跋
「ちと飲み過ぎたかな。小用に行ってくる」
「あ、はい」
料亭「桔梗」の厠に現れたその男は、個室の鍵をかけると、おもむろにサスペンダーの片方を外した。
スラックスからシャツを引き出すと、剥き出しの腹に張り付いた薄手の袋があらわになった。便器に腰を下ろし、大きく広げた股の間に袋の先を降ろす。下に向けた排出口の栓を開くと、袋の中身はどぼどぼと便器に流され、袋の中の尿は空になった。排出口をペーパーで拭って固く閉じ、袋を元の位置に戻せば、人口膀胱の排泄行為は完了だ。
「やはりあの時、オレの仇を討ってくれたのか」
別の角度から聞かされた、あの事件のあらまし。酒量が過ぎたのはやむなしだが、男は上機嫌だった。
臓器喪失と長い入院生活に、太った少年の外見は見る影なく変わった。口調を変え、年齢を偽り、母方の姓を名乗れば、同郷の友すらその正体に気づかない。
今いる会社も、亡き父の遺産だ。もっとも、異例の役職付きはコネではない。
──ありがとうよ、ミナセ。今度はオレの番だ。
片親で障害を持つ少年の、その後の人生は過酷だった。世間は弱者を食い物にすることを思い知らされた。絶望の淵に立つ少年のもとに現れたのは、全ての元凶である黒いカエルだった。
「彼ら」がいつから村にいて、何者なのかは、いまだにわからない。
だが、「彼ら」の目的だけはわかる。
村と里の為なら「彼ら」は何でもする。協力者には何でもしてくれる。
どこを堰き止めても人は壊れる。男が身をもって知るように。
ならば、受け入れざるを得ないではないか。
「彼ら」は得体のしれない「何か」だが、「同郷」なのだ。
男はスマートフォンを取り出し、電話をかける。
画面に浮かぶは、水瀬の父の名。口裏を合わせる必要がある。
スマホを耳元にあてがうと、襟足から「堰守」が現れた。うなじを這い登った黒カエルは、男の耳朶にぶら下がり、一声、小さく鳴いた。
「──里に帰るぞ、ミナセ。おまえには帰れる場所がある」
電話が繋がる。
潮騒のようなカエルの声が、「桔梗」の厠にこだました──
了
方言協力:nakonoko




