君の存在に、ありがとう
「ねえ、流星は、『ありがとう』ってどういう言葉だと思う?」
書類を書いている僕にそう問いかけたてきたのは僕の恋人である篠崎千尋だ。今日はお互い仕事が休みなので二人で出かける予定だったのだが、生憎雨模様だったので大人しく僕の家で過ごす事にした。
彼女は先程まで布団の上に横になり僕が集めているシリーズの小説を読んでいたのだが、いつの間にか頬杖をつきながら僕の前に座っていた。だが彼女の視線の先は書類でも僕でもなく窓から見える水色の景色だ。
僕は彼女から視線を書類に向け、再びペンを走らせながら呟く。
「人に聞く前に自分から話すのが礼儀だよ」
「……流星らしい返答だね。でもそんな所も好きだよ」
手を止めて顔を上げれば、そこには笑顔を浮かべた千尋が居て、僕の頬が徐々に熱を帯びていく。
「流星、顔が真っ赤」
千尋が僕の頬を人差し指でつついた。僕はその手を払い、「早くそのありがとうについて話しなよ」と一言呟いた。千尋は一度頷き、ゴホンとわざとらしく一つ咳払いをした。
「私ね、小さい頃から口癖が『ありがとう』なんだ。誰かが私に嬉しい事をしてくれるとすぐに言っちゃうし、仕事で失敗して怒られた時も先輩が私の代わりに仕事をしてくれた時も『すみません、ありがとうございました』って言っちゃうの。だってその人の貴重な時間を私の成長の為に割いてくれてるんだと思うと、ありがたい事だと思わない?」
(凄いポジティブだな。まあ、そこが千尋の良い所だけど)
僕は心の中でそう呟き、微笑を浮かべる。千尋は目を瞑り、再び話し出した。
「ありがとうって言うのも言われるのも気持ち良いよね。誰かに何かをしてありがとうって言われたらもう一度同じ事しようとか、相手がもっと喜んでくれるよう頑張ろうとか思えちゃうんだよね。そう思う私って単純かな?」
「……まあ、千尋は確かに単純だな。コロコロと表情が変わるから見てて飽きないよ」
僕がそう言えば、今度は千尋が頬を赤らめていた。その表情さえも愛おしくて僕は小さく笑う。
「でも千尋の言う通り、誰かに感謝される事は嬉しいし、ありがとうって言葉に救われる時も多くあるよ。社会人になってそれを実感する時も多々あるし」
「うん、そうだね。……ねえ、流星。ちょっとそっちに行っても良い?」
「……どうぞ」
僕はペンを机の上に置く。千尋は立ち上がり、僕の傍に寄ってくるとその小さな頭を僕の肩に乗せた。ふわりと香る彼女の香りに安心する半面、未だ心臓が早く脈を打つ。かれこれ四年近くも傍に居るのに、だ。
「私ね、時々思うんだ。流星と出会えてこうして一緒に居る事は当たり前な事じゃなくて奇跡に近い事だって。だから流星が私の傍に居てくれる事にとても感謝してるし、私を生んでくれたパパとママ、流星を生んでくれたパパとママにも感謝してるの」
「うん。僕も同感」
「流星、生まれて来てくれてありがとう」
「うん」
「私を好きになってくれてありがとう」
「うん」
「ねえ、流星からは無い――」
彼女の言葉を遮るかのように僕はその小さな唇に一つキスを落とした。そっと唇を離すと、彼女は更に顔を赤らめ「びっくり」と呟いた。僕は彼女に笑顔を浮かべ、机の上に置いてある一枚の紙を手にした。
「僕は自分の両親にも職場の人にも友人にもそして君に、沢山のありがとうで溢れているよ。だから、次は僕達の子どもに、ありがとうを伝えていきたいんだけど……どうかな」
僕が見せたその紙は婚姻届で、千尋は瞳に大量の涙を浮かべながら僕の大好きな笑みを浮かべて大きく一度頷いた。
――君の存在に、ありがとう。