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少年である日々(古いパソコンにあるのとは一部分文を削除してある

この小説を書いたとき、15歳でした。今はもう閉鎖された投稿サイトに公開して、何人かの大人の方に読んでもらったことを覚えています。

稚拙な部分の多々ある小説ですが、それでも読んでいただけたこと、温かいお言葉をいただけた事に感謝します。

少年である日々の終わり

雨雲の下辺をなぞるのは太陽の光だ。描かれた長く太い線の下には、薄く色のついた空がカーテンのようにぶら下がっている。空の網目を潜り抜けた光は音を立てず、凍りかけの川の上に着地した。揺れ映る太陽の上には昔のゲーム機と同じ赤色をしている橋が跨っている。そこを一台のトラックのみが、トロトロと渡っている。寝そべっている河川敷では、どこかのおじいちゃんがストレッチをしながら大声でコブシを回している。川の流れに沿って目を動かすと、去年僕達が卒業した小学校が見える。雪の積もる校庭に、何処からか二匹の赤ヤギが迷い込んで糞をしている。4年の時の担任が雪掻きをしているが、すぐ側の赤ヤギにはやはり気づいていない。学校の城下町にある路地裏には、何年も前から廃車が

放置されている。覆いかぶさった雪の下で、また少し錆びが増ている事だろう。そんな全てを早朝という静かな概念が覆っている。日の当たらない背中ですら、夜が終わった事を実感出来ている。肌寒さに身を震わすよりも先に、訪れ始めた別れが圧倒的な透明を持って僕に襲いかっている。心臓のずっと右は、生暖かく湿った風にくすぐられていた。

隣に座っているシオヤは首を軽く捻って景色を眺めていた。僕達は夜通しで話したばかりだった。それでも、まだ話すべき事があるはずだが、二人ともまだ何も言えていなかった。僕は自分達が抱えている問題から目を逸らす様に、このまま自分の行く末だとか生だとか、悩まなければならない事を自然に任せてしまえれば楽だろうなと考えていた。別れという物は、肋骨の裏をくすぐる暴力のようだと思った。「どうなるんだろうな、これから」口を開いたのはシオヤだ。彼の髪が風に揺れている。いつもこういう時、先に口を開くのはシオヤだ。他人事みたいに言ってはいるが、自分達の問題だと再確認する為に言ったのだろう。「コトネが消える事はないだろ。きっと」分からない、と言いたくなかったから、

そうやって僕は僕の希望で返した。シオヤも正しい解答なんて期待していなかっただろう。コトネとの別れの熱が冷めないまま、午後にはこの町自体との別れが待っている。これか僕がどこに行って何をするのかを具体的に想像すると、イメージの中の自分が他人に思えた。二人でこの長い螺旋階段を使って巨木を降るのも今日で最後だ。丈夫な枝の階段を、春の暖かく爽やかな匂いいっぱいに包まれながら一歩一歩丁寧に降りた。最後の一段から足を外す時、何処からか飛んで来た桜の花弁が僕の肩に付いた。「じゃ、また後で」そう交わして僕達は一旦別れた。シオヤの目はいつもより透明だった。三人で夜を明かした巨木から家までの道のりは遠い。山を降り、近くの神社に停めてある自転車に跨り、河川敷を

かっ飛ばし、赤色の橋の下をくぐり、あとは田んぼを横目に延々と自転車を漕ぐ。今日は荷物が無いため比較的楽だが、学校のある日は本当にしんどい。今でこそ慣れたものだが、中学に上がり立ての頃はよく途中途中で休憩していたものだ。それでも、良く晴れた午前中に風を切って道の先を眺めながら駆けるのはとても気持ち良く、僕は大好きだった。やっとの事で家に着いた僕は、寝ぼけた頭で引越しの手伝いをさせられた。手伝いと言っても、昨日までにほとんどの荷物は片付け終わっている。やる事は掃除くらいだ。いつもより広い部屋を掃除していると、初めて友達を家に呼んだ日が脳裏に思い浮かんできた。当時の友達の顔はぼんやり薄れているけれど、今でもあんまり変わっていないはずだ。いざ家

を出る時、僕はほぼ無意識に頭を下げた。13年間この家で育ったんだと思うと、我が家に緩やかな意志があるような気がした。東京へは父の運転する車で行く。その前に、「友達に最後の挨拶をしたいだろう」という事で、車は仲の良かった友達の家に行った。友達も僕も、もうしばらく会うことはないというのに深刻な顔などしていなかった。そりゃあ、今日でもうオシマイヨなんて言われてピンと来るはずがない。また明日も顔を合わせるのが常識だ。シオヤの家にも行った。シオヤが一番腑抜けた顔をしていた。無理もない、徹夜なのだから。親同士は感傷に浸って長々と話していた。僕たちはお互い寝不足であることを知っていたので何も話さなかった。親同士の話が終り、「じゃあな」「おう」と一言だ

け交わして僕らは別れた。高速道路に乗るのは久しぶりだった。高速道路を挟む山の隙間から夕日が見えた。疎らにこぼれていて、産まれ立てみたいな夕日だった。あんまりこぼれるものだから、僕の周りは全部夕日のオレンジ色に染まってしまった。「春から東京に引っ越す」と言われてから、その事について具体的なイメージをする事が出来なかった。友達から「元気でな」と言われても、寄せ書きなんか貰っても、新しく通う事になる学校のホームページを見せられても、まるで他人事みたいだった。それが今、たまの旅行で通る高速道路を走っていて、急に、もう二度とこの道路を通る事が無いような気がして、色んな思い出がいっぱい浮かんできて、今日の夕方と同じような色の気持ちになって、僕は涙を

流してしまった。隣で運転している父親が、「なんだユタカ、お前悲しいのか」と僕をからかって、後ろに座っている母親が「そりゃあずっと住んでたんだんだからねえ」ともらい泣きしながら言った。親に泣いてる所を見られるのが恥ずかしかったので、僕は急いで涙を拭いて、携帯ゲーム機で音楽を聴いた。一曲聴き終える前に、様々な疲れが限界に達していた僕は眠ってしまった。 僕が薄目を開けた時には、もう周りは夜になっていた。高速道路の両端に生えた、モヤシの様な形をしている電灯が等間隔に並んで道の先を照らしている。電灯は道路の全てを照らしているのではなく、一対の電灯が支配している間を抜けた先にあるのは同じくらいの大きさの影だ。その影を抜けるとまた同じように明かりのある間に差し掛かる。僕は交互する明かりと、影を、一つずつ数えた。同じ景色は延々と続いた。前を走る車も、後ろを走る車も変わらない。僕は疲れていて、まだ眠たかったから数を数える以外には何も考えていなかったと思う。運転席に座っているのは誰だとか、今どこに向かっているのだとか。もしかしたら前を走る車の運転手の存在すら僕は認識していなかったかもしれない。同じ景色が流れ続けている間、ただひたすらその景色と共に自分も動き続けている様な感覚だった。やっと目が覚めて最初に見たのは、都会の夜景というヤツだった。夜空に星がない代わりに、建物に星がたくさん飾ってある様に見えた。なるほど、東京の人間はわざわざ上を向かなくてもいいんだと思った。夜の海を見たことはあま

り無いけれど、たぶんこの景色にはそれに通じるものがあると感じた。夜景を見尽くす前に、車は高速道路を降りた。その後数分で親戚の家に着いて、車を降りた。数時間ぶりに触れた外の空気はやはり気持ち良かった。深呼吸をした僕は、夜独特の匂いは何処も変わらないんだなと思った。その日は親戚の家で眠った。


2教室


は心の底から杉浦と出会わなかったらどんなに楽だったろうと思った。「杉浦は、俺の事嫌いなんだろう?なら、俺に関わらない方がいいと思うよ。電話とかも、しない方がいいと思うよ」僕はなるべく言葉を選んで言った。言いたい事を正直に言うと杉浦が激情するからだ。お前マジ、ウザイ、キモイ。杉浦はいつもの常套句を繰り返した。僕は黙って聞いた。眠いし空腹で、僕はイライラしてきた。杉浦をどうにかしてしまいたいと思った。杉浦は僕を蔑む事に飽きたようで、突然電話を切った。トンネルを出て、最後の長い階段を上って、家に着いた。起きている家族は誰も居なかった。暗い部屋に鞄を投げ込んで、チョコチップが塗してあるクッキーを二つ食べてからシャワーを浴びた。温かいとは感じられ

ないシャワーを浴びながら、杉浦の事を忘れるため、鼻歌を歌った。シャンプーをしながら自分の体を覗いた。細すぎる体に脂肪が付き始めていた。外は雨が降っていた。籠に入った飴玉を全て落としたような音のする雨だった。僕は窓を開けて雨水に手を伸ばしてみた。二本の街灯が目玉のような光を散乱させて僕を見ていた。軽自動車が水溜りを跳ね散らしながら下の道路を駆けて行った。それをバイクが騒音を撒き散らしながら追いかけた。僕は片手で、スタンドに立て掛けて

あるギターを撫で鳴らした。その手で勉強机に置いてあるノートPCを開いた。液晶にシオヤの小説が浮かび出された。僕は水を一杯飲んで、その小説を眺めながらあの町の事を考えた。ここに来てから、ずっとずっと僕は思い出を撫でるばかりだった。

そうすると少し楽だった。思い出すための脚色や美化は必要なかった。そのままを思い出すことが出来た。何度も何度も思い出しているうちに、僕の心の中であの町は空想のそれに程近くなった。あの町が今現在も現実に存在している事に、実感が無くなりかけていた。あの町を出てからそれほど時間が経ったのではない。あの町を出た瞬間から僕とあの町とが完全に切り離されて、あの町がいない生活が当たり前に続き始めたからだ。僕の心と液晶画面以外には誰もあの町のことを口にしないのだ。今ではもうあの町は僕の心が作り出した空想に過ぎない。僕はほぼ空想の中にしか居ないし、その空想の中の時間も動き出すことは無いから、僕の時間は止まっている様に見える。しかし、時計の針が止まっても時間

が止まることはない。僕は自分の置かれている時間の流れから目を逸らしているだけだ。現実の時間は絶えずとてつもないスピードで流れ続けている。僕が落書きすら描かれていないノートを眺めている間に、あの町のみんなはどんどん新しい体験に触れているだろう。そして、コトネの存在はもっと薄れてしまっているのだろう。そう思うととても遣る瀬無く、そして寂しかった。 机に座ったまま口をポカンと開けて、目を閉じた。眠りに就く前最後の意識で、足元に転がっている携帯電話を拾った。


3転校生になる


引越しを終えても、新しい学校の始業式までには一週間あった。その間に僕は新しい学校の制服を合わせに行った。前の中学の制服は結局一年しか着なかった。始業式の3日前には母親と一緒に新しい学校へ挨拶しに行った。校庭がだいぶ狭い学校だった。職員室に行くと僕の新しい担任だという男の先生が出て来た。大柄で髪の少し薄い人で、僕にだいぶ気を使ってくれた。雰囲気から国語の先生かなと思ったら、案の定国語の先生だった。その先生から始業式の説明を受けたりした。始業式の日、あまり道を覚えていないので同じ制服を着ている人間を見つけて後をつけた。初めて通る道だったので何に注意していいか分からず、僕はきょろきょろ首を回していたと思う。蕎麦屋の二階だとか、公園の滑り台のサ

ビだとか、通り慣れた道なら絶対に注目しないであろう物に僕は多く注目した。そうやって町を観察していて、僕はこの町に赤ヤギがいない事を知った。シオヤと歩いていると、よく知る道でも、まるで初めて通るように新鮮味を感じられた。普通、よく知る道を歩く時、ここは車が飛び出て来やすいとか、トイレを使えるコンビニはあそこだとか、そういった必要になる情報にしか注意を払わない。ところがシオヤは、常に道のを見ようとする。木の裏のカナブンも、石の下敷きになっている落ち葉も、雪に混じった砂利の色も、だ。だから赤ヤギを見つける事が出来たのだ。赤ヤギは本当に道を知ろうとする子供しか見つけることができない。そのシオヤに倣って歩いていたのだから、普通は小5位で見つけられ

なくなる赤ヤギを、僕は中学に入っても見つけることが出来た。この町に赤ヤギがいないという寂しい事実は、僕が最初に知ったこの町の本質だった。最後の長い坂を登って、学校に着いた。薄い緑色の屋根を持つ体育館の前に、新しい同級生達は、いた。同級生だけで、前の中学の全校生徒と同じ数程いた。新しい同級生達は、僕の知っている同級生達とはだいぶ違っていた。まず女子の髪が長かった。それから殆どの女子が制服の上から色とりどりのセーターを着ていた。前の中学では髪を肩まで伸ばしてはいけなかったし、制服か体操着以外に着て良い物は無かったから僕には少し衝撃的だった。さらに驚いたのは、明らかに全身私服なヤツがちらほらいた事と、ピアスを付けているヤツがいた事と、髪を染め

ているヤツがいた事だ。前の清楚純粋極まりなさすぎてダサいと言える(特に体操着のジャージの色が)中学とは別世界だった。これが都会っ子か。と僕は思った。それでも、今日の僕は何故か社交的だった。新しい世界に踏み込む事に、ワクワクしていたのかもしれない。群衆の中から比較的前の中学の雰囲気を漂わせている男子を見つけて声を掛けた。男子は、「おお、また転校生か、よろしくな」と愛想良く言ってくれた。少し話をしていると、その男子の友達が4、5人集まって来て、何処から来たのかとか、今は何処に住んでるんだとか、色々と僕に質問した。数分後に先生が現れて、クラス分けが書かれている藁半紙を配った。最初に話しかけた男子とは違うクラスだった。体育館に入って、みんな決めら

れた場所に体育座りした。僕が何処に座るのか分からなくてうろうろしていると、担任の先生が来て僕の場所に連れて行ってくれた。みんな僕をじろじろ見ていた。後ろの方から「あの転校生、やっぱりイジメられちゃうのかなあ」と言う女子の声が聞こえてきて、少し怖くなった。始業式が始まって、みんな立って校歌を歌い始めた。当然僕は歌えなかった。女の先生が列の間を通りながら歌っていない生徒を注意していた。僕を見つけて一瞬立ち止まったけれど、見逃してくれた。始業式が終わり、みんなぞろぞろと体育館を出て行った。僕も人の流れに流れされていると、出口の所で担任の先生が待っていてそのまま僕を校長室まで案内してくれた。途中で何人かの女子が先生に、「その子転校生?」と親しげ

に聞いていた。この先生は生徒から人気のある先生なんだなと思った。校長室には座り心地の良いソファーがあって、僕はそこに座って校長先生を待ってろと言われた。先生が出て行って、僕は校長室を見渡した。校長先生の机の横には大きな本棚があって、そこにはこの学校の歴代の卒業アルバムが並べてあった。机の後ろの壁には歴代の校長の写真が貼ってあった。一番新しい写真の下に39代目と書いてあるので、今の校長先生は40代目なのだろう。校長先生は入ってくるなり僕に紅茶を入れてくれた。熱かったけれど、とても美味しい紅茶だった。十分くらい校長先生と話をした。紅茶のおかげか、僕はだいぶ落ち着いて話す事ができた。元は地理の先生だった校長先生は旅が好きで、東北にもよく行くら

しい。住んでる人にしか分からない地名もたくさん知っていて、博学な人なんだなと思った。「この学校の事どう思った?」校長先生が僕に聞いた。「そんなに深く考えなくて良いんだよ。この学校が外からどう見えるのか気になってね」校長先生は少し身を乗り出して、僕に回答を求めた。「来たばかりなのでまだよく分かりませんけど、色んな人がいるんだなぁと思いました」僕は本心からそう答えた。校長室を出る時、校長先生は「がんばれ」と僕に真剣な顔をして言った。その時の僕は、校長先生のお陰でだいぶこの学校に好感を持てていた。教室の扉からは、かなり大きな騒ぎ声が聞こえた。どうやら僕の事を話している様だ。担任の先生が先に教室に入って静かにしろと言ったが全く効果はなかった。諦

めた先生はもう一度廊下に出て、僕に入って良いよと言った。僕は息を吐いて、心持ち胸を張って、教室に入った。僕の姿が見えた教室は静かになった。騒ぎ声が、囁く声に変わったのだ。やはりみんな僕をじろじろ見ている。それぞれが多種多様な思いで僕を見ているのだろうけれど、『物珍しい物を見ている』という点ではみんな一緒だった。僕からは、どの顔も同じに見えた。先生に言われた席に座った。窓際で一番前の席だった。その席からは狭い校庭がよく見えた。倉庫がひとつ孤独に置かれている他には何も置かれていない、当然と言えば当然だが寂しい校庭だった。コトネの部屋に通じている前の学校にあった、神秘的な様相はここには感じられなかった。先生が30分程、明日から始まる授業の用意

等について話した後、一人一人自己紹介をさせられる事になった。だいたいみんな気だるそうに自分の名前や所属している部活の事について話した。誰かの順番が来ると周りがクスクス笑い出す時

があった。それに対して「笑うなよ、もお」と笑いながら返す人もいれば、とても嫌そうな顔をしながら無視をする人もいた。僕の番が来ると、やはりみんな僕の全身を舐め回す様にジロジロ見ながら隣の席の人と何か囁き出した。立ち上がると、心は緊張を感じていないのに、足が震えた。僕は自分の名前に加えて、どこから来たのかとかも話した。僕の事を携帯で撮影している人がいた。先生は気付いて無い様だった。帰り際に、先生から明日の放課後残るようにと言われた。渡す教科書と、少しの話があるそうだ。特に運動等はしていないのに、今日の帰り道は足が重たかった。前の通学路よりずっと道は短いのに、倍の疲れを感じた。 「今日転校してきた、確かユタカ君だよね?」僕に話しかけてきたのは

、確か同じクラスの女子だった。唐突だったので、最初話しかけているのが僕だと分からなかった。「ウチの事、分かる?」「ごめん。名前は覚えてないけど顔は分かるよ」自己紹介の内容は全く覚えていなかった。人の話を頭に入れる程の余裕など無かった。「携帯持ってる?よかったらアド交換しよ」そう言いながら彼女は携帯を操作しだした。持ってはいるけれど今は家に置いてある。と僕は言って、「でも俺のアド短いから、覚えてるよ」と続けた。アドレスを口頭で伝え終わった所で、僕達の帰る方向は別れた。家に帰って最初に風呂に入った。汗を荒い流して残ったのは、こびり付いた疲れだけだった。この町に来た時から漠然と感じていた不安や期待も、疲れによって押しつぶされていた。

4山の奥

僕が彼らと出会ったのは小4の春の事だ。シオヤは四月からこの学校に来た転校生だった。この町に来てからまだ日は浅いものの、シオヤは大人からよく好かれる少年だった。成績は優秀だが可愛らしい程度には無知で、人懐っこい。笑った時に顔がくしゃっと崩れるのが、また大人に受けた。先生に叱られてもすぐ素直に反省するので、教える側としても楽だった。そのシオヤが先生を殴った事は本当に衝撃だった。顔を真っ赤にして、肩を震えながら上下させ、目は充血している。まるで大人が怒っているようだった。子供も教師もみんな静まり返ってシオヤを見ていた。もうみんなシオヤがこの町にいる事には慣れていたけれど、まだシオヤは転校生だった。僕も作文を書く手を止めてシオヤを見ていた。シオ

ヤは先生から作文を奪い取って、外に出て行ってしまった。先生はしばらく唖然とした後、我に返って「みんなは作文の続きを書きなさい」と言ってシオヤを追った。その日シオヤが再び教室に顔を見せる事は無かった。次の授業が始まる頃にはみんな忘れて、教室はまた騒がしくなっていた。放課後、僕は友達数人とかくれんぼをしていた。いつもはサッカーをしているのだが、今日は校庭を整備するとかで使えない為、急遽かくれんぼになったのだ。僕は隠れ場所に困っていた。もう四年もサッカーができない度にかくれんぼをしているので、みんな目ぼしい隠れ場所は暗記してしまっている。今回の鬼はウザさ定評のあるヨシヒトなので、絶対に捕りたくはない。まだ隠れきれる可能性があるとすれば、四つ葉

山である。校庭と直に繋がっているこの山は、子供が遊べるように整備されているものの、少し奥に行けば人間の世界ではない。もちろん奥に入る事は禁止されているが、無視をしても構わないだろう。僕は誰かに見つかって告げ口されないよう、人のいない倉庫裏から山に侵入した。傾斜の強い茂みを木の枝を握りながら進み、少しは平坦な場所に出た。根と土の間に少しの空間がある木を発見して、僕はそこに身を隠した。湿った土の臭いと、校則を違反している背徳感が僕をワクワクさせていた。誰にも見つからないよう息を潜め、もう何人捕まったかなと想像した。こんなに楽しいのなら、二日に一度くらいはかくれんぼもいいかなと僕は思った。何十分も隠れて、少し様子を見に行こうかと思った僕を止め

たのは、風ではない何かが草を揺らす音だった。ザク、ザクと音を立てて僕の方に近づいて来る。鬼だったらまだ良いが、先生だったらどうしよう。焦る僕をよそに、音の持ち主は僕を超えて更に奥に行った。身を乗り出して見てみると、そいつは何故かランドセルを背負っていた。気になった僕は後を追う事にした。ランドセルはもっと先の何かに集中しいて、それを追っているようだった。時折止まったり急いだりしているのはその為だろう。たぬきでも追っているのだろうか。かなり奥まで来たところで、ランドセルは完全に止まった。追っている対象が歩みを止めたのだろうか。近づいて見て見ると、なんとランドセルの正体はシオヤだった。「何してるんだよ」僕が声を掛けると、シオヤは驚いた顔をして

こちらに振り返った。シオヤの方に登ろうとして転びかけた僕を引き上げたシオヤは、その手で前方を指差し、「あれ、見てみ」と言った。シオヤが指差した先で、十匹前後の赤毛の小動物がひしめき合っていた。その奇怪な光景を見て、僕は数年ぶりに赤ヤギの存在を思い出した。赤ヤギは、この町の七不思議の一つである。物心ついていない子供にだけ見え、大人に近づくと存在すら忘れてしまう生き物である。名の通り身体は赤く、通常のヤギよりかなり小さい。子供が大人に赤ヤギの話しをしても信じないし、子供も子供で精確な赤ヤギの記録を取ろうとはしないから赤ヤギは依然未知の生物であった。小4になっても赤ヤギを見ることが出来るというのは大そう不思議な事で、一度赤ヤギの存在を忘れた僕

が再び赤ヤギを見ている事は更に不思議だ。まさかシオヤも僕も物心を失い幼稚園児にまで退行してしまったのではないかと、僕は少し恐怖した。目の前の赤ヤギはどんどん増えていった。どこから来たのか、赤ヤギは四方から次々と現れ、辺りは赤ヤギで溢れかえってしまった。気がつくと僕達もすっかり赤ヤギに囲まれてしまった。身動きが取れないまま時間が経ち、その間赤ヤギはどんどん増えていった。「お前、バスじゃないの?」シオヤがそう言って僕は思い出した。僕のように家が遠い者は毎日スクールバスで登下校している。放課後の便は四時に出てしまう。乗り遅れたら最後、親に車で迎えに来てもらうしかない。「あ、でももう五時か。だめだなこりゃ」空を見ながらシオヤはそう言った。「時計

無いのに、何で分かんの?」不思議に思って僕は聞いた。「今太陽があそこにあるだろ?それで大体の時間は分かるよ。本で読んだんだ」大したものだな。と僕は思った。そのまま長いこと立ち尽くして、ついに赤ヤギの群れは動き出した。赤ヤギに押し流される形で、僕達も歩き出した。赤ヤギのゆっくりなスピードに合わせて、山の奥を葬列のようにゆっくり進んだ。足を一歩前に出す度に、その音を確かめるだけの暇が生じる程ゆとりがあった。それほどのんびりした行軍だった。何度か瞬きをする間に、時の流れが加速してしまったようで、空の星が点々と増えていった。目をこすったらもっと時の流れが変になってしまい、夜の風が空気中に染み渡り、いつもより大きい満月が夜空を掌握していた。僕達は

この謎の儀式のゲストでも部外者でもなく参加者なようで、赤ヤギは僕達を邪魔者扱いしていない。赤ヤギの僕達に対する無関心はその意思表示なのだと、僕は受け取った。奥に行けば行くほど、月明かりが木々を透かして放つ怪しい紫色の光は強くなった。足を進める度、こげ茶色の土を糊代わりに緑黄の草がズボンの裾にこびり付いた。爪の間を土が埋めて少し痛い。進めば進むほど体は不純物無く汚れていった。その度合いに反比例して感覚は清く研ぎ澄まされ、感傷癖のある僕はどんどんこの空間に慣れていった。山には人間に分からない交差点があるらしい。その交差点に差し掛かる度、他の赤ヤギの群が他の道から合流して来た。雪だるま式に赤ヤギの数が増え、世界が赤ヤギで溢れた所で目的地が見え

た。傷が付く程に洗われ、研ぎ澄まされた僕の感性が山の正体と赤ヤギを目撃した。山の終わりであった。単に頂上という意味ではなく、動植物のみが知る自然の道を進んだ先であった。四方を山々に囲まれている、深く広い無言の穴であった。静けさすらも黙らせる、底の深い穴であった。傾斜は皿のように緩く、歩いて降りられそうだ。穴の淵から、赤ヤギは円を描くように集まって穴を覗いていた。この狭い町のどこにこれ程の数の赤ヤギが潜んでいたのだろう。パノラマは赤ヤギで埋め尽くされていた。僕達を囲んでいた赤ヤギの群れは、僕達を置き去りにして穴を下った。後は見ていろという事なのだろう。近くにいる赤ヤギも遠くにいる赤ヤギも動き出した。その姿は壮大であった。千の赤ヤギが同じリ

ズムで足を動かし、同じタイミングで呼吸する。赤ヤギが息を吸えば、辺りの酸素が少し薄く感じる。赤ヤギが息を吐けば、辺りの酸素が少し濃く感じる。強く風が吹こうとも乱れぬ統率で身体をコントロールする赤ヤギ達は、やはり強く組織作られているようだ。

穴はすっかり千の赤ヤギで埋まってしまった。穴の巨大さを持ってしても、千の赤ヤギをゆとり持って収容する事はできなかった。おしくらまんじゅうのように赤ヤギはぎゅうぎゅうに詰められていた。しばし、音の無い時が流れた。赤ヤギは何かを貯めるように無言を貫き、僕達は目の前の光景に集中し切っていたため何も話そうとは思わなかった。雨雲に隠れた月がもう一度顔を見せて、始まった。千の赤ヤギが、今度はそれぞれのタイミングで月に顔を向け、力の限り叫んだ。膨大な音は、一旦は山に溢れたものの、直ぐに収束し、月に向かった。音速なんかよりもずっと速い音は、一瞬で宇宙旅行を終え、月に辿り着いた。赤ヤギの音を受け取った月は低く重く震え、更にその怪しい輝きを増し、明かりを地

表に返した。空間が星をまぶした様にキラキラ光る紫色の粒子に包まれた。粒子一粒一粒を蛍が捕まえ、赤ヤギの下に運んだ。赤ヤギが粒子を食べてしまうと、彼らの身体はどろどろと融けはじめた。溺れるように首を捻らせながら赤ヤギは溶け、赤い液体となった。千の赤ヤギの液体は穴ぴったりに収まり、その光景はまるで鍋の中のスープのようだった。赤ヤギの体が崩壊しても、僕はこの赤いスープから死の印象は受けなかった。液体になり混じり合っても、一匹一匹の意思がまだあるように感じたからだ。赤ヤギが融けた事を確認した月が、もう一度光を地上に送った。今度は赤ヤギのスープに向けて光を束ね、照射し続けた。光がゆっくりと時間を掛け穴の底まで行き渡り、月と赤いスープが一本の線で繋

がった。線を数回引っ張って、その強度を確かめた月は、重いドアノブを回す時のようにゆっくり回転を始めた。回転が光の線に伝わり、光の線の回転が赤のスープに伝わり、スープは掻き回された。初めは、穴からこぼれてしまわないように、ゆっくり、ゆっくりと月はスープを掻き回した。次第に回転のスピードは増し、スープは渦を描き始めた。回転のスピードが増せば増すほど、赤ヤギ達の意識は一つになっていった。渦の外側の意識が内側の意識と合わさり、意識の浅瀬と深層が互いを取り込みあった。自我を守ろうとする心が薄れ、他者と混じり合う快感を求める欲が強くなる様は、少し恐ろしかった。千の意識が結合した所で月は回転のスピードを緩め始めた。バランスを失わないように、のんびりと。

月の回転が止まった瞬間、スープが中心に集り、轟音と共に巨大な竜巻になり宙に弾け飛んだ。空を突き破りながら月を見据える赤いドリルは、強大な風を山に撒き散らし僕達を吹き飛ばしかけた。乱暴なように思えるこの風にもまとまりがあるようで、ひゅっ、ひゅっと歯切りの良い音が聞こえた。竜巻は月に向かって伸び続け、本当に着いてしまうのではないかと思うほど巨大になった。僕達は首と腰を大きく曲げてその成長を観察した。竜巻は伸びながら、穴の底に根を張った。根は大地をショベルカーのように握り締め、眠っている膨大な土を地表に引っ張り上げてしまった。穴はすっかり埋まった。永遠に伸び続けるかのように見える竜巻は、突然、身体を動かす事を止めた。時が止まったように赤い螺旋

状の線がピタリと止まり、重力を無視して滞空した。根が大地のエネルギーを取り込み、静止している螺旋に送った。竜巻は大地に身を任せるようにボコボコと茶色く硬い幹を模り、外に飛び出かけたスープの破片は細く太い枝となった。赤ヤギのスープが、一本の巨大な木になったのだ。自然の神秘が当たり前のように目の前に現れて、僕達は驚きや恐怖を通り越して感動していた。目の前の光景が一体なんなのかという疑問はどうでもよく、ただ自然の偉大さに敬意を抱いていた。僕達はほぼ無意識に巨木に近寄った。近づいて、木の大きさを思い知った。どんなに目を細めて見ても先が見えなかった。東京ドームでは比較対象にすらならないほど太く、東京スカイツリーがジャンプしても飛び越えられないほど

長い木。自分達生物よりも高位な存在に思えてしまう。僕達が感傷に浸っていると、巨木のいくつかの枝が上下し高低を変えた。木の幹を軸にした螺旋階段のように枝が変体し、僕達の足先に最初の一段を設けた。僕達はそれについて何の相談もせず、枝の螺旋階段を登り始めた。枝は見た目以上に硬く、そして足によく馴染んだ。中身がたくさん詰まっているようだ。階段毎の間隔は少し遠かったが、注意せずに渡らずとも下に落ちることはなかった。高い所で強風が吹いても、枝が上手く支えてくれた。シオヤと共に階段を登りながら、僕はふと下を見た。もう木々が小さく見える程高所に来ていたが、月明かりに照らされ黄色を帯びた葉が風になびいて、揺れているのがよく見えた。高所に行けば行くほど、夜

独特の胸をくすぐる匂いは増している。空の階段を登り続けたら、最終的には月に着いてしまうのではないかと思っていたが、人間の終着点は木の半分くらいの高さにあった。木の幹が突出して、大きさから言えば階段というよりその踊り場。階段はそれ以上続かなかった。僕がそこから遠くの景色をぼんやり眺めていると、シオヤが言った。「おい、これ……」木の幹に、ちょうど僕達の手に見合うドアノブのような突起が付いていた。ドアノブはあるのだが、ドア自体は見当たらない。しかしこのドアノブが何らかの意味を持っていることは明白であった。「じゃあ引くぞ」僕が頷くとシオヤはその夜中のカフェのようなドアノブを引いた。ベリベリベリ。と皮を剥ぐような音がして、幹に長方形の亀裂が走り、

ドアの形が浮かび上がった。シオヤが構う事無くドアを更に引くと、中にあった空間から優しく暖かい光が僕達を覆った。目を細めながら、僕達はその空間の中に足を一歩踏み入れた。木の中身をそのまま綺麗にくり貫いたような部屋だった。広い床も高い天井も木本来の難解な木目で、明かり代わりに小さく強い光を発する蛍が宙に数匹浮いていた。その光が反射を繰り返して、暖かい春の昼下がりそのものの空間を作り出していた。奥の壁に立て掛けてある大きな振り子時計が部屋のシンボルとして君臨していたが、僕達の目を引いたのはそれではなく、部屋の中心で人魚のようにペタンと座っている人間であった。彼女はこちらを向いて、下唇を口内にぎゅっと締まって、大きな目で僕達の全身を舐め尽くすよ

うにジロジロ見た。「お前らだれー?」女の子が首を傾けて僕達に言った。僕は自分を何と説明したら良いのか分からなかった。「こ、コトネ?」シオヤがそう言ったのを聞いて僕は思わず彼の方を見た。「ん。そうだよー」女の子が答えた。コトネとかいう名の女の子に会った事はないが、僕はこの女の子に容姿のよく似た、というよりそっくりな人間を知っていた。唯一違うのは、この子が僕より少し年上に見える点だ。「ま、まんまだ……」シオヤは言いながら床に座り込んでしまった。「まあそっちも座りなよ」女の子に言われて僕も座った。「はじめまして。かな?」女の子が頬を掻きながら言った。振り子時計が時間を刻んだ。僕とシオヤは顔を見合わせて、心の中で「お前が先に口を開けよ」と言い合

った。僕達はこの状況に恐縮していたというよりも、初対面の人と話すという事に恐縮していた。「あ、あの、俺シオヤです……」シオヤが先に口を開いた。度胸のある子だ。「ん?なんか知ってるなあ。いや知らないかなあ」女の子が頭を掻きながら言った。「そっちの子は?」女の子が僕に聞いた。俺はユタカです。と緊張している僕は語尾を浮かばせて答えた。 女の子が大きな声で「うーん。シオヤってのは知ってるなあ。だれだったかなあ。うーん」と独り言を言い続けながら頭を掻き続けた。その間僕とシオヤは下を向いて黙っていた。女の子が「まあ、いいや。ねえ、なんか喋りなよー」と言って、シオヤが何か思い詰めた顔でランドセルの中を漁り始めた。プリントやら何やらでゴミ箱のようなラン

ドセルの中から、シオヤは一冊のノートを赤ん坊に触れるように大事に取り出した。「これの、8ページ、下書きだけど……」シオヤは僕と女の子の中間の空間にノートを差し出した。どちらが受け取るべきか一瞬分からなかったが、僕は「じゃあ俺が」と頭を下げて言ってノートを受け取った。ノートにはクラスも名前も書かれていなくて、中にはページいっぱいに汚い文字がびっしり書かれていた。目を凝らしてよく見てみると、書かれているのは授業の内容ではなくて、小説のようであった。隅にページ数が書いてあって、ペラペラと8が書いてあるページまでめくり読もうとしたら、女の子がにゅっと僕の横から覗いてきた。僕は緊張した。8ページには、コトネという女の子の事が詳細に書き込まれていた

。肩まである綺麗な黒髪、リンゴを搾ったような声、白く動き易そうなワンピース、細いが健康的な手足、八重歯が勲章のようににゅっと出て来る笑顔。全て横の女の子と一致していた。ストーカーの日記のように表現豊かにそれらが表されていた。僕は、僕だからこの文のモデルになっている女子の存在に気付けた。同じクラスの杏子という女子である。僕の好きな女の子だ。「お前杏子の事好きだろ」え、何で知ってるん。という言葉がシオヤの顔に浮き出た。「えー、なになにきょうこって誰ー?」女の子が冷やかすように言った。僕が、シオヤが杏子の事を好きだと断言できたのには照れくさい理由があった。自分達の妄想によって練りだされる思い人のイメージはやはり現実とは少しずれた物で、そのずれ

が一致していたのだ。僕が杏子に抱いている妄想のイメージとシオヤが小説の中でコトネに描いたイメージが全く同じであったのだ。僕達にとって永遠のミステリーである思い人は、どうしても自分達より少し年上にイメージしてしまう。それがコトネの容姿に表れていたのだ。そうなると少し読めてきた。このコトネという女の子はシオヤが小説に描いたキャラクターがどうにかして具現化したものらしい。確信した訳ではないのだが、僕はアニメのような事がテレビよりも鮮明に起こった事にワクワクし始めていた。僕がこの考えをシオヤに話すと、シオヤもやっぱりそうかなと頷いた。コトネは「うち、小説のキャラだったんだー」と半ば無関心そうに言った。それから僕とシオヤはポツリポツリとコトネに質

問をした。好きな女の子がイメージ通りに目の前に現れているからかだいぶ緊張していたが、いつからここにいるのだとかこの木はいったい何なのかとか核心に迫る質問をした。コトネは「わかんない」と回答した。しばらく話して僕達はかなり仲良くなった。公園で出会った知らない子供と遊ぶ時のように、自然に仲良くなった。コトネに対しては、自分達のエゴを具現化したような存在だから気が合うのも当たり前だし、シオヤとも「好きな女の子が一緒とは気が合うな」という事で何故か仲良くなった。僕達はかなり純粋だったから、馬鹿だったから、互いが恋敵だなんて事はどうでもよかったのである。この広い部屋で鬼ごっこでもするか。という話になったところで、振り子時計をなんとなく見た僕は思い

出した。「やべえ、もう夜中じゃん!」僕が言ってもシオヤは特に焦った様子を見せなかった。「俺、今日家に誰もいないしここ学校から近いから大丈夫だよ」「そうだよまだいなよー」二人は言うが僕はそうはいかないのである。こんな時間に家に帰ったら大変怒られるだろう。僕がやっぱり家に帰ると言うと、シオヤは「じゃあ俺も帰ろうかな」と言った。コトネが「えー、もっと一緒にいようよ」と駄々をこねた。コトネの精神年齢は容姿の割りに幼いようだ。「また来るからさ。お前も行くだろ?」もちろん。と僕は返して部屋から出た。帰りの螺旋階段を、僕達は一段抜かしで飛びながら降りた。二段抜かしも挑戦してみようかと思ったけれど、怖いので止めた。木を降りてから学校に出るまでの道のりは

かなり短かった。赤ヤギ達と山の終わりまで歩いた時には長かったのに、また不思議だった。その短い山道を駆けながら、僕はシオヤに、何故先生を殴ったのか聞いた。「あいつ、俺の作文書き換えやがったんだよ」シオヤは不機嫌そうにそう言って、僕の前を駆けて行った。学校に忍び込んで公衆電話から家に電話しようと思っていたが、校庭にいた先生に僕達二人とも捕まった。学校の先生達はずっと僕らを探していたらしい。後で聞いた話によると、警察に捜索願いも出されていたらしい。親が学校にやって来て僕をキツく怒った。お母さんはちょっと泣いていた。僕は山で遊んでいたら帰り道が分からなくなったと説明しながら、次行くときはもっと早く帰ろうと思った。シオヤの親は最後まで学校に来ず、

結局シオヤは先生に送られて帰った。車の中で、今日手に入れた自分達だけの秘密を握り締めた。家に帰ってすぐに、疲れた僕は寝た。5学校転校二日目は雨だった。夜のアスファルトのように清潔さのない雨だった。僕が教室に入った時、やはり空気が変わったような気がした。3時間目までは特に何も無かった。みんな静かに授業を受けていた。4時間目の授業が始まって突然、騒がしくなった。太った女の先生が小声で注意した。後ろの方の席で誰かが「あいつ何か言ってんぞ」と言った。先生はその声を無視した。センセイは半分泣いていた。5時間目は担任の先生の授業だった。4時間目ほどではないにしろ、騒がしい授業だった。先生はそれを特に気にしている風ではなかった。さっきの生徒が「あいつ

またシクシク泣いてたぜ」と先生に言った。先生が「まったく、使えねぇなあいつ」と言うと数人笑った。騒ぎ声が大きくなっても、先生は特に注意しなかったが、誰かがガムを噛んでいるのを発見すると大声で怒鳴った。僕はそれらの授業を顔を伏せて受けた。放課後、先生が帰ろうとする僕を呼び止めた。僕は鞄を持ったまま、狭くて椅子が二つだけある生徒指導室に連れて行かれた。「色々大変なのにちゃんと学校に来ている君はすごい」と先生は僕を褒めた。僕は先生が何を言っているのかさっぱり分からなかった。その後先生は僕に、勉強で見返してやれという事を回りくどく話した。帰り際、先生は学校にある自動販売機で僕に飲み物を買ってくれた。僕は帰りながらまたあの町の事を考えた。まだ家に

帰りたくなかったので、家の近くにある少し大きい公園を散歩した。6シオヤの部屋僕とシオヤが数時間失踪した事は、学校でちょっとしたニュースになっていた。うちのクラスではもちろん、他のクラスの人もみんなゴシップ記者のように僕達に馬鹿な質問攻めをした。先生は昨日の事件は自分に責任があると一晩悩んでいたようで、だいぶ眠たそうだった。昨日の事件のせいで山に入るのはかなり難しくなっていたのだが、やはり僕達は無視して行こうと午前中は考えていた。考えていたのだが、午後になって雨が降り出してしまい。僕達は顔を見合わせた。昼休みに相談して、コトネには申し訳ないのだが、結局今日は山に行かず、シオヤの家で小説を見せてもらう事にした。シオヤの家は、学校から20分程

歩いた所にあるアパートだった。「今日も親居ないし、夜までいてもいいぜ」シオヤは皮肉混じりにそう言った。不思議な散らかり方をした部屋だった。ゴミは落ちていないのだが、ロボットのプラモデルと、汚い文字で埋め尽くされているノートや原稿用紙が床に散乱していた。「これ見てみ。この間色塗ったんだけど、カッコいいだろ。ここを動かすとフレームが見えて……」シオヤは床から赤いプラモデルを拾い上げて、僕に自慢した。良く出来ているのだが、シオヤには綺麗に展示する気など無いらしい。「これ、全部お前の小説?」プラモデルよりも紙の方が気になって僕は聞いた。「ああ。そうだよ、でもそれはゴミとそんな変わんないから気にしなくていいよ」気にするなと言われても、こう足の踏み

場が無ければ踏まざるを得ない。人様の努力の結晶を踏みたくは無かったので、僕はなんとか紙を避けながらシオヤについて行った。「ここ、俺の部屋」シオヤが扉を開けるなり、中から「ぼがあ」という間の抜けた鳴き声が聞こえた。「あ、お前、木になんなかったんだ!」シオヤが喜びながらその赤ヤギを撫でた。赤ヤギは気持ち良さそうに目を閉じてリラックスした。シオヤ曰く、この赤ヤギは度々シオヤの部屋に遊びに来て、シオヤの小説を読んだり食べたりするそうだ。面白い小説は食べずに読んで、つまらない小説だけを食べるというから、シオヤは参考にしているらしい。リビングや玄関に放置されていた小説は、自分でもつまらないと思うので、最初から赤ヤギにあげてしまう予定なのだそうだ。「

これ、コトネが出てるやつ。まだ途中だけど、赤ヤギに一枚も食べられてないんだぜ」その小説だけは、丁寧にファイルに入れられていた。僕は少し緊張してその小説を受け取った。相変わらず汚い字だったが、床に散乱している物よりかは読み読み易かった。告死鳥。と題されたその小説は、僕の文学観に衝撃を与えた。カメラでは写せない明暗や情緒を完璧に描ききった情景描写。残酷ながらも美しいストーリー。そして風通しの良い爽やかな世界観。僕は生まれて初めて、言葉の流れを綺麗だと思った。この小説を読んでいるだけで、生まれた瞬間のように何でも観る事ができた。「すごい、すごいよこれ!」僕は本心からそう言った。シオヤは照れ臭そうに「これ人に見せるの初めてなんだ」と言った。少年

は大きな木の中に住んでいる小人の少数民族で、木の最下層には人の言葉を話す告死鳥が住んでいる。いたずら好きの少年はある日告死鳥を怒らせてしまい、少年一人を残して村人が全員告死鳥に殺さる。少年は贖罪のため、辛く寂しい罰が与えられるという秘境を目指し、一本の枝の上を旅する。小説はそこまで描かれていた。

7学校

僕が学校に慣れた頃、僕はいじめられ始めた。色んな人から色んなやり方でいじめられた。なんでこんなことするんだろうと僕は長く考えた。考えて、唯一分かったのは、みんななんだかつまらなそうな顔をしているという事だった。いじめっこだけではない。何もしてこない人も、先生もだ。先生が最初につまらなそうな顔をして、それに続いてみんなつまらない顔をした。何がそんなにつまらないのだろう。そこから先は考えただけでは分からなかった。暴力的な事はあまりされなかったので、自分がいじめられている事について僕はそんなに悩まなかった。コトネの事でいっぱいだった。 明るいうちにシオヤと巨木に行った。巨木は変わらぬ顔で僕達を見下ろしていた。螺旋階段を空を飛ぶように渡り、コト

ネの部屋に入った。大きな振り子時計の下でペタンと座っているコトネは不満げな顔で僕達を迎えた。おそーい。言いながらコトネは足をバタつかせた。「今日はこれ持ってきたんだ!」シオヤはメインディッシュを客に運ぶシェフのように、ケースを開けて、ギターを取り出した。弦毎の間隔が広い初心者用のアコースティックギターだ。インターネット通販で買ったらしい。1万円で必要な道具から何故かハーモニカまで付いてくるお得なセットだ。中学に上がってからシオヤは急に音楽をやりたくなって、僕は自分が教えることのできるギターをシオヤに勧めたのだ。「ユタカに教えてもらってんだけどさ、上手いんだぜコイツ。手がいやらしくクネクネ動いてさ」シオヤは両手の指をクネクネ動かして見せた

。いやらしいとはなんだ。と僕は言った。「おお、意外だなあユタカ楽器出来るんだ。弾いて見てよ」僕はコトネの言葉を聞いて口の裏でニヤけた。正直今日はコトネに自分のギターの腕前を自慢するために来ていた。昨夜もこっそり練習した。「んー今日は指の調子が悪いなあ。それにいつものギターじゃないし……」一応予防線を張りながら僕も自分のギターを取り出した。 

いつものギターじゃないというのはもちろん嘘である。これも失敗した時の為の予防線だ。完璧なまでに練習したけれど、失敗する可能性も否めない。「シオヤが言うほど上手くないんだけどね……」もう一度予防線を張った。僕は最大限に集中して、傍から見れば難しいように感じるも実は易しい曲を出来るだけカッコつけて弾いた。ミスなく上手くいった。最高だった。「おお、すっごく上手いじゃん!」コトネが拍手しながら言った。嬉しい。「それ、ちょっとやってみたいな。貸してみて」コトネは承諾を得る前に僕の手からギターを奪った。「弦危ないから気をつけろよ」シオヤが少し心配そうな顔をして言った。びいん。びいんと弦を一本一本コトネは鳴らして音を確かめた。「ん?ここの音、もっと高

い方が好きだなあ」弾いている内に音がずれていく事はよくあるけれど、僕の耳はチューニングが狂ってるとは思わなかった。一応、チューナーで音を確かめてみた。コトネが言っている弦がメーター一ミリ低くなっていた。まさか。と僕は思った。「指で押さえて音を変えるのか……」ちょっとやってみよ。の声の後、僕達はまたしてもコトネに度肝を抜かれた。 百人のジミヘンが少女の体に宿り、一斉にギターを弾き出した。 十本の指が一本あたり十ずつ役割を持ち、それぞれ独立した全く違う動きをしながらも、複雑に共鳴し合いハーモニーを奏でる。攻撃的ながらも優しさと儚さでいっぱいの旋律はクラシックでもロックでもなく風の音に近かった。音楽の洗礼という言葉があるが、まさにそれだった。

感情移入して聴くと涙が止まらなくなりそうで怖い為、頭の隅で全く関係のない事を考えていた。

「ふう、楽しいねこれ」僕とシオヤは心から拍手した。もう放心状態だった。口と涙腺を全開にして拍手し続けた。「もう、からかわないでよ。テキトーに鳴らしただけなんだから」「弟子にしてください」シオヤがのどの奥でポツリと言った。「弟子にしてください!」もう一度言った。堂上破りに遭いながらも僕は気持ち良かった。「自分もお願いします……」僕も弟子になった。 またあの町の事を考えていたけれど辞めた。背の小さい、太った女の教師が教科書を大事そうに両手で持って入ってきたからだ。みんな携帯だのマンガだのを出して大声で騒ぎ始めた。こうなると思い出に集中する事は出来ない。僕も携帯で音楽を聴く事にした。音を最大まで上げて、周りの音が入らないようにした。女の教師が

、唇をぼそぼそ動かしながら黒板に文字を書き始めた。女の教師がこちら側を見ることは無い。女の教師が向き合うのは生徒ではなく黒板だ。改めて考えると、去年の僕では全く思い付きもしないであろう光景だ。その光景に一年足らずで自分も溶け込むとは、どうやら人間もゴキブリのようにあらゆる環境に適応できるらしい。女教師が区切りの言い所まで板書した所で、勉強する気があるヤツはノートに写し始めた。僕も数行書いたけれど、飽きたので止めた。この女の教師は、まだ二十代らしい。その割には髪が薄い。目も虚ろだ。女の顔には疲れの他に、少しの幼さが残っている。この女は、教育現場に何か夢のような物を抱いて飛び込んだのだろう。いじめだとか、学級崩壊だとか、この仕事はそんなデリ

ケートな問題と多く向き合わなければならない。それでも、子供たちの前で教鞭を振るう事は夢になりえる。もしかしたら良い学校に出会えるかもしれないし、悪い学校に当たったとしても、子供たちと向き合って自分が変えてやればいい。そう思っていたのだろう。残念ながらこの女は教師に向いていない。教師に必要なのは勉強の教え方だけではない。人間としての余裕も必要だ。この女にはそれが無かった。それが無い教師は、教え子に飲まれる。教師は教え子に舐められたら終わりだ。だからこの女は教師として不十分だ。女の授業が終わり、生徒から舐められていない教師の授業が始まった。携帯もマンガも騒ぎ声も教室から消えた。みんな真面目に先生の言葉を聞き、全員がノートを取る。時折手を上げ

て先生に質問する奴もいる。先程の教室とはまるで別世界だ。結局眠れないまま三時になった。顔を洗って、服を着替えて、昨日用意したリュックを担いだ。音を立てないようにドアを開けて、出発した。 外は信じられない程暗く静かだった。空間の色が紫を帯びて黒かった。誰もいないのに点灯している信号機が、更に闇を深めていた。ナイフで切れてしまいそうな夜は実在するんだと思った。

駅へと続く長い坂を登っている時、初めて僕の隣を一台の大きなトラックが駆けて行った。トラックから出る排気ガスを吸って、やっとこの夜に人間の臭いを感じた。駅前まで来ると車が数台見えた。コンビニ以外にはどの店の明かりもついていなかった。券売機には僕以外誰もいなかった。改札を通ってホームに出ても、エンジンが掛かっていない電車が二台寝ているのみだった。僕一人しかいない車内はとても広かった。電車が動き出す数分前に、派手な服をきた女の人が疲れ切った顔をして乗ってきた。椅子に座るなり化粧道具を取り出して、顔を整え始めた。 電車が動き出して、窓から眠っている街を眺めた。 駅を跨ぐごとに、乗ってくる人は増えていって、東京駅についた時には満員になっていた。

東京駅は広かったけれど、案内板がたくさんあったので迷わずに済んだ。ホームの端まで行って、線路の先にあるビル群をしばらく眺めていたら新幹線がやって来た。運転手が降りて、交代の運転手と敬礼を交わしているのを見た。

僕の席は自由席だったけれど、新幹線が動き出しても誰も乗って来なかった。そろそろ電車から景色を眺める事に飽きて、音楽を聴こうとしたけれど、止めた。過ぎ去って行くビルの間から、太陽がこぼれ出たからだ。太陽は一瞬にして夜を終わらせ、朝を始めさせた。その圧倒的な存在は雨雲の下辺をなぞり、太く薄い線を描いた。いつか見たのと同じ景色は、僕が思い出の場所に向かっている事を改めて考えさせた。何処にいても故郷と同じ姿で見る事ができる唯一の存在。彼が僕を毎朝迎え入れてくれた。

僕がいない事に気づいた親から電話が掛かって来た。出たくなかったので無視すると、今度はメールを送ってきた。今どこにいるんだとか、今日も学校はあるんだとか、予想通りの内容だった。「やらないといけない事があるから向こうに帰る。3、4日したら家に戻ると思う」と僕は返した。家に戻る事を宣言した家でなんて変だなと思い、少し笑った。親に、今すぐ戻れと言われる思っていたけれど、「向こうの人に迷惑かけんなよ」とメールが来ただけで、後は何も言われなかった。ありがとうと僕は心の中で思った。 腹が減って眠たかったけれど、このまま寝てしまったらいつまでも目を覚まさないような気がしたので、本を読んで意識をつないだ。車内販売の女の人が僕を見て微笑んだ。長いトンネルに

入って耳鳴りがした。トンネルの明かりは相変わらずオレンジだった。車窓に頬杖をついた僕の顔が映った。当たり前だけれど排気ガスの臭いはしなかった。もうすぐ会える!  結局寝てしまったけれど30分程で起きた。車窓にはビル群でも僕の顔でもなく懐かしい田んぼが映っていた。僕はそれだけで嬉しくなった。田んぼの真ん中に突き刺さっている電柱にカラスの群が泊まっていた。渡り鳥が田んぼの水を飲んでいた。

仙台駅に着いてからはローカル線だ。広くて数人の高校生しかいないホームで僕は電車を待っていた。僕もこの町に住んでいたらあの高校生達みたいになるのかなと思った。だいぶ長く待ってやっと5両くらいしか車両のない電車が来た。僕は運転席のある車両に乗った。ドアの側に見るからにアナログそうな機械が付いていた。電車はトロトロと発車した。海のように見晴らしの良い田んぼ道を電車はのんびり走った。まるでおじいちゃんのジョギングだ。僕のよく知っている地名の駅に着く事があった。僕はその度に、そこに駅があったことを初めて知って、衝撃を受けた。黒いTシャツに黒いズボンに黒いサングラスの男と、大事な部分が見えそうなほどショートパンツを下げている女のカップルが乗ってきた

。なかなかジャンクフードのような格好の二人だが、そのバック永遠に田んぼ道な訳で、光景のシュールさに僕は笑いかけてしまった。 電車は海の見える線路を渡った。やっと似合いそうな景色になったのに、二人は前の駅で電車を降りてしまっていた。短い山のトンネルを潜って小さな駅に電車は止まった。待っても待っても電車は動き出さなかった。僕は点検とかかなと思って、車内から出た。海とは逆側の線路に隣接している小山に、スズメが巣を作ろうとしていた。今にも折れそうな枝の上に頑張って草を運んでいた。無事完成するといいなと僕は思った。海の側を見ると潮の匂いがした。車内に居る間やスズメを見ていた時には感じなかったのに。視覚的な問題だろうか。「昨夜の大雨で江合川が氾濫し

たため運転は見合わせ――」少し訛りの入ったアナウンスを聞いて、僕は思わず「マジかよ……」と口に出してしまった。電車で来るはずだったのだが、これ以上先に進めないのではどうしようもない。駅の外に出、タクシーの運転手に目的地までの料金を聞いたが、やはり帰りの分を考えると足りなかった。財布を覗いていたら旅行者らしい男の人に話しかけられた。電車が止まってしまって困っていて、よければ金を出し合って相乗りしないかという事だったが、目的地が真逆だったので断った。結局男の人は仲間に迎えに来てもらうのを待って、その間散歩でもするらしい。僕は本気でヒッチハイクをしようか考えたが、とりあえず頭を冷やす為少し歩くことにした。幸い天気も良く、潮風が気持ち良かった。

よじ登って遊んだら楽しそうな、洞窟のある岩山がいくつも海に浮かんでいた。海から流されて来た砂の上を歩いた。靴下の中に少し砂が入った。旅館の看板が多く立っていた。出店がたくさん出ている所まで来ると、日本人の旅行者だけでなく、外国人の旅行者がたくさんいた。僕は多くの旅行者が風景写真を撮っているスペースの一角に腰を下ろして島に浮かぶを小山の一つを見た。和の世界観が人間によってではなく自然に発生していた。日本人の侘び寂びの精神はこういう景色から来ているのかなと思った。船で小島を見て回るツアーの看板があった。乗りたいなと思った。小さい子供が海鳥にえびせんをあげていた。一匹が食べると大勢の海鳥が子供の基に集っていた。僕も他の旅行者と同じように、なん

となく小島の写真を撮った。やはり目で見たほうが綺麗だった。シオヤに文章にしてもらって、いつでもこの景色を携帯したいと思った。 僕が口を開けて空を見ていると、「あのー」と誰かが話しかけて来た。先ほど駅で会った男の人だ。「あっちで、代行のバスが出ていますよ」だいこうばす、ダイコウバス、大幸バス、代行バス。僕は頭の中で、果たして食パンに味はあると言えるのか考える時のように言葉を反すうした。「ありがとうございます!」僕は教えてもらった停留所へ行ってみた。確かに僕の故郷まで行くバスが40分後に出るらしい。 時間まで僕はもう一度散歩をする事にした。少年というのは冒険が大好きで、散歩は僕が今できることの中で最もそれに近かった。そういえば、僕は駅弁を買

い忘れていた。午前三時に起きてから今の今まで何も食べていない。何となく目に入った出店でカキの串刺しを買った。カキが五つ刺さって一本。その内の一つを店員のおばさんが落としてしまって、僕はカキが地面に触れる寸前の所でキャッチした。熱かった。すぐ口に入れた。美味しかった。

海の見える町を散歩した事は初めてだった。この町に住んでる人は潮風なんて飽きてしまっているのだろうけれど、今の僕には永遠に新鮮さを感じられるような気がする。ビーチがあるからか、何処に行ってもお祭りのような雰囲気だった。この町の人はこの雰囲気の事をどう思っているのだろう。僕はこの町の、日常の姿が見たくなった。外用ではないこの町の空気を知りたくなった。それは大家族物のテレビ番組を見たくなるのと同じような、大衆的な欲かもしれないが、見る景色に懐かしさを求める欲でもあると思う。

バスに遅れない範囲で人の居ないような、生活の臭いがする方へ僕は歩いた。体の大きい坊主の中学生が小さな橋の上を自転車で掛けて行った。頭に白いタオルを巻いているおじさんが、桟橋の上で眩しそうな顔をして釣りをしていた。気づかれないように近寄ってバケツを覗いてみると、中にはサバばかりが入っていた。海と道路の境界が曖昧な道を進むと、誰もいない小さな砂浜に、5メートル程の自由の女神が立っていた。女神の下には赤い花が何十本も置かれていた。女神の左腹が大きな力に抉られていた。「おう兄ちゃん。どっから来たの」筋肉質の漁師さんが僕に話しかけて来た。コンクリートブロックの上に座ってタバコを吸っている。休憩中だろうか。「東京からです」「ほお、そりゃまた遠いとこ

ろから。観光かい?」「友達に会いに来たんです。前東北に住んでて」「おおいいねえ一人旅か!子供が育ってりゃうちも一人旅させてたんだけどなあ」漁師さんは空を見ながらそう言った。タバコの煙が女神の肩を潜って空に飛んだ。「この町に来たんなら、あそこ登りな。何にもないけど、景色が見れるぜ」漁師さんは女神の右手方向にある山を指差してそう言った。「分かりました。行ってみます」僕は頭を下げた。 バスの時間はギリギリだったけれど、僕は漁師さんに教えられた山を上った。見た目より小さな山だったからすぐ頂上まで登れた。そこにあった何かが無くなったような景色だった。海は視界の彼方まで広がっていた。空と併せて見ると地球が丸い事を何となく感じられた。 バスは、僕がよ

く知っている景色と似ている道を走った。田んぼの傍らに小さな地蔵がいて、バス停の隣に雨を凌ぐための小屋があって、農作業をしているおじさんがたまにこちらを見ている。ああそうか、僕は今学校に向かっているんだ。このバスはスクールバスなんだ。 バスは本当に僕が知っている道を通り始めた。僕がずっと見たかった景色が急に現れた。昔と何も変わっていなかった。それがたまらなく嬉しかった。知っている物には変わらないでほしいんだなという感情が僕に芽生えた。僕の空想となるまでに薄れていた景色は、当たり前のように僕を受け入れてくれた。まるで昨日もここにいたようだった。僕の心から久しぶりに寂しさが消えた。

バスを降りるとき僕は料金の支払い方法がちょっと分からなかった。210円払えば良いという訳ではないらしい。痩せたメガネの運転手さんに聞いてみた。「ああ、それなら料金所のおじさんに何処から乗ったか言えば良いんだよ」 自己申告で良い事に僕は驚かされた。運転手さんに教えてもらったおじさんに何処から乗ったか告げるとおじさんは何も疑わずに、ああ、なら780円ね。と僕が払う料金を教えてくれた。都会とのギャップを感じた。 町はちょうど夜が始まりかけていた。田んぼの向こう、地平線の向こうで、太陽の頭が小さくなって、空が藍色に変わり始めていた。 携帯をつけて、シオヤに電話した。 「今ついたよ」 「どこ?」「トーバン前のバス停」「分かった。すぐ行く」

久しぶりに知っている地名を使えた。いつもコトネの部屋に行く時にするのと同じ内容の電話だった。何故かシオヤの声が少し暗かった。 自販機で100円の缶コーヒーを買ってシオヤを待った。シオヤはそんなに遠くにはいないはずだが、遅かった。昔と変わらない景色が、時間が止まったように静止していた。唯一温かい缶コーヒーと世界とのギャップが僕にあの恐怖を思い出させた。今ここに来た理由でもある恐怖だ。心の中で絶対に露にしたくなかった恐怖だ。奥に追いやって蓋をして、鍵までかけた恐怖だ。重くて一人ではひっくり返す事すら出来ない恐怖だ。暴力のように流れ続ける恐怖だ。コーヒーは蓋を開ける前に冷たくなった。 夜中の虫が鳴き出して自転車に乗ったシオヤが現れた。「遅れて

ごめん……」今までで一番他人行儀な言葉だった。久しぶりに会った事が理由ではないと、恐怖が僕に無理やり教えた。力のない者がする管理教育のように無理やり僕に教えた。シオヤの顔を見て悟った僕の心は、一瞬外に出かかってすぐに引っ込んだ。そのままシオヤが黙り続けそうだったので、僕が口を開いた。「じゃあ、行こうよ」 僕はシオヤが運転する自転車の後ろに乗った。いつもは僕も自転車に乗って来ていた為、シオヤと二人乗りするのは今日が初めてだった。 暗くぼんやりしている国道を自転車は走り続けた。車が一台も通らないからか、沈黙が空気を支配していた。

幸い四つ葉山は変わっていなかった。僕はその事から少し希望を感じる事ができた。いつもの様に学校裏の神社に自転車を停めて山に侵入した。

山はまた僕を受け入れてくれたようで、暗く草木に道が覆われていてもどこに進めば良いかよく分かった。僕は楽しくなってどんどん進んだ。「なあシオヤ、俺の顔見たらあいつどんな顔するかな!」後ろに振り返って言ったけれど、誰もいない。僕は戻ってシオヤを探した。戻って戻って、入り口から少し進んだだけの場所で呆然と立ち尽くしているシオヤを見つけた。「なにしてんだよ?早く行こうぜ」僕はシオヤの胸を叩いて急かした。「分からないんだ」「何が?」「どっちに行けばいいのか……」 シオヤは僕に何か隠している。僕はそう思った。今日のシオヤは何処かおかしい。

結局僕はシオヤのスピードに合わせて歩いた。これもまた初めての事だった。 木の位置も、星の見え方も、昔と同じままだった。なのに、巨木の前に着いた時にはシオヤはマラソン終わりのように息を切らして疲れていた。 「変わらねえな。この木も」僕が嬉しそうに言った。シオヤは狂人を見る時のような目で僕を見た。 「お前、これ、そう見えるのか?」シオヤが巨木を指差して言った。そう見える。とは、どういう意味だろう。木は相変わらず巨大で、葉の先まで生命力に満ち溢れているように僕には見える。シオヤにはそう見えてはいないのだろうか。

螺旋階段に足を一歩踏み入れた。やはり僕の足に良く馴染む。支え無しでも登って行けそうだ。一歩一歩踏み出すたびに、月が近くなって、コトネが近くなった。照れくさいけど嬉しかった。 またシオヤが着いて来ていない、下まで階段を下りてシオヤを探すと、地上10m位の所でシオヤが木の幹にしがみ付いていた。 「どうしたんだよ、シオヤ」シオヤは風邪でも引いているのだろうか。 「いや、違うんだ。あのな」シオヤは言葉を途中で区切った。それ以上言ってはいけない。あるいは言いいたくない。そんな区切り方だった。僕はシオヤに肩を貸してコトネの部屋に行くことにした。

きっと風邪を引いているんだ。上に行けば行くほど、シオヤは必死にバランスを取った。そよ風が吹いただけでも、吹き飛ばされそうなリアクションを取っていた。 階段の終わりに着いた。踊り場で、月を見ながら深呼吸した。久しぶりにコトネに会う事が、なんだか恥ずかしい。 ドアノブに手を掛けて、中に一歩足を踏み入れた僕を、シオヤが止めた。 「どうしたんだよ。シオヤ……」 ユタカ、お前に、言わなきゃいけない事がある。シオヤが俯いて言った。 何を、言うんだろう。山も、木も、階段も、あるじゃないか。改まって言う事なんて、何があるんだ。僕は呪文のように自分に言い聞かせた。

「コ、トネは、な、もう、消えてしまったんだ」シオヤが泣きながら言った。シオヤは嘘をつく時、涙を流す演技が出来る程器用じゃない事はよく知っていた。よく知っていて、僕は彼が何故そんな事を言っているのか分からなかった。だって、中にコトネがいたんだもの。

ユタカ?ユタカなの?私が、見えるの?コトネが僕に言った。「ああ、当たり前じゃないか」僕が言うとコトネが泣き出した。喜びと寂しさが交じり合った、行き場のない涙だった。「そこに、コトネがいるのか?」シオヤが声の震えを抑えながら言った。「ああ、そうじゃないか。目の前にいるよ。見れば分かるだろ」コトネは、別れ際の時の薄さが信じられないほど、ハッキリとそこにいた。僕の言葉は残酷だった。「いない、じゃないか。どこだよ、コトネは。俺には、見えないよ」視界に入っていないはずはない。二人の距離は1メートルも無いし、互いに向合っている。「なあコトネ、シオヤはどうしちまったんだよ?」 分からない。でも、私はちゃんとシオヤのこと見えてるよ。しっかり、見えてるの

。コトネはどうするのが自然なのか、分からなくなってしまった心で僕に、そしてシオヤに言った。 「お前らどうしたんだよ。俺をからかっているか?」僕は笑ってない目で言った。

シオヤだけがコトネを見ることが出来ない。こんな単純な事を僕は理解できなかった。赤ヤギが木になる所を見てから、どんな不思議も深く考えずに受け入れてきた。なのに、シオヤがコトネを見ることが出来ないという不思議ですら無い事を僕は受け入れることが出来なかった。 部屋に入って、三人とも下を向いて黙っていた。シオヤは俯いて、コトネは静かに涙を流して、僕はそのコトネを見て。黙っていた。大きな振り子時計だけが確かに時間を刻んでいた。 「ユタカには、そこにコトネが居ることが分かるのか」シオヤは自分に向けて言った。「何で、ユタカには、コトネが見えるんだ」シオヤは思考の山を動かそうとしていた。「何で、シオヤに見えて、俺に見えないんだ」シオヤは肩を震わせて、目

を真っ赤に充血させた。昔先生を殴った時に似ていたが、あの時は泣いてはいなかった。「何で俺にだけ見えないんだ!」細い糸が切れた。シオヤが怒鳴った。「何で、お前に見えるんだ!創ったのは俺なのに!」シオヤが僕の胸倉を掴んで、握りこぶしを上に挙げた。 「何でなんだ!お前は!何でなんだ!」 シオヤは拳を振り下ろす寸前の所で止めていた。 僕はコトネを造った訳ではない。コトネをこうして形作ったのはこの木かもしれないけれど、最初にコトネを産んだのは、コトネの父親なのは、間違いなくシオヤだ。僕はコトネにとってただの友達だ。恋人ですらない。 僕の胸から手を離したシオヤは、思考が黒くなったかのように地面にへたり込んだ。

この町に来て初めて時が流れた事を感じた。よく見るとシオヤは昔よりずっとお洒落になっていたし、顔つきも大人になっていた。まったく変わっていないコトネの容姿がそれを引き立たせていた。僕たちはもう、コトネと同じ年齢になったのだろうか。 感情を出し切った二人は、いつの間にか寝ていた。色んな事を放り出して、寝ていた。僕も旅の疲れが出て来て眠い。蛍が星のように宙に浮いていた。 道路の端に生えている長いもやしの夢を見た。僕は車に乗っていて、白と黒の道路が記号のように交差していて、僕はもやしの数を数える夢だ。前にも後ろにも車はいないし、後ろの席にも運転席にも誰も座っていない。誰も運転していないのに車は走り続けていた。

もやしを100まで数えると、パア、と視界が明るくなって、紅いヤギがたくさんいる、宇宙基地のような夢のある場所に着いた。僕はそこで缶コーヒーとカキの串刺しを食べてのんびりしたかったのだけれど、すぐにその景色は過ぎ去ってしまって、誹謗中傷と足の引っ張り合いばかりの教室に閉じこめられた。そこから出るためにはモヤシの道を今度は歩いて渡らないといけなかった。 その朝起きていたのは世界中で僕一人だけだった。白くて眠気でいっぱいの部屋に、僕一人だけだった。 僕は一瞬コトネが何処にいるのか分からなかった。目を凝らしてよーく周りを見渡して、やっとコトネがすぐ側で寝ている事に気づいた。コトネはもう僕の目にも薄くなっていた。

シオヤと、僕を比べて、何でまだ僕にコトネが見えるのか少し分かった。シオヤは、まだ大人じゃないけれど、子供でも無かった。僕がこの町にいない間に、その分れ目の所まで来ていたのだ。僕がこの町の思い出に耽っている間に、シオヤはこの町で色々な経験をしたのだろう。僕が寂しがっている間に、シオヤは色々な物を見たのだろう。僕はずっと思い出を撫でるばかりだったから、少し後ろに下がってしまったんだ。だけどもう大丈夫、この町に来て、時が動き出したんだ。 シオヤが目覚めた。 「あの、昨日は……」 「いいんだよ。それは」シオヤが言い終える前に言葉を被せた。 コトネが目覚めた。 「おはよう。二人とも」

夏休みにここに一週間泊まった事がある。その朝と同じ顔でコトネは挨拶をした。 久しぶりに三人が揃った。シオヤはコトネを見ることも聞くこともできなかったけれど、コトネが言ったことを僕がそのままシオヤに伝えて三人で会話をした。 僕がいない間にあった事を、話しの上手いシオヤは面白く話した。 僕はずっと笑っていた。素で笑ったのは本当に久しぶりだった。もちろんコトネも笑っていた。やっぱり僕がいない間にこの町では楽しいことがいっぱい起きていた。先生のズボンが破けたり、文化祭でギターを弾いたり、新しいカップルが何組も出来たり。そこに居たかったなあと僕は思った。 「ねえ、二人とも」

会話を区切るように、コトネが小さすぎる声で言った。時間を追えば追うほどコトネは薄れていた。もう後数分で見えなくなる事は僕も分かった。。 「ありがとう」 別れの言葉だった。 コトネは、しばらく外に出てくれないかと僕達に言った。 「見られたく、ないの」 少女が大事な何かを脱ぐ時のようにコトネはそう言った。 これでもうコトネに会う事が出来なくなる。それを僕たちは知っていた。もちろん最後の瞬間まで一緒に居たい。それでも、コトネの最後の願いには強い意志があった。 「わかった」 コトネの言葉を僕から聞いたシオヤが言った。さよならとは言いたくなかった。

「じゃ、またな」僕はそう言って部屋から出た。コトネは後ろを向いていたが、泣いているのが良く分かった。僕だって泣いていた。 木の螺旋階段の踊り場で、二人だけの卒業式が始まった。来賓は雨雲の下辺をなぞる太陽の光一人だけ。 「楽しかったな」シオヤが思い出に浸りながら言った。それは教室で思い出を撫でるしかなかった僕とは違った感傷だった。 「これから、どうすんの?」 「作家になるよ」シオヤは前から決まっていた事を改めて決意した。

「ユタカは?」 「分からない。でも、色んな所を見て回りたいな」僕は旅が好きになっていた。 「もう、こっちには住まないのか?」シオヤの質問は少し切なかった。僕はこの町にまた住むという発想すら抱けなかった。それ程にここでの生活は、今の僕にとって遠い物だった。 「いつか帰ってくるよ。きっと」旅に疲れたら、この町に帰って休憩して、また旅に出よう。僕の一つの夢だ。 僕達は、路地裏の大冒険を一つ終えた。気まぐれに立ち寄った道で、神秘を目撃して、近寄って、手で触る。こんなに楽しかった事が、一つ終わってしまった。 「もっと、楽しい事はさ、自分達で作れるよ」 時間が来た事を知らせるように、ドアが独りでに開いた。振り子時計も、電球代わりの蛍も、消えてしまっ

ていて、中心に赤いヤギの死体が孤独に置かれているのみだった。抜け殻は、自らの最後を少しでも晒さまいと、小さく、小さく体を丸めて横たわっていた。ただの脱げ柄と化したその目も口も、何も語らない。山の静けさを集めてもたりない程、静かな死だ。色も、音も、匂いも、誰も主張していない。そこにあるのはただ無だった。意思のないモノクロの中に、僕達はポツンと、力を抜いて立ち尽くした。そして、あまりにも当然のように訪れた光景を見て、痛感した。死は、何でもない事なのだ。本来の死には、悲しさも、寂しさも無い。生きている周りの命だけが、悲しんだり惜しんだりしているだけだ。終わった音の余韻を追っているだけなのだ。この赤いヤギは、誰にも見られないまま、死に行く時間を

孤独に過ごした。誰の涙も見ることなく、自分の体が自然に埋れて行く苦痛に耐えた。辛かったのか、寂しかったのか、僕達には分からない。抜け殻には温度がない。生きる中でついた傷も、血が通わないから、冷たく見える。 「うちに、よく来てた赤ヤギだ」真実を悟ったシオヤが言った。 「埋めてあげよう」僕が言った。この体も、自然に帰してあげよう。 木の下に、小さな穴を掘って赤ヤギを埋めた。土を被せてやると、赤ヤギは直ぐ仲間の元へ、赤ヤギの木へ帰った。 最後のパーツを嵌めた木は、一瞬にして花を咲かせた。 僕とシオヤは初めて、この木が桜の木だった事を知った。

どんな大冒険を終えても、僕は中学生なので学校に戻らなければならない。

しかし、以前よりはずっと楽だった。人の為に作られた道に人の為に作られた建物に人の為に作られた物語。そんな人だらけの中でも、僕はそれも自然の一部にしか過ぎない事を知っていたから、息を詰まらせずに済んだ。 また、誹謗中傷が始まった。杉浦が肩を小さく震わせている。彼女は全くの他人だ。気にする事は無い。関係ない。しかし、関係ないなら、気まぐれで責任を持つしかないだろう。子供染みた考え方だけれど、幸い僕はまだまだ子供だ。

僕は立った。杉浦の席まで歩いて、彼女の手を引っ張って立たせた。手を握ったまま教室を出た。力はいらなかった。杉浦は自分から歩いた。教室が何か騒いでいる。どうでもいい。靴も履き替えずに外に出た。手を繋いだまま土手に向かった。ポケットに財布を入れていた事を思い出して、自動販売機で温かい飲み物を二つ買った。土手に着いて、一番景色の綺麗な所に行った。杉浦に座ろうと言った。僕達は手を繋いだまま座った。しばらく景色を眺めて、杉浦が泣き出した。大きな声だった。ずうっと泣いていた。その間僕は黙って景色を見ていた。杉浦は手を離さなかった。奥の線路を何十回も電車が行き来した頃に、杉浦の鳴き声がすすり泣きに変わった。肩をヒクヒク上下させながら杉浦が言った。「あ

、あずさがね、わたしの、こと、嫌いになっちゃったの」 この一言を歯切りに、杉浦はポツポツ他人の事を話し始めた。 前の彼氏の事や、友達だと思っていた人の事。誰とどんな事をして、どんな風に嫌われて、どんな風に嫌いになったか話した。僕は頷いたり、相槌を打ったりしてその話を聞いた。全部、同じような話しだった。やっぱりこいつ、寂しいだけなんだと思った。 そこそこ大それた事をしたけれど、僕は杉浦の事を好きなわけでもない。ただ、やりたいと思った事をやっただけだった。実際にやってみて、それが思ったよりずっと楽で、気持ちを爽やかにさせる事を知った。 杉浦が僕の方を見た。丸くて大きい目だ。杉浦とは他人だけれど、学校を抜け出した僕達にはかなりの暇があるし、今の僕には心の余裕もある。杉浦の面白味のない話を聞いてやるくらい容易だ。 何かに守られているように、誰も僕達に干渉しなかった。僕達はただ川の流れを見ながらくだらない事を話し続けた。話す事がなくなると、また最初から同じ事を話した。僕たちにはその作業的な事がとても心地よかった。

日が落ちたことに気づいてからも、僕達は30分程話続けた。美しい夜だった。星と川と僕達が一本の線で結ばれて、綺麗な三角形を描いている夜だった。杉浦を家まで送った。手を繋いだまま、また同じ事を話し続けた。家の前に着いても、二人とも何故か手を離したくなかった。数分、手を繋いだまま玄関先で立ち尽くした。ずっとこうしている訳にもいかないので、僕から手を離した。その行為が引き金だったかのように、杉浦が僕の胸に倒れ顔を埋めた。肩に手を回し引き寄せると、杉浦は聞き取れない声で僕に何か言った。言葉は僕の胸を湿らし温めた。杉浦とこれからどうしたいのかなんとなく分かった気がした。 雨雲の上辺を月が撫でた。


少年である日々完



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