1章:第1話 朝日とメイドたち
翌日。
目が覚めたら病院のベッドだった……なんてこともなく。
私の体はいまだにデブの少年王子、リーニェのままだった。
やっぱり、単純に時間経過で覚める夢ではないみたいだ。
柔らかな朝の日差しが、天上近くに設けられた明り取りから注いでいる。夜の内はよく見えなかった隅々までも、今なら充分見渡せる。
やっぱりと言うかなんと言うか、この部屋はとても広かった。面積で例えるなら、大学の講堂くらいだろうか。数十人の人間と、様々な道具や教材を置いて余りあるスペース。個人の寝室としては言わずもがな、思わず笑いがこみ上げてくるくらい広い。
なんでそんな例えになったのかというと、
「おはようございます、殿下」
実際に、数十人の人間がこの部屋に居たからだ。
私に挨拶をしながらお辞儀をしたのは、昨日の夜も部屋に居たメイドさん。名前をルイラさんと言う。
メイド長補佐、という役職で、数居るメイドさん達の実務を取りまとめる立場なんだそうだ。「この宮殿で働く人間の4割がメイドだから、中々に偉いのにゃ。中間管理職にゃあ」とはアッシの談。
―――おはようございます、殿下。
ルイラさんが頭を下げるのに続いて、その背後に並んだ人たちも一斉に頭を下げる。一糸乱れず見事に揃えられた挨拶の声とお辞儀の角度。これだけで、ちょっとした感動さえ覚えるほどだ。
彼女たちは全員、メイド服を身に着けた女性だった。漏れることなく全員美人で、若い。まだ20代前半だろう、ルイラさんが最年長に見える。これ、みんな見習いなんじゃないの?
珍しいのは年齢だけじゃない。
あの、耳が尖がっている娘はたぶん、エルフだろう。
がっしりした低身長の娘はドワーフっぽいし、背中に翼が生えている娘やら犬みたいな耳と尻尾を生やしている娘、奥の方には足が魚になっている娘まで居る。あんな水槽に入った状態で、メイドの役目は果たせるのだろうか?
私はお芝居をやってそれなりに長いけど、寝起きにこんなバラエティー豊かな少女たちから傅かれるのは初めてだ。現実の舞台で、こんな人数を用意するのも難しいだろう。さすが夢、さすがはゲス王子、と言ったところか。
ふぅ。
―――さあ、ここからだ。ここから、私の主演が始まる。
台本はない。演出や監督、観客でさえ一切いない。アドリブだけの即興劇。
私が紡ぐ、私の為だけの物語。
いざ開演! だ。
「おはよう、みんな」
若干の緊張と共に、第一声。とりあえず、無難に挨拶を返してみる。
昨日、アッシと別れた後にこっそり練習した『王子スマイル』を付け加えるのも忘れない。姿見の前で悪戦苦闘すること20分、リーニェの醜く肥えた顔面でもギリギリ好印象を抱くのでは? と思える自信作だ。
自信作―――だったのだけれど。
引かれた。見事なまでにドン引きだった。
少女たちは私の顔を注視したまま、雷に打たれたみたいに動かない。「ひっ」と息を飲む音が聞こえる。硬直しているだけならいい方で、中には目を丸くする娘や口の端をピクピクさせている娘、ひどいのだと眉間に思い切り皺を寄せている娘までいる。
初撃はあえなく失敗、に終わった。
まあ、彼女たちの事情を考えれば、当然のようにも思えるけれど……。
その点、ルイラさんはさすがだった。
「私共のような下々の者へご挨拶を頂けるとは光栄の至りです、殿下」
硬直さえせず、柔らかな微笑みさえ浮かべて優雅に一礼して見せる。口調、表情、動作の全てにある種の品を感じさせるその姿は、やり手のビジネスマンとどこか似ている。
私はとりあえず、彼女に向かって話すことにした。
「そうかしこまらなくても……挨拶くらい普通でしょう?」
ルイラさんの眉が、ほんの僅かに動く。
「普通……さあ、どうでしょう。私は、殿下以外に仕えたお方はおりませんので、他のお屋敷のことは分かりかねます。常識的かどうかは、判断しかねるところです」
「あはは、なるほど。しかしそういう僕にも記憶がありませんから、普通と言うほど常識に詳しい訳ではありません」
私はうんうん、と頷いて見せてから、もう一度『王子スマイル』。
「では―――これからこのお屋敷では、挨拶を交わすのが常識、ということで。どうです?」
本当ならウインクの一つでもしたいところだけど、さっきの反応を見ているので自重する。
私の発言に、今度はルイラさんまで目を丸くした。
後ろに控えている少女たちに至っては、なにやらざわついている。
「……何か?」
「いえ、申し訳ありません」
ルイラさんが少女たちに視線を送る。
その瞬間、ピタリとざわめきが止んだ。よく教育されているようだ。ルイラさんはそれを確認してから、私の方へ向き直る。
「殿下がその、私共に向かって冗談を申されるのは初めてだったので……少々動揺したようです」
「さっきのは、別に冗談という訳じゃないですよ?」
「お戯れを。……記憶をなくされたというのは、本当なのですね」
「以前の僕は冗談も言わないような人間だったんですか?」
「そうですね、その……」
言ってもいいものか、と逡巡した様子で目を伏せた後、ルイラさんはこう続けた。
「記憶を無くされる以前の殿下は……私たちに業務以外での言葉を下さることはありませんでした。使用人は所有物だと言って憚られない方でしたし」
顔の角度と視線で背後の少女たちを指し示す。誰とは判別しない、曖昧な指し方だ。
「彼女たちの中には……実際にそういう、物のような扱いを受けた者もいます」
「なっ!?」
ざっくりとした話は、既にアッシから聞いている。
でも、初めて知った、と思ってもらわなければならない。
私は大きく目を見開いて、少女たちの方を見る。しかし、その視線が合うことはない。彼女らは全員が怯えたように俯き、中には目尻に涙を溜めている娘も居る。
うら若い少女。男性の視線に怯えた様子。「物のような扱い」という暗喩。
……うん。これだけ揃っていれば、察してもいいな。
「それは、まさか……僕が、彼女たちの尊厳を踏みにじるような真似を……!?」
ルイラさんに問いかける。目を逸らし、彼女は何も返さない。意思表示だ。これも察していい。
「なんてことだ! 最低じゃないか……!」
両手を見つめながら、意識して肩を震わせる。幼い頃、母が大切にしていた花瓶を割ったのを思い出す。気持ちを入れ、呼吸を上手く使えば、顔色だって青く変えられる。息を細く小刻みに、喉だけでやるのがコツだ。
私の表情と態度にありありと表れただろう、後悔と恐怖。
それを見て、メイドさんたちが再びざわつき始める。
ルイラさんは私の傍まで駆け寄ってきた。
「で、殿下!」
「記憶を失くしたとはいえ……僕が行ったことには違いない。なんて恥ずかしいことだ。謝らせて下さい」
「おやめ下さい! 栄えある王家の方が、私共のような者へ謝罪など!」
「しかし……」
「なりません! そのお気持ちだけで充分でございます! 暴力さえなければ、本来はとても光栄なことなのですから!」
私は、止められなければ本気で頭を下げるつもりだった。
詳細は知らないのだが、彼女たちの様子を見る限り、実際リーニェのやっていたことはそのくらいして当然の事だろうと予想がつく。私だって女だ。王子の名前や名誉なんかより、重要なことはある。
だけど、ルイラさんは建前ではなく本気で私を止めていた。
たぶん立場的にマズイものもあるんだろう。背後には何十人と少女たちがいるのだし。
押し通しても仕方の無いことなので、ここは素直に止められておくことにする。
「ありがとうございます、殿下。申し訳ありません」
「……それは、僕のセリフですよ」
「それには及びません。でも、本当に、ありがとうございます……記憶を失うと、性格まで変わってしまわれるのですね」
私は、少し気落ちしたような表情を見せておきながら、内心でガッツポーズをとる。
少なくとも、私が以前の―――記憶喪失前のリーニェとは違うのだ、と伝わっているようだ。
ルイラさんの言葉には、以前の王子に対しては決して見せなかったであろう、『本音』の気配が見え隠れしている。宮殿で働く人間の四割を監督しているメイド長補佐。私の欲しい人間関係の情報についてとっかかりにするのにちょうど良く、また『王子は記憶喪失になってゲスじゃなくなった』という噂を流してもらうにもちょうど良い人材。仲良くしておいて損はない。
依然として壁は感じるけれど……彼女、私と会話すること事態は嫌じゃなさそうだ。
焦らず、ゆっくりやっていこう。
とりあえず、私の王子生活は、まずまずの滑り出しと言えそうだった。