4.精霊の少女
その世界は、全てが灰色にくすんでいた。
真っ白なリネンと、淡いピンクの上掛けで可愛らしく整えられていたはずのベッドは、グレーとピンクの混ざった奇妙な色に染まっていた。アイボリーホワイトだった壁も。花瓶に活けられていた花々も。落ち着いた茶色だった絨毯も。お気に入りのオレンジのクッションも。
窓の外を見れば、美しい夜明けの空までも。全てが元の色に灰色を被せたような、何とも言えない色合いをしている。
私は自分の掌を見た。普通だ。健康的で瑞々しい、肌色の手。身に付けている夜着も、元の通りの淡いグリーン。
胸元に垂れている髪の毛の先を摘まむ。やはり、つやつやとした薔薇色のままだ。
灰色にくすんだ世界の中で、自分だけがカラフルに浮き上がっているように思えた。
「……これは、どういうことなの……?」
「お姫様、気がついた?」
私はバッと振り返った。
漆黒の男ではなかった。15才くらいの男装の少女が、そこにいた。
灰赤の髪を顎のあたりでバッサリと切り揃え、侍従と同じ服装をしている。意志の強そうな灰緑の瞳。生真面目に引き結ばれた唇は、何となくグラムを思い起こさせた。信じられないことに、床に胡座をかいて座っている。
彼女を見て、私は自分以外の人も、灰色に沈んで見えることを知った。無機物ではない物、つまり人や動物なら、鮮やかな色を纏っているのではないかと期待していたのだけれど。
「貴女は誰?」
「あたしは、王宮に住んでる精霊だよ。そして今は、お姫様の来世への案内人」
……精霊?
私は目を見開いた。
確かに精霊の存在は信じられているが、通常は目には見えないものだと考えられている。伝承を紐解いても、誰それがどこそこで出会った、との文献が、わずかに点在するばかり。
この少女が、その希少な精霊なのだろうか。随分人間臭いというか、ざっくばらんな態度で、正直疑ってしまう。
しかも……来世への案内人?
私の心はぎゅっと縮み上がった。来世への、という言葉が出るということは、つまり……。
残念なことに、心当たりは、ありすぎるほどにある。
「……私は、死んだの?」
恐る恐る尋ねると、精霊と名乗る少女は気まずそうな顔をした。
「お姫様、理解が早いね。それに冷静だ。そうだよ。月に拐われたんだ。あの言い伝えは真実だからね」
冷静?
いいえ、違うわ。まだ現実を受け止めきれていないだけよ。
「毒ではないの?」
「毒で死んだんなら、その状態にはならないからね。お姫様は、今、死んだけれど、死にきれずに残ってるんだよ。月に拐われると、そうなるんだ。正確に言うと、月に拐われた人の末路は3つ。1つ、人に災いを為す悪霊になる。2つ、あたしみたいな精霊になる。3つ、悪霊にも精霊にもなりきれないで取り残される。大多数の人が、これになるんだけど、お姫様もこの状態だね。あたしは、そうなった人を、ちゃんと死なせてあげるのが役目なんだ」
少女は指を立てながら、慣れた口調で説明した。
私は掌を胸に当てた。鼓動は……、ない。
信じられない。けれど、どこもかしこも灰色に染まった世界が、私に否定を許さなかった。
私は黙って立ち上がり、お気に入りのクッションを撫でた。ほんのりと温かく感じた。触れることと、温度を感じることに、喜びを感じた。
次は花瓶だ。灰黄色の花びらを詰まんでみた。やはり触れる。しかし、むしることは出来なかった。接着剤でくっつけてあるかのように、ピクリともしない。
ベッド。掛け布団を撫でることはできる。しかし、上掛けの中に潜り込むことは出来なかった。そもそも上掛けを持ち上げることが出来ないのだ。それどころか、確かに私がベッドの上に乗っているのに、そこには皺1つ寄らない。ゾッとした。
ソファーも同じだ。座ることはできるし、私にはその柔らかな肌触りも感じられる。しかしソファーの座面は平らなまま。沈み込んだりはしないのだ。私に重さがなくなったかのように。
そして、私は視界に入った姿見に愕然とした。姿見には、誰の姿もなかった。私も、少女も。誰もいない。ただ、がらんどうの部屋を映し出していた。
私はそのまま、部屋にある全ての物に手を触れた。どれもこれも、ほんのりと温かく感じる。でも、それにホッとしていたのは、最初のうちだけだ。やがて、嫌でも間違いに気づいた。
触れている物が温かいのではない。私だ。私が冷えているのだ。
キンと凍り付くような冷たさではない。予期せず触れたからといって、思わず飛び退いてしまうほど、冷たいわけではない。
しかし、確かにヒンヤリと、私は冷えている。
例えるなら、晩秋の夜に、一晩中外へ出しておいた毛布だ。抱きしめると、柔らかいけれど、寂しくなるほど冷たい。あの感覚と似ている。
どちらにしても、生きているものの温度ではなかった。
死者の温度だった。
心臓が動いていないことは、もう確認した。
では、呼吸は? 私は呼吸しているの?
分からない。吐き出している気がする。吸ってもいる気がする。でも、それは気がするだけかもしれない。
もしくは、身に染み付いている癖で、体が呼吸するフリをしているだけかもしれない。実は息を止めても、私は苦しくなんかないのかもしれない。
今水中に投げ込まれても、私は何の苦痛も感じず、水死者だけが見るという、蒼い万華鏡のような美しくも哀しい水面を、落ち着いて見上げることが出来るのではないだろうか。
いや、きっと見上げることができるのだ。
だって私は、死んだのだから。
だってほら、鏡にも映っていないではないか。
「────────!!」
私の声にならない悲鳴が響いた。
灰色の世界が、一段階、その暗さを増した気がした。
私は死んだのだ。
確かに、私は死んだのだ。
本当に、私は死んでしまったのだ。
私は……。
ああ、フェリクス様……!
「お姫様! いけない!! 落ち着いて!」
顔を両手で覆って、しゃがみこんでしまった私を、少女が抱きしめた。温かい。
「お姫様! あまり考えちゃダメだ! 今の宙ぶらりんな状態は、暗いことに引っ張られやすいんだ。どんどん暗くなっていくと、最後は悪霊に堕ちてしまう! そうなったら、あたしは、お姫様を消すしかなくなっちゃう。それは嫌なんだ。お姫様には、ちゃんと来世に旅立ってもらいたいんだ。お願い、落ち着いて!!」
ガクガクと震える私を抱きしめる腕に、少女はぎゅっと力を込める。ほのかに甘い香りがした。どこかで嗅いだことがある匂いだ。胸の中に、ぽっと小さな灯りが灯った気がした。
私は、まだ匂いも感じることができる。
「お姫様、大丈夫だよ、あたしがついてる。死んだということは変えられないけれど、平穏で柔らかな微睡みの中へ、必ず送り出してあげるから。落ち着いて……。悲しいことばかりに捕らわれちゃダメだ」
私が落ち着くまでの間、少女はずっと、私を抱きしめていてくれた。
私は随分長い間、うずくまっていたと思う。
部屋の外から、人々の営みを感じ始めた。王宮が目覚めたのだ。
私はゆっくりと、顔から両手を外した。乱暴に手の甲で涙を拭う。元気を出すには、それくらいの勢いが必要な気がした。いつまでも嘆いていてはダメだ。ずっと、ここで、ただ泣いている訳にはいかない。
「ごめんなさい……。もう大丈夫よ」
少女は痛ましげに灰緑の瞳を揺らめかせて、私を見た。
「お姫様は、強いね。もっと泣きわめいて手がつけられなくなる人、いっぱい居るんだよ。この目覚めの瞬間が、一番危ないんだ。悪霊と化した人を何人消したか、もうあたし分かんないもの。お姫様は大丈夫? 世界が暗さを増してない?」
暗さを増す?
言われてみれば、先程までよりも、全体的に灰色が濃くなっている。でも、まだ元の色も透けて見えるし、恐らく大丈夫だろう。
「大丈夫よ」
「夜が近づくように、灰色から闇色へ世界が暗くなってきたら、それが悪霊に近づいている合図だ。十分に気を付けて。哀しいことや、辛いこと、苦しいことや、憎らしいことを考えると、世界が暗くなるからね。そういうときは、嬉しかったことや幸せなこと、大好きな人を思い出して。あたし、お姫様を無理矢理消すなんて嫌だからね。最期は、幸せな終わり方であって欲しいんだ」
「分かったわ」
少女は、ぴょんっと私から一歩離れた。初めてニコッと笑うと、恭しく礼をする。服装の通り、侍従の礼だった。彼女には妙に似合っている。ざっくばらんな口調だが、仕草にはどこか品があるのだ。
「それじゃあ、お姫様。お姫様が一番会いたい人に、お別れを言いに参りましょう」
お別れを言う?
「会えるの……? 生きている皆に、私の姿は見えないのだと思っていたのだけれど……。それとも、声だけなら聞こえるのかしら」
少女は気づかれていたか、という顔をした。ペロッと舌を出す。
「今のままじゃ姿も声も無理だよ。でも実は、あたしが手を貸せば、見えるようにも聞こえるようにも触れるようにもなるんだ。本当は禁止事項なんだけどね。……だけど、お姫様は特別。手を貸してあげるよ。でも、さすがに何人もは見逃せないから、会うのは一人だけにしてくれる?」
私は頷いた。
たった一人へのお別れ。
でも、それでもいい。
誰にも何も言えず、このまま旅立ってしまうのは哀しいから。
「分かったわ。でも、どうして、特別扱いしてくれるの?」
本当は禁止なのに、便宜を図ってくれるのはなぜ?
少女はその時、とてもとても切ない顔をした。何かを懐かしんで、何かに憤り、何かを悔やみ。そして、それら全てを覆い隠して微笑んでみせた。
「お姫様が、お姫様だからだよ。それに、ちょっとした罪滅ぼし、かな。これ以上は教えない。……さあ、お姫様! 大切な人に、最期のさようならを言いに行こう」
ちょうど侍女が、私を起こそうと部屋を訪れたのを契機に、私たちはそっと部屋を抜け出した。
これからきっと、王宮は大騒ぎになる。分かってはいたけれど、たった一つの大切な機会を、侍女への事情説明に使う気にはなれなかった。
内宮から外宮への道筋をたどる。
廊下を薄い夜着姿で歩くのは落ち着かない。誰にも見えていないと分かっていても、侍従や侍女、政務官などとすれ違うたびにドギマギした。
私がソワソワしているのを見て、少女は申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、お姫様。魔法で、ちょちょいっと着替えさせてあげられればいいんだけど。お姫様が月に拐われた時の姿以外は、基本的に受け付けないみたいなんだ。無理に干渉すると、お姫様の存在そのものを消しそうで、怖くて」
その口調だと、既に試してはくれたようだ。優しい子だ。
「いいのよ。皆には見えないって分かっているのに、私が落ち着かないだけだから。王女だから、着飾るのに慣れすぎちゃってるのね。贅沢好きで困るわね」
精一杯、おどけた風に言う。本当は、夜着で表をウロウロするなんて、着飾るとか以前の問題だが。
「お姫様は、今死にきれずに残っているだけだから、存在が不安定なんだ。実は何もしなくても、そのうちに力を使い果たして、消滅しちゃうくらい弱いんだよ。あたしは、そうなる前に、お姫様を来世に送り出すのが役目。それなのに、着替えなんかでウッカリお姫様を消しちゃうのは嫌だよ。かと言って、普通に着替えさせるには、実体化させないといけないしなぁ」
ぶつぶつ呟く少女に私は笑う。本当に優しい子だ。しかし今、大事な情報を聞いた気がする。
私はいつまでも、今の状態で残っていられる訳ではないということ。期限つきの状態だということを、胸に刻んでおかなければ。
「それで、お姫様。誰に会うの?」
興味津々、という雰囲気で、少女は私に問いかけてきた。
私は言葉に詰まる。実は、まだ決めることができずにいたのだ。
「候補は二人いるのだけれど、決められなくて。迷っているの」
「そうなんだ。誰と誰?」
「お父様と、婚約者よ。どちらにしても二人とも、今頃は一緒に外宮で会議をしているから、ひとまずそちらに向けて歩いているの」
本当は、悩むまでもなく、お父様にするべきなのかもしれない。あれほど可愛がってくれた両親を置いて、先立ってしまったのだから。どんなに悲しませてしまうことだろう。
でも、どうしてもフェリクス様を思い切れなかったのだ。
肉親の情と恋心を天秤にかけるなんて、私は何て親不孝な娘なのだろうか。
でも、会いたい。
会いたいの。
最期に、貴方にきちんとお別れが言いたい。
フェリクス様。
少女は、思い悩む私を勇気づけるように、カラッと笑う。
「お姫様は真面目だなあ。最期なんだから、自分の気持ちだけ大事にすればいいんだよ。あたしは普段から王宮に住んでて、色々観察してるんだから、大体の状況は分かってるよ? その組み合わせなら、素直になっちゃえば、婚約者一択でしょ? ほらほら、悩まない悩まない。悪霊になっちゃうよ」
ありもしない眉間の皺を、指で伸ばすフリをされて、私はクスッと笑った。灰色で目覚めてから、初めて笑えた気がした。
「そうね。ありがとう、気が楽になったわ」
朝議の間が近づいてきた。
人が動く気配と衣擦れの音。ちょうど会議が終わったところらしい。扉が開いて、まず一番に出てきたのは、お父様とフェリクス様。
お父様がフェリクス様の位置をチラリと確認すると、早足で歩き出す。フェリクス様が無言でそれに付き従った。さらにそれに続く、近衛騎士や侍従たち。私たちも慌ててその行列の最後尾に紛れ込む。
お父様もフェリクス様も無表情だ。普段なら他愛もない雑談をしながら歩むところが、今日はそんな空気は微塵もない。固い雰囲気に、侍従たちが戸惑っているのが分かる。
何かあったのだろうか、と思ってから、私は自嘲した。
何かも何も。私のことに決まっている。
執務室に戻ると、お父様はフェリクス様だけを残し、人払いをした。私と少女だけは、お父様たちに見えないのをいいことに、執務室の片隅へ息を潜めた。
そして、私は驚愕することになる。
お父様が突然、壁に飾られていた剣を抜いたからだ。老いたりと言えど、その動きに危なげはない。スラリと鞘走らせ、強い目線でフェリクス様を睥睨する。
鋭く光る刃。人を傷つけることも容易にできる、本物の剣だ。
お父様はその剣を、ゆっくりとフェリクス様の喉元に突きつけた。
「セオドア公よ。包み隠さず申せ。昨日、ローゼとは何を話した? そなたが下手を打つとは思えぬが、返答如何によっては、その首切り落としてくれる」
執務室内に、お父様の殺気が渦巻いた。