エリーゼ姫
エリーゼ姫
烏王エリーゼ姫との脱演劇
観光立国で「辻澤琴音」役として生きろ……
烏王は夏の路地裏からやってきたような笑顔で私の手を引いた。
わたしは品評会のためのメイクの途中だったが立ち上がざるを得なかった。天井の監視カメラに向かってわたしの意思ではない事を口の動きでアピールするしかない。
スーツを着た烏王はすらっとした脚を翻し、ズカズカと窓の方へ歩く。わたしはそれに引っ張られる。
烏王の右手の魔法の杖――グリップ部分に紫色の宝石がついた杖が、夜の城下町を映す星空のような窓ガラスに投げられた。 まるで隕石が星団に加わっていくような軌道の果て、ガラスが粉砕された。
映っていた城下町が部屋に散乱した。写実的な錯覚画は緻密な計算によって成立する。床に散れば絵に見える。
そして窓の奥に広がっていた茜色の空が露わになった。その向こうにはどこまでも広がる空と、海。
街は虚構で、ここは創られた天空城の端なのだ。
『ページをめくれば地獄の隣が天国だった。』そんな絵本のような世界が成立するのは、ひとえにこの世界が『娯楽演劇施設』だからだ。金持ちが物語と役柄を購入し、スタッフは命と尊厳をかけて脇役を演じる。
究極的な格差社会の頂点が成立させる、まさに濃利少売のビジネスである。
その演劇の悪役だったはずの烏王は、何かが愉快で何かが不快なような声色で言った。
「予算の中抜き加減を思い知るよ。完全な街を作るほどの予算が残されてなかったんだ。この劇はもう売れない」
わたしは抗議した。
「どういうつもりなの?」
「悪いね」と言って烏王はわたしの耳の裏を握った。肉の中の発信器が粉砕された。
そして烏男が前傾姿勢になった。ぽいぽいと革靴を投げ飛ばし鋭利な足を裸にする。それからまるで準備運動のように翼の羽ひとつひとつを動かして風を通した。
飛ぶつもりだ。
「この演劇は壊さないといけない。もうすぐここは、島ごと海に墜ちる」
「なぜ?あなたもこの場所しか知らないくせに」
わたしは烏王の人生を想像した。わたしと同じように赤ん坊の頃に売られたり、あるいは攫われてこの世界に来たのだろう。そしてこの世界の悪役として育てられたはずだ。
わたしは姫の役として育てられた。英才教育だったと思う。あらゆる教養をたたき込まれた。演技上はほわほわな感じでも、社会的に成功した男性をもてなすためにあらゆる献身をするためには、頭を良くする必要がある。わたしは教育を受けたのでこの世界をおかしいと思えるが、烏王は違う。最後に死ぬ悪役は使い回しができない。だから一人一人に教養をたたき込むほどの予算はないはずだ。
烏王は言った。
「今更生みの親に会うつもりはない。死んでるかもしれないしね。ぼくは、この世界の王に会ってみたくなったんだ。このまま劇が進行すれば魔王役の僕は殺される。そういうシナリオだからね。混乱に乗じて脱出するしかない」
理路整然とアドリブで話している。電極でしこまれた『セリフ』とは違う。
烏は知能の発達した鳥だと言うが、そのせいなのだろうか?改造によって人間の緻密な本能と、獣の緻密な頭脳を併せ持ったのだろうか?
「わたしを助けるとか、そういうわけじゃないのね」
「それではこの劇の購入者と同じだろう。僕は自意識を満たすために他人を消費する趣味はない」
そして行くぞとも言わず、烏王はわたしを空に蹴飛ばした。
頭の先に海がある。ここが海上だとは知っていたので驚きはしない。しかし朝を映す膨大な水がこんなにも美しいとは知らなかった。
感傷に浸っていると腹部に痛みが走った。
烏王が脚で私をわしづかみにしたのだ。
羽ばたき、そして上昇する。
演劇セットの天空城が露わになる。演劇の設定上では、古代オリア族の遺したクリスタルで浮かんでいる事になっているが、現実は、底辺部の巨大なプロペラによって浮遊する人工島にすぎない。ヘリコプターを逆さにしたような恰好だ。
そのプロペラ部分の回転が徐々に遅くなっている。なるほど、烏王はあれに細工をしてから来たらしい。墜落とはこの事だろう。
烏王は、自分が堕とす島の端を見ている。
我々が出てきた部屋とちょうど島の真逆に位置する場所に無機質な鉄骨の建造物がある。あそこが教育施設だ。勇者がどんな行動をとろうと目撃する事がないよう、シナリオ上の設定を反映した場所にある。
あそこでわたしは、姫役として生きていくしかないという価値観を植え付けられた。客観的に考えても、こうして生きていくしかないと思える。
勇者に救われる事を拒否した姫役は、強烈な圧力によって殺されるしかないのだ。
烏王は殺されるが、金のかかった私は逃げさえしなければ、殺されない。
烏王は烏の眼で島を俯瞰しながら言った。
「みんな慌てて君を探している。これから品評会で既に客が来ているからな。購入予定の姫役がいなくなったとあれば、君を探す事に全力を注ぐはずだ。だから、本当の王室が手薄になる」
セットの王室ではない、この島の最高権力者の部屋。
それは当然、わたしが居た部屋ではなく、勇者役の故郷と題された村のセットでもない。
この演劇の世界観に合わない無骨な鉄骨施設。わたしが育った場所。
烏王はそこへ向かって急降下した。パノラマが身に迫り縮小されてゆく。突進しながら烏王が大きく叫んだ。 島中の烏達が集まり、目の前で剣の形に編隊を組んだ。それが教育施設の壁に突き刺さり、破壊する。
烏王は空間から悠然と部屋に入ると、わたしを丁寧に降ろした。
この部屋は見覚えがない。
膨大な本に囲まれていて、床に落ちた本の上に烏が乗っている。定期的に掃除がされているのか、本が散らかったのにも関わらず、埃がない。
烏王の目的、一度も来たことがない点、そして奥の机に突っ伏している女性を見て、わたしはここが社長室であると確信した。
烏王が呆然と立ち尽くしている。いったい何を考えているのだろう?
机の上で眠っている人間が社長のはずだ。既に現場を離れているらしいので、わたしも会ったことはない。 しかし、この異常事態に起き上がらないのはなぜだろう。
私は近づいた。社長は薄く眼を開けて、何かうわごとを言っている。
机の上にはあったノートがある。社長の右手にペンが握られているので、先ほどまでこれを書いていたのだろう。
丁寧な字で意味不明な事が書かれている。
『人身バイバイのお姫屋サンバさんとのチャットルーム』と題されている。
ト書きに『俺』と書かれた娯楽演劇プロデューサーと、『産婆』と記された現場人の掛け合いが中心だが、文末で『俺』と『産婆』が混合し、正気を失っている。
この『産婆』は役者候補の入荷から演劇の企画までを任されていて、ノートには『エリーゼ姫』を育てた旨が記されている。
エリーゼ姫の名は聞いた事がある。
むかし、反抗的な姫を題材にするという企画が倒れ、その役者が廃棄処分になったという逸話を戒めとして聞かされたことがある。そんなエリーゼ姫を育てたのは、姫役を卒業した役者だという。
『優れた仕事をした後には、消費期限が切れた姫にもノウハウを活かした役が回る』と洗脳教育時代に教えられた事がある。 ノートの文面を読むと、この社長が前の社長の人格をそのまま移すレベルでプロデュース業をたたき込まれていた事が分かる。
烏王が言った。
「僕はその人に育てられた。外の世界でも自由にやっていける可能性を教えられた。でも、企画が失敗して、僕は下界に売られる事になった。先生はそれを嫌がった」
社長は、自分と境遇の同じ教え子が離れそうになって自分本来の心が甦ったのだろう。
そして葛藤の末、こうなってしまった。
「僕は先生の提案を受け入れた。当時の社長に演技力をアピールし、エリーゼ姫としての姿を捨てて、手術を受けて悪役になった。烏の王が悪役として出るシナリオを考えたのは先生だよ。僕が絶望しなければ、飛び立っていけるようにって。ぼくは、先生を連れて行くよ」
烏王が社長を抱き上げ、翼を広げた。
逃がすわけにはいかない。
劇という商品を壊されたまま、人材を連れて行かれたら、わたしが出世して社長になる頃にはこの島は経営不振に陥ってしまう。
失敗から社長にまで上がったような優秀な社長には、ぜひ復活して頂き、わたしの席が空くまでこのビジネスを存続してもらう。
わたしはドレスの裏に隠していた短刀を取り出した。そして今にも飛び立とうとする烏王エリーゼ姫の背に刺そうとした。
しかし謀殺は失敗した。烏王の腕を振りほどいて社長が飛び出てきたのだ。首筋に刺さった短刀の根から血が滴る。社長は「ごぷっ」という声を上げて絶命した。
エリーゼ姫が叫んだ。
姫はわたしのことなど無視して崩れ落ち、再び抱きしめた腕の中の社長を見つめた。
そのとき、世界が浮遊した。私も、本も、遺体も全てが浮かび上がった。
プロペラが完全に停止したのだ。
島が墜ちてゆく。
――眼が覚めたとき、海面にぷかぷかと浮かぶ瓦礫と私がいた。朝日を受けた埃がダイヤモンドダストのように輝いては潮水に浸ってゆく。姫と社長の姿がどこにもない。わたしは夢を失った。どこからかヘリコプターの音が聞こえる。聞き慣れたプロペラの音がいくつか聞こえる。きっと私はそれに乗ってどこかに行く。同業者のヘリだったら良いなと私は思う。もしもそうだったら、まだ夢だけは諦めずに済む。




