後唄
料亭「桔梗」の一室。水瀬と弓原の間に、再び沈黙が訪れた。
卓上の和膳に変化はほとんどないが、桝酒は空となり、追加で頼んだ冷酒の瓶が列をなしている。これほど飲んだ水瀬を見るのは、弓原も初めてだった。
「いや──ものすごい、話だな」
手つかずの灰皿を見ながら弓原が言った。喫煙者なら一本吸いたくなる空気だろう。
「信じるかどうかは、弓原さんにお任せします」
神妙な顔の水瀬に、弓原は慎重に言葉を選ぶ。
「まあ、確かにすぐには信じ難い。が、君の過去を頭から否定するつもりはない。本当だとしたら、
カエルを嫌うのも、故郷に戻りたくなくなるのも当然の話だ。ただ……」
弓原は、顎に手を当て、水瀬を見つめた。
「……ただ、検証が不十分な部分もあると感じるな。今のおまえの話には憶測も含まれる。
妖怪じみたカエルが存在し、クラスメイトが祟られた件はいい。目撃者がいるし、客観性もある。だが、夢の話はどうかな? 父親との電話の件も、理由は他に考えられる。例えば電話は子機で、会話しながら静かな部屋に移動したとか」
「実家の電話は、ずっと旧式のままです」
「それは確かめないとわからない。君がいない間に買い替えた可能性もある」
「──ですが、父が意見を翻したのは」
「心境が変化した理由はわからないが、親が子供に会いたがるのは普通の話だ。村の妖怪と父親の話は、混同せず分けて考えるべきだと私は思うがね。
電話の確認を含めて、もう一度話してみてはどうだ? 縁を切るのは、それからでも遅くなかろう」
考え込む水瀬に、弓原は続ける。
「それに、いたずらにカエル全てを恐れる必要もないだろう。君の話が全て事実としても、祟られるのは特殊なケースだけだ。事件の後、君が村を出るまで何もなかったようだし。
確かに恐ろしい化け物だし、君が感情的になるのはわかる。だが、実際には実害はほとんどない。
まだカエル捕りをしたいなら話は違うがね」
「実害は……なくもないです」
「と、言うと?」
「オレが就活に失敗したことです。
都会で暮らして、改めて知ったことがあります。人は群れると別の生き物、いや別の何かに変わるってことです。個人の考えは塗りつぶされて、群れに呑まれてしまう。そんな得体のしれない何かが当たり前のように社会を動かしていて、会社で仕事をするってことはその何かに加わるってことで。
そう考えるたび、あの時の記憶が蘇って……それで結局、新卒採用は逃しました」
「なるほど。それは確かに、的を射た指摘だ」
弓原は認めた。
「だが君は、我が社に来てくれた」
「それは、弓原さんが、オレ個人を認めてくれたからです」
水瀬は足を正座に戻し、改めて頭を下げた。
「だから、本当に感謝しています。会社でなく弓原さんについていきます」
「今日一番の収穫は、その一言だな」
弓原は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
「それに君のルーツを知ることができた。あの時、君が動じなかったのは、その過去があればこそだったんだな。改めて得心がいった」
「恐縮です」
かしこまる水瀬に、破顔する弓原。
「今夜はいい夜だ。まだ飲めるなら大吟醸を頼もう。とっておきのがあるんだ」
障子の向うの闇から、添水が相槌を打つのが聞こえた。




