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らすとへと



 終わり方について


 作品を通じてシンプルに何を描きたいかというと、疑似餌と茎の間・展覧会の入り口映像での現実の来客への言葉と変身→作品映像の間の美しさ。すなわち、空想と現実の間のグラデーションのどこかに必ずある「空想の実在」である。

 ラストでそれを描きたい。冒頭などで、過去の話であることにするのがいいか?


 現実→空想。空想→現実。この行き帰りによって二度ほど描くチャンスがある。

 究極的に現実を侵略した段ボールの文化祭が雨によって濡れてへしゃげてインクが水たまりにもれてゆく。それがラストか?


 →この美しさを伝えるには?


 神話をより使える形に近づけた


  小説のための原作として考えた神話とその意味を解説していく


 向こうに見える少年は、蹲って、激しい木々の嵐に打たれている。それは私の目を釘付けにする。目に映る景色の当事者がはいつの間にか自分自身のように感じられる。風に乗った植物が体を打ちながら通り抜けてゆく。背を枝が突き刺し、葉が切り裂く。「私」はただ蹲ることしかできず、どうしようもない痛みに耐えていた。


 (この「視点」の工夫を、誰もが想像しやすいスマホでの情報閲覧中としてみたら?――その破壊の景色の思い出が自分にもある。幼稚園の折り紙を壊す子供――それは他人だったか?あるいは自分だったか?大人だったか?ふたをしたいけれど――) 



 


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