7話「新入社員歓迎」
元有芸能事務所•異世界支店のデスクに座っていた新貴は定められた時刻より十分早く出勤してきた部下とその連れを見て目を丸くした。
「おはようございます。ほら、アイネも」
「あ、は、はい! おはようございます!」
アイネと呼ばれた少女はフロア一帯に聞こえそうな声で挨拶した。
その姿を見て、新貴の傍らに立っていたミミラも驚きの表情を作った。
唖然とする二人に安綺は楽しそうに笑う。
「二人共、どうしたんですか。ただ出社しただけなのに」
「時間通り出社してるから驚いてるんだろうが。しかも彼女も連れてくるなんて」
新貴とミミラの二人が仰天しているのも無理はない。
実は昨夜、安綺とアイネが歩み寄る前にアイネの服を届けに来たミミラにこう伝聞を受けていた。
「彼女、中々手強いらしいじゃない。一晩じゃ心を開いてくれそうにないし、かといって放置するのもどうかと思うの。というわけで明日は無理して出社する必要はない。来れても出勤時間通りに来る必要はない。もし正午を過ぎても来ない場合は別の仕事に取り掛かるから、来るなら正午前に来てくれ。以上、新貴さんの伝言よ」
もし来ない場合、ミミラか新貴のどちらかが様子を見に行くから極力外出しないように――ミミラはそう言い残して去っていった。
二人に多大な気遣いを施されたにも関わらず安綺は堂々と、それも同行不可能と思われたアイネも同伴しているのだから度肝を抜いたのだ。
ミミラの届けてくれた純白のワンピースに身を包んだアイネの背を優しく押す。まだ彼等に伝えねばならない言葉がある。それを言うよう、動作だけで促したつもりだった。
アイネは機敏にその動作の意味を受け取り、おもむろに頭を下げた。
「それと昨日はすいませんでした。今日から心を入れ替えて皆さんと真摯にアイドル育成計画に取り組みたいと思います!」
素直すぎる謝罪にフリーズが溶けつつあった新貴が再び固まる。
昨日の彼女を見てたらこの変貌ぶりはそうなるよなあ、と完全に他人事と思って安綺は眺めていた。
「おい、安綺、ちょっと」
新貴がちょいちょいと安綺を手招きする。
近づくと新貴が安綺にだけ聞こえるように声を落とした。
「お前、彼女にナニした?」
「何って、話をしただけですよ」
「その何じゃないんだが……まあいい。話って、それ以上の意味はないんだよな?」
ここで安綺も新貴が言わんとすることを悟った。
「当たり前じゃないですか。俺は一人の男である前に一人の社会人であり、また紳士でもあるんですよ」
実際は酷く葛藤していたわけだがその辺は割愛した。
「アイネちゃんって言ったわよね? 一つ聞くけど、アイネちゃんは昨日、あの獣に変なことされたりした? 正直に話してちょうだい」
後ろでは獣呼ばわりである。そこまでして信用ないのだろうかとちょっぴり悲しくなる。
「いえ、変なことは何も……。私なんかに優しくしてくれて、家族とも言ってくれて……!」
「新貴さん。彼の身柄を抑えておいて。衛兵を呼んでくるわ」
「任せろ」
「ちょっと!阿吽の呼吸で俺を犯罪者扱いしないで下さい!」
安綺は誤解を解くために弁解を始めたのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「記憶喪失ねえ。聞いたことはあるけど、実際に見るのは初めてだ」
「一応訊ねたいんですが、こちらの世界の医療で直すことは出来ないんですか?」
「医術が根本的に違うとはいえ、脳の障害を直す術なんて聞いたことないな」
「みたいだ」
「残念です」
言葉とは裏腹にアイネに落胆した様子は見られなかった。
「アイネって名前、喜瀬君が付けたのよね?」
事情を聞いて安綺への猜疑心が消えたらしいミミラが訊ねてきた。
「ええ、まあ。それがどうかしましたか」
「良い名前だと思ってね。かのアイネ・クライネから名付けたんでしょう?」
「アイネ・クライネ? どっかで聞いたことがあるな。何だったっけか」
新貴がミミラに質問を返す。この時、新貴が真っ先に発言しなければ安綺が同じことを言ってただろう。
「モーツァルトのセレナーデの一つよ。誰もが一度は聞いたことがあるような有名な曲。あ、セレナーデっていうのは簡単に言えば音楽のジャンルのことね。で、モーツァルトの作曲したアイネ・クライネは正確にはアイネ・クライネ・ナハトムジークというの。元はドイツ語なんだけど、日本語にすると『小さな夜の曲』って意味になる。略して小夜曲になるんだけど、セレナーデも日本語では小夜曲とも呼ばれてるの。ね? 面白いでしょ? それとモーツァルトのアイネ・クライネにその意味があったか定かではないけどセレナーデって一般的には夕べに恋人の窓の下で歌う歌って意味もあるの。中々にロマンチックよね」
ミミラは最後にクスッと笑った。
「ほう、そんな大層な意味が込められてるのか。お前、ネーミングセンスあるなあ」
「よく分からないですけど、夜に恋人の下で奏でる歌って意味なんですね。私、増々この名前が気に入っちゃいました」
どこのウィキペディアですか、と思わず言いたくなるほどに饒舌に知識を披露したミミラの影響で新貴は素直に感心し、アイネは微妙に意味を履き違えていた。
安綺はただ黙って頷いておいた。実はアイドルとマネーって単語を適当に組み合わせただけなんですとこの場で白状するわけにもいくまい。この秘密は墓の下まで持っていこう……。
「と、とにかく説明したように始めにやれって言われた下準備は整いました。今後はどう動くんですか?」
「どうして少し焦ってるんだ? まあいい。アイネちゃん、安綺からアイドルとはどういうものか説明は受けてるんだよな?」
いきなり馴れ馴れしく「ちゃん」付けでアイネのことを呼んだ新貴をジロッと睨んだのを安綺は見逃さなかった。
「はい。簡単にですけど。そもそも実物を見たことがないので理解は出来てもいまいち実像を掴めないというか……」
「そりゃそうだ。この世界でアイドルなんて職業に就いてる子はアイネちゃんぐらいしかいないからな。今度どんなものか資料を持ってくるよ」
ちなみに昨夜の時点で安綺達の取り巻く事情のことは一通り話してある。当然異世界から来たこと、異世界・日本はパールウェルと比べて文明力が高いこと、アイドルとは元々地球のものであることなどなど、出来る限りを話して聞かせた。
また新貴が以前この世界で勇者たる存在であったことも説明してある。勇者の存在は既に伝説上の存在になってるらしくアイネはいたく驚いていた。ついでに新貴が身に着けているネックレスには新貴の力が宿っていて安綺がそれを行使できること、翻訳能力が宿っていてアイネと問題なく話せているのもネックレスのお陰だということも。
己の口からそういった創作めいた話が当たり前のように飛び出てくるのは何だかおかしかった。けれど自分達の陥ってる状況をまとめることで改めて頭の整理ができたのも確かだった。
「うん、じゃあまあ、ミミラと安綺は頭に入ってると思うけど状況整理ってことでもう一度聞いてくれ。目標は倒産目前の俺達の会社の経営を立て直すこと。そのためにうちからアイドル――アイネちゃんを人気アイドルにするため育て上げる。けどいきなり俺達の世界で戦うとなると分が悪い。だからここ異世界で一定の成果を上げ、力を付ける。これが異世界アイドル育成計画。で、ここからはその具体的な内容だが」
新貴は一度間を挟み、
「まずはミミラちゃんのステータスの強化。アイドルっても色々あるがパッと思いつくのはライブだからな。そのために必要なのは歌と、歌の振り付けだ。故に歌唱力と体の動きを強化することが先決だ。これに関してはミミラがトレーナーとしてアイネちゃんを指導していくことになる。ここまではいいな?」
はい、と名前を呼ばれた女性二人が返事をした。
「ミミラは今しがた述べたトレーナーを頼む。で、俺は会社の経営に必要なこと、それと当分の仕事の確保をやる。もし計画が上手くいったら安綺に任せようと考えているけどな。どんなに早くても異世界に慣れた後になるだろうが」
元有芸能事務所の社員数は少ない。何せこの場に介している一同が全社員である。といってもミミラは手伝いという立場らしいので社員ではないのだけど。そうなると写真は新貴に安綺、それと本日加わったアイネの三人だけとなる。
人数が少ないためどうしても一人ひとりの仕事のウェイトは大きくなる。となると新入社員の安綺は特に多くの仕事を割り振られるのが目に見えている。
これも職を失わないため、二度とかったるい就活をしないためだ。多少の無茶は覚悟の上。
気合を入れて新貴の言葉に耳を傾ける。
「最後に安綺だが、一旦アイドルのスカウトはストップだ。まずはアイネちゃんに集中する。アイネちゃんに一定の成果が出て余裕ができたらまたゴーサインを出す。それまでのお前の役割はアイネちゃんの傍に付いて体調を管理しながら面倒を見ること」
「…………」
待てども待てどもその先の言葉が紡がれない。
「あの」
「何だ」
「それだけですか」
「うん? ああ、そりゃお前、新入社員なんだし手も余る時間が多いんだから掃除とかお茶出しとかの雑事とかは当然やるんだぞ。立場上お使いも多くなるだろうし近郊の地理を勉強するのも忘れずに」
「いえ、それは言われなくても分かってます。雑事を加えたとしても俺の仕事量少なく無いですか? 下手すればミミラさんより重要度が低いような気が」
「前に所属してたあいつは自由奔放ってか、緩かったからな。仕事も無かったし。だから前の仕事は忘れろ。人一人の扱いは思ってる以上に大切だぞ? 何せ自分の体以上に他人の体の様子に気を遣わないといけないんだからな。それに」
立ち位置はさっきから動いていない。ミミラが新貴のデスクの傍らに、アイネが入口付近で立っており、安綺は新貴のすぐ横にいた。
声を落として新貴が言う。
「アイネちゃんにやる気があるのもお前がいるからだ。お前の存在はアイネちゃんのモチベーションにも関わってくる。想像するのは難しいかもしれないが、助けてくれた存在ってのは相手にとっちゃあ相当でかい感謝を心に与えることになるからな。感謝が違う感情に変化しちまうぐらいに」
彼の言葉には何故か実感が篭っているように感じた。
新貴は顔を引いて再び一同に向けて会見を始める。
「大体は以上だな。他の仕事がある場合はその都度連絡する。連絡は以上だ。何か質問のある者はいるか? ……いないようだな。本当ならアイネちゃんの歓迎会といきたいとこだが何せ時間がない。今日から早速取り掛かろう。ミミラ、安綺とアイネちゃんを連れてレッスンルームに向かってくれ」
「了解したわ」
「時間がないといっても初日だからな。あまり無理はするなよ。安綺はレッスンがどんな感じなのかってのをよく見とけよ。んで必要だと感じたら買い出しに行って飲み物を提供するなど、自分なりに考えて動け。現地の金は全て経費だから自由に使ってくれ」
異世界にきた初日、いつの間にかパンパンになっていた財布を思い出す。
「よし、それではこのアイドル育成計画……本格的にスタートだ!」
新貴がニヤリと笑った。




