2.私が貴方を想う理由
優雅に一礼したフェリクス様に、私はかろうじて立ち上がり返礼した。
「セオドア公、よく来てくれた。ローゼの隣に座るが良い」
流れるようなエスコート。茫然としている間に、私はいつの間にかフェリクス様と並んで、再びソファーに腰かけていた。
フェリクス様にお茶も出さず、さっそくお父様は口を開いた。私が自失しているのを見て、企みが上手くいったと上機嫌だ。ゆったりと膝の上で手を組む。
「来年度の予算計画書を見たぞ、セオドア公。足らぬところに配り、要らぬところを削る見事な配分であった。しかも、予算が減る部門も含めた、全部門の内諾つき。そなた、どのような魔法を使った?」
フェリクス様の穏やかな声が答える。
「魔法など、何も。ただ、時間を取って、それぞれとお話をさせていただいただけです」
嘘だ。ただ話すだけで、自分に不利となる予算案を、各部門が了承するわけがない。恐らく、非常に高度な駆け引きと心理戦が繰り広げられたことだろう。そして、フェリクス様が勝ったのだ。
お父様もその内情はお見通しだ。苦笑した。
「話しただけ、か。どちらにしても、あの海千山千の狸どもを黙らせられるのは、そなただけであろうよ。相変わらずの交渉上手よの」
「恐れいります」
いきなり始まった政務談義に、私は目を白黒させていた。
つい先程まで、私の結婚についての話をしていたと思うのだけれど。そしてフェリクス様が私の結婚相手に決まった、ということなのだと思ったのだけれど。気のせいだっただろうか。
政務の話をするなら、私は退出した方が良い。場の空気をうかがっていると、お父様は顎髭をしごきながら、ニヤリと笑った。どうやら今の話は、お父様にとっては本題の前ふりだったらしい。
「ついては、その有能なそなたに、このたび特別な褒美をとらすこととした」
フェリクス様は目を見張った。ゆっくりと首を横に振る。
「褒美など無用です、陛下。そのようなものをいただかなくとも、私の忠誠は、いつも陛下に」
「知っておる。だからこそ、そなたにしかやれぬ。特別な褒美だ」
フェリクス様の理知的な瞳が煌めいた。お父様のいたずらっぽい顔に呼応して、わざと声のトーンを上げる。相変わらず場の空気を読むのが上手い人だ。
「それでは遠慮なく頂戴いたします。一体何をいただけるのですか?」
「私の掌中の珠と、次期王位を」
打てば響く鐘のようなお父様の返答に、フェリクス様は絶句した。珍しい。優秀な政治家でもある彼が、驚きを露にすることなど滅多にないのに。まごうことなき絶句だ。
そんなに意外でしたか? フェリクス様。
私を伴侶とすることなど、それほどまでに、全く考えたこともなかったのですか……?
「そなたも29才、いい加減に身を固めても良かろう。それとも、ローゼでは不満か?」
フェリクス様が、凝固から復帰し、さりげなく呼吸を整えるのが分かった。動揺を押し隠し、ひたと父王を見つめる。
「不満だなどと……とんでもございません。しかし陛下。ローゼ殿下の伴侶、すなわち次代の王は、グラム様であろうというのが、衆目の一致するところでした。そこへ私などがしゃしゃり出ては、王弟派は黙ってはおりますまい」
お父様は動じなかった。それはそうだ。そんなことは全て考慮した上で、それでもフェリクス様を選んだに違いないのだから。
そして、それはきっと。私のためだ。
私の恋心など、お父様は全てお見通しだったということなのだ。
「王弟派か。そなたが次期王となれば、確かに王家の血に拘る長老どもは面白くなかろうな。グラムを担ぎ出し、グラムの方が王位に相応しいと主張することで、己の利権を狙う輩も蠢動するであろう。また、相手がグラムだから仕方なく諦めていた、元々ローゼを狙っていた面々も、我も我もと騒ぎだすやもしれぬ。これらも数が多いぶん厄介であろうな。国内貴族はもちろんだが、我が王家に血を入れたい諸外国が入り婿などを申し入れてくれば、一層話がややこしくなる」
その未来予想図に、私は涙目になった。
私と結婚すると、それだけの面倒事を、否応もなくフェリクス様は背負うのだ。そうなると分かっていたからこそ、私は自分の気持ちに蓋をしていたのに。
いつの間にか、お父様の口元から笑みが消えていた。厳粛な空気をまとい、重々しく命じる。
「全て黙らせてみせよ。セオドア公。そなたならば、それが出来るであろう。否やは許さぬ。王となり、貴族間の摩擦を調整し、各派閥の舵をとり、他国を牽制し、政策を練り、民を安寧させよ」
それは既に王命だ。
「お父様!」
私は我慢できず声を上げた。王命ゆえに逆らえず、渋々私をめとるフェリクス様など見たくない。何より、それで疎まれたらと思うと、私が耐えられない。
しかしお父様は私に強い視線を向けた。為政者の目だった。
「口を出すな、ローゼ。お前も否やは許さぬ。国にとって最適の人選を、と告げた言葉が真であるならば。黙っておれ」
私は唇を噛んだ。駄目だ。お父様がこの顔をしたときは、大人しく従う他ない。フェリクス様が王位に相応しくないなんて、嘘でも言えないから尚更だ。
その時フェリクス様の温かな空気が、フワリと私を包んだ気がした。驚いて顔をあげると、優しい表情で、フェリクス様が私を見つめていた。その目線は唇に。
「ローゼ殿下。力を抜いてください。傷になってしまう」
そして、お父様に向かって、恭しく頭を垂れた。
「……御心のままに。陛下」
フェリクス様!
「よし。明日の朝議で発表する。心せよ」
お父様は満足気に笑う。
「ところで、そなたに渡す財務の資料を何枚か、庭の東屋に忘れてきてな。取りに行って、そのまま持って帰るが良い。ローゼ。お前が案内するのだ。お前が一番気に入っておる東屋だからの。婚約者同士、道々お互いへの理解を深めるが良い」
追い出されるようにお父様の執務室から出た私は、正直途方に暮れていた。
怒濤の展開に頭がついていかない。どうしてもフェリクス様に言っておかねばならないことがある気がする半面、それと同じくらい、何と言ったら良いか分からなかった。
私、フェリクス様と婚約するの? 本当に?
未だに困惑する私とは裏腹に、フェリクス様は、少なくとも表面上は平静に見えた。
私に向けて、にこりと笑う。左腕をエスコートの形に曲げて。
「それではローゼ殿下、参りましょうか?」
私は、フェリクス様の腕に手をかけることを躊躇った。
そして、つい逃げをうってしまった。意気地無しとは言わないで欲しい。自分の心を整理する時間が欲しかったのだ。
「フェリクス様……、お忙しいのでしょう? 宜しければ、書類は私だけが取りに行って、お届けします。どうぞ執務にお戻りください」
「いいえ。大丈夫ですよ、ローゼ殿下。書類を取りに参る程度の時間はございます。それに陛下が書類を置き忘れたのは、恐らくわざとです。私たちに、理解を深めよと仰せられた言葉を、違えるわけにはまいりません」
そう言われてしまうと、これ以上抵抗する訳にもいかない。
私たちはゆっくりと歩き出した。私たちの姿を認めた行き交う人々が、意外そうに目を見張りながら、隅に寄りお辞儀をする。
これまでろくに接点がなかった二人が、親密そうに腕を組んで歩いているのだから当然だ。私たちが通り過ぎた後も、視線が追いかけてきているのを感じる。
フェリクス様が苦笑した。
「これは、注目の的ですね。まぁ、噂になる前に、明日激震が走るわけですから、構いませんが」
構いませんが、の一言に、私はコクンと息を飲んだ。
フェリクス様、ご自分の結婚がかかっているのに、諦めが早すぎませんか?
お父様の宣言直後の、あの絶句が嘘のようだ。私との結婚など、考えたことがなかったのは、確かなのだろうに。
私はずっと、フェリクス様が好きで、密かにフェリクス様を見つめてきた。だから知っている。
非常に残念だけれど、フェリクス様は、一回り以上年の離れた私を、恋愛対象として見たことはないと。そして、私と結婚して自分が王位に就きたいという野心も、持ってはいないと。
つまり私は、フェリクス様にとって、伴侶とする意義が皆無の女なのだ。皆無どころか、面倒事ばかり呼び込むと言ってもいい。
それなのに、そんな私を、こんなにアッサリ受け入れていいのだろうか。
もやもやする。私はこんな気持ちで、フェリクス様との結婚という、お父様が用意した幸運に流されていいのだろうか。フェリクス様が、溜め息をつきたい気持ちを、まさに今も押し殺しているのかもしれないのに?
そんなの駄目だ。
私は、疑問を素直にぶつけることにした。婚約者同士、理解を深めよとの、お父様の言葉に勇気をもらって。もしかしたら、お父様はこのために、私にフェリクス様との時間を作ってくれたのかもしれない。
「フェリクス様。本当に、宜しいのですか? 王命で、私との結婚を決められてしまったこと。問題が多いのは、お父様が列挙した通りですし、王位に興味もおありではないでしょう……?」
どんな心の動きも見逃すまいと、フェリクス様を見上げる私を、フェリクス様は優しく受け止めてくれた。
「ローゼ殿下。そのお答えは、東屋で」
フェリクス様の視線を追うと、ちょうど、目的地の東屋が見えてきたところだった。
澄みわたるような秋晴れの下、優美な模様の刻まれた、木製のテーブルと椅子が見える。陽射しを遮る屋根が、青空を美しく仕切っていた。
東屋では、お父様のお気に入りの侍従が一人、私たちを待っていた。白いテーブルクロスと、温かな黄色のティーセット。色とりどりのお菓子。完璧なお茶の準備を整えている。どうりで執務室で、フェリクス様にお茶を出さなかったはずだ。
私の一番お気に入りの東屋は、もちろん美しく整えてはあるが、大して見所もない庭の1区画にある。
それもそのはず、王族の居住区である内宮ではなく、政務官が集う外宮に面している庭なのだ。散策し、その美しさを愛でるような庭ではない。花より緑が勝った植栽がされている。
そんな東屋を、私が贔屓にしている理由は唯1つ。実はフェリクス様の執務室が程近く、運が良いと、フェリクス様をちらりと見ることが出来るのである。
もちろん、そんなに頻繁に利用していたわけではないのだけれど……。
こんなことまでお父様に把握されていたのかと、私は顔から火が出る想いだった。
「そこの廊下はよく通りますが、この東屋に足を踏み入れるのは初めてですね」
フェリクス様は、物珍しそうに周囲を見回すと、楽しそうに言った。
私を座らせると、その向かい側に優雅に腰を下ろす。
お互いが茶器を使う音。小鳥たちの囀ずり。心地よく涼やかな秋の風。しばらく、私とフェリクス様の間に、穏やかな沈黙が満ちた。
「……懐かしいですね。私がローゼ殿下と初めて私的にお話ししたのは、このような東屋でした。覚えていらっしゃいますか?」
フェリクス様の台詞に、私の方が驚いた。忘れるわけもない。それは私にとって、大切な思い出だ。
「もちろんです。フェリクス様こそ……まさか覚えてくださっているとは、思いませんでした。もう10年以上前のことですもの」
「忘れることなどできませんよ。幼く可愛らしい殿下が、机の影に隠れて、一人で泣いておられた。美しい緑の瞳を真っ赤にして、王子でなくてごめんなさいと仰った、あの衝撃を」
私は当時、貴族たちの悪意ある陰口に負けそうになっていたのだ。
長らく子どもに恵まれなかったお父様とお母様。側室を置くことも頑として拒んだ国王夫妻にとって、遅くして授かった子どもは、希望の塊だったことだろう。
求められたのは、もちろん世継ぎとなる王子の誕生。しかし産まれたのは、王女たる私だったのである。
本当に幼くあどけない頃は分からなかった。ただ王宮の奥で、王子ではなかった落胆など微塵も見せない両親に、愛情深く育てられ、無邪気に自分の価値を信じていた。
しかし、表に出る機会が増え、王族としての教育が始まると、嫌でも様々な言葉が耳に入る。王子であれば良かったのに、という囁き。王女であるくらいなら、誰も産まれない方が、スムーズにグラム様を担げたのにという嘲り。
それは、キラキラと輝いていた、幼い自分の崩壊だった。
私は耐えきれなくて、その日も東屋の机の影に隠れ、べそをかいていたのだった。
「フェリクス様は、一緒に机の影に隠れてくださいましたわ。私の気がすむまで」
私の涙が乾き、気持ちを立て直し終えるまで。
フェリクス様は当時17才。体格は既に今とそう変わらない。机の下は随分狭く、苦しかったことだろう。
しかし、急かすようなことは一切しなかった。問い質すでもなく、置き去りにするでもなく、連れ戻すでもなく。ただ側にいてくれた。
それがどんなに貴重で難しいことか、今なら分かる。
「私もまだ若かったですからね。ローゼ殿下を何とお慰めすればいいか、分からなかったのですよ。実は内心、オロオロしていたのは内緒ですよ」
と、片目をつぶるフェリクス様。私はクスクスと笑った。
「嘘ですわ。お別れする前に仰ったこと、私は今でも覚えています。その言葉こそが、私の行動の指針。私を導く光となったのですもの」
机の下から出て、内宮へ帰ろうとする私に、フェリクス様は言ったのだ。不敬をお許しください、と一言添えてから、私の頭を撫でて。
『泣いてもいいのです。怒ってもいいのです。隠れる必要はありません。ただ、自分の行動を鏡で映した時、目を背けずにいられる方になってください。そうであれば、王子であろうが王女であろうが、関係はありません。私は殿下を支えるために身命を賭すでしょう』
フェリクス様の微笑が深くなった。私を日溜まりの中、温かく、優しく、包み込むように。
「過分なお言葉です。殿下」
自分の行動を鏡で映した時、目を背けずにいられる自分に。
これが、現在までずっと、私を支える柱だった。
私は、真摯にフェリクス様を見つめた。
フェリクス様。
私は、貴方の眼鏡に叶う自分になれたのでしょうか。
「聞かせてください、フェリクス様。貴方が、私との結婚を了承する意味を」