1.月に拐われる
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少しでも楽しんでいただけますように^^
婚約が決まった時は、まさか私がこんな台詞を言うことになるなんて、思ってもみなかった。
「フェリクス様。婚約破棄いたしましょう」
平静を装った私の声が、凛然と室内に響く。
大好きな、大好きな貴方。心からお慕いしています。
だから、お願い。私の気持ちになんて気づかないで。
どうか、嘘に騙されていてください。
私は、潤みそうになる涙腺を叱り飛ばして、鮮やかに微笑んでみせた。
この世界には、「月に拐われる」という言い伝えがある。
1年に1回、晩秋における最後の満月の晩。冴えざえとした月光を浴びると、その身が空気に溶けて消えてしまう、というものだ。
嘘か真かは定かではない。私は正直眉唾物だと思っている。
しかし毎年その日を境に姿を消してしまう者が後をたたないことから、人々は皆、その夜だけは、日が沈むとともに家に閉じ籠もり、窓という窓の鎧戸を閉め、もしくは分厚いカーテンをひく。
それが今晩だ。
私はベッドから身体を起こした。
静寂の深い夜だった。普段は不夜城のように、何かしらの気配が絶えない王宮も、今日ばかりは例外だ。皆、万が一にも月光を浴びないよう、それぞれの居室に閉じ籠っているのだろう。
何しろ警備の兵士さえも、今日はぐっと縮小されているのである。不用心だ、という議論さえなかった。善人悪人問わず、月に拐われる夜に、出歩くものなど皆無なのだから。
こんな夜は眠るに限る。しかし私がまだ起きているのは、理由があった。興奮して眠れないのだ。
今日の昼間、我が国の長年の懸案に、とうとう結論が出た。当代の王の一人娘である私。その結婚相手が決まったのである。
王命により指名されたのは、私より11才年上の大貴族。当年29才のセオドア公フェリクス様。私の密かな、長年の片想いの相手だった。
「……ダメだわ、眠れない」
私は静かにベッドから降りた。出来れば窓を開けたかった。晩秋の冷たい夜風は、私の火照った心を、少しは冷ましてくれるだろうから。
でも、さすがにそれは出来ない。例え言い伝えを信じていなくても。
我が王家の血筋でも、十年前に幼い従妹姫が一人、月に拐われて姿を消している。王女であるこの身が王になることはないが、私と結婚するフェリクス様は、そのことにより王位に就く資格を得るのだ。軽率な行動を取っていい身ではない。
しかし、せめて灯りをつけようと、私が身体の向きを変えた時、異変が起こった。
静かに部屋の扉が開いた。ノックも、もちろん入室の許可を求める声かけも1つもなく。
「……誰?」
私は思わず問いかけたが、それは誤りだった。即座に叫ぶべきだったのだ。例え王宮の全てが停止しており、何の助けも現れないと分かっていても。
変化は激烈だった。
侵入者は無言で素早く私に駆け寄ると、私を羽交い締めにした。声をあげられないように、口元を塞ぐ。そのまま床に引き倒される。後頭部と背中が悲鳴をあげた。
闇色の服装に身を固めた男だった。目元以外を全て黒色の布で覆っている。男の全体重が私にのしかかった。男の足が、私の足を巧みに押さえつける。胴体を胴体が。腕を肘が。
男は懐から小さな小瓶を取り出した。私の口をこじ開け、無理矢理液体を流し込まれる。顔と口元を押さえつけられ、私は蒸せた。吐き出さなければ。得体の知れない薬を飲み込むわけにはいかない。
鼻をつままれて、息ができない。
吐き出さなければいけないのに。息ができない。
吐き出さなければ。
苦しい。
吐き出さなければ。
苦しい。
吐き出さなければ……。
苦しい……。
コクン、という密やかで絶望的な音が、体内に響いた。続いて私の咳き込む音も。
私が薬を飲み込んだことを確認すると、男はあっさり私の上から離れた。
今度こそ叫ぼうとして、私は声がでないことに気付いた。
声だけではない。体も動かない。私は既に朦朧としていた。
急速に、意識が遠ざかっていく。苦しくはない。穏やかで気だるい何かが、ひたひたと私の意識を侵食していく。
突如、室内に冴えざえとした蒼い月光が満ちた。男がカーテンを開け放ったのだ。
月光を浴びないように、慎重に影をたどって、そのまま男は部屋から出ていった。
そして私は、一人床に倒れ付したまま取り残された。まるでスポットライトのように、私の全身を蒼い光が照らしていた。
もう意識を保つことが出来ない。何を飲まされたのだろう。分かることは、このまま目を閉じたら、私は2度と目覚めないだろうということだけ。
ああ、フェリクス様。貴方の妻になれると思ったのに。
私は気だるさに耐えきれず、目を閉じた。体が重い。床に沈みこんでしまいそうだ。
最後に、クスリと笑みが零れた。
ほら、やっぱり。月に拐われるなんて言い伝え、嘘だわ。
月に拐われる人なんていない。いるのは、言い伝えの影に隠れて、人によって消されていく者だけよ。
私のように……。
「ローゼ。結婚したい相手はおるか?」
時は更に半日ほど遡る。
私はお父様の向かいで、お茶のカップに口をつけた。芳醇な香り。国王に供されるに相応しい最高級の茶葉だ。
お父様の執務室に呼び出されたのは初めてだった。きっと結婚についての話があるのだろう、そう予想していた通りに、お父様は私を執務室のソファーに導くと、そう口火を切った。
「お前は昔から、この話題になると『お父様のご指示に従います』としか言わん。しかしそれでは、お前は、仮に私が命じれば、どんなヒヒ爺が相手でも文句を言わず結婚するというのか? 冗談も大概にするがよい。こうして私が聞いておるうちが花だ。心に秘めておる名前を言え」
結婚したい相手? そんな方いないのです、本当に。
「お心遣いありがとうございます。お父様」
恋している相手ならいる。それこそ幼いときから、ずっと慕い続けてきたあの方。セオドア公フェリクス様。
でも、安易に名前を出すことはできなかった。
もちろんフェリクス様は、素晴らしい方だ。財務長官として現在も政務に携わっており、未来の宰相との呼び声も高い。その実力、家格、人柄、人望ともに折り紙つきである。
しかし、こと王の一人娘たる私の結婚相手となれば、衆目の一致する第一候補が、既に他にいるのだった。
それを覆すとなれば、国は荒れる。
それを押してまで望み、フェリクス様を政争の嵐に放り出すことはできなかった。
「でも、どうか私の意志などお気になさらないで。私の結婚相手とは、つまり次期王位の継承者。国にとって最適の人選をなさってください。私はお父様のご決定に従います」
父王は溜め息をついた。
ごめんなさい。お父様。
私は遅くにできた娘で、お父様は衆目にも明らかに、私を可愛がっている。私を泣かせるようなことをすまいと思って、わざわざ聞いてくれたのに、その心を無駄にしてしまった。
「この強情者めが」
私は、瞳の色だけでも和ませようとしたが、失敗して目を伏せた。
フェリクス様をお慕いしています。心から。
だから、フェリクス様でないならば、誰でも同じ。結婚したい方などいないのです。
「お前ももう18、いつまでも有耶無耶にしておける問題ではない。良い。それでは私が決めよう。実は既に、ここに呼んでおる。そろそろ来るであろう」
私は顔を上げた。
それでは、グラムがここへ来るのだろうか。
グラムとは、私の従兄の名である。
お父様の年の離れた弟、つまり王弟殿下の息子で、私の次に王家の血が濃い男子。私より3才上と年回りも合う。そのため、王家が一枚岩であるためにも、私の結婚相手はグラムだろうというのが、衆目の一致する予想だった。
私のフェリクス様への長い片想いも、とうとう終焉を迎えるときがきたのね……。
私はお茶を口に含んだ。立ち上る湯気が、私の睫毛を揺らした。
私は18才、グラムは21才。
今まではっきりとさせずにきたことが、そもそも信じられないくらいの年齢だ。
とうとう来るべき時がきたのだ。
国にとって最適な人選を、と告げた言葉は、偽りではないつもりだ。それがグラムだというなら、従うだけだ。
幸いにして、グラムのことは、嫌いではない。ただ、心からお慕いする、フェリクス様ではないというだけ。
それだけよ。
ノックの音が響いた。心の準備をする間もなく、お父様が入れ、と返してしまう。
私は入り口に背を向けていた。振り向くのには、若干の勇気が必要だった。
そして振り向いた先にいた青年貴族は、完全に予想外の人物で、私は呆気に取られた。
グラムではなかった。
栗色の髪に榛色の瞳。中肉中背で、至って凡庸な顔立ちと体格。しかし、その内面から溢れる人間性で、自分をいくらでも、とてつもなく魅力的に見せることができる人。
「陛下。お召しに従い、参上いたしました。ローゼ殿下、お久しぶりです」
「フェリクス様……」