5.私を殺した誰か
フェリクス様は、身じろぎもしなかった。動揺さえ見せなかった。それどころか、どこか納得したような表情で、お父様を見た。
フェリクス様、どうしてそんなに落ち着いているのですか?
見ている私の方が、心臓が潰れそうです。
「ローゼ殿下は、本当に婚約しても良いのか、王位を継いでくれるのかと、私を気遣ってくださいました。身命を賭してと、お答えしましたところ、幸せになりましょうね、とのお言葉をくださいました」
お父様は、その言葉に、深々と息をついた。
「……そうか……」
張りつめていた殺気が溶け、疲れたように剣を下ろす。元通りに壁にかけると、ソファーに力なく身を沈めた。
「……そうか。……ローゼは、喜んでおったか」
瞑目するお父様。
はい、お父様。
私、本当に、本当に、嬉しかったのです。
だから、フェリクス様に剣なんて向けないで。
フェリクス様は慎重に言葉を発した。
「朝議で婚約の発表が無かったので、懸念しておりました。やはりローゼ殿下の御身に、何かあったのですね?」
お父様は、フェリクス様へ、向かいに座るよう合図をした。
私と少女も、話が聞きやすいように、勝手に端に座る。ソファーが揺れないからできる芸当だ。
「ローゼは……消えた。朝侍女が、いつも通り部屋を訪れたが、既に部屋は、もぬけの殻であったそうだ。現在探させておるが、姿が見えぬ。通常であれば、かどわかされたと考えるところであるが、昨夜は『月に拐われる夜』。判断に迷っておる」
フェリクス様は、ソファーに腰を下ろす動作を、一瞬止めた。しかし、静かにそのまま腰を下ろす。その声は冷静だった。
「部屋に何かの手がかりはございましたか?」
「いいや。ない。ただ、カーテンが開いておったそうだ。それゆえ、まさか何やら悲観して、自ら月に拐われでもしたのかと、そなたを脅してみたのだが……」
お父様ったら。フェリクス様が、私に酷いことなんて、言うはずがないのに。
「ローゼ殿下は、自らの責任を深くご承知の方です。何があったとしても、全てを投げ出して、お隠れになるようなことはなさいますまい」
「……そうであるな。どれほど言っても、そなたへの想いは決して口にせず、国にとって最適な方と結婚します、とのみ言い続けた娘だ」
お父様の台詞に、私は思わず両手を頬にあてた。
やっぱりお父様、私の気持ちをご存知だったのね。
そして同時に、猛烈に気恥ずかしくなった。
単に諦めていただけの話だ。崇高な使命感を持って、結婚相手は国に最適な人選を、なんて、言っていたわけではない。持ち上げられると居たたまれない。
「やはり、誰かの差し金で、連れ去られたか、それとも月に拐われたか……。どちらにしても、既に無事ではあるまいな。最低でも純潔を、最悪ならば命を失っているであろう。あれは、私の掌中の珠。あれが傷つけられていると思うと、思考がまとまらぬのだ」
お父様は憔悴していた。常に纏っている、王者の覇気が感じられない。ソファーに預けている身体が、いつになく小さく見えた。
その様子に、お父様の傷心の深さが感じられ、私は身体が引き絞られるような心地がした。
ごめんなさい、ごめんなさい。お父様。
御明察の通りです。
私は、もう死んでしまったのです。
世界が、ほんの少し、その影を暗くした。
虚脱しているお父様とは異なり、フェリクス様の眼差しは鋭かった。その頭脳が、物凄い勢いで回転しているのが分かる。
いつもは温かな表情が凛々しく引き締まり、私はこんな時なのに見惚れてしまった。
フェリクス様は、ずるい。
どんな時でも、その織り成す綾で、私を魅了していくのだから。
「陛下。私に、兵を動かす権限を、一時お与えください。10年前のシシーリア様の一件以来、『月に拐われる夜』であっても、可能な限りの警備は敷かれていたかと記憶しております。調査いたします」
お父様は記憶を追いかける顔になった。
「シシーリアか。あれも月に拐われ、姿を消したままであったな。確か5才であったか……」
私の脳裏に、「ローゼねえさま」という、幼くもあどけない声が甦った。薔薇色の髪に緑色の瞳の、可愛かった従妹姫。
私の隣で、少女の灰赤の髪が揺れた。恐る恐る、私の顔色をうかがっている。
どうしたのかしら? そんな寄るべない瞳をして。
ちょっと首をかしげ、私は、ああ、と納得した。
もしかしたら、この少女は、シシーリアも来世へと送ったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
灰緑の瞳に、不安げな色を読み取って、私は微笑んでみせた。
大丈夫よ。貴女を嫌いになんてならないわ。
「ローゼもシシーリアと同じように、何も分からぬまま、月に拐われたことになるのであろうか……」
嘆くお父様。
フェリクス様は太陽のような空気を発した。悲しい想像に凍えるお父様を照らすように。力強く、温かい気配。
「そのようなことには、させません。ローゼ殿下をただ消しても、得をするのはグラム様だけ。である以上、かどわかされた可能性が高いはずです。お探しし、お救いいたします。必ず」
フェリクス様からは、義務的ではない熱意が感じられた。
お父様は、そのフェリクス様の熱を意外に思ったようだ。少し眉を上げる。
「セオドア公よ。そなた、ローゼにほだされたか?……ローゼは、見つかったとしても、既に清い身体ではないやもしれぬぞ」
フェリクス様は、珍しくもニヤリと笑った。
「関係ございませんよ。陛下を義父上と呼ぶのが、楽しみなのです。ローゼ殿下をかどわかした、どこぞの無作法者に、その権利を譲る気はございません」
え? 義父上?
私はキョトンとしたが、お父様も、珍しく呆気に取られた。ぽかんと口が開いている。
基本的に態度が丁重で、常に王家への敬意を忘れないフェリクス様だ。そのフェリクス様が、お父様を義父上と呼ぶ?
もちろん、いけなくはない。いけなくはないが……凄い違和感だ。お父様は、何回か何かを言いかけた。ぱくぱくと口を動かして、三拍。
それから破顔した。笑みの形に細められた、瞳の奥が濡れていた。
その感激には、一瞬たりとも迷わずに、私が汚されていても関係ないと言い切った、フェリクス様への切ない感謝が溢れていたのだと、私は気づかなかったけれど。
「セオドア公よ、よく言った……! 私も義息子と呼ぶのは、そなたが良い。──よし。ローゼは急病だ。時間を稼ぎ、その間にローゼを取り戻すとしよう」
お父様の顔に生気が戻ってきた。フェリクス様は、これを狙ったのだろう。私は心から感謝した。
フェリクス様、ありがとうございます。お父様を元気付けてくださって。
私は、無事に戻ることは出来ないけれど。
やっぱり、貴方のことが大好きです。
世界が、少しその彩りを取り戻した気がした。
濁った灰色が、すうっと薄くなり、覆い隠された元の色が煌めいた。
「セオドア公、いい男だね」
少女がいたずらっぽく、私の耳元で囁いた。私は、そうでしょう、と胸を張った。フェリクス様は、本当に素敵な方なんだから。
その時、人払いしているにも関わらず、執務室に入室の許可を求める声があった。
やってきたのは、昨晩の警備責任者だ。お父様がちょうど良い、と笑う。
入ってきた近衛騎士は、直立不動で報告した。
「昨晩、王宮への侵入者がありましたので、急ぎ報告に参りました。侵入者は1名、男です。明らかに隠密として訓練を受けた所作、黒一色の出で立ちをしておりました」
ドクン、と、既に動いていないはずの、私の心臓が跳ねた。思い出したのは、私に薬を飲ませた黒衣の男。
「捕らえたか?」
お父様の鋭い問いかけに、近衛騎士は申し訳ありません、と返す。
「追い詰めたのですが、逃げられないと悟り、自ら月光に姿を晒しました。そのまま、空気に溶けて消えていくのを、切り結んだ全員が見ております」
「そうか……。警備の者に被害は?」
「浅手を負ったものが数名。命に別状はございません」
私は信じられない想いで、その報告を聞いた。
それでは、あの黒衣の男も死んだのだ。
私はハッと大事なことに気づいて、少女へ問いかけた。少し声が大きくなった。
「月に拐われたということは、もしかしてあの黒衣の男も、私のように死にきれず残っているの?!」
そうであれば、話を聞けるのではないか。
今まで、そこまで頭が回らなかったが、よく考えてみれば、何処かに、あの男を私のもとへ差し向けた、誰かがいるはずなのだ。
それが誰なのか、上手くすれば聞き出せるかもしれない。
表情を明るくした私とは裏腹に、少女は沈痛な顔をした。
「あの男は、もういないよ、お姫様。あたしが、お姫様が起きる前に消しちゃった。あの男は、人の悪意や害意に近かったから。放っておくと、悪霊として目覚めそうだったんだ」
「そう……」
私は落胆した。でも、仕方ない。それが少女の務めなのだから。
「消す前に、あの男と、何か話した……?」
一縷の望みをかけて聞いてみると、意外なことに肯定の回答があった。
「あー……うん。話したよ。それであたし、お姫様が月に拐われたって知ったんだもの。お姫様、やっぱり気になる?」
「ええ。気になるわ。私を殺した相手のことだもの。他にも聞いたことがあるなら、教えてくれる?」
うーん、と少女は唸った。何を話して何を話さないのかを、思慮深く検討している気配がする。
そんな様子を見ると、目の前にいるのが、ただの15才の少女ではなく、人智を超えた経験を積み重ねている、精霊だということを実感する。
「あの男は最初から、お姫様を月に拐わせるように、依頼を受けてたらしいよ。お姫様に飲ませたのは、ただの睡眠薬だったんだって。眠らせて、月光を浴びさせるのが目的だったみたい。正直、良い考えだと思うよ。殺したら死体が残るし、そこから得られる犯人の情報もある。でも月に拐わせたら、証拠は何も残らないもんね」
「そうなの……。誰に頼まれたか、とか、聞いた?」
少女は困った顔をした。それでも嘘はつけないのだろう、渋々答える。
「聞いてないよ。推測はできるけど……教えない。お姫様、誰が自分を殺したかなんて、考えない方がいいよ。暗い方へ、思考が流れやすくなるから。悪霊に近づいちゃう」
教えない、と言った通り、少女はそれ以上、頑として口を割らなかった。
私が少女とのやり取りに気をとられている間に、お父様と近衛騎士との会話も進んでいた。
フェリクス様が、発言をお許しください、と、自分に注意を集める。
私も思わず注目した。フェリクス様の声であれば、いつでも勝手に耳が拾ってしまうし、一度聞こえてしまえば、自然と耳をすませてしまうのである。
「その男は、誰かを連れていましたか? もしくは、大きな荷物を持ってはいませんでしたか?」
「いえ。連れはいませんでしたし、男は、武器以外は何も持っておりませんでした。男と一緒に消えた、目立つ荷物もなかったと」
「そうですか。それでは、その男が通行したと思われるルートを捜索してください。何か見つかれば報告を」
近衛騎士が退出してから、お父様とフェリクス様は顔を見合わせた。その表情が固い。
「別口か?」
お父様の呟きに、フェリクス様は慎重に反論する。
「タイミングが合いすぎますので、決めつけるのは早計かと。逃げ出す際に、どこかへ隠したか、誰かに預けた可能性もあります。……ですが、もしもその男が、ローゼ殿下を連れ出したのではないとなると……」
敢えて言葉を濁した先は、言わなくても分かった。
私が月に拐われた確率が高くなる、と続いたはずだ。
それが真実だと知っている私は、今姿を表して、お父様とフェリクス様に、事情を説明するかを迷った。少女には、会うのは一人だと言われているが、何とか見逃して貰えないだろうか。
思考に沈む、お父様の声が響く。
「そもそも、今回のこと、誰の差し金だ? そなたは、情報を漏らすような、愚かな真似はするまい。セオドア公よ。そなたをローゼの婿とすることは、まだ私とそなたの、胸の内のみにあったはずだ。……であれば、周囲の認識上、ローゼの伴侶はグラムだ。王弟派は動かぬ。かといって、他の者にとっては、ただローゼを消しても、グラムが王位に近付くだけで、意味などなさぬ。ローゼに手を出すならば、ローゼは生かし、その身柄を押さえ、無理矢理にでもローゼの伴侶の位置をもぎ取らねばならぬのだ」
私は、ギクッと身体を強張らせた。
お父様は、今、重要なことを言った。
私を殺した犯人を探す上で、重要なヒントを。
何度も何度も、お父様の言葉を胸の内で反芻し。
カタカタと、私の身体が震え始めた。歯の根が合わず、耳障りな音をたてる。身体をかき抱くが、止まらない。
──そなたは、情報を漏らすような愚かな真似はするまい、セオドア公よ──
そうよ、フェリクス様は、何も言わない。言っていない。フェリクス様じゃない。
少女が、お姫様、どうしたの? と心配そうに声をかけてきたが、返事をする余裕はなかった。
世界が急激に、その彩度を落とした。先ほど温かく浮かび上がってきた色彩が、灰暗色に沈む。
……だって、私、言ったわ。
私の伴侶が、フェリクス様に決まったと。
グラムに。