What the fuck !!
息を切らして疾駆する俺の頬を、銃弾が掠めた。
髪が数本はらりと風に舞い、顎を血が伝う。“撃たれた”という事実に、心臓が早鐘を打つ。
俺は横目に、肩に担いだ幼女の安否を確かめた。相も変わらぬ無表情。どうやら彼女に怪我はないようだ。少しだけ安堵する。
だが状況は依然危機のままだ。後ろに首を向ければ、ぴたりと固定された銃口に視線が吸い込まれる。
――ちくしょう、なぜだ?
――なぜ、こんなことになった?
〈What the fuck !!〉
晩冬の某日、俺は近所の川原で数人の男子小学生と大騒ぎしていた。
背丈の低い草地の上にベニヤ板やら段ボールやらを敷きつめ、おはじきやビーダマンを用いてのお遊び(当然すべて俺の私物だ!)、そこで大人の腕力と頭脳を駆使してガキどもをけちょんけちょんに打ちのめしていた最中のこと。
大勢の女が俺たちの元へゆっくりと歩み寄ってきた。年頃は、ここにいる男子たちと同級生くらいだろうか。後ろ手になにかを隠し持っている。
怪訝に思い観察していると、不意にその女子たちはやたらと顔立ちが整ったひとりの男子に接近し、耳まで真っ赤にして、持っていたブツ――色とりどりの包装を手渡した。
瞬間、俺は眼前でおこなわれている取引の意味を察した。
そう、本日二月十四日はバレンタインデー!
モテない俺には縁のないバレンタインデー!
――あの野郎、許さねぇ……
俺は大量のチョコレートを受け取って自慢げにしているイケメン小学生を川に突き落とした。浅瀬なので溺れて大事に至ることはなかったが、無惨にも川水に浸ったチョコは台無しだろう。ざまあみやがれ。
俺は呆然と事態を静観する小学生たちそっちのけで散らばったおもちゃを片づけ、その場から逃亡した。途端、堰を切ったようなブーイングの嵐が背中に突き刺さる……が、知ったことか。噂に聞くモンスターペアレンツとやらを呼ばれる前に、とっとと退散しなくては。
ふと、俺への中傷に混じって、明らかに別方向に対する歓声のようなものが聞こえた。
「コイツ、食いやがったぞ!」
「なんて男らしい!」
……モテる秘訣を、ひとつ学んだ気がする。
「ちくしょう、マセガキどもが一丁前に盛り上がりやがって……」
先刻の女子どもの照れたような表情を思い返しながら、愚痴愚痴と街を放浪する。
やたらと視界の端にカップルの姿がちらついて鬱陶しい。他人の幸福に囲まれ、小学生にまで嫉妬する自分(二十六歳フリーター)の惨めさが浮き彫りになる。舌打ち。
睥睨するように視線を左右に巡らせば、どこもかしこも男女、男女、男女、男女、男女、男男――
「ん⁉」
……いや、見なかったことにしよう。世の中には、知らない方がいいこともあるのだ。
今日の大通りはいろいろな意味で身体に悪い。俺は足早にその場を去った。
そして無目的に街を徘徊していると、やがて人気のない住宅街に入った。この時期は誰もが繁華街などに出払っているか、家の中で乳繰り合っているのだろう。胸糞悪い話だ。
長く伸びた二車線道路にも遊歩道にも、俺以外の人影はなく、
いや――
女神がいた。
「おお……」
俺の前方を歩くその女児の後ろ姿に、意図せず生唾を呑んだ。
歩みを進める度に揺れる愛らしい二つ結びの黒髪、太陽光を照り返す真っ赤なランドセルは天使の羽。
そしてなにより、道端のカーブミラー越しに映った精緻な美貌は、小学生どころか人智を超越した可憐さを携えていた。
一目惚れだった。
この国に蔓延る幼い肢体目当ての腐れ外道とは違う、この気持ちはもっと純真で崇高なものだ。
もしもあんな美少女に――いや、美幼女にチョコレートをもらえたら……妄想しただけで鼻息が荒くなる。鼻の穴が膨らむ。
俺の尋常でない気配を察したのか、振り返る幼女。
そして彼女と視線が交錯した瞬間、俺の中でなにかが弾け飛んだ。
「うおおおおおおお」
気づけば、彼女を肩に担いで走り出していた。
自分でもその行動原理は理解不能、だが、止められない。
突然持ち上げられたせいで可愛い目を俺に向けて白黒させる彼女に、最大限の爽やかな笑顔で言った。
「安心しな、悪いようにはしねぇ」
「…………」
その言葉を信用したのかはわからないが、幼女は平静を取り戻して無言で正面に向き直った。そんな寡黙なところも俺好みだ。
――これからどうするか……
駆けながら思案する。
俺は運命の相手を見つけた。後は彼女と、自由で平穏な余生を送るだけ。
その目的のためにはまず、早々にこの土地から撤収しなくては。彼女の両親がこの現場を目撃したら、強引にでも彼女を連れ戻そうとするはずだ。そんなふざけた真似は絶対に許されない。
――そうだ、ふたりで旅に出よう。安住の地を求めて日本中を行脚して回るのだ。手始めにはどこがいいだろう、東北か、それとも真逆の九州か……沖縄にでも向かえば、案外住み心地がよくて即座に居を構えることもあるかもしれない。
と、脳内で彼女との幸せな人生設計を練り始めたとき、
「貴様、なにをしとるか!」
背後からしゃがれた怒号が響き、俺は仰天して振り向いた。
意図せず頬が引き攣る。
そこには青い警邏服を纏った強面のジジイが、全身から敵意を剥き出しにして仁王立っていた。
「まずいぜ、警察が現れやがった」
「この誘拐犯め! その娘を離さんか!」
雄叫び、がに股で追走してくる警官。浴びせられる罵声には、当然聞く耳持たない。俺は野郎に背中を向け、再び全速力で走り出した。
「待たんか!」
「待てと言われて待つ阿呆がどこにいる!」
まだ距離はある、身体が劣化しきった老いぼれを振り切るなど朝飯前だ――と、高をくくっていたのだが、
「ち、ちくしょう、やるじゃねえか……」
執念の為せる技なのか、異様に足が速い。年齢とは裏腹に体力もありそうだ。このまま奔走するばかりでは、追いつかれるのも時間の問題だろう。
――迎撃するしかない。
「食らいやがれ!」
俺は空いた片手で懐から大量のビー玉を掴み取り、後ろの地面に放った。
「ぬおぉ!」
見事、ビー玉に足を滑らせて前向きに転倒するジジイ。コンクリートに鼻面を強打したのか、鈍い音が閑静な街並に轟く。
「やったか?」
「なんのこれしきいぃぃぃい!」
さっきので気絶してくれれば話は早かったのだが、野郎は即座に起き上がると、悪鬼の形相で疾走を再開した。
憤激の力か、心なしか速度も増している気がする。下手な攻撃は逆効果だったかもしれない。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
そして野郎はなんと、腰のホルスターから拳銃を取り出し、駆けながら銃口を俺の頭部に向けた。
「ちっ……やばいな」
物騒な獲物の登場に、さすがの俺も息を呑んだ。
仮にも警察官が私怨に駆られて発砲するとも思えないが、怒りは人間を変えてしまうという(ちょうど、小学生を川に突き落とした俺のように)。油断はできない。
が、現実に銃口が火を噴くことはなく、ひたすら追いかけっこしているうちに、やがて人通りの多い商店街に出た。
幼女を担いだ俺と、それを追うジジイが構える拳銃を見て野次馬が喚き出す。
思わず舌打ち、これだけ騒げば、すぐに増援がきてしまう。長引かせるわけにはいかなくなった。
「荒っぽい真似は避けたかったが……仕方ねえ」
次に俺が武器として懐から取り出したのは、おはじきだった。
首だけを後ろに回し、慎重に照準を定める。
そしておはじきを指先で弾いて、空気を震わす弾丸として発射させる。
俺ほどのおはじき熟練者ならば狙いは外さない。半透明のプラスチック弾丸が、確実に奴の股間を撃ち抜く――はずだった。
「なんだと⁉」
愕然として叫ぶ。
ジジイは持った銃身を素早くスライドさせ、盾のように構えた銃把でおはじきを叩き落とした。
野郎の反射神経も並外れているが、それ以上に肝が据わっていやがる。一歩間違えれば拳銃が暴発する可能性だってあったはずなのに。
「これで正当防衛じゃ!」
野郎が吠えると同時に、撃鉄が落ちた。あのクソジジイ、そのためにずっと俺の攻撃を待っていやがったのか⁉
大気を切り裂き、おはじきなどとは比較し難い鉄の弾丸が中空を走る。
息を切らして疾駆する俺の頬を、銃弾が掠めた。
髪が数本はらりと風に舞い、顎を血が伝う。“撃たれた”という事実に、心臓が早鐘を打つ。
俺は横目に、肩に担いだ幼女の安否を確かめた。相も変わらぬ無表情。どうやら彼女に怪我はないようだ。少しだけ安堵する。
辺りの喧騒が瞬時にやみ、一拍置いて耳をつんざく悲鳴の大合唱へと化けた。
「What the fuck !! マジで撃ってきやがった!」
悪態をつきながらも、発砲されたことでむしろ頭が冷えたのか、ふとジジイの逆鱗を撫でられたかのような憤怒に違和感を覚えた。
野郎の行動からは、警察としての義務感だけでは到底計れないような執念を感じる。たとえば街中で拳銃をぶっ放すなんて蛮行。奴の背中を押した感情の源泉は、なんだ?
しばし思考し、だが俺はその懸念を放棄した。
どれだけ無茶をしようが、俺だって譲れないのだ。俺と運命の糸で繋がれた幼女との輝かしい幸福は、自分の手で勝ち取ってみせる。
「おい、タイムだ! ちょっと待ちな!」
野次馬が残らず逃げ散った頃を見計らい、俺は振り返ってジジイと対峙した。ふたりの間に緊張が走る。
そして、生半可な覚悟ではないと伝えるため、幼女への有りっ丈の愛情を言葉に乗せて叫んだ。
「俺はコイツを世界でいちばん愛してやれる! 絶対に幸せにしてやれる! だから邪魔をするんじゃねえ!」
すっかり静かになった街を揺らす咆哮。
しかし野郎は微塵も揺らがず、むしろ柳眉を吊り上げて俺を睨みつけた。
先ほど感じた違和感が膨れ上がる。なぜこのジジイは、肉親の仇に対するような殺意を燻らせているのか。俺への――いや、この幼女への執着、その理由はなんだ?
俺の叫びに負けずとも劣らぬ声量を携えた慟哭が、その答えだった。
「馬鹿を抜かすな! ワシの孫を返せ!」
「なんだと……⁉」
すべて合点がいった。
俺が攫った幼女は、あのジジイの孫。
実銃を持ち出すほどの怒気も、地獄の果てまで追ってやろうという執念も……すべて孫に対する“おじいちゃんの愛”の賜物だったのだ。それほどまでに、世の祖父母たちの孫煩悩は計り知れない。
思わず身震いした。
俺は恐怖しているのだ。野郎の愛情の大きさと比較しても、本当に自分が最もこの幼女を好きでいるのか。
心の中身からあらゆる感情を絞り出して彼女への愛に変換しても、孫を想う気持ちには敵わないのではないか。
今まで自分の体躯を支えていた矜持が、脆くも崩れていく……
――だが。
奥歯を食いしばり、足の震えを無理やり抑えつける。
今さら、引き下がれるものか。
彼女との逃避行に失敗すれば、もう後はないのだ。
どうせ独り身は、街を埋め尽くす邪悪なカップルの視線に苛まれ、身体を壊し、精神をボロボロにされる悲しき運命だ。でなければバレンタインという悪しき慣習を心底から呪い、腹に爆弾を巻きつけて森永製菓に突貫する以外に道はない。
だったら、命だって賭けるさ。
愛くるしい幼女と過ごす幸せな日々は、生命より重い。
「じいちゃんが今から助けてやるからなぁ」
俺に対する態度とは真逆の、鼻の下を伸ばした下品な笑顔と猫撫で声で、ジジイが幼女に話しかける。
ふと彼女を見遣ると――さっきから祖父の型破りな暴走を目の当たりにしていたというのに――異様に冷めた無表情のままだった。無口なだけか、それとも達観しているのか、いずれにせよ彼女はきっと大物になる。
「危ないから、ちょっと離れてな」
俺は両手で幼女を抱き上げ、そして地面に降ろした。不思議そうに首を傾げる彼女に踵を返し、自分の懐に手を突っ込む。
取り出したのは、一粒のおはじき。
双眸に警戒の色を強める野郎に、俺は堂々宣言した。
「埒が明かねえ、白黒つけようぜ」
その台詞を聞いて、ジジイの拳銃を握る手がぴくりと反応する。俺も阿吽の呼吸でおはじきを正面に掲げ、発射する準備を整えた。
「早撃ち勝負だ。これに勝った方がよりコイツを愛している……依存はねえな?」
「――よかろう」
十メートルもない俺と野郎の距離感は、西部劇を彷彿とさせた。セオリー通りならば、勝負は一瞬で決まる。
風が吹き抜けた。ちょうどふたりの真ん中を、黄色い落ち葉が舞い落ちていく。おあつらえ向きの合図だ。あの葉が地面に着いたとき、片方が死んで片方が真実の愛を証明する。
ごくり、と。
物音ひとつない景色に息を呑む音を響かせたのは、どちらだったか。
そして、
「「――ッ!」」
葉の表面が大地を擦り、ふたりが同時に得物を振り翳した刹那、
「まちなさい」
鈴のごとき澄んだ声が、決着の瞬間を遮った。
怪訝に感じて声のした方向に視線をよこすと、なんとあの幼女がとてとてと小走りして、俺たちの間に立ち塞がったではないか!
「ちょっときなさい」
決戦を目前にしての予期せぬ事態に困惑し気勢を削がれるが、彼女の言葉には逆らえない。俺たちは互いへの警戒心を残したまま、一歩一歩幼女に近づいていった。
「どうした?」
「おじいちゃんにお話があるのかい?」
そしてふたり幼女を挟んで、片方が手を伸ばせば触れられる距離まで接近したとき、
「……はい」
あくまで感情を表に出さない彼女が、それぞれ片手ずつを俺たちに差し出す。
そのモミジみたいな可憐な手のひらに乗っていたのは、小さなチョコレートだった。スーパーのお菓子売り場とかに十円で売られている例のアレだ。
一体全体、どういう了見なのか。
そしてチョコを俺たちの胸に強引に押しつけると、幼女は言った。
「それをあげるからケンカはやめなさい」
「「はぁい」」
俺とジジイはとろけた。
読んでいただきありがとうございます!
金髪美女を助手席に乗せてド派手にカーチェイス!
みたいなのを意識して書き始めた拙作ですが、気づけば主人公が幼女を担ぎ二本の足で走って逃げてました。なんで?
注:森永製菓はいつも私たちにおいしいお菓子を提供してくれています。決して腹に爆弾を巻きつけて突貫したりしないでください。