泡と消えても
月明かりの中
源三は海岸を歩いていた。真上に昇る月は明るく
源三の足元を照らしていた。
源三は漁師だ
網元に魚を届けにいった帰りに自分の暮らす小屋までの帰り道だった。
ここの処晴天が続き
海も凪いでいたお陰で釣果が良好で機嫌も良かった。
打ち寄せては返す波打ち際に
人が倒れている。
水死体かとも思ったが
微かに息はある。
源三は女を抱え起こし声を掛けた。
『大丈夫か?』
幾度か声を掛けると女は
長い睫毛の瞳を開いた。
『気がついたのか?
名は何と言う?』
女の口が微かに動く…
だが…その口から言葉が出てくる事は無かった。
かなり女は衰弱している。
源三は着物の帯を解き
自分は下帯一つになり着物を女に羽織らせ
このままでは女が衰弱死してしまう恐れがあると判断した。
源三は女を背負い月の光の中家路へ向かった。
その時女は
逞しい源三の肩に幸せそうに顔を埋めていた。
女を背負って帰る我が家には年老いた母が一人待っている。
源三の父は早くに亡くなり長いこと母と二人暮らしだった。
小さな小舟での漁は母とその日の暮らしを続けていく事で精一杯だったが
源三にも母のタエにも不満は無かった。
小さなあばら屋の我が家の前に立ち母におとないを告げる。
ガラリ…
引き戸が開き中から母のタエが顔を出す。
源三に背負われている女を見て少し驚くが
源三の説明を受けて快く中へと誘った。
女を火の側に寝かせ
早速湯を入れて
女の体を拭き
自分の着物を羽織らせるタエ
源三は粥の用意をした。
女は又も眠っている。
タエが声を掛けると
女はゆっくりと身を起こした。
タエは白湯を勧め
女は静かに啜る
ホッと一息ついた頃
源三が粥を持って来た。
源三の姿を認めると
はだけた着物の前を合わせて俯く女に
ソッと粥の入った椀を差し出した。
『暖まるぞ』
ぶっきらぼうではあるが…優しい含みのある言葉だった。
粥を食べ終えた女は
箸と椀を置き
両手を付いて頭を下げた。
源三が
『かあさん…
この人は口が聞けないみたいなんだ。』
『それは…難儀な事だねぇこんなあばら家で良ければ気がすむまでここに暮らして構わないよ。
女は頭を板間に擦り付ける様に下げた。
女の名が解らないので取り敢えず月明かりの下で見つけたので
小夜と呼ぶことにした。
小夜は二日もすると起き上がりタエの手伝いをするようになった。
小夜は朝日の昇る前に家を出る源三の朝飯をつくり
小舟を漕いで沖に出ていく源三の姿をずっと見守っていた。
源三の姿が見えなくなるとタエと一緒に昆布やワカメ等の海藻や貝等を取りに行く。
そんな小夜にタエは疑問を持った。
『小夜や…もしや…
海が怖いのかい?』
小さく頷く小夜を見てタエは
『浜辺に打ち上げられていたんだから船で難破でもしたのかねぇ?
波打ち際なら溺れる事も無いから安心しなさい。』
小夜は小さく微笑み頷いた。
その頃源三は
何時もの漁場で漁をしていた。
海の上での漁は危険が伴う。
荒れ狂う時等
命を落とすのでは無いかて思うほどだ
今日の様に凪いだ日には
気分良く漁が出来る。
中々の大漁だ
小夜へ幾ばくかの魚を食べさせる事が出来ると早めに切り上げ浜に帰っていった。
鯵を数ひき
ぶら下げて帰ると小夜は表に出て待っていた。
鯵を手渡すと
ニッコリと笑い支度に取りかかった。
今日の晩飯はアサリの潮汁と鯵の塩焼き
三人で一緒に食べる。
小夜は幸せのあまり涙を流した。
頬を伝い板間に落ちた涙は
コトリ…
と音を立てて落ちた。
涙は真珠に変わっていた。
小夜は慌てて真珠を拾い
掌に隠した。
自分の流した真珠の涙が
高価でその高価さ故に人は争い傷つけ合う事も知っていた。
源三親子をそんな事に巻き込みたくない
小夜は掌の真珠を握りしめた。
食事を終え後片付けも済ませ小夜は家の外へ出た。
今日も月が美しい
浜辺を海風がそよぐ
そよぐ風が小夜の頬をなぶる
その風に乗り小さな声が聞こえて来た。
『姫…お久しゅうございます。』
声の主は海の中から話し掛けてくる。
『お痛わしきお姿におなりで…』
小夜は声の主をじっと見詰めていた。
『姫は声を無くされたのですね…
失念しておりました。
お体の方は大丈夫ですね
安心しました。
それでは…今日はこれで帰ります。
くれぐれもお体にはお気をつけて下さい』
声の主は海に潜っていった。
夜が明ける前に
朝食を作り源三を送り出す。
何時もの様に源三の姿が見えなくなるまで小夜は見送った。
源三は漁場で網を掛けていた
こんな凪ぎの日には何処からともなく美しい歌声が
聞こえて来ることがある。仲間の漁師は
人魚の歌声と呼び恐れていた。
人魚の歌声を聞くと必ず船が沈むと言われていた。
が、しかし…
源三は幾度も歌声を耳にしたが船が沈むどころか…
その日は大量になる。
それに…なんとも美しい歌声なのだ。
今日は歌声は聞こえて来ないが
中々の釣果だ
源三は網を引き上げ浜に戻った。
雑魚を数匹小夜に手渡し
『今日は浜鍋にしょう』
と伝えた。
魚をぶつ切りに味噌で味付けをした浜鍋は味が深い
三人で鍋をつつきながら
小夜は今夜も幸せを噛みしめていた。
その日の夜…
源三は小夜を浜辺に誘った。
小夜は源三が何を切り出して来るのかが不安だった。
源三はそんな小夜の心を知ってか知らずか…
無言で海を見詰めていた。普段から寡黙な男ではあるが小夜にかける言葉は
ぶっきらぼうではあるが
何時も優しい。
波の打ち寄せては返すその音に掻き消される程の声で
『小夜…有難う…
母もお前を随分と気に入っている。
出来ればこのままずっと俺の側に居て欲しい』
小夜は感激のあまり
その場に泣き崩れた。
決して真珠の涙を源三に見られない様に源三には背を向けて。
『小夜や…今の言葉が苦しいのか?』
源三は尋ねた
声を無くした小夜は
ただ…首を横に振るばかりだった。
『そうが…小夜…
有難う』
水面に映り込む月を眺めながら小夜は
海の中から源三が漁を
していたところを眺めているだけで、
胸が一杯に成っていた
あの頃を思い出していた。
櫓を巧みに漕ぐ姿の凛々しさ
網を引き上げる時の筋肉の躍動
良く日に焼けた肌…
全てが小夜の心を踊らせる。
ある日小夜が歌を歌っていると
源三が手を休め聞き入ってくれている。
あまりに嬉しく
源三との繋がりを感じた事が出来る一時だった。
小夜は決心をする。
人間になって源三の側で暮らしていきたい。
その為ならば
今の海での生活を捨てても良い
そうして小夜は
母の乙姫の所へ向かった。
竜宮へ向かう小夜の跡を慌てて追いかけてくる海亀…
『姫…姫…お待ちください。
どうされたのですか?
その様な深刻なお顔をされて…』
『私は決心したのです…
あの方の側に
あの方の側で…
あの方の為に生きて行きたいの』
『姫!それは人間になると言うことですか?』
『そう…
私は人になりあの方の側で暮らしたいのです。』
それっきり
姫は口を閉ざし竜宮の中へ入った。
『母上…私は人間になりとうございます。』
『なんと…どうして人間になど…』
驚きの顔を見せる乙姫…
『人間など、ごく短い時間しか生きて行けないでは無いか?
我ら人魚は永遠に近い人生を送るのに…
なぜ…争いいがみ合う事ばかりの人間になると言うの?』
『それでも構わないのです。
例え短い人生でもあの方に寄り添い生きて行けるならば海の中より幾倍もの濃さを持つと私は信じています。』
『姫や…もし…
人魚が人になる
と言うことは海を捨てること貴女は泳ぐ事が出来なくなるのですよ?
それと地上で呼吸が出来る様になるには
声を失う事でもあるのですよ?』
『それも覚悟の上です。
あの方ならば全てを受け入れて頂けると思います。』
『それほどまでに思い詰めているのであれば…
致し方無いでしょう
望みを叶えましょう。
人間界に行っても貴女は私の娘です。
くれぐれも体には気を遣うのですよ。』
小夜はこうして…
人間になり源三の元に現れた。
全てを捨ててもこの方の側に来たかった。
これからも側に寄り添い
限りある人生の全てを捧げてゆきたいと誓った。
小夜は何時もの様に
夜は浜辺に出て
海を眺めていた。
海の中から海亀が顔を出し
『姫…野分け(台風)が近付いて来ております。
源三様に漁に出る事を
お止めになられますようにどうか…
お伝え下さい。』
と告げ海に帰って行った。
野分けが近付いて来ている…
何としても明日の朝
源三を引き留めなければ…
小夜は心に誓った。
明くる朝…
源三は朝早く漁に出て行こうとする。海はいまだに凪いでいる。
しかし…
野分けが近付いているのだあっという間に海は荒れ狂い源三の小さな船など
波に呑まれてしまう。
小夜は源三にすがり付き
どうか行かないでと目で訴えかけた。
『小夜…心配しないでくれ今夜もお前の側に居るよ
必ず帰って来るから。』
優しく語りかける源三の瞳を見詰め小夜の力が抜けた
まんじりとも出来ず
タエと二人向き合っていた。
海が荒れて来た。
どうしてもじっとしている事が出来ずに表に出ようとしたとき。
引き戸がガラリと開き
漁師仲間の留吉が息を切らして入ってきた。
『まだ 源三が帰って来ねえ
奴は海が荒れ出しても
もう少し頑張ってみるって漁場に残ったんだ。』
小夜は飛び出し
浜へ駆け出した。
着物を脱ぎ捨て海に飛び込んだ。
海に飛び込んだ小夜に
異変が起きた。
泳げない筈のこの体が
荒波をものともせずに泳いでいる。
小夜は人魚に戻ってしまった。
人魚ならば
幾ら海が荒れようともものともしない。
源三の居る漁場へと小夜は全力で泳いで行った。
源三は
荒れ始めた海の上で
木の葉の様にうねる波に舳先を向け何とか持ちこたえていた。
思わぬ横波が源三を襲う船は横波に弱い
舳先を波に向けていれば少々の波ならやり過ごせるが横波をモロに食らった源三の船は転覆してしまった。
ひっくり返った船にしがみつき
波に揉まれながら
源三は
『小夜…すまない…
俺はもう…
お前の元に戻れないかも知れない。
小夜…すまない…』
源三が諦めかけた時
『源三さん!!
源三さん!!』
と自分を呼ぶ声が聞こえる。
海の水で体温を奪われた源三は微かな意識の中で
確かに小夜を認めた…
そして…小夜に抱かれる幻を見たと思った。
浜へ打ち上げられた源三は自分の傍らに居る小夜を見て幻では無かった事に気がついた。
傍らに寄り添うように打ち上げられた小夜は
息をしていない。
『小夜!!しっかりしろ!!』と何度も声を掛けた。
『小夜!!しっかりしろ!!』と何度も声を掛けた。
小夜はうっすらと目を開け
『源三さん…』と
源三の名を呼んだ。
『小夜!!口がきけるのか?』
と小夜を抱きしめ
はっとする。
小夜の半身が魚なのだ。
小夜は人魚だと源三に知られてしまった。
『小夜!!たとえお前が人魚でも良い…
お前が好きだ。何時までも俺の側に居てくれ!!』
あまりに嬉しい源三の言葉に
真珠の涙を流しながら
『源三さんありがとう
しかし私は
正体を貴方に知られてしまった。
人間に成る時の条件で
貴方に知られると
泡となり海の藻屑となるのです。
でも…貴方に最後の最後に抱きしめられて居るのは
嬉しいのです。
私の事を忘れないで下さい
短い間でしたが
母様にくれぐれも宜しく伝えて下さい。
小夜は幸せです。』
小夜の体か泡となり消えかかっていた。
『行くな!!行くな!!小夜!!行かないでくれ!!』
消えかかるなか
小夜は少し困ったような顔をして
源三に口づけをした。
それが合図かの様に
小夜は泡となり消えてしまった。
一人残された源三は小夜の流した真珠の涙を
慈しむ様に一つ一つ拾い集め
何時までも小夜が泡となり消えてしまった。
海を見詰めていた。
源三は小夜の残した真珠の涙を
小夜の形見として大切にした。
そして…今夜も小夜が消えてしまった海を見詰めていた。
『源三さん…』
小夜の声が聞こえた。
小夜の筈は無い…
しかし…振り向かざるを得ない源三の
前に小夜が立っていた。
『源三さん海の神様が私を人間に生まれ替わらせてくれたのです』
源三は小夜に近寄り
小夜の手を握り
『さあ…我が家へ帰ろう。母も首を長くして待ってる』
小夜は俯き涙を流した。
その嬉し涙はもう真珠にはならなかった。
その後の二人のお話は
平凡な夫婦の物語で
仲睦まじく暮らし
笑顔の絶えない家庭を築いたとのことです。
いかがでした?
悲恋の人魚姫をハッピーエンドにしてみました。
小夜の望み通り平凡ですが暖かい家庭を築いたようです。