序章:第3話 記憶喪失
私の女優としての経歴は、決して華やかなものではなかった。
活動は舞台が主だったけど、一度も主演をやったことはないし、これといった代表作もない。
ただ、一部の専門誌やマニアの人には認知されていて、『国宝級脇役』とか『助演名女優』なんて呼ばれたし、共演者からのウケも良かった。
一つの役に掛ける時間が短いから、劇団を掛け持ちしたことだってある。たぶん、演じた役の数だけなら、そこらの大女優にだって負けないだろう。
そんな自分が嫌いではない。
むしろ、誇らしいとさえ思っている。
華やかではないけれど、実力は認められている。流行り廃りで入れ替わる人たちよりも、ずっと安定していた。
だけど。
主演をやりたくないのか、と問われれば、それは……―――
「どうやら、記憶喪失のようですね」
治療士、と呼ばれていたおじいさんが頭を横に振りながら、私のことをそう診断した。
妥当な判断だと思う。
なんせ、声を取り戻した私の第一声が、『ここはどこ! 私はだれ! あなた達は何!?』だったんだから。
姿見を見た後、取り乱してひとしきり暴れた私は、赤青騎士ズに取り押さえられ、おじいさんが発する何だかよく分からない光を当てられた。
そうするとどういうわけか、喉と胃にあった痛みがすっと引いたのだ。
それは魔法のように劇的で、実際そうだったのかもしれないけど、今はどうでもいい。
私の体が、男になってる!
しかも、ものすっごいデブの外人……!
ああ。
ああああ。
なんだこれ。
信じるとか信じないとか、これは夢だー、とかを考える前に、ショックだ。
ただただ、心が傷つく。
元々、自分の外見に自信があったワケじゃない。
容姿が売りの女優ってわけでもなかった。
けど、これは。あまりにも……。
ああ。
一周回って、混乱する気力すら沸かない……。
「記憶喪失……」
私が呆然としている間も、周囲の人々は話を続けている。
ベッドの縁に腰を掛けたお姫さまが、悲しげに目を潤ませ、私を見上げた。
「では、リーニェ様、私のことも覚えていらっしゃらないのですか……?」
うっ……そんな目で見ないで。罪悪感で、治まったはずの胃の痛みがまたぶり返しそうだ。
安心させてあげたいけど、嘘をついても仕方ない。
それでもはっきり言うのは憚られて、首を横に振って見せると、彼女はまた、私の胸に顔を埋めて泣き出してしまう。
「……オーラン先生。記憶喪失というのは、貴殿の宿呪で治せんのですか」
「言ったでしょう。そんなに便利なものではないと。わしのは、あくまで肉体の損傷を治すための力。記憶は、魂の領分です」
「魂魄系統ですか。ちなみに、神殿内で知り合いの方は……」
「いえ、残念ながら。……魂魄系統は、人ではなく魔物に宿ることが多いものですから」
「そうでしたな。うぅむ……」
騎士のおじさまとおじいさんが、難しい顔で唸っている。
彼らの様子を見ている内に、私はいくらかの落ち着きを取り戻していた。
と言っても、冷静になれたわけじゃない。
目覚めてから見聞きする何もかもが、私にとって受け入れ難いことなのだ。
見ていて可哀想とは思うけど……今は、泣きついてくるお姫さまも煩わしいくらいだ。
とにかく、他の誰かの相手をしている余裕がなかった。
「あの!」
私が口を開くと、全員の視線が集まる。
「申し訳ないんですが……少し、一人にしてもらえませんか?」
そう言うと、誰もが複雑そうな表情をした。
この程度の短い言動でも、彼らにとっての『リーニェ殿下』とは違うのだろう。
そりゃそうだ。記憶どころか、性別や国籍さえ違う別人なんだから。
「いえ、王子様。記憶の喪失範囲を調べなければなりません。これは、王室にとっても大きな―――」
おじいさんが一歩前に出たのを、お姫さまが手で制止する。
「先生、それは後でもよいでしょう? 私たちにも時間が必要です」
「そう……ですか。まあ、姫様がそう仰られるなら……」
お姫さまが涙をぬぐい、ベッドから立ち上がって真っ直ぐ私を見る。
さっきまで、どこか儚げな印象のあった瞳には、何か強い意志のような、気丈さが宿っていた。
「リーニェ様。もう夜も深いですし、本日はこれで失礼します。貴方様の記憶に関するお話は、明日……お昼ごろに致しましょう。それでよろしいですか?」
人が変わった、という程じゃない。でも、何かスイッチを切り替えたような変化があった。
たぶん、お姫さまはもう、私を『リーニェ殿下』とは見ていないのだろう。そんな気がする。
頷いて見せると、彼女は優雅に一礼して踵を返す。
それに他の皆が追従し、シャンデリアの灯りの外へ消えていく。
お姫さまを先頭に、メイドさん、おじいさん、騎士のおじさま。
そして、最後に青と赤の髪をした二人の騎士……でも、彼らだけは、見えなくなる前に一瞬、こちらを振り返った。
青い髪の青年は、期待に満ちた少年のような表情。
赤い髪の女性は、汚物でも見るような険しい視線。
背筋が震える。
二人が何を思っていたのか、私には分かりようもない。
けれど、どちらも私……リーニェに対して特別な何かを抱いている。
正直、怖かった。
私は、部屋の扉が閉まる音がするまで、薄闇から目を離すことができなかった。