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遺書クラブの教授のところ

他のクラウド?にも保存してるが、ここにも載せておきます〜




その晩、悪の集会が開かれた。

まず参加者は、同じようにホテル・ホールを彷徨う会員を一人、捕まえると、時候の挨拶もそこそこに、食事の文句など言いながら、互いに機会(・・)を押しつけ合う。

「去年の方が、ビュッフェは豪華でしたよね?ローストビーフも、もっと分厚かった」

「分厚けりゃいいってもんじゃないでしょう、質ですよ、要は。今年の方が上等な肉を使っていると、私は思いますがね」

「質ですか、ならこれは、どこの肉ですかね?和牛、ですよね、九州かな」

「九州、と言えば」

切り出した方が不利に立つのは明白である。しかし会話はあくまでも前哨戦に過ぎず、やがて演技であるという共通理解の下、どちらかが思い出したような素振りで「あっ、そういえば」などと口火を切る。微笑みを浮かべ、おもむろなふり(・・)をして懐から『品』を取り出しては、財布を差し出す以上の警戒心を込めて差し出し、同じ所作で渡された相手方の『品』にも、目を通す。

「・・・・・・、・・・・・・」

宣言なく勝敗は決する。読むだけで(・・・・・)それは分かるのだ。そして多くの場合、勝利した方が先に口を開く。

「まあ(・・)、探すのに苦労したでしょう。わざわざ九州まで探しに行かれたのですか?」

しかし両者共に勝利を確信していた場合、小さな稲妻が一閃、シャンデリアの下を駆ける。

「いえ、そちらの方が、苦労なされたのでは?私も以前このような(・・・・・)物を見つけたのですが、なかなか、手に入れるのに苦労した記憶があります」

 こじれた場合、声を荒げたりはしない。見るからに不機嫌にはなるが、両者ともすぐにその場を離れ、サービスの酒を含みに行く。

開会から一時間も経つ頃にはそのような独り者で場内は溢れかえり、一般的な立食会とはまるでかけ離れた異様な光景が、出来上がっている。


そんな今年の会場には、都庁付近に所在する『ホテル・ヒルダ』が選ばれた。普段は、結婚披露宴や中堅政治家の講演会が開かれるその7階のホールであるが、今夜の客が演じるのは、革命寸前の王朝で開かれるダンスパーティーのような、醜い見栄の張り合いである――それこそ、結婚披露宴や政治家の講演会のように。

約100名の参加者全員が行為(・・)を済ませた頃、演台に教授と呼ばれる男が登った。白髪で眼鏡をかけ、痩せてこそいるが、その強い眼力と大きな口からは怒りやすい人物であることが容易に読み取れる。

教授は定位置に立ちノートパソコンを開くと、十年単位でクリーニングには出していないらしきジャケットの襟を正した。それを合図に明かりが落とされ、代わりに彼の背で大きなスクリーンが静かに光る。談笑していた者は黙り、広間の全員が壇上に目を向ける。マイクのスイッチ音が「ボクッ」と反響する、音に隠れて生唾を飲む者が数人は存在する。メイン・イベントが始まる。

「毎年、言っていますが」

 瞬間、ホールの緊張は最高潮に達した。

「今年もこうして皆さんに会えたこと、本当に嬉しく思っています・・・・・・さすがに今日は、来ない人も多いと思っていましたがね。いや、皆さんも物好きなもんだ。このホテルの一歩外では、今まさに史上二度目の東京オリンピックが始まろうとしているのに、ましてや、あの血まみれの祭りの主催者までもが、こんな所にいらしている。あはははは」

 教授は会場を一瞥した。ドレスコードを遵守しフォーマルな服装で集った老若男女の会員達が、よそ見する事なく壇上の教授を見つめている。

 しかし教授はそんな視線をなぎ払うように目線を下ろし、演説台のマイクを凝視すると、そのまま一息に語り始めた。

「発見し、手に入れ、自慢し、競わせる。人間の趣味の醍醐味は、どれも、これに尽きます。ここにいる私達、遺書のコレクター(・・・・・・・・)も、夏休みの男の子も同じです。・・・・・・昼間、木に蜜を塗って、夜、そこに集まったカブトムシを捕まえて、しばらくその無骨なフォルムを堪能すると、最後には友達の個体と戦わせて、死なせてしまう。死なせてしまう、ここがポイントですね。私も幼い頃、近所の友達と一つの大きな虫かごを共有していました。とても大きくて中を見通せる、水槽のようなアクリルの虫かごです。そこに互いに捕まえたカブトムシを1匹ずついれて、戦う様子を観るのです。喧嘩してもらいたいわけですから、雌も1匹だけ入れておきます・・・・・・つまり初めから片方が死ぬ事を期待して、透明な戦場に命を放ったのです。死ぬ事を期待して、我々遺書のコレクターと全く同じですねえ。発見し、手に入れ、自慢し、競わせる。時に蜜を塗ってまで・・・・・・。

他人の命から生み出された物を、皆さん口には出しませんが、どっちのコレクションがすごいか、なんて勝手に比較して、挙げ句優劣までつけて、負けた方の価値を貶めてしまう。酷い事やってんですよね。

 でもね、皆さん、世の中で人気を博しているエンターテイメントには、どれもそんな要素が用意されているのではないでしょうかね?可愛いモンスターを集めて戦わせるゲームだったり、今では禁止されていますが、沖縄のハブ対マングースだったりね。戦場を用意して端から眺めるのが、皆さんお好きだ。ワイドショーが取り上げる謝罪会見なんかは良い例です。知名度とか、権力とか、そういう社会的ステータスの高い人間がしくじったのをひたすら糾弾して、当人がどんな服装でどんな仕草で屈辱的な釈明をしたのかってのを、我々は無関係な関係者(・・・・・・・)と一緒に解読する。『プライドの高さが過ちを招いた』とか、分かりやすい原因を見つけた気になって、見つけた標語を小学校の卒業式みたくみんなで飽きるまで復唱する。ほんとう、私達遺書のコレクターがやっている事と、全く同じですねえ。

それから、『競わせる』、とも言いましたが、では私達は遺書の何を競っているんでしょうか?何をもって、優れた遺書としているのでしょうか?あー、せっかくソノザキ前都知事もお見えになっている事だし、聞いてみましょう。ソノザキ君、何だと思う?え、内容?凡庸な答えだなぁ、ま、それもあるが、他にもある。筆者の知名度や、心霊的な逸話、書かれた時代、本当に色々あるのですが、私なら一言でこう表現します、『鮮度』です。あぁ、この人は死ぬんだという『鮮度』。そんな『鮮度』を生々しく感じさせてくれる遺書を、我々は優れた(・・・)遺書としていますね。法的な効力を持ち残された家族に財産を分配する目的を持つ『遺言』の場合は、誰に何を残すのか――背後にある人間関係に思いを巡らせる楽しみと、残された者がどのように争うのかという死後の鮮度まで味わせてくれますし、遺書をメディアに送りつけて生前の敵を晒し者にする目的の遺書などには、世間の関心を集められなかった場合の惨めさを楽しむ事ができます。内容の事だけではありません。紙の質や筆跡とか、あるいは手に入れた時のシチュエーションをも含めた全てが、『鮮度』を構成する要素となるのです・・・・・・ありとあらゆる『死と自分との距離』が作用し合う事によって初めて、我々コレクターは『鮮度のある遺書体験』ができるわけです。

まるで映画館ですね。わざわざ出向く事にすら価値がある。

そしてそんな鮮度を味わうために、我々遺書のコレクターは時に、罪を犯す、悪と化す、『蜜を塗る』。そこがレッドラインだ。『競わせる』までは、一応この世界では許されている。競争が人類社会を発展させてきましたから。でも『蜜を塗る』のは、もう悪の領域に達しているんじゃないかなあ。すぐ外で開会式が始まろうとしている東京オリンピックもそうだ。集ったカブトムシに代理戦争をさせて儲けた金が、そのカブトムシを育ててくれた森に還元される事は無い。選手達が素晴らしい戦いを繰り広げてくれるのは良いですが、その場を用意するために犠牲になった者達の事など、あんた達黒幕は考えやしない。蜜を塗った福音は蜜を塗った者にしか訪れない・・・・・・。

それに比べりゃ、私なんて可愛いもんだよ。なにせ趣味だからね。権力者が大義名分を振りかざして他人の人生を狂わせるよりは、遊び半分の方が、ずっと可愛いでしょう?」


スピーカーに混じる振動音が教授の貧乏ゆすりの音であることに、聴衆はようやく気づき始めた。そして興奮と共に良識の枷が外れかけ、人間を虫にまで例えた教授の脳裏には、『我慢』の二文字が浮んでいる。

早く見せてしまいたい、いや、だめだ、説明をしながら、焦らさなくては・・・・・・。


「鮮度の良い遺書を読みたいがために――手に入れたいがために、他人の人生を狂わせ遺書を書いて死ぬようにまで促す。遺書の筆者(・・)そのものを生み出す。これから後ろのスクリーンで皆さんにご覧頂くのは、そこまで(・・・・)した物です・・・・・・。最高の鮮度とは何か?『(なま)』の遺書とは・・・・・・?当然の興味だ。まあ子供じみた理屈に言わせると、しらすで言うところの『躍り食い』の鮮度が一番なのだろう。つまり『まだ生きている』物が一番新鮮なんだ。いっとう『死んでいる』のは、まだ生きている命――これから死にゆく命。ああ、私の悪い癖だ。無意識のうちに、演説と独り言とが入れ替わってしまう、いかんいかん。

しかしそれがしらすではなく遺書だったのなら、『実際に今、現在書かれている遺書』こそが、躍り食いの鮮度を保っているのだ・・・・・・。

ええ、分かってます。

筆者が死んでいなければ、遺書とは言えない。今書いているなら、まだ死んでない。

世間一般の基準とは違いますが、我々遺書クラブの基準、いわばレギュレーションとしてはそうなっています。

そのレギュレーションのせいで、私達はより鮮度の良い遺書を読みたいのに、しかしその究極にある物を、遺書と認められない。この遺書クラブ発足以来、我々はそんな切ない矛盾に苦しんできました。しかしその苦しみも、今夜、終わります。

今回私が持って来たのは・・・・・・持って来た、と言うと語弊があるかもしれませんが、これから皆さんに後ろのスクリーンでご覧頂くのは、まさにその『現在進行形で、死にながら書かれる遺書』です」

 教授がそこまで話した頃、会員を二分しているある派閥間で暗黙の衝突が発生しようとしていた。

自殺者が書いた遺書を好む『自殺遺書派』と、主に死刑囚などが書いた遺書を好む『他殺遺書派』の対立である。永きにわたる両者の対立は混沌を極め、去年の集会では『死刑は他殺なのか?』という議題で口論を仕掛ける者が現われた程だ。

あの教授がここまで言う遺書とは、きっとこの上なく芳醇な物なのだろう。ならそれは、どちら(・・・)の遺書なのか?そんな聴衆の異変に気づいた教授は、笑って一蹴した。 

「大丈夫です。文句なしに最高の遺書とするためには、遺書コレクターの二大派閥――『自殺遺書派』と『他殺遺書派』、その両方の願望を満たす物でなくてはならない事は、重々承知していますし、今夜お見せする遺書は、性質的にその条件をクリアしています。

どういう事かと言うと、自分を自分で殺しながら、さらにはその様子を自分で観測できる筆者を、私は作り出したのです。・・・・・・ところで、皆さんは私の本職をご存じですか?」

ご存じですか、と話題を変えた所で、徐々に早口になっていた教授の語りが通常のスピードに戻った。今度は幼子に言い聞かせるように、一字一句はっきりと発音する。しかしその表情は、以前に増して苛立っているように見える。

「みなさんからは、教授と呼ばれていますが、実は私は、生物学者なんですよ。民間伝承の文献ばかり扱っているもんですから、籍は文学部に置いて、学生には日本の民話などを教えていますがね。しかし私の専攻は、『天狗』です。鼻が長くて翼が生えている、鞍馬天狗とかの天狗。それを大の大人が白髪を生やすほど研究しているのです。おかしいですよねぇ、あはははは。

しかしその天狗が、二大派閥の願望を叶え、かつ最高の鮮度を誇る遺書をこの世に成立させるための、最重要事項なんです。さて、どこから説明したものか・・・・・・、そうだ、皆さんは、なぜ人間が地球上で一番幅をきかせているのか、その理由をご存じですか?えっと・・・・・・ソノザキ君、なんでだと思う?」

聴衆の位置によっては、教授が手を強く握り閉めている事に気づく者もいた。しかしなぜそんなに力を込めているのか、怒っているのか、興奮しているのか。演説内容を追いながら、それを推察する者もいた。

「え、知能が発達しているから?君は学生時代から、いつも欲しい答えをくれるねぇ、あはははは。ソノザキ前都知事の答えはですね、当たっているのかもしれないし、ハズレているのかもしれない。

それにまつわる学問で、進化認知学という分野があります。ソノザキ君のように、多くの人は、地球上で最も進化した知的生命は人間だと思っている。でもそれを証明することは難しいのです。例えば、蟻が実はものすごく頭が良くて、人間の知性ではどんなに頑張ってもそれを理解できない、という話になると、いったい人間はこの地球上で何番目に頭の良い生き物なのかってのは分からなくなりますよねぇ、進化認知学は、そういう事を研究する分野です。反対に、蟻ではなく人間の場合、その知性を測り易い。なぜなら欲が深く、多様だからです。IQテストとか、自分の知能がどれくらいかを知ろうとする『欲』を持つ生き物って、人間くらいでしょう?人間には、欲にすら多様性があるんです。欲を観察すれば、簡単に知性を測れます。資料となる煩悩の数は百と八つじゃとても足りませんから、研究テーマに困ることはありません。そしてそんなバラエティ豊かな人間の欲の中でも、社会を今日の形に至らしめた欲は、たった一つ、差別をする欲です」

教授の眉間にしわが寄り、そこに薄らと血管らしい緑色の線が浮んだ。顔全体の皮膚も赤らみ、口だけが笑い、大きな歯を見せているにも関わらず目は聴衆を睨んでいる。口調とのギャップが生み出す迫力からだろうか、教授の体が少し大きく見えた。

「我々には、特徴の異なる者を排除しようとする欲がある。変わり者が集団から省かれるように、進化的特徴があったかもしれない人間を、より多くの凡庸な人間達は『脅威』と断定して、悉く排除してきたのです。その所為で、進化的な遺伝子はなかなか残されなかった。だからいつまでたっても人間はこの姿で、この精神なのです。

・・・・・・天狗の由来となった生物は、そんな進化した人間の一種だった。特に、『精神と体の繋がり方』がね。ここが今回お見せする遺書にとって、重要なポイントになります。天狗ってね、モデルとなった生物がいたんですよ。いや、正確には、昔滅びた生物の逸話が誇張されて『天狗』という怪異像が成立しただけなんですが」

教授の表情の変化がより強まった。顔全体の筋肉が歪み、目は見開き、笑う頬の筋肉に押し出された形で鼻が前に突き出た。皮膚の色は興奮や緊張などによる紅潮では説明が付かないほどに赤味を濃くしている。スーツの背が教授の筋肉の膨張に合わせて膨らみ、今にも張り裂けそうになっている。

「『天狗攫い』の伝説はご存じですか?文字通り、天狗が人間を攫う類の伝説です。その代表的な例に『天狗少年寅吉』と呼ばれる少年の物語があります。文献によってエピソードは様々ですが、基本的な筋は、『江戸に住む寅吉少年は天狗に連れ去られ、日本の空を飛び周って家に帰った後、千里眼を使って京都の様子を語り評判になる』といった所です。

当然ですが、様々な説が混ざり合ってこの伝説は成立しています。例えば、『寅吉は行方不明にはなってはいなかったが、江戸を一歩も出ずにその日の京都の様子を事細かに語り、それが千里眼に繋がった・・・・・・』という説。この説には、少年を連れ去った天狗の存在だけが欠落しています。逆に千里眼の方が出てこない説などもありまして、現在一般に語られている物語は、それらの物足りない説が面白くなるように融合しただけなのです。

しかし、そういった欠落のある説の方が、私にはより興味深い。多くの伝承がどのような経緯で合流していったのかを調べる事が、私の学者としてのライフワークでありますからね。そして、その成果として辿りついた私の見解は、寅吉本人が天狗であった(・・・・・・・・・・・)というものです。先ほど、生物としての天狗の特徴として、『精神と体の繋がり方』を上げましたが、それは奴らが『複数の体を一つの意識で動かしていた』という事なのです。なぜ断定できるのかって?そりゃ事実(・・)だからですよ。パプアニューギニアの海で捕らえた生き残りの天狗と(・・・・・・・・)寅吉少年の遺体を解剖した(・・・・・・・・・・・・)結果(・・)、明らかになった事実だから断定できるのです。奴らの脳には、五感情報を電気的信号に変換して送受信する事のできる器官が備わっていました。その送受信器官を使って離れた体の間で、視覚や聴覚などの情報を共有していたのです。いや、情報を共有するってレベルじゃない、心までもが、『クオリア』までもが共有化され――混ざり合っていたんだ。

例えるなら、最近ますます発展している『VRゲーム』。プレイヤーから離れた場所にあるロボットのカメラをゲーム機に繋いで、VRゴーグルを片眼だけ掛けると、プレイヤーは同時に二つの視点を得たことになります。自分自身の目と、遠くにあるロボットの目をね。

ゲームではまだ視覚と聴覚しか拡張できませんが、それが臭い、触覚、味覚を含んだ五感全てに及んだら?感覚を共有するロボットが、人間と変わりない皮膚感覚を有していたら?さらにその接続が一時の遊びではなく、一生に及ぶ物だとしたら・・・・・・奴らの送受信器官は、そんな多重の人生(・・・・・)を強要するものなのです」

マイクに、「ぷしゅっ」という破裂音が混じった。教授の真正面からでは数センチほどしか見えないが、彼の背から何か黒い物が出ている事を、少し横側から聴いている者は確実に認知した。

「そしてその事実を、先ほどの千里眼伝説に代入すると、『江戸に住む寅吉は、京都にあるもう一つの体の目で得た京都の情報を、江戸の人々に語っていた』という事になる。単純に視力が良いから千里先を見通せるのではなく、千里先にも目があったから、寅吉少年にはそんな芸当ができたということになる。

二つの体を一つの心で操る『多重身体者』の存在。さらに共有している体は二つとは限らない、あの送受信器官と『空』の体があれば、いくらでも操る体を増やす事ができる、そんな人間の書く遺書とは――おっといけない!そろそろ時間だ」

腕時計を確かめた教授が慌てて演台を降りた。会員達はその様子をまじまじと、怯えながら凝視する。

 教授の演説は甚だ荒唐無稽な物であったが、もうその頃には、会場にいる全員が必然的に話を受け入れていた。

なぜなら教授のスーツが破れ、背からカラスのような翼が生えていたからである。なぜなら教授の顔が赤らみ、鼻が伸びたからである。

なぜなら会員達を無視してホールを歩く教授の姿が、天狗になったからである。

誰も、変わり果てた教授に声を掛けたりしなかった。どうすればいいのかも分からず、ただホールの中央を歩くその姿を、後ずさりしながらまじまじと見つめるばかりであった。

歩きながら膨張を続ける教授の衣服が破裂する。足の造形が露わになり、脚部も全て深紅に染まっている事が分かる。人間の範疇にはとても収まりきらない力によって体が変異したような姿で、人を喰う悪魔的な威圧すら放っているが、他の会員を悉く無視している所が尚更不気味を感じさせた。そして入り口のドアの数歩手前まで来ると、かぎ爪の生えた鋭利なひとさし指を一本、前方に指した。するとドアが独りでに開き、廊下の窓ガラスに映る東京の夕景が、ホール内に茜色の輝きをもたらした。

教授は振り返る事無く、翼を横に広げ、膝を少し曲げると、床を強く蹴り跳び、そのままガラスを突き破ってホテルから脱し翼を羽ばたかせて夕日に染まるビル群のパノラマにダイブして消えた。

聴衆は呆気にとられたが、彼らが次に注目するべきものは、既に用意されていた。教授がホールを去った瞬間、今までは彼の背で白く光り続けるだけだったスクリーンに映像が映し出されたのである。テレビの生中継だ。渋谷駅前のスクランブル交差点の様子が一面に映し出されている。同時に、ホール内のスピーカーからも現地の音が聞こえる。皆、他人の反応を伺ったが、誰もその場から離れる者はいなかった。帰る理由がないからか――いや、帰る理由を探す者すら少数派だったのである。

ごく少数の者――主に今日初めて会に参加した初心者は、なぜ他の会員達が動かないのか不審に思った。確かに、ほぼ全員が突然の出来事に理解の対処が追いついていない様子であるが、悲鳴を上げたり、この場から逃げようとする者が一人もいないのは不可解だ。しかし自分以外の全員がホテルの対応を待っているのか動かないのだし、自分もとりあえず待っていよう――と。そうしてまともな感覚を残している者も、周りの反応を見て行動を制限したのである――それも、教授と、()の計画通りに事が運んでいる証拠だ・・・・・・。

そうして皆、他にすることもなく、画面に注目した。

東京が世界に生中継される今日、各地の道路では多種多様なイベント(祭り)開かれており、聖火ランナーはその開催地を周ってイベントの主役にバトンパスし、引き継いだランナーがまた次のイベント会場の主役に渡す――という、都市全体を連動させた聖火リレー企画でどこも賑わっている。ゴールは当然、新国立競技場である。

そんな中、今まさに渋谷駅前のスクランブル交差点を占拠して行われているのは、今夜最大の規模を誇るライブだ。主役は、パプアニューギニア出身ながらも日本語で歌う世界的(・・・)歌手『ソナチネ』。彼女のライブを見るために押し寄せた群衆は、スクランブル交差点だけでは満たされず、遠くの道路までもを埋め尽くしている。その中心、安全面を疑いたくなるほど客と距離が近いステージで独唱する『ソナチネ』のパフォーマンスは、素人目に見ても、彼女のキャリアの全盛を感じさせられるほど素晴らしいものだ。今は、『上を向いてあるこう』を歌っている。

機材の置き場もない盛況のため、スクランブル交差点周辺では、照明や演出用の液晶モニターを提げたドローンが大量に飛び回っている。ドローン群は時に編隊を組んでそれぞれの液晶モニターをつなぎ合わせてより大きなイメージ映像を映したり、聖火ランナーがやってくるまでの時間を表示したり、近くの観客を映すなど、大半の役割を担っている。ホテルのスクリーンに映るカメラ映像も、そのうちの一機によるものだ。

遺書クラブの会員達は、しばらくその様子を黙ってみていた。教授と何かしらの関係があるはずだと、画面の中にヒントを求めているのだ。

・・・・・・そして新たな曲のイントロがかかった瞬間、突然ホテルの画面が左右に分割された。ドローンによる生中継映像は画面左半分に追いやられ、右側に文章作成ソフトの何も書かれていない白紙画面が映し出された――否、驚異的なスピードで文章がタイプされてゆく。遺書が入力されてゆく(・・・・・・・・・・)。とても人間の手で入力されているとは思えない、まるで突然画面を埋めるエラーメッセージにも似た不気味なスピードで、画面が文字で埋め尽くされてゆく。数秒と経たずにページが追加され、画面はそれに合わせて慌ただしくスクロールする。

『はじめに』と題されたその一連の文章を、会員達は意味の処理に苦心しながら、必死に目で追った。 

それこそが、記録(レポート)としての遺書の中に、書いた遺書である。


***『はじめに』***


衝突と爆発を繰り返す銀河のようなビル明かり(とうきょう)を一身に浴びながら、同時に、パプアニューギニアの海に降る温水シャワーのような驟雨を浴び、また更に同時に、それらの様子を悪趣味な集会が開かれるホテルでリアルタイムに記述することのできる人間が、『ソナチネ・聡史・筆者(わたし)』である。わたしは、体を3つ持っている。『ソナチネ・聡史・筆者(わたし)』が体験する五感情報を、3つの体達はそれぞれ共有し、それをたった一つの(わたし)で処理している。 

例えば、今『ソナチネ(わたし)』は東京の渋谷で歌っているが、そのライブの熱気を現在パプアニューギニアの海上で雨に打たれている『聡史(わたし)』も感じているし、雨の温かさは『ソナチネ(わたし)』も感じている。またさらにそれらの五感情報を、この文章をホテルの一室で作成する『筆者(わたし)』も体感しているのである。

物心ついた頃、既にわたしの体は三つあった。その全てが離れた場所に存在し、それぞれがそれぞれに『ソナチネ・聡史・筆者(わたし)』として違う人々と関わってきた。だからわたしは、3人分の人生を生きてきたという事になる。 

どんな気持ちか?それを説明することはできない。わたし自身、どんな気持ちになればいいのか分からないからだ。ただ、この分からなさを例える事はできる。飼い犬が死んだ瞬間に10年間片思いしていた異性からポロポーズされた時の、どうすればいいのだろうという分からなさ――覚えている限りの昔からずっと、わたしはそんな気分(・・)で生きている。

 しかし、それも今夜20時――約一時間後。東京オリンピック開会式のクライマックスの瞬間、人生は一つに収束する。『ソナチネ・聡史・筆者(わたし)』のうち、『ソナチネ』と『聡史』の二人が殺し合う。そしてただ一つ生き残るのは、この文章を作成している『筆者(わたし)』である。

『ソナチネ(わたし)』と 『聡史(わたし)』は、渋谷駅前のライブ会場で対峙し、殺し合う。その様子・・・・・・つまり人間の体が死ぬ感覚を、『筆者(わたし)』自身が記録する。

 この行為を、生命への冒涜だと思う人もいるだろう。しかしそもそも、わたしの存在自体、生命への、そして祖先への冒涜なのではないのだろうか。この(わたし)は、元はと言えば、1000年前に滅びた生物の亡骸に宿されたものなのだから。


この文書は、『聡史(わたし)』と『ソナチネ(わたし)』の人生を、今までに関わってくれた人々の証言を踏まえてあるときは客観的に、そしてまたあるときには、わたし(・・・)自身の独白(モノローグ)を用いて記録するものである。

則ち、これから死にゆく二人への、追悼文(過剰テレパシー人間の自殺について、その客観的モノローグ)である・・・・・・。 



2 ソナチネ・インタビュー


そこで筆が止まった。わずか20秒足らずの間に、結局一千文字を超える入力がなされた。スクリーンに釘付けになっていた会員達はしばらく呆然と立ち尽くした後、思い出したように響めき始める。

「まさか、本当にあの『ソナチネ』なのか?」

「聡史というのは誰だ?教授の知り合いか?なぜパプアニューギニアにいる」

「あの教授がこの場で偽の情報を出すはずがない、しかしこれは・・・・・・」

「筆者はこのホテルにいるのか?!どこだ!」

 教授による、劇場型の遺書公開は、ここ数年の常套手段であった。外部に知られればこの世界そのものが覆されかれない遺書が発表される事も初めてではないが、ここまでの熱量と、おそらく十年単位での準備がなされているのは他に類を見ない。まるで今までの遺書が、この日のための予行練習だったかのような、そんなエネルギーを聴衆は教授から感じていた。

 そんな浮き世離れした教授の説明と遺書の冒頭(・・・・・)であるが、スクリーンのもう半面に映るソナチネのライブ映像の中に潜む狂気を、やはり会員達は探さずにいられなかった。

事態の異様さに圧倒されるだけではない者は、既に文章自体の批評を始めていた。

「『衝突と爆発を繰り返す銀河のような――』か。遺書の書き出しとしては、装飾が激しいな。ルビが振ってある遺書なんて初めてだ。自己陶酔が強いタイプなのかな?」

ローストビーフの文句を切り口に、収集した遺書の見せ合いをした二人の会員も、勝負の事など忘れて再び顔を合わせていた。この二人は、元夫婦である。趣味によって出会い、趣味によって別れた。元夫が『自殺遺書派』で、元妻が『他殺遺書派』だったのである。

しかし今は目の前の現象に過去を忘れ、まるで新婚当初のような口調で議論を交わしている。

「うーん、それにしては、続く文章がどこか他人事ね。でも、『体が三つある』のが本当だとしたら、客観的になるのは必然なのかも」

「なるほど。印象としては、『仲の良い友人の伝記を代筆している』という感じがするね。そういう複雑なフィルターを通して、客観的にしか自分を観測できない性格、というところか。遺書を書くという行為によって自分の新しい一面気づく、という事はよくあるが、これは初めからそれを狙っているのかもしれない」

「しかしあのタイピングの速度には驚くわね。それに、体を同時に3つ生きてるって、考えてみれば相当器用な芸当よね。右手と左手で異なる作業をするのだって、訓練がいるのに」

「やはりそこも、脳の構造からだろうね。処理装置としても、人間以上だ」

ずれた所に関心を抱く会員ほど、この奇妙な現象を楽しめているのだった。段下に降りてスクリーンを見ていた教授も、当然その一人である。

今、彼の周りには人集りが出来ている。興奮した会員達の質問攻めに対して、教授は無視を決め込む、『黙ってみていろ』と。

スクリーンのもう半分に映る『ソナチネ』のライブ会場では、まだ異変らしい事は起きていない。しかしすぐ隣の文書の存在があるからか、壇上を見張る会員達は、一見興奮しているだけに見える群衆の一人一人の顔に殺意が含まれているような気がしてならなかった。

批評をする者、スクリーンを見張る者、教授に詰め寄る者。

それぞれの行動が明確になる頃、しかし会場の人数は減っていた。

このホテルのどこかにいるという『筆者』を探しに行った者もいるが、多くは、トイレに駆け込んだのである。アルコールを摂取しているにも関わらず、教授の発表が始まる10分前からトイレを我慢していた彼らの我慢がついに限界に達したのだ。当然、ホールのある七階のトイレには列ができる。いつ遺書の続きが始まるのか分からないので早く済ませたいと皆急く。この状況で動かずにただ待ち続けることに耐えがたい苦痛を感じる者は、果たしてそれが時間の短縮に繋がる保証はないが、他の階のトイレに走った。

そして不幸にも、全ての会員が会場に戻る前に、遺書の続きがスクリーンに刻まれた。ただし、幸運にも一行だけ。


『十七年前、女のソナチネ』 情報提供者――ヒルダ=コッポル 


たったそれだけの章題らしき文が入力されると、再び『筆者』は沈黙した。まるで会員の集合を待っているかのような、そんな沈黙だった。

文字の出現に間に合った者は安堵するとともに、すぐに一つの事実に思い当たった。一見これだけの文章では、『ソナチネ』に関する文章になる事しか推察できないかに思われる。しかしある一人の勘の良い会員が発した一言が、全員に新たなヒントを気づかせたのだ。

「ここ、『ホテル・ヒルダ』だったよな?」

ホテルのパンフレットを持つ者が慌てて確かめる。たしかに、『ホテル・ヒルダ』である。『情報提供者』として名を連ねる『ヒルダ=コッポル』と、同じ名前だ。

パンフレットには、最初のページにこのホテルの歴史が書かれており、そこには『創設者・マリア=コッポル』の紹介と、ホテル名の由来が記されていた。会員達はスクリーンに注意しながら、こぞってその小冊子を読んだ。


『マリア=コッポル――1965年生まれ。当ホテルの創設者にして、パプアニューギニア南西部に存在する『ガムラ村』の女老長(じょろうちょう)。ホテル名の由来である一人娘『ヒルダ=コッポル』は、世界的歌手『ソナチネ』のプロデューサーを務める』


そうして会員達がヒントを見つけると、まさにどこかで見ているようなタイミングで、執筆が再開した。


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