結婚ぐらいはするべきだ。いいもんだぞ。結婚というものは」
こいつはそんなに喧嘩を売りたいのだろうかとバーブルは思った。
自重させている拳が今にも理性の壁を飛び越えて暴走してしまいそうであった。
「そこでだ。アンナの妹のエレナが空いているんだ。兄者の妻として迎えてみたらどうだ?」
「……」
人を馬鹿にするのも大概にしろ、とバーブルは思った。
アンナを奪ったから、代わりに妹を与えると言ってのける弟の厚顔無恥さに、彼は怒りよりも呆れの方が先に立ったのだ。もちろんエレナの事は知っている。姉譲りの美貌だが、性格的に根暗で内気なので、家族からも腫れ物の如く扱われて、白眼視されていたという……。アンナと結婚したら、エレナの事も面倒を見てやるつもりであったが、まさか姉の代償として厄介払いの如く押し付けられるとは。
やはりこの男はぶん殴っておくべきだろうか。
本当ならそうしたいが、傍にはアンナがいるし、その腕の中には赤子もいる。いつの間にか家の周りに群がっている野次馬の事も思えば、ここで手を出すのは得策とは言い難かった。それに弟なのだ。腐っても弟。殴り殺すのは本意ではなかった。
天を仰ぎ、何度も深呼吸して気を落ち着けると、バーブルは懸命に笑顔を作って、
「そうか。確かにありがたい話だ。お前も良く留守を守ってくれた。……妻に代わり礼を言う」
幾重にも理性の皮を纏わせた言葉を吐くに留めておいた。
ハルンもそれ以上は特に何も言わなかったので、バーブルは強引に押し付けられたエレナだけを伴って、ほとんど逃げるように自分の家から立ち去った。
◇◆◇◆
数日後。
失意のバーブルは、領地として与えられたサルード領にやってきた。
バーブルとて何もなさず、ただ逃げるように領地を訪ねるのは本意ではなかった。しかし、今更二人の結婚の無効を訴えたところで、そもそも国王が認可している以上、覆るはずがないし、仮に覆ったところでアンナが自分の下に帰ってくるわけでもなく、更に彼らの子供の事を思うと、強引に両親の仲を引き裂く事も躊躇われたのである。こうなっては、アンナとの事は最初からなかった事と諦めて、心機一転の意味も込めて領地に逃げ込むしかなかったのだ。
その領地は、今回の戦功により与えられた新天地である。
今まで足を踏み入れた事はおろか、聞いた事すらない土地だった。
だが、それが逆によかったのかもしれない。
右も左もわからない土地は、心機一転やり直すには絶好の場所のように思われたからだ。
サルード城に入った彼は、他にやる事もないので、政務と鍛錬に明け暮れた。気晴らしと言えば、夜に浴びるように酒を飲むか、城下に出向いて民衆相手に賭け事や喧嘩に興じるぐらいであった。領主自ら数多の禁制を犯していく姿には、領民も呆れずにはいられなかったが、それ以上に親近感を抱く者も多く、新米の領主たるバーブルは瞬く間に領内に溶け込んでいった。
バーブルは悪夢から目を背けたい一心で政務に打ち込んだ。その結果として、サルード領はみるみる発展し、僅か一年でこの地方――西部――の中心的な集落の一つと目されるまでに至った。発展は更なる発展を呼び、発展は富を生み出し、富もまた富を生むに至って、バーブルの富強ぶりは王国中に知れ渡るほどになった。
バーブルに妻がいない事は、王国中の人々が知っていた。
一応、彼の傍らにはエレナがいて、事実上の妻と目されているものの、正式に婚約したわけでも結婚したわけでもない。
バーブルは結婚というものにある種の恐怖を抱くようになっていた。結婚を求めれば裏切られる。そう思い込むようになっていたのだ。だから常に一緒にいるエレナに対してはいろいろ思うところはあるが、あえて結婚の話は口にしなかった。彼女の方から持ち掛けられたら、その時に考えようと思っていたという事もある。
何にしても、この曖昧な関係は、思いのほか心地よかった。
いずれ白黒はっきりさせなければいけないとしても、今のところは、この微妙な幸せを噛み締めておこう。
この時期、バーブル・フェルトは順風満帆であった。
そんなある日の事だった。
王都から珍客がやってきた。
曰く、子連れの若い女性であるという。報告に基づく身なりや雰囲気から、ある程度答えは察する事が出来たが、実際に対面を果たした時、バーブルは驚くと言うより困惑し、更には呆れてしまった。
「アンナ。どうしたのだ」
今更、自分を裏切って弟に走った、かつての婚約者に対する怒りなどない。
一年の時が、彼の心を癒したのだ。
「バーブル様。主人からの書状です」
そう言って彼女が懐から取り出したのは、確かに一枚の書状であった。
小姓を経由して受け取り、ちらちらと文面に視線を落としたバーブルが発した第一声は、「はぁ?」という素っ頓狂な声であった。
「俺にお前をくれるというのか?」
「……」
アンナは黙っている。
「代わりにカネを寄越せと言うのか」
書状によると、ハルンは身の程知らずにも事業に手を出し、まんまと失敗して多額の借金を作ってしまったのだという。そこで領地経営に成功して富強になった兄に資金援助を求めたというわけである。だがタダで求める事はさすがに気が引けたので、かつて自分が奪った想い人を返すと言い出したのだ。
「……お前はそれでいいのか?」
バーブルの問いは至極尤もなものであった。
アンナはしばらく困ったような顔をしていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「もうあの人と一緒にいたくはありません。少しでも気に入らない事あれば、すぐ暴力を振るいます。私一人であれば耐えられますが、この子にまで危害が及ぶ事を考えると、もう……」
耐えられませんという言葉を吐き出す前に嗚咽してしまったアンナに、バーブルは示すべき反応に困ってしまった。今更何言ってんだと怒るべきか。それは大変だったなと同情するべきか。
そのどちらも、バーブルは選びたくなかった。というよりこんなバカバカしい話に関わりたくないと言うのが、今の彼の偽らざる本心であった。
「ならば離縁すればいい。俺は別に反対しない。だが、お前と結婚する事はできん。既に先約がいるんでね」
そう言って、バーブルは傍らに控えていたエレナを招き寄せた。エレナもまた、姉の厚顔無恥すぎる願いには呆れていたようだが、その一方でバーブルがどう対応するのか不安にも駆られていたようで、歩み寄ってきた彼女の身体は天敵に睨まれた小動物の如くプルプルと震えていた。
「で、でも、エレナは、貴方には相応しく……」
相応しくないと言いたかったのだろうが、全て言い切る事が出来なかったのは、バーブルの鋭い視線が彼女の全身を貫いたからである。
「相応しくないか。だが、エレナが我が妻として相応しいと太鼓判を押したのはお前達ではなかったか?」
彼女が口に出来なかった言葉を、バーブルが代わりに冷然と突き返す。
「た、確かにそうですが、エレナは不愛想で、無口で、気も利かず、くだらない女です」
姉の口から飛び出す、あらん限りの罵声に、エレナは当然の如く悲しげな顔を浮かべている。しかし馴れているのだろう。特に動じているような様子はなかった。
むしろ感情を揺さぶられたのは、バーブルの方だった。罵声を浴びる事に馴れているという事は、幼い頃から罵声を浴び続けてきたという事だろう。エレナが実家にて酷い扱いを受けてきたという事は知っていたが、虐めの主体は父母であって、姉のアンナはむしろ庇う側であったと聞いてきた。だが、今の彼女の口ぶりや、エレナの反応からすると、アンナもまた虐めに加担していたのだ……。
バーブルは思わず天を仰いだ。
こんな性根の腐った女と結婚しようと思っていた自分の不明ぶりが恥ずかしくなったのだ。それと同時に、結婚せずに済んだ事を神に感謝したい気持ちにもなった。
「なるほど。そのくだらない女を貴様らは俺に薦めたと言うわけか」
「そ、それは……」
「案ずるな。俺は別にエレナの事を下らない女とは思っていない。無口だが、気は利くし、俺には勿体ないぐらいの女だ。少なくとも妹の事を悪しざまに罵るお前と結婚するよりは遥かにマシだろう。お前は、あの馬鹿な弟とお似合いだよ。弟に伝えろ。お前に渡すカネなどない。自分のケツは自分で拭け。拭き切れないなら、どこぞで野垂れ死ね。
何にしても、俺を裏切って婚約者を奪った時点でお前との縁は切れているし、俺の妻を罵った時点でお前の妻との縁も切れている。無縁な夫婦の為に手を貸すお人よしなど、この世には存在しない」
ひとしきり言うべき事を言い終えると、バーブルはすくっと立ち上がり、傍に控えていた小姓や衛兵達に対して、この女を摘み出すように命じた。
その言葉通り、城の外に摘み出されたアンナは、渡されたなけなしの旅費と共に、とぼとぼと王都へと帰っていく。彼女にとって唯一の救いは、幼い我が子だけはバーブルが引き取ってくれたことだった。
その後。
バーブル・フェルトとエレナ・ヘイワードは、サルード城にて結婚式を挙げた。
国王が派遣した勅使や有力貴族らが列席する盛大な式典を経て、二人は正式に夫婦となった。結婚式には新郎新婦の知人縁者が悉く招かれたが、唯一、弟夫婦だけには招待状は送られなかった。弟は、借金を棒引きにする代償として騎士としての地位や屋敷や財産も失って庶民に堕ちていたので、王侯貴族が集まる式典に参加する資格を持ってはいなかったのだ。
しかし、ある者はハルンやアンナと思しき人影を見たと言う。
その男女は乞食のようなみすぼらしい形をして受付に現れ、担当者に「俺は新郎の弟だ」「私は新婦の姉よ」と喚いたというが、直ちに摘み出されたのだとか。せめて食事だけでもと懸命に追いすがるので、憐れんだ参加者の一人が残飯を与えると、嬉し気にその場から立ち去ったとの事だった。
お読みいただきありがとうございます。
連載版もありますので、そちらもどうぞ。