テントウムシはルンバを踊る
ここに書くことは、今でも、信じられないことだ。
だから、後々、見返した時には、かなり混乱した内容に思えるかもしれない。
まして、万が一、これを読んでいるのが自分自身ではないとしたら、頭がおかしくなった人物のメモ書きだと取られる可能性もあるだろう。
しかし、これは、間違いなく、俺、清原諾雄が経験したことである。
就職のため、故郷を離れて初めての1人暮らしを始めることになったのは、今年の3月末のことだ。
入社式は4月だったが、それよりも前に引っ越しを済ませておく必要があったし、通勤時間に合わせた移動にも少しは慣れておいた方がいいと思われた。地元には無い地下鉄を利用することに加え、あの無人改札機を前にして恥ずかしい思いをしたくないという、些細な理由からではあったが、何か、あの改札の前で躓いてしまったら、この先を、ずっと、躓き続けてしまうのではないかという、強迫観念のようなものが働いたのは確かである。
借りた部屋から最寄りの地下鉄駅までは、徒歩で10分ほど。地下鉄藤が丘線、鯱港水族館行きに乗って、6駅先で降りれば、そこから5分で職場の入ったビルの前に着く。朝のラッシュ時の混雑には閉口するしかないが、それさえ突破できれば新生活は順調に行く、はずだった。
問題は起きた。
それは、1人暮らしを始めるにあたって購入したロボット掃除機のせいだった。
家電量販店の掃除機コーナーのすみに、「現品限り」の札が付けられたそれは、いた。丸い円盤型の本体は赤色で、黑丸の模様が7つ。テントウムシを模したデザインだった。
俺は、フローリングの床の上をゆっくり動き回るテントウムシを思い浮かべてしまった。
その時は、悪くない気がしてしまったのだ。
それが、思いもよらぬ事態へと向かうきっかけになるとも知らず。
ロボット掃除機は働き者だった。
おかげで、俺の部屋は、いつ、だれが訪問してきても問題のない部屋として保たれていた。
が、不思議なことに、いつ見ても、このテントウムシは充電中だった。
俺が仕事に出ていたリ、寝ている間に掃除をしているようなのだが、それにしたって、動いているところを一度も見ることができないというのは、どういうことなのだろうか?
いや、ちゃんと掃除はしているのだ。間違いない。それどころか、普通だったらロボット掃除機には無理であろうと考えられることも、なされていた。出しっぱなしにしておいた物が引き出しに仕舞われていたリ、椅子の背もたれに掛けておいた上着がきちんとハンガーに掛かっていたり……。
何かが、おかしい。誰か、俺の部屋に、無断で入ってきている?
気になった俺は、隠しカメラを設置してみた。写っていたのは、知らない女が、俺の部屋で掃除をしている様子だった。信じられないことに、女は掃除を終えると、テントウムシ型のロボット掃除機に変わったのだった。
俺は、自分の目が信じられず、何度も繰り返し映像を見た。しかし、何度見ても、女の姿が煙のようなものに包まれ、それが消えると同時に、女の立っていた場所に掃除機が現れるという、意味不明なものが繰り返し流されるだけだった。
何だコレ?
俺は、部屋のすみで充電中のランプが点いた状態になっているテントウムシに近付いた。が、どうしたらいいのか、まったく、頭に浮かんでこなかった。
唐突に、事態は動いた。
なんと、テントウムシから煙が立ち始めたのだ。
ちょっと待て。いきなり、家電が火を噴くとか、ありなのか?
いや、火は噴いていないか。
煙に包まれたテントウムシは消えてしまった。代わりに、あの、隠しカメラに写っていた女が、そこに現れた。
「お前、誰だ? どうやって、部屋に入ったんだ?」
俺は、思わず声を上げた。
「私は、お買いあげいただいた掃除機でございます。売れ残り、50%オフにまで落ちぶれたところをお買い上げくださいまして、誠にありがとうございます。ところで、見てしまいましたね。」
女は、ずいと俺の方へ近付いてきた。
「仕事をしているところを見てはいけないと……。」
「聞いてない。取説にもそんなことは書かれてなかったぞ。」
俺は、女の言葉を遮って言った。俺は、取扱説明書はきちんと読む派だ。
「失礼いたしました。言い忘れておりました。しかし、正体を知られてしまったからには、元の世界に戻らねばならない、というのが日本の常識。」
「元の世界って何だよ。買った店からは、現品限りの返品不可って言われたぞ。」
俺は、相当に混乱していたのだろう。掃除機に対して反論するという、世にも稀なる経験をした。
「私、どうしたらよいのでしょう?」
女は、心底困ったというふうだった。
「普通に掃除機として掃除をしてくれたらいいと思うが。待てよ。どっちが正体なんだ?」
「今の姿は、世を忍ぶ仮の姿。しかし、掃除をするには、この姿の方がやりやすいのです。」
「そんな馬鹿な。」
「いえ、本来の姿では、引き出しに物を仕舞うこともできませんし、椅子に投げ出された服を畳んだり、ハンガーに掛けたりすることもかないません。」
「……、散らかして、すみませんでした。」
しかし、人に化けるロボット掃除機など、聞いたことがない。
「もともと、私は、小さな町工場の工場長が趣味で作ったものだったのです。意外に簡単にできてしまったので、量産して、『テントウムシのサンバ』という商品名で、売り出そうとしたのですが……。」
「それ、駄目だろう。いろいろと。」
「はい。結婚式の引き出物としての需要が見込めると、虫のいいことを考えていました。結局は、大人の事情で無理でしたけど。そうこうしているうちに、工場は潰れ、工場長も下敷きに。」
え、工場は物理的に潰れたのか?
「異世界転生を勧められましたが、あまりにも心残りであったために、こうして作った掃除機に憑依いたしまして……。」
って、この女、工場長だったのか?
「だいたい、親の仕事を引き継いだはいいけど、女だからって、みんな酷いんです。特に銀行。貸し渋りに、貸し剥がしですよ。馬鹿にして! ちょっと、聞いてます? あなたもそうやって、見下すんですね!」
生前の恨みつらみを思い出したのか、ロボット掃除機に憑依した元工場長は、愚痴り始めたのだった。
バッタもんだとは思っていたが、買った掃除機が、化けもんだとは考えもしなかった……。