7.良い未来を遺すために
フェリクス様の存在を思い出した途端、私の周囲に凝っていた闇が、その姿を消した。
まるで酩酊から覚めたように。フワフワと高揚していた気持ちが、ストンとおさまる。
──世界が暗くなったときは、嬉しかったことや、幸せなこと、大好きな人を思い出して──
私は両手を見た。お手玉していたはずの闇の塊も、既に消えていた。
今、私は、何を考えていたの?
──グラムに咎めを与えることを。
どうやって?
──国民を、全て殺し尽くすのよ。グラムを傷つけるために。
国民を全て殺すの? 一人残らず?
──そうよ、全てよ。誰を殺して、誰を残すか。そんなことを考えるより手っ取り早いでしょう?
それでは。
お父様や、フェリクス様も殺すの……?
私は混乱した。先程までの私は、おかしい。大事なものを踏み外している。
お父様や、フェリクス様を殺すなんて、出来ないわ。
何の関係もない国民たちを殺すようなことも、許される筈がない。
さらに言えば、いくらグラムが憎くても。
王弟派の貴族、グラムのお父様やお母様に手を出すなんてもっての他だ。
私は、一体どうしてしまったの。
闇色の膜が、少し薄くなった。
漆黒の闇夜から、月の無い星明かりの夜のように。仄かに視界が明るくなる。
少しだけ、グラムとシシーリアの表情が見えるようになった。二人とも、急に様子が変わった私に困惑し、また廊下のフェリクス様を気にかけて、次の行動に困っているように見えた。
そもそも私、グラムの事が、そんなに憎いのかしら?
──当たり前だわ。殺されたのよ。それにグラムは、謝りもしなかった。後悔している素振りもなかった。
謝ったら許すの? 後悔していたら許すの?
──分からないわ。でも、気持ちが慰められるかもしれない。
それなら、私なら謝るかしら? 後悔するかしら?
仮に、罪だと知っていながら、それでもグラムを殺めたとしたら。
──それは……。
私は、きっと悩むだろう。何の痛みも迷いも感じずに、幼い頃から知っている従兄を、殺める決断なんて出来る筈がない。
しかし、それでも、やると決めたなら。簡単に揺らぐ程度の気持ちで、実行したりはしない気がする。
そして、殺した後で、グラムに会ったとしたら。
私はきっと謝らない。謝罪なんて、私の気持ちが楽になるだけで、グラムには無意味だからだ。謝ったって、グラムは生き返らないのだから。
だったら、何も言わない。毅然としてそこに立ち。自らの行動の結果も、その責任も、グラムの恨みも。全て自分で抱えてみせる。
──自分の行動を鏡に映した時、目を背けずにいられる方になってください──
はい、フェリクス様。
貴方の言葉は、私を支える柱。
そして、グラムも。
生真面目で誇り高い私の従兄も。きっと私と同じように考えている筈だ。
そうよ。その責任感で、全てを背負おうとしているのよ。
だって、私に言ったもの。
王になりたいとか、なりたくないとか、言っている場合ではないと。
国を荒らしたくないと。
そのための最善を、全力で実行するのだと──
ああ、グラム。貴方って不器用ね。
貴方が私を殺そうと結論する前に、もっともっと、話をすれば良かった。
昨日、貴方の背中を見送った時。言葉が見つからないなんて、早々に諦めたりせずに。力ずくでも引き留めれば良かったのよ。
でも、それは既に、実現できない絵空事だ。
過去を変えることはできない。
今の私に出来ることは。私が死んだ後の未来が、少しでも良いものになるように、全力で考え、足掻くことだけだ。
夜明けがきたかのように、闇色から暗灰色へ、暗灰色から灰色へと、世界が明るくなる。灰色の下から透けて見える、様々な色彩。本来の鮮やかさには比べるべくもないが、私はそれを綺麗だと思った。
グラムの灰赤色の髪も。灰緑色の瞳も。憎いなんて思えなかった。生きている世界の証だと思った。かけがえのない、命の証だ。
そして、私を堕悪から呼び戻してくれたのは。
世界に光を取り戻してくれたのは。
フェリクス様だ。
ああ、フェリクス様。
貴方は本当に、私を守り、支え、導く光です。
廊下につながる扉が開いた。私が操っていた闇が消え、押さえていた力が無くなったから当然だ。
フェリクス様には、この部屋の光景はどう見えたのだろう。
夜着姿の私。光輝く鎌を構えたシシーリア。引きつって固まっているグラム。絨毯と床を切り裂く、複数の亀裂。
フェリクス様はぐるりと部屋を見渡し、最初に私と目を合わせて、表情を少し緩めた。
それから、武器を構えているシシーリアと、床の亀裂に厳しい目を向ける。
私は焦って叫んだ。これは、衛兵を呼ばれたら、シシーリアが囚われてしまいかねない状況だ。
「フェリクス様、人払いをお願いします。他の人を部屋に入れないで……!」
フェリクス様は眉をひそめたが、私の必死な声に、譲ることにしてくれたようだ。何も問い返さず、振り返って周囲にいる誰かに、何かを言い置くと、自分だけ入って扉を閉めた。
視界の端に、シシーリアが鎌を消したのが映った。私の様子を見て、悪霊に堕ちる危機は脱したと踏んだのだろう。
フェリクス様は、上着を脱ぎながら、足早に私に歩み寄ってきた。
「ローゼ殿下。お探ししておりました。ご無事で良かった」
ふわり、と上着が肩にかけられた。
──温かい。
直前までフェリクス様が身に付けていた上着。そのフンワリした温かさは、涙が滲むほど心に沁みた。私はぐっと歯を食いしばった。
フェリクス様。好きです。
突如として、その気持ちが溢れ、私の心を満たした。
フェリクス様。私、もう貴方には会えないと思っていたんです。最期の権利を、グラムに使ってしまったから。
でも、こうしてまた貴方の榛色の瞳に、映ることができた。
言葉を交わすことができた。
微かに触れることができた。
それだけで。とても、とても、幸せです。
微かに……?
私は、ハッとしてフェリクス様の表情をうかがった。
フェリクス様、今、私の肩に指が触れましたか……?
私の問いかける眼差しに、フェリクス様は、どうされましたか? と首をかしげた。
気のせいだったようだ。死者の冷たさをたたえた私に触れたならば、フェリクス様がこのように平静でいるはずがない。
良かった。フェリクス様には、まだ知られたくない。
私は、さりげなく、フェリクス様から距離を取った。
「フェリクス様。どうしてこちらに?」
「昨日、ローゼ殿下とグラム様がお話されていたのを見た、との証言があったので。グラム様にお話をうかがいたく参りました。来て良かった。どうやら、込み入った状況のようですが、ローゼ殿下、一先ずはお部屋へお戻りください。おめしかえも必要でしょうし、陛下が大変心配しておられますよ」
フェリクス様が、穏やかに言う。
いいえ、フェリクス様。私はもう、戻れないのです。
私は返事が出来なかった。シシーリアに目をやると、シシーリアは首を横に振る。やはりダメのようだ。
そうよね。グラムだけの約束だったのに、既にフェリクス様にも会ってしまったんだもの。
私たちの無言のやり取りに、フェリクス様は思慮深い瞳をした。そして爆弾を投げた。
「シシーリア様。ローゼ殿下が戻ってはいけないのは、なぜですか? 貴女が成長した姿で、そこにおられることと、何か関係がありますか?」
私たち3人は驚愕した。グラムが叫ぶ。
「なぜシシーリアだと分かった?! 俺でさえ半信半疑だというのに」
「王家の髪と瞳を持っておられますから。この年頃の女性で、その可能性があるのは、成長したシシーリア様だけです。グラム様とも、よく似ておいでですし。……シシーリア様は、月に拐われたのだと考えられておりましたが、月に拐われるとは、ただ姿が消えるだけではないのですね。先ほどの光る鎌は、只人に扱えるものではない。貴女は今、『何』ですか?」
さすがフェリクス様だ。察しの良さが尋常ではない。
シシーリアは、フェリクス様の問いかけを受けて、優雅に一礼した。
「初めまして、セオドア公。確かにあたしは、元シシーリア。でも今は、ただの精霊だよ。月に拐われた人は、たまに精霊になることがあるんだ」
「そうなのですか。しかし精霊とは、滅多にその姿を現したりはしないはず。その貴女が、今ここにいるのは何故ですか?」
フェリクス様はさすがだ。その問いは、確実に一歩一歩、核心に近付いていく。
シシーリアは、言ってよいかと、私に目線で尋ねた。
私は困った。やはり説明するしかないのだろうか。私が月に拐われて死んだことを。
いえ、待って。そうした場合、これから先はどうなるの?
私はギクリと体を震わせた。
私が自分から、月に拐われるような愚を犯すはずがない、と、お父様とフェリクス様が結論するのを聞いた。
では、誰が私を月に拐わせて殺したのか、という話題になりはしないだろうか。
その容疑者は、この状況だと一人しかいない。グラムである。
しかし、それでは不味いのではないだろうか。
私を殺したグラムに、そのまま王位を継がせるというのは、やはり難しい筈だ。
私が死に。ひいては、フェリクス様を次期王にという道も絶たれ。グラムも、その王位継承権を奪われる。
それでは、お父様の後は。王位は誰が継ぐのだ。
私はゾッとした。
有力だった2者が消えた後は、残るのは遠縁の王族ばかり。誰が選ばれても決め手に欠けるし、そもそも、権力欲の強い人たちが多い。下手をすれば、血みどろの争いになる。
──国が荒れるわ。
2分するどころではない。候補者の数だけ、国を分けた争いが始まる。お父様にそれを制御できるだろうか。
私を失ったと思い、悲嘆に暮れていた姿を思い出す。フェリクス様のおかげで今は持ち直しているが、本当に私が死んでいるのだと知れば、また無気力な状態に戻ってしまいはしないか。
国を荒らしたくないならば。
グラムを、次期王位継承者から、外させるわけにはいかないのだわ。
私はそれに気づいた。
私は、先ほど思ったのだ。
今の私にできることは、私が死んだ後の未来が、少しでも良いものになるように、全力で考え、足掻くことだけだ、と。
その言葉が、早速今、試されている。
シシーリアの目線に導かれて、フェリクス様が私を見た。
ローゼ殿下? との問いかけ。
ちょっと待って。まだ考えが纏まっていないの。
私は必死に、高速で、頭を回転させた。
それでは、私の死にグラムは無関係だと、無理にでも言い張ってみたら通るだろうか?
しかし、私はすぐに内心で首を横に振った。
フェリクス様がいる。私がこの部屋を、通常ではありえない夜着姿で訪れている時点で、フェリクス様には十分に不信感を植え付けていることだろう。
しかも、宮廷の権力闘争は熾烈だ。私が消えて得をするのはグラムだけなのだから、私が死んだというだけで、グラムは暗殺を疑われてもおかしくない立場なのだ。
そして、今回は、それは根も葉もない噂ではない。
グラムは、私を殺そうと結論する時に、これを考えなかったのだろうか。それとも、考えた上で。その限りなく黒に近い灰色の疑惑も抱えた上で、王位を目指すつもりだったのか。
きっと、そうなのだろう。あの従兄は、変なところで潔いから。
だが、それではダメだ。それで、グラムが引き摺り下ろされでもしたら、目も当てられないことになる。
それでは、どうすれば良い?
フェリクス様に、頼むのはどうだろうか。
私はグラムに殺されたけれど、それは水に流してほしいと。誰にも何も言わず、今後はグラムの味方をしてください、と。
──ダメだわ。頷いてもらえるか分からない。
フェリクス様は頭が固い人ではないが、きちんとした正義感と倫理観を芯に持っている人でもある。そして、王家に絶対の忠誠を誓っている人でもあり、私を支えると、明言してくれた婚約者でもある。
グラムが私を殺したという秘密を、お父様に対しても胸にしまい、グラムに協力しろというのは、あまりにも酷なように思えた。
それでは、どうしたらいいの?
考えなさい。考えなさい。ローゼ。
私が死んだことは、もう覆らない。しかし。
少しでも良い未来を。
お父様やフェリクス様に、少しでも良い未来を。
そして、天啓のように、それが閃いた。
私が、今、この場で死んだことを明かすのは、やはり良くないのだ。
私が死んでも良いのは。それは、グラムが正しく次期王位継承者となった後。グラムを確実な王位継承者に押し上げた後だ。
それならば、私が消えても、国は荒れたりはしない。多少の波風は立てど、問題なく先に進んでいくだろう。
それでは、グラムを確実に王位継承者とするには、どうすれば良い?
答えは簡単だ。
グラムも、昨日、生きている私に懇願していたではないか。
私が、グラムと結婚すれば良いのだ。
グラムと結婚するまで、生きているフリをすればいいのだ。
シシーリアには悪いが、このまま、皆に姿が見え、声が聞こえるようにしておいてもらえば。後は誰にも触れられないように気をつけていれば、出来ないことではない気がする。
ああ、でも、私は後どれくらい、存在していることができるのだろうか。何もしなくても、そのうち力を使い果たして、消滅してしまうと聞いた。それは、どれくらい先のことなのだろう。
しかも、ちょっとしたことで、精神が不安定になる。悪霊に堕ちかけてしまうような状態だ。
──でも、それでもいいわ。
ぎりぎりまで生きているフリをして、その間に、グラムの立場を強めるように動けばいい。
来世に行けず、永遠に消滅してしまうかもしれないが、それがどうしたと言うのだ。どうせ、既に私は死んだのだ。
あとは、また悪霊に堕ちそうになった場合だが。その時は、今度こそシシーリアに、あの鎌で消してもらえばいい。
グラムの立場が確立した後ならば、結婚する前に消えたとしても大丈夫だろう。
そうすれば、このまま何もしないよりは、ずっといい未来を、お父様やフェリクス様に遺すことができる。
その結論は、しかし、私の冷えきった体に、更に冷たくのしかかった。
私が愛しているのは、フェリクス様だ。
それなのに、そのフェリクス様の婚約者という立場を、自ら捨てて。
グラムの妻になると、言わなければならないなんて。
しかも、婚約者の変更を、お父様に何と言い訳すればよいだろう。やはり、グラムを愛しているから、婚約者をフェリクス様からグラムへと変えて欲しい、と言うしかないだろうか。
きっと不審がられる。
それを誤魔化しきるためには、口先だけで、愛しているフリをするのでは足りない。
私のフェリクス様への恋心を、とっくの昔に、お父様もフェリクス様もご存知だったではないか。生半可な覚悟では、聡い二人に見抜かれてしまうだろう。
胸の奥底で、密かに想うことさえ許されない。私はこれから先、フェリクス様への恋心を、完全に殺さねばならないのだ。
そんなの嫌よ。
フェリクス様は、私を支える柱。導く光。
幼い頃から、フェリクス様を想う心が、私をつくってきたと言っても過言ではないのに。
でも……。
私は、フェリクス様を見上げた。
私は、この国の王女。
私の心を育てたのはフェリクス様への想いだが、この身を作り上げたのは、その髪の一筋までも国民の血税。
国が荒れると分かっていて、それを防ぐ手だても見えているのに、それを実行しないなんて、──許されない。
それに、何よりも。
フェリクス様に、少しでも良い未来を遺したい。
大事な、大事な人だから。
内乱で荒れた国ではなく、平穏な未来で、健やかに。幸せに過ごして欲しいのだ。
だから、そのためには。
婚約者の立場くらい、捨てなければ。
フェリクス様にとっては、良かったのかもしれない。
王家への忠誠心ゆえに、幼い私への誓いゆえに、結婚を頷いてくれたけれど、本当は野心も持っていない人だもの。
──それでも!
私は、本当に、本当に、貴方の妻になりたかった。
貴方に受け入れてもらったあの時、どんなに嬉しかったか。幸せだったことか。
今でも、できるなら、貴方以外の人と結婚するなんて、言いたくありません。
……でも、誓ったんです。
私が死んだ後の未来が、少しでも良いものになるように、全力で足掻くと。
貴方に、少しでも良い未来を遺す、と。
──自分の行動を鏡に映した時、目をそらさずにいられる人になってください──
はい、フェリクス様。
さあ、一世一代の嘘をつこう。
婚約が決まった時は、まさか私がこんな台詞を言うことになるなんて、思ってもみなかった。
「フェリクス様。婚約破棄いたしましょう」
平静を装った私の声が、凛然と室内に響いた。
大好きな、大好きな貴方。心からお慕いしています。
だから、お願い。私の気持ちになんて気づかないで。
どうか、嘘に騙されていてください。
私は、潤みそうになる涙腺を叱り飛ばして、鮮やかに微笑んでみせた。