9.愛しています
「……馬鹿だな……。それが罰でなどあるものか」
「いいから。ちゃんと話を合わせてちょうだい」
あの時。そう囁くと、私はグラムから身を離し、フェリクス様を振り返った。
フェリクス様は無言で、私とグラム、そしてシシーリアを観察していた。何もかもを見透かすような眼差しで。
私は嫌な予感がして仕方がなかった。
フェリクス様。今、何を考えているのですか?
フェリクス様の洞察力は、本当に優れている。考察力も、対人能力も高い。その場を自分のペースに持ち込む力も。そうでなくては、交渉上手になどなれないのだ。
そのフェリクス様を騙しきることが、私が考えた計画の、第一の関門なのだ。
そして、やはりフェリクス様の次の行動は、私たちの度肝を抜いた。
フェリクス様は、話しかけようとした私の機先を制し、迷い無く私の手を取ると、私をふんわりと抱き締めたのである。
フェリクス様が、何の予告もなくそのような行動を取るとは完全に予想外で、私は呆気なく捕まってしまった。
いつものフェリクス様なら、失礼します、とか何とか、絶対に声をかけてくれたはずだ。
しかし、今なら分かる。フェリクス様は、私を逃がさないように、わざとそうしたのだ、と。やはり肩に上着をかけてくれた時、指が触れていたのだろう。その違和感を確かめるために、わざと不意打ちで触れてきたのだ。
──温かい。
フェリクス様の上着は、私の肩にかかったままだ。薄いシャツから、ダイレクトに私へと、フェリクス様の柔らかい熱が伝わってくる。
既に婚約破棄を言い出したくせに、目眩がしそうなほど幸せだった。心地よい温かさが、私を一時うっとりと繋ぎ止めた。
しかし、すぐに我に返って青ざめる。それは反対に、私の温度もフェリクス様に伝わっているということだ。
フェリクス様は、痛みを堪えるように瞑目していた。何らかの疑念に、確信を持ってしまった気配がした。
──しまった!
慌てて抜け出そうともがくと、フェリクス様は逆らわず腕を解いてくれた。
しかし、ゆっくりと目を開き、発した声は、圧し殺した憤怒に染まっていた。
「ローゼ殿下。貴方を害した相手を、私に見過ごせと仰るのですか?」
それは既に質問ではなかった。だってフェリクス様は、グラムを睨み据えていたのだから。
フェリクス様。理解が早すぎです。
いつも穏やかなフェリクス様が、誰かを睨むのを初めて見た。敵意を露にするのも。
私は精一杯抗弁した。
「誰にも害されてはいません。私は今もここに、こうして立っているではありませんか」
「誤魔化しは不要です。殿下に何の変事もないならば、こんなに体が冷えきっているはずもなく、また、私との婚約を破棄する必要もない」
「婚約を破棄するのは、私が心変わりしたからです!」
お願いします、フェリクス様。
どうか騙されてください。
私の祈りは、フェリクス様には届かなかった。
フェリクス様は語調を和らげたが、その声音に秘められた激情が、薄らぐことはなかったからだ。憤怒だけではない。私への哀切が、そこにはあった。
「ローゼ殿下。私は、自惚れやなのですよ。昨日のローゼ殿下のお言葉が、遊び心から生まれたものだなどと、断じて信じることは出来ません。そこにいるグラム様とシシーリア様が、予想外の話の流れに、目を白黒させているのを見れば尚更です。私は貴女を、身命を賭してお支えすると誓いました。その誓いとは、今ここで、貴女の嘘に騙されたフリをし、貴女を一人、行かせることではないのです」
私は胸に込み上げてくる熱いものから、必死に目を反らした。
フェリクス様が、こんなにも、私に心を割いてくれるとは思わなかった。
元々、フェリクス様が望んだ訳でもない縁談だ。
私がそう言うなら、と、問題なく、婚約破棄に頷いてくれるものだとばかり思っていたのだ。
……いや、そうではない。私の想像の中では、フェリクス様は私を軽蔑していた。
昨日、確かに私は言ったからだ。
──愛しています。フェリクス様が、私を支えてくださると仰るならば。私も貴方を支えます。必ず──
しかし、そう言っておきながら、心変わりをしたと、手のひらを返した私。あまつさえ、夜這いをしたとまで。最低な女だと思う。幻滅され背を向けられることを覚悟していた。
それなのに現実のフェリクス様の反応は、私の想像とは全然違った。
揺らぎもせずに、誓いを果たすと。
私を一人にはしない、と──。
ああ、自分が何を望んでいるのか、分からなくなりそうだ。
嘘をつき通さなければならない。こんな風に、抵抗されるのは困る。
そう思うのと同じくらい、騙されてくれないフェリクス様が、こんなにも嬉しい。
フェリクス様。フェリクス様。
愛しています。心から。
「フェリクス様のお気持ちは有りがたく思いますが。私は、嘘などついてはおりません。私は無事ですし、グラムに心変わりをしたのです。グラムを王位に就けたいと願っているのです。私の願いに沿うことが、私を支えることになるとは考えないのですか?」
敢えて平坦に返した。
どんなに嬉しくても。それに身を任せる訳にはいかない。
私は、フェリクス様を恋しいと思う心を殺すのだ。その覚悟を、嘘をつくと決めたあの時に、したはずだ。
ああ、泣いてはダメ。表情に出すのもダメよ。平静を保ったフリをしなくては。
「木偶のように、ただ盲従することが、殿下のためになるとは思いませぬゆえ。……ローゼ殿下は、泣いておられる。私に婚約破棄を告げられた時から、ずっと。そのお心から、悲鳴が聴こえるのです。なぜそこまでして、グラム様を庇おうとなさるのですか」
フェリクス様の返答は、私の心の一番弱っているところに、的確に染み入った。意地を張る私の握り拳を、ゆっくりと優しく開いて、包み込むようだった。
ああ、駄目だ。騙しきれない。
そうよ、泣いているわ、ずっと。
貴方を突き放すのが辛くて。
私の相眸から、押し止めていた涙が溢れた。
「そこまでお分かりならば、お分かりでしょう。フェリクス様、私は、月に拐われて死んだのです。だからシシーリアは、私を来世に送るために、姿を現したのです。そして、私とグラムの両方が欠けたら、本当に国が荒れてしまいます。私はそれを防ぎたいのです! お願いします、フェリクス様! 力を貸してください!」
私の堪えきれない叫び声を最後に、部屋には沈黙が満ちた。
フェリクス様は、仰向いて自分の表情を隠した。
この時のフェリクス様の声音を、私は表現する言葉を持たない。圧し殺しても隠しきれない感情のうねりが、フェリクス様の声を震わせていた。
「そうして、やはりローゼ殿下は、貴女を害した相手を、見逃せと仰るのですね。何食わぬ顔で、王位に就くのを見過ごせと」
ああ、フェリクス様。
……そのお気持ちだけで、十分です。
「私の命の有無など、国民の安寧の前では、些末事です。フェリクス様」
だがそこで、第三の声が、私たちの会話に割って入った。
グラムだった。
「俺は、見逃してくれとは言わない。セオドア公」
私は慌ててグラムを振り返った。
グラム?! 何てことを言うの!
「だが、俺は公的には、ローゼを殺したことを認めるつもりはない。俺がローゼを死に追いやったという、物的な証拠はないぞ。月に拐われるとは、そういうことだ。状況証拠だけで、俺を追い込めると思うほど、楽天的ではないだろう? それに、無理にそれを強行したところで、ローゼが生き返る訳でもない。……俺は、自分のやったことの重さは、理解しているつもりだ。その罪は、今後の行動で贖わさせてはくれないか」
フェリクス様は、鋭い瞳でグラムを見据えた。
「どのように?」
「全て抱えて、王位に就く。王位の義務と責任を、今後の俺の全てを賭けて果たすことで、贖いにかえよう。もし俺の行動が、贖いに値しないと判断したその時は、遠慮なく引きずり下ろしにきてくれて構わない」
フェリクス様は、随分長い間、沈思黙考していた。
私は、心から祈った。どうか、フェリクス様。お願いします。グラムが王位に就く道を絶たないで。
最終的に、フェリクス様の背中を押したのが何かは、私には分からない。
フェリクス様は、1つ息をついた。そして次に発した声には、常の穏やかさが戻ってきていた。
「シナリオの若干の変更を要求します。今のままでは、見逃すことは致しません」
どのようにだ? と、グラム。
「先ほどの婚約破棄の主眼は、私との結婚を回避することではなく、ローゼ殿下の王位継承問題からの離脱と、グラム様の王位継承を確実にするための布石でしょう。それならば、グラム様とローゼ殿下が婚約する必要はありません。私が陛下に、ローゼ殿下の降嫁を願います」
え?
「ローゼ殿下が王族籍を抜け、セオドア公爵家に降嫁することになれば、自動的に王位継承権はグラム様に移ります。先ほどの、ローゼ殿下がグラム様に心変わりをしたという言い訳は、いかにも苦しい。恐らく陛下には通用致しませんでしょう」
一生懸命考えた計画に、あっさりと代案を出され、私は呆けた。
え?
それでは、私は、フェリクス様の婚約者のままでいいの……?
「それに何より、ローゼ殿下を害した方に、殿下を委ねることなど、断じて致しかねます。ローゼ殿下は、私が貰います。……ローゼ殿下、宜しいですか?」
フェリクス様は、私に恭しく手を差し伸べた。
私は、まだ思考能力がまともに働いていなかった。
今、フェリクス様は、私を貰います、と言ったわ。
それでは私は、来世に旅立つまでの間。
フェリクス様の婚約者として、お側にいていいの……?
予想外の展開に呆然としたまま、フェリクス様を見返すと。
フェリクス様が、微かに笑う。今日初めての笑顔だ。フェリクス様の瞳に映る私は、呆然としながらも、喜びの予感に、徐々に表情を煌めかせている。
動かない私に焦れたのだろうか。
フェリクス様は、珍しく強引だった。私の手を握り、力強く引き寄せて。今度は力強く抱き締めたのだった。
大広間の扉前には、既にフェリクス様が待っていた。
フェリクス様の礼装も白だ。ダークグレーや黒などの、濃色の方が一般的なのに、靴や小物まで白一色の出で立ち。私と二人、このまま結婚式ですと言われても、全く問題ない取り合わせになっている。
シシーリアが、小さくガッツポーズをしたのが分かった。
シシーリア。フェリクス様と共謀したわね?
お父様は意外にも、私が降嫁することには反対しなかった。
一旦グラムを王位継承者にすると定めたからには、私とフェリクス様を、周囲にはっきりとわかる形で、王位から切り離した方が、混乱が少ないということなのだろう。
でも私に印象的だったのは、お父様のこの台詞だ。
お父様は、ニヤリと笑って、フェリクス様に言ったのである。
「そなたを義息子と呼べるのは、変わりがないのだから、まあ良しとしよう」
お父様ったら。本当にフェリクス様を気に入っているのね。
私とお父様は、親子揃ってフェリクス様を大好きだったようだ。知らなかった。
私の姿に気づいて、フェリクス様が歩み寄ってくる。
「ローゼ殿下。お加減はいかがですか?」
私の体調不良は仮病だが、疲れやすくなったのは本当だった。コルセットで体を締め上げ、公務などをこなそうとすると、すぐに息があがってしまう。
月に拐われたにも関わらず、生きているフリをしている反動だ、とシシーリアは言う。おかげで仮病に、かなり信憑性が増してしまった。できるだけ長く存在していたいなら、安静にしていなさい、とシシーリアに厳命され、もっぱら部屋で過ごすことになっている。
「平気です。すごく、楽しみにしていたんですもの。フェリクス様との婚約式を」
私は、期待の目でフェリクス様を見つめた。今日のこの日のために、既に死んだ身ながら、美容には全力を尽くしたつもりだ。
レースとリボンをひらめかせて、フワリと一回転してみせた。艶やかな薔薇色の髪は、緩やかに結い上げられ、小さなティアラで飾られている。
フェリクス様は、もちろん空気が読める男だ。
「とても、良くお似合いです。お綺麗ですよ、ローゼ殿下」
眩しそうに目を細めて、誉めてくれた。
私は嬉しくなって、満面の笑みを見せた。
「ありがとうございます。フェリクス様も素敵です」
お世辞ではない。穏やかで温かなフェリクス様の雰囲気に、優しい白の礼装は良く似合っていた。
うっとりとフェリクス様を見つめる私に、フェリクス様は苦笑する。そして、その笑みを眼差しに残したまま、さらりと言った。
「明日から、毎日、午後のお茶をご一緒致しませんか? ローゼ殿下」
私は驚いた。もちろん毎日会えるのは嬉しいけれど。
「宜しいのですか? フェリクス様は、お忙しいのでは?」
「執務よりも、殿下を優先したいのです。これくらいの我が儘は、許していただきましょう。殿下との時間は、とても、貴重なのですから」
私は胸がいっぱいになった。
フェリクス様には、事情は全て話してある。私は既に死んでいること。生きているフリは、どれくらい続けられるか分からないこと。別れの時は、ある日突然やって来ることを。
シシーリアは、私を来世に送るのを、ギリギリまで待つと約束してくれた。しかし同時に宣言したのだ。
もしもの時は、もう容赦しないと。
私が消滅しそうな時。悪霊に堕ちそうな時。精霊に変化しそうな時。もうこれ以上待てないと判断したその時は、その場で私を来世に送ると。
最期の時は、突然やって来る。次こそは、最期の別れを言うなどという、猶予はない。
本当は、フェリクス様を巻き込まずに、一人静かにその時を待つべきだろうと、私も思うけれど。
仕方がない。降嫁の件1つとっても、フェリクス様の助けは必要だ。
それに、何よりも。フェリクス様が、こうやって差し伸べてくれる手を拒絶する強さは、私には無いのだ。
許されるならば。少しでも長く、お側にいたい。
大好きな、貴方の側に。
ごめんなさい、フェリクス様。
私が消えるまででいいんです。
それほど長い時間は、かかりませんから。
どうかそれまでは、貴方の側に。
「本当に、本当に。ありがとうございます。フェリクス様。嬉しいです……」
涙ぐみながら、万感の想いをこめて告げた私に。フェリクス様は囁いた。
「愛していますよ、ローゼ殿下」
──!
私は弾かれたように、フェリクス様を見上げた。
フェリクス様は、私と目を合わせると、ゆっくりと、もう一度囁いた。静かなテノールが、私の心を震わせた。
「哀しい程に、貴女を愛しています。だから少しでも長く、共に過ごしましょう」
──フェリクス様……!
以前、私からの告白に、愛の言葉を囁けるほど若くないのです、と困っていた貴方が。
愛しています、と。
愛しています、と、言ってくれるなんて。
信じられない。でも夢ではない。
私も返さなければ。
私の想いの全てを、貴方に。
「フェリクス様。私も、心から、貴方を愛しています。……どうか、少しでも長く、お側にいさせてください」
フェリクス様が身を寄せてくる。そうするのが自然な気がして、私が目を閉じると。フェリクス様の微かなキスが、額に降ってきた。
目を開けると、目尻を少し赤くしているフェリクス様の姿。
何だか気恥ずかしくなって、二人で照れ笑いを浮かべた。そして、どちらからともなく、お互いの手を握り合ったとき。
時間です、という侍従の声がかかった。婚約式が始まるのだ。
大広間の前に、フェリクス様と並んで立つと、両開きの扉が大きく開かれる。大勢の着飾った列席者。中央に伸びる真っ赤な絨毯は、広間の奥、真正面に立っている国王夫妻へと続いている。
私とフェリクス様は、頷きあうと、静かに大広間へと第一歩を踏み出した。
私は、来世に旅立つその時まで、フェリクス様と共に歩んでいく。
私の嘘に、騙されてくれなかった、この人と。
私の気持ちに、どこまでも聡かったこの人と。
どうか、その時間が、少しでも長いものでありますように。
そう祈りながら、私はフェリクス様を見上げ、心からの微笑みを浮かべたのだった。
これで本編は終了です^^
あと1話、フェリクス視点の番外編を投稿します。