命の光をみつけた夜
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目の前で急行列車が動き出す。それをぼうっと見送ると、すぐ後ろのホームからも重い音と共に、生温い風が吹き出した。これで何本目だろうか。地面に張り付いたように、僕の足はずっとここから動いてくれない。耳障りなアナウンスに促され腕の時計に視線を落とせば、もう既に日付は変わっていた。
改札を逆戻りすると、不在着信、の文字も無視して携帯の電源を切り、僕は家路から離れた。
今日、あの家には帰らない。恵の顔を見て、かける言葉なんて到底思いつかない。狭い部屋で僕の帰りを待っている恵の小さな背中を思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。それを振り切って歩き出した僕は、どこの誰よりも愚かだろう。
情けにも似た笑いを噛み殺し、僕は全てに背を向けた。
夕方に出た会社を横目に通り過ぎ、数分歩くと小さな公園に着いた。遊具はブランコだけで、あとは木のベンチがある、公園とは名ばかりの狭い空き地だ。すぐそこのビルへ毎日通っているのに、存在すら知らなかった。少し不気味に思えたが、僕は力なくベンチに倒れこむと、そのまま木目の温かさに身を預けた。
シャツの襟元へ手をかけネクタイを緩めながら、大きく息を吐き出す。目に映る夜空は、酷く濁っている。
どうして、こんなことになってしまったのか。世の中には、僕ら以外にもカップルは山ほどいるのに。何もかも、憂鬱だ。そっと目を閉じて、僅かな騒音と暗闇の中で思ったこと。今日の出来事が、夢ならいいのに――。
「ね、おきて」
――ああ、もう朝か? 身体、重たいんだけど……。
「おきてよ、あそぼ?」
――何だよ、恵がそんなこと言うなんて珍しいな。子供みたいに。
瞼も重い。そういえば、何で恵が居るんだろう。確か電車に乗らずに公園に行ったのに。
まさか、夢だったのか?
「おきてってばぁ、おにいちゃん」
――おにいちゃん?
あまりの心地悪い違和感に、急に軽くなった目を躊躇う暇も無く開く。そこにあった顔は、大人びた端正な恵のものでは無く、見覚えもない幼い少女の笑顔だった。
「なっ……!」
言葉にならず飛び起きると、咄嗟に辺りを見渡した。目の前に佇むちっぽけなブランコ。夢では無い。
「おにいちゃんだれ?」
暗闇に溶けそうな黒髪をなびかせて、遠慮もなしにスーツの袖をクイッと引っ張ってきた。
「ね、ヒカリとあそぼ」
これだから子供は嫌いだ。だれかれ構わず馴れ馴れしくて、こっちが扱いに困る。
「ヒカリ? お前の名前か。遊ばないから、とっとと帰れ」
首をならし軽く背を伸ばすと、背中にシャツがべったり張り付く。嫌な汗をかいた。心なしか寒気もする。目の前で首をもたげる少女の足元を何度も確認した。
「ヒカリ、ユーレイじゃないよ」
ギクリとした。ゆっくり少女の顔へ目線を移せば、不愉快そうに僕を眺める痛い視線にぶつかった。女はいくつだって勘が鋭いのか。
「だからあそぼ?」
「何でそうなるんだよ。一人で遊べよ、つーか帰れ」
肩を落とす少女を前に、少し言い過ぎたかとも思ったけれど。そんな事はすぐにどうでもよくなった。そもそも、このヒカリという名前しか知らない少女に、僕が優しくしてやる義務などないのだ。僕はそんなにお人よしでもなければ、嫌いな子供の相手をするほどの余裕もない。
とにかく今は、誰にも構われたくない。子供なら、なおさらに。
あの時。電話越しに伝えられた言葉を受け入れる事ができなかった。
あまりに冷静な恵の口ぶりが、余計に現実味を欠いていたし、まさか自分達にこんな事態が起こるなんて、この五年間、想像もしていなかったのだ。
「嘘だろ?」
同意を求めるように呟いた一言に、恵もまた一言だけでそれを否定し、さらに続けた。
「こんな嘘、私が言うと思う?」
解っている。恵はそんな冗談を言える女ではない。もしも恵が、今のは冗談よ、などと言えばきっと彼女に失望していただろう。
やっとありつけた昼食のカレーが喉を味気なく通り過ぎる。午前中の営業回りでくたくたになった体がさらに重く、社員食堂のいつもと変わらない光景が、途端にぐわんぐわんまわり始め、気の遠くなるような目眩に暫く動けなかった。
「とにかく、その、帰ったらちゃんと聞く」
そう言うのが精一杯で、恵はそんな僕に諦めたような口調で、だからメールでそういったのに、と溢した。
薄暗い園内に、懐かしい音が響く。錆びた金属がきしんで鳴くような、そんな音。ふと顔をあげれば、地に着かない足を遊ばせてブランコを揺らすヒカリがいた。
古いブランコをキィキィ鳴らすヒカリの視線は、真っ直ぐに夜空へと向けられている。澄んだ大きな瞳を輝かせ、何がそんなに嬉しいのか、無邪気に微笑んで。焦がれるように送る視線は、何もない天上へ注がれていた。
少しだけ、胸が痛くなる。
「おにいちゃん、お星さまきれいだよ」
「そう」
空を見上げる動作など、もちろんしないまま適当に返す。そのうちつまらくなって、帰ってくれるだろう。それが一秒でも早く実現することを祈る。
けれどヒカリはブランコから降りようともせず、さらに大きく足を揺らし相も変わらず空へ視線を送っていた。
「おにいちゃんも見て?」
ヒカリはその瞳のまま僕を見た。ヒカリの煌くそれが、やけに勘に触る。その視線から、外れたくなる。
「星なんか見えるわけないだろ」
「見えるもん。ほら、すっごくきれいだよ」
僕はじっとベンチに座ったまま、腹の前で組んだ自分の両手を見つめていた。
「ねーえ、おにいちゃん! きれいだよ?」
幼く甘ったるい声が、直接神経に響いてくる。
「悪いけど、そんな気分じゃないから」
頼むから、そっとしておいてくれ。何でもない事に、はしゃぐのはやめてくれ。
「なんでぇ? きれいなのに!」
「煩いんだよ! ひとりで見てればいいだろ? わざわざ俺を巻き込むな!」
ヒカリの顔が曇っていく。力を失ったブランコが、鳴き声に余韻を残してゆっくり止まった。今度こそ言い過ぎた。じわりじわりと歪んでいくヒカリの表情に、何とも言えないバツの悪さを覚えてしまう。
けれど僕は、優しくなどなれない。優しくなんて、してはならない。
だって僕は、恵を独りにしてしまった。恵が言った僕らの現実に、自分だけ背を向けて今ここに居る。もう後戻りはできないんだ。今さらこんな気持ちを抱けない。
ヒカリに――、子供に。優しい気持ちなど、抱く権利はないのだ。
「俺は子供が嫌いなんだ。いらないんだよ、子供なんて!」
きっと恵は、知っていたんだと思う。彼女は頭が良いから、例え電話越しでもきっと気づいたに違いない。
二人の間に授かった子供を、僕が望んでいないということに。
――赤ちゃんができたの。
――嘘だろ?
咄嗟に出た否定に値するそれに、恵を襲った感情はどんなものだったのか。今頃、何を抱いて僕を待っているのか。解るはずなどないのに、情けない胸はそれでも痛みを感じている。
「おにちゃん?」
自分の両手がぼやけて見える。瞼が熱くなる感覚など、いつ振りに味わっただろう。近くなったヒカリの声に頭も持ち上げられず、涙は重力に従って落ちていく。
「泣かないで」
自分だって、今にも泣いてしまいそうな声じゃないか。
ふと頭に温かい感触がして、それは小さな範囲で何度も僕の髪を撫でた。よしよし、と言わんばかりに繰り返され、やっぱり少し、胸を締め付ける。
なぜそんなに素直な行動ができるのだろう。たった今、自分に大声を放った人間に、なぜ優しくできるのだろう。なぜ、そんなに純粋でいられるのか。
ヒカリが見せる純粋さに触れるたび、本当は心の一番深い場所で、それを愛しく思っていたのに。それを認めたくなかった。同時に気づく自分の愚かさを、受け入れられる強さが無くて。
「ごめん。ごめんな、ヒカリ」
目線の高さに在るヒカリの頬に、できるだけ優しく触れてみる。見た目よりも、うんと柔らかい。それを受けたヒカリがくすぐったそうに笑うから、つられて笑った僕の顔は、恵に向けるそれと一緒だったと思う。
すぐにヒカリは背を向け、先程まで自分が揺らしていたブランコへ再び駆けていった。ヒカリを乗せたブランコは、奏でる音とは裏腹に軽快に風を切っている。
僕は変わらずベンチに座ったまま、ゆっくり空を見上げてみた。薄っすら掛かる雲の向こう、欠けた月が顔を覗かせている。汚染された空気が邪魔をして、月明かりはもちろん、星の光など届かない。
星などみえないと、あんなに否定したのは自分じゃないか。それを目の当たりにして、どうして落ち込む必要があるのか。
「あのね、暗くてもお星さまはみえるんだよ」
「え?」
僕の様子に気づいたのか、それともただのおしゃべりなのか。それでも僕は、ヒカリの言葉に耳を傾けた。
「曇っていても、空気が汚れていても。お星さまはちゃんと見えるんだよ。ちゃんと光ってるんだよ」
騒音すら聞こえなくなった静寂の中で、ヒカリの声がブランコの音と共に響く。
「あれはね、命の光だから」
命の、光?
「お星さまも生きてるんだよ。晴れてても見えないお星さまもいて、それはすごく小さくしか光っていないけど、いつか見つけてもらえるようにずっと向こうで光ってるんだ。光が届く日を待ってるの」
いつしか僕は、首が痛くなるほどに夢中で天上を仰いでいた。何秒か目を凝らしていると、小さな小さな星を見つけた。
星の光を僕らが見つける頃、その星はもう、宇宙に存在していないかもしれない。そんな授業を、恵と出会った頃に受けた気がする。
「命の光なの。精一杯輝いた、命の光」
もしもあの小さな光が、遥か遠くの宇宙で今は存在していなくとも。今この瞬間に僕らの瞳に映っている光は、何百年もの時を経て、あの星が精一杯に生きてた証を伝える為のもの。
ヒカリが繰り返す、命の光という言葉は、そういう意味なのだろうか。例え本人が難しい事を解っていなくとも、僕にはそう聞こえてならなかった。
それから、僕らは互いにベンチとブランコで空を見上げ、汚れた空気の向こうに在る命の光を探していた。
「なぁヒカリ。お前の親、心配しているんじゃないか」
今さらながら不意に気になって尋ねた。
「ヒカリにはパパもママもまだいないよ」
「まだ?」
優しく微笑むヒカリは、ブランコから身軽に飛び降り、僕の様子を伺うように頷いた。
「まだ。ずっと待ってたの。やっとママが見つけてくれたんだけど、パパはまだなの」
その言葉の意味が、よく解らない。ただ、こちらに歩いてくるその足取りと声が震えている事だけは、はっきり解る。
ヒカリに駆け寄ろうと、立ち上がった瞬間。僕の体は途端に言う事を聞かなくなり、脱力してベンチに崩れ落ちた。
「ずっと待ってたんだよ」
体が動かない。ヒカリの言葉の意図も解らないまま。
「お星さまみたいにね、いっぱい輝いてみんなに見てもらう日を待ってたんだ」
ヒカリの表情が悲しみに歪んでいく。大人になればきっと綺麗な女性になるんだろう。恵の泣き顔にどこか似ている気がして、訳も解らないのに胸が騒ぐ。
「待ってたんだけど……」
暗闇の中はっきりしない視線の先で、ヒカリがとうとう溢れた涙を、不器用に自分の手の平で拭っている。その景色さえ色を失くしてく。
「パパ……パパはヒカリに会いたくないの?」
「ヒカリ、お前……」
言い終わるより早く、僕は力を絞り出して小さな彼女を抱きしめていた。
この腕の中にある温もりと感触を、幻になどしたくはない。
腕の中で泣きじゃくるヒカリの髪に、僕は何度も頬をすり寄せた。あやす方法も、なだめてやる方法も、上手くは解らないから。霞む景色の中で、ただヒカリの温もりを抱きしめていた。
僕が最後に見たものは、何も無い真っ白な世界に差し込む眩い星の光と、泣き笑いのヒカリの顔だった。
次に目を覚ました時、僕はあまりの騒音に耳を塞いだ。
重く響く音と、金属が悲鳴をあげるようなけたたましい音が、聴覚を奪う。
目の前を急わしなく流れるのは、一方向へ向かって歩く人の群れと、それを運んできた何台もの列車。
僕は、見慣れた、いや、何度も訪れ慣れたいつもの駅のホームで、ベンチの上に横たわっていた。頭上からは、朝日の光がホームのアーケードから漏れている。
「何で……」
「何で、じゃないわよ!」
勢いよく飛び起きる。立ちくらみに似た感覚の向こうに、息を切らした恵が珍しく怒りを露にして立っていた。ご丁寧に、腰に手をあてそれを強調しているように思える。
「帰って来ないし、携帯繋がらないし! 会社に泊まったのかと思って向かったら、どうして駅で寝てるのよ!」
人目も気にせずそう叫びながら、何度も地面をヒールで踏みならす。
「お前こんな靴履くなよ、転んだりしたらどうするんだよ!」
情けない声で怒鳴ると、恵の腹に手をやった。膨らみもない、何の変化も無いここに、確かに命が宿っている。
急に静かになった恵は、驚いたような表情を僕に向け、それでも泣きそうな顔をしている。あの少女に似ていた。
「ごめんな。赤ちゃんのこと……」
「私、産むからね」
僕の言葉を遮って、恵は誇らしげに言った。
「私を選んでくれたの。絶対に産むわ」
やっぱり、ヒカリに似ている。恵の瞳は、星を見上げるヒカリのあの輝きと同じように煌めいていて。僕は思った。恵は、ヒカリを見つけたのだ。命の光を見つけたのだ。
「これから忙しくなるな。俺も頑張って働かなきゃ」
伸びをして、恵に目配せをした。鳴り響くベルの音を合図に、恵は声を堪えながら静かに泣いた。
「そうだ、名前。俺がつけてもいい?」
アーケード越しに天を仰いで、太陽の日差しに眉をしかめながら呟く。
今は見えなくとも、どこかで輝いているであろう命の光に、あの少女を重ねて。
完