ブロック作者の思考として変換
かつてコンテストのためのエッセイとして書いた物だが、ブロック世界のやりくりに転用可能か
(自我をなくして、なくして、なくして・・・・・転用か)
まずは、コンテストスタート前の話からします。
コンの一般選考について、色んな方の話しを聞いたりデータを見たりした結果、「最初のランキングで好成績出せたら、後は内容の充実だけ気にすればいいかな」と判断しました。
「他者交流」に宣伝効果を期待しますが、作品の宣伝だけの内容だと誰が評価すんだよって思うので、そもそもの交流として面白くしたいという意識はありました。
それと、自分の考えを整理する効果への期待ですね。
力みすぎてもなんなので、そこまで注力はしてないのですが、全体構成の「リズム」は意識しています。
最初に「共通の話題」で誰もが興味を持てる事を、問いかける形で書く。
そこから、徐々に内容を深くしていく。
途中、真面目すぎても「考えの整理」にならないので、ゆるい場所を挟んだりしながら、「自分が作ってて楽しい」を中心に添え、しかし「所々での体験応え」を意識して、ちょいちょいコンの宣伝をはさみました。
効果がありすぎた、というと過言ですが、わりにたくさんの評価をもらえたので、予想以上の効果はありました。
最初の週間ランキングで1位だったので、最初の『判断』は満たせた事になります。
交流を小説の入り口にする。
これは、「交流して良い場を提供する」という事が大切だと思います。
前の回でやった、「最終目標がべつだとしても、そのためにはそもそも場として良くしようとする意識はいる」に似ていますね。
次に、企画をどうやった考えたのかを、シノプシスまで述べます。
言語化以前の『感覚』登ってくるものが多いのですが、楽しめる範囲で詳細に言葉にしますね。
疑問と理想の狭間に、最初の「アイディア」があるのだと思います。
映画や、漫画の感想で、「感情移入」とか、「自分のことに感じる」という言葉をよく目にしませんか?
私は危機感を覚えます。
そういう狙いがあって作られ、成功するのはいい。
しかし、それだけではだめなのではないかと。
もう、そういう時代じゃないのではないかと。
他人を他人のまま、自分との共通項を見つけずとも、『尊重』するべき社会に変わりつつあるのに、その方向で面白くみられる作品はできないのだろうか、と。
「自分はOOに上手くいってないのに、この主人公は上手くいってる。だからこの作品はだめ」
のような感想を持つのは自由ですが、大人の思うことではないようにも感じます。
どこかしらのポイントを自分の事のように思えたら、良い作品。
という基準はどうなのかーと思うのです。
ただ、そういう入り口を用意して、違う人の存在を教える、という作り方は有用だとは思います。
議論のマナーを示す言葉に、「テーブルの上のオブジェ」というのがあります。
どんな意見も、『言った人そのもの』と見るのではなくて、あくまでも情報の一つとして扱うべきだという意味です。なかなか、難しいけれど・・・・・・。
『自分語り』って言葉、悪いイメージで使われているように感じます。
これを特に危険に感じます。
他者を理解する気がなく、ただ上から簡単な断定をするだけの言葉に思えるのです。
何かのネットニュースに見つけて、ついそれはどうかなー的なコメントをしました。
以上の事をまとめると、
『他人のする語りには興味ないけれど、自分のことを言っているなら、きく』
のような状況が、かなり広く蔓延っているのではないかなと思うのです。
これは、『共同作業』の必要性がなくなってきて、『個人主義』が進んだからだと思います。
『団結』の重要性が分かっているのは、それを切実に体験している人だと思います。
例えば昔の農民さんは、みんなで協力しなければ生命に関わりますから、切実です。
でも、命の危険が間近には迫らない我々にとっての『団結』は、虚構というか幻想から始まります。
『紙幣』に価値があるのは、みんながそれに『価値がある』という共通の幻想を抱いているから、というのを本で読みました。
そこの『幻想』と似た意味で、我々が最初に強制される『団結』も、また虚構です。
何かというと、『学校』でそれはたたき込まれるんですね。
学校の運動会とかで、やたららと『団結』とか言われませんでした?
「前へ倣え」とか、組み体操の団結。
でも、別に運動会なんてやんなくても生きていけるじゃないですか。
だから、農民の団結に対してこちらは『虚構の団結』になるんですね。
それをして得られる結果も、「生きる」と「なんか楽しい」という大きな違いになります。
学校教育でいう『平等』に、違和感を覚える人もいますよね。
その根本は、こういう所から生まれるのかもしれません。
『団結』はみんなで協力すること。
『平等(ステレオタイプなイメージで学校で使われる場合)』は、みんな同じ。
ここで、歪んだ融合が生まれているように感じるのです。
「平等なみんなだから協力できる」みたいな意味になってないか。
じゃあ、その平等から加不足している部分は、どうするのか?
排除するのか?
『特定の枠に収まる人物像』をつくるのが、目的なのか?
そうして生まれる社会は、『同じような人しか認められない社会』になるのではないだろうか・・・・・・。
他人が自分と同じよう。
つまり、自分と違う人を認めない。
自分しか認めない。
他者を認めない。
ここで、今回の冒頭の「感情移入だけでいいのか」の違和感に繋がります。
ランキングって、かなり現代イトゥエ人を考えるにあたっていいテーマだと思います。
自分は自分は!なのに、他人のは・・・・・・・
という人が多い。
他人の作品、同じように見えるし・・・・・・
というのを多くの人が思っているという事は、その本人の作品も他人から見たら同じという事ですよね。
自分で『表現すること』には興味があるけれど、他人の『表現すること』には興味が無い。
表現する事が容易になり、それによって『表現欲求』を刺激された人も多いです。 元来、慎ましやかなイトゥエ人ですから、そういう公共の名分ができるとハマり出すのも分かります。
でも、そこに『コミュニケーション』はどれくらいあるだろう?
と、色々見て疑問を抱きました。
一方通行の総体みたいな所がある・・・・・・。
自分を基準点にするしかないのは仕方が無い。その上で、どうしたらいいのか(これが一人称で書く事への影響にもなりました)
当たり前と言えば、ある意味当たり前ですね。
でも、なんでこれがあたりまえなのだろう?
みんながそう、って事は、そこにそれだけチャンスが眠っているって事です。
そういう風に考えて、わたしは今回の作品のテーマを『表現すること』にしました。
次に考えるのは、それをどう描くのか。
ブロックを題材にすると、あまりにも近すぎて、考える上での『相対化』がはかられませんし、今回は別の事にチャレンジしたいなーという気持ちがありました。
ブロック意外に、ブロックの要素を兼ね備えた『表現方法』がないかなと。
今回は、『大人向け』を書くことに興味がありました。
そして、ネットで色々みて思ったのが、みんな『自分の思いついたすごい世界観を表現したい』って思ってるなと感じました。
世界観を表現することに興味がある人は、多いのではないか。
でも、みんなそれぞれに『難しー』と言っている。
世界観を容易に表現できそうな『表現方法』は何かなー。
上までで、とりあえずの方向性は決まってきましたね。
企画を建てる時は、そういう一方向の考えだけじゃなくて、実人生やそれまで書いた作品からの連続も絡まってくるので(そういう方が切実な作り方をできる。デビュー作の作り方としてはそういう方がいいだろうという判断)、色んな条件が合わさって、題材は
『サンドボックスゲーム(劇中人物なら逆に?!)』に定まりました。
以下の『熟成』のような事は、ほぼ同時期に行われていますが、分けて書いた方がすっきりするのでこうかきます~。
個人的な主題として、今までの人生を再構築する物語にして、前を向きたい、という気持ちがあります。
それで今までの人生に出てきた様々なモチーフを参照したときに、
「そういえば、あの時箱庭があったな」と気付きました。
それで、箱庭療法について改めて調べました。
箱庭療法の優秀な点は、気軽にできる点です。
絵も、書くことでの治癒作用はありますが、上手い下手がわかりやすくでるので、遠慮してやらない人も多い。
でも箱庭は置くだけだから、やりやすい。
これ、ワールドと似てるなと思ったんです。
ワールドにも、上手い下手はあると思っていますが、でもそれを分かるようになるのも技術がいるし、びっしりに置けばそれなりにちゃんとしているようには見えるので、誰でもやりやすい。
だから、表現したい人がブロックをやろうとするのも分かるなと。
『箱庭』はありだなと思ったんです。
もちろん、これだけではありません。
今までの人生で、感情を示すために言葉ではなく『行動』で示された強烈なエピソードがあって、それで『言葉以外の表現方法』に興味がありました。
人間は物語を紡ぐこと・表現する事で癒やされますが、逆に傷ついたり、傷つく事もある。
箱庭も、またそういう面があります。
次に、『ビジネス』みたいにしたいという考えについて、掘り下げました。
ビジネスのつくりって、読みやすくされている所があって、最初はそこの部分を取り入れたいと考えていたのですが・・・・・・。
何を面白く読んでいたのか考えたときに、それぞれの『社会との関わり方』が面白いなと思ったのです。
社会との関わり方も、テーマに対しての問いにしよう!と思いました。
『表現すること』と『社会との関わり方』です。
ここまで考えて、なぜか自然と、頭に『サンドボックスゲーム』が浮かんでいました。
色々考えて必然的に出てきたというか、いつのまにかすぎて、どの日に思いついたのかも分からないのですが、『サンドボックスゲーム』を出そうと決まっていました。
最近の人って、ゲームで例えられると理解力高いじゃないですか。
そういうのもあったのかな、とは思います。
それと、自分の中の世界観というと、やっぱり過去に書いた小説の世界が出てきて、それを『形として表現できそうな媒体』が小説以外だとサンドボックスだった事とか、色々あるのですが、まあとにかく思いつきました。
それと『ビジネス書』を考えたときに、自然とあったのは『ゲームシリーズの発展』です。 これを追うのは、面白そうだなと。
主人公が、『表現する社会』との関わり方を考えながら、『ゲームシリーズ』を進化させてゆく。箱庭ではあるけれど、ゲームだから、『箱庭療法』との違いや共通項を認識し続けながら、選択する話しは小説になるなと。
そういう物語は楽しそうだと思いました。
そして、表現することは、現実の出来事に影響されます。
大人なら、その存在を無視できません。
さらに、自分が過去の再構築によって前を向くことを内在化していますから、それらを総合すると
『実際の近代史の中でのゲームの発展』を描くことは必至だなと。
文化には、過去の影響と現在、そして未来への展望という要素があります。
リアリティについて考えるにあたって、それは無視できません。
そうなってくると、「なんでわたし」とかも色々考える必要がありますね。(これは今も考えていますが・・・・・・)
今までの人生で、表現することによって癒やされ、傷ついた事を『サンドボックスゲーム』を中心点にして構築する。
ここまでで、だいたいの作品像ができてきましたね。
最初のタイトルは『箱庭創世』でした。これはこれでいいと思うのですが、分かりやすさがほしいのと、目に付くのを考えて『スマホで箱庭をつくろう!』
そして、補足と想像的飛躍の情報としてサブタイトルに『遺言後宮イトゥエ』をつけました。このサブタイが本作をひっぱる『謎』にあたるのですが、今までに書いた小説を『箱庭』というフォーマットに当てはめて生まれた『ミステリー』ですね。
後はメイン部分をおきながら、同時に作品についての理解を明確にする段階です。
いつも言っているように、冒頭で『けれん』をつけたいと考えています。
冒頭は、いままでに散々試みてきて、とにかく最初の一文は決めセリフ的にしたいと思っていました。
それで、現行のあれになりました。
川端康成の雪国の評論で、「新感覚派の宣言」という説明があって、確かに冒頭は「宣言」の要素があるなと思っていました。
作中の謎の、面白さの所を前面に出して、かつ最初のキャッチーさを加速燃料にしてやや重厚気味の文章を読んで頂き、そして冒頭の最後に予告編てきなものを入れる。
そういう構成ですね。
で、やや構成や題材が特殊な作品なので、次の話しでは「こういう本です!」という説明を入れたいと考えていました。
一応投稿してあるのですが、大きく変えると思います。
三話目からが本分です。
一人称視点を使った方が、「知ってるけど知らない世界」をわかりやすく伝えられるのと、「人生の再構築」にライブ感を出せるので一人称です。
前の2話が興味を惹くここと、仕組みの説明に費やしたので、三話目は『親しみ』に当てました。
親しみというか、『知ってる感』ですね。
PTAとかダルい遠足とか、誰でも分かるモチーフ、かつ自分がその時の気分になれるような舞台で、独白を用いた構成にしました。
小学校時代から始まるのは、それは私の今の心の連続性が、だいたいその頃から始まったからですね。
その遠足先で、ようやく『サンドボックスゲーム』が出てきます。
わくわくしてプレイしてもらった上で、『箱庭療法』の要素を出したり、今後の謎を出したり、後は主人公とヒロインの出会いとして描くと。
ここまでが、第1章部分ですね。
2章からは、『逆襲』です。
なにかって言うと、つまりは『続編』なんです。
逆襲は、映画の続編史上最高という呼び声があります。
評論家がいうには、「世界観を深く広くしている」からいいとか。
1章で、だいたいの方向性を、「知ってもらう」ために出しました。
知ってもらったあとは、「より深く」ができます。
まだ主人公は小学生ですが、後の「社会との関わり方」の要素の入り口も出します。
小学校というフィールドで、どれだけ面白い関わり方をできるか。
それを、サンドボックスゲームをメインにして描く。
社会と関わりだしたので、主人公の関心が親(社会人)の方にも向きます。
ここで、そろそろ『現代史』とリンクさせます。
そろそろ、物語上の『転』がいるし、自分(とその家族)の実人生でも『転』が起きたので、主人公にもそれをやってもらいます。
いくら自分の事しか考えないのを『子供』と言っても、否応なしに社会の事を考えさせられる事が起こって、それで『大人』になれるかどうか、ってイベントですね。
ここまでで2章かな。2章で起きた『転』の影響で出来なかったこと、失った時間などが、主人公の今後の心理に大きなウエイトを占めます。
3章では、今まで自分が生まれ育ってきた『場』から離れ、新しい環境に着いた事で、『前の町』と『今の町』とどう関わっていくかを、主人公が考えます。
親の苦労(再就職など)を見て、「自分で考えること」の大切さを学んだ主人公。
どうやって新たな職を親が手にしたのかを考えながら、価値観が代わりつつ有り、社会システムが代わる事の中で、自分なりに生き方を模索します。
その過程で「やるべき事」とかを発見。これは、主に「前の町」での『転』と関わります。 さらに、「独自の教養を身につけたことで、むしろ教科書が面白くなった」とか、大人への成長がぐぐっと始まります。
その中で起きる、ゲームシリーズのピンチを、主人公の「切実なアイディア」が救います。 3章の最後で、所どころ出してきた『遺言後宮』の存在感をまたグッと出します。
ヒロインは、『箱庭』の天才作家的なポジションで、ここに来てその実力をまた伸ばすのですが、その伸ばすための『コミット』の仕方に問題があり、それがクライマックスの戦いに繋がります。
主人公の役割は、「サンドボックスゲーム」を「社会」とつなげることです。
ヒロインが描く『世界観』の解釈も主人公が行い、『人に表現を楽しんでもらうための仕組み』の描写、つまりこの『たのしいライフの送り方』のような話もここでします。 だから3章は、長めになるのかな。
4章
では、3章で続けたきた主人公達の努力が実る・・・・・・のですが、理想だけが叶うのが夢ではありません。ぼんやりとした「良い感じ」だけでなく、「まあそうなるよな」という社会の苛烈な洗礼、つまり社会と関わった事=社会問題と関わった事を描きます。
その根本にあるのが、最初の冒頭で示した謎からの影響。
『他人を認めない事』『幻想に依存すること』が大きな力となって、主人公達に襲いかかり、今まで一緒にやってきた二人が別離します。
これも『転』であり、前回が長かったので、4章は短めです。
5章
冒頭で書いた「4000年前の謎」を解き明かします。
過去の出来事を現在の語り手に説明してもらいます。
6章
逃亡と逆襲編です。
最大のイベントを開き、それを利用して最後の大作戦を行います。
そこで、集大成的な「意思」を打ち出し、ヒロインとも情熱的な再会をし、傷を追いながらも故郷へ戻り、昔の『転』の前にできなかった事を故郷でやって、この物語は完結します。
あとがき
一応現実の事も。あとがきまでを作品として書きます。
とりあえずは以上です。
演出編も、後でやりたいなと思います。
シノプシスまでは、こんな感じですね。
皆のいる『たのしいライフの送り方』だからこそ、考えを整理するためにできた事でした。
ありがとう!




