表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

命の光をみつけた夜

作者: なぎ

この小説は「命」をテーマにした企画小説です。「命小説」で検索すると、他の作家様の作品もご覧になれます。

 目の前で急行列車が動き出す。それをぼうっと見送ると、すぐ後ろのホームからも重い音と共に、生温い風が吹き出した。これで何本目だろうか。地面に張り付いたように、僕の足はずっとここから動いてくれない。耳障りなアナウンスに促され腕の時計に視線を落とせば、もう既に日付は変わっていた。


 改札を逆戻りすると、不在着信、の文字も無視して携帯の電源を切り、僕は家路から離れた。

 今日、あの家には帰らない。恵の顔を見て、かける言葉なんて到底思いつかない。狭い部屋で僕の帰りを待っている恵の小さな背中を思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。それを振り切って歩き出した僕は、どこの誰よりも愚かだろう。

 情けにも似た笑いを噛み殺し、僕は全てに背を向けた。


 夕方に出た会社を横目に通り過ぎ、数分歩くと小さな公園に着いた。遊具はブランコだけで、あとは木のベンチがある、公園とは名ばかりの狭い空き地だ。すぐそこのビルへ毎日通っているのに、存在すら知らなかった。少し不気味に思えたが、僕は力なくベンチに倒れこむと、そのまま木目の温かさに身を預けた。

 シャツの襟元へ手をかけネクタイを緩めながら、大きく息を吐き出す。目に映る夜空は、酷く濁っている。

 どうして、こんなことになってしまったのか。世の中には、僕ら以外にもカップルは山ほどいるのに。何もかも、憂鬱だ。そっと目を閉じて、僅かな騒音と暗闇の中で思ったこと。今日の出来事が、夢ならいいのに――。



「ね、おきて」


 ――ああ、もう朝か? 身体、重たいんだけど……。


「おきてよ、あそぼ?」


 ――何だよ、恵がそんなこと言うなんて珍しいな。子供みたいに。

 瞼も重い。そういえば、何で恵が居るんだろう。確か電車に乗らずに公園に行ったのに。

 まさか、夢だったのか?


「おきてってばぁ、おにいちゃん」


 ――おにいちゃん?


 あまりの心地悪い違和感に、急に軽くなった目を躊躇う暇も無く開く。そこにあった顔は、大人びた端正な恵のものでは無く、見覚えもない幼い少女の笑顔だった。


「なっ……!」


 言葉にならず飛び起きると、咄嗟に辺りを見渡した。目の前に佇むちっぽけなブランコ。夢では無い。


「おにいちゃんだれ?」


 暗闇に溶けそうな黒髪をなびかせて、遠慮もなしにスーツの袖をクイッと引っ張ってきた。


「ね、ヒカリとあそぼ」


 これだから子供は嫌いだ。だれかれ構わず馴れ馴れしくて、こっちが扱いに困る。


「ヒカリ? お前の名前か。遊ばないから、とっとと帰れ」


 首をならし軽く背を伸ばすと、背中にシャツがべったり張り付く。嫌な汗をかいた。心なしか寒気もする。目の前で首をもたげる少女の足元を何度も確認した。


「ヒカリ、ユーレイじゃないよ」


 ギクリとした。ゆっくり少女の顔へ目線を移せば、不愉快そうに僕を眺める痛い視線にぶつかった。女はいくつだって勘が鋭いのか。


「だからあそぼ?」

「何でそうなるんだよ。一人で遊べよ、つーか帰れ」


 肩を落とす少女を前に、少し言い過ぎたかとも思ったけれど。そんな事はすぐにどうでもよくなった。そもそも、このヒカリという名前しか知らない少女に、僕が優しくしてやる義務などないのだ。僕はそんなにお人よしでもなければ、嫌いな子供の相手をするほどの余裕もない。

 とにかく今は、誰にも構われたくない。子供なら、なおさらに。



 あの時。電話越しに伝えられた言葉を受け入れる事ができなかった。

 あまりに冷静な恵の口ぶりが、余計に現実味を欠いていたし、まさか自分達にこんな事態が起こるなんて、この五年間、想像もしていなかったのだ。


「嘘だろ?」


 同意を求めるように呟いた一言に、恵もまた一言だけでそれを否定し、さらに続けた。


「こんな嘘、私が言うと思う?」


 解っている。恵はそんな冗談を言える女ではない。もしも恵が、今のは冗談よ、などと言えばきっと彼女に失望していただろう。


 やっとありつけた昼食のカレーが喉を味気なく通り過ぎる。午前中の営業回りでくたくたになった体がさらに重く、社員食堂のいつもと変わらない光景が、途端にぐわんぐわんまわり始め、気の遠くなるような目眩に暫く動けなかった。


「とにかく、その、帰ったらちゃんと聞く」


 そう言うのが精一杯で、恵はそんな僕に諦めたような口調で、だからメールでそういったのに、と溢した。



 薄暗い園内に、懐かしい音が響く。錆びた金属がきしんで鳴くような、そんな音。ふと顔をあげれば、地に着かない足を遊ばせてブランコを揺らすヒカリがいた。

 古いブランコをキィキィ鳴らすヒカリの視線は、真っ直ぐに夜空へと向けられている。澄んだ大きな瞳を輝かせ、何がそんなに嬉しいのか、無邪気に微笑んで。焦がれるように送る視線は、何もない天上へ注がれていた。


 少しだけ、胸が痛くなる。


「おにいちゃん、お星さまきれいだよ」

「そう」


 空を見上げる動作など、もちろんしないまま適当に返す。そのうちつまらくなって、帰ってくれるだろう。それが一秒でも早く実現することを祈る。

 けれどヒカリはブランコから降りようともせず、さらに大きく足を揺らし相も変わらず空へ視線を送っていた。


「おにいちゃんも見て?」


 ヒカリはその瞳のまま僕を見た。ヒカリの煌くそれが、やけに勘に触る。その視線から、外れたくなる。


「星なんか見えるわけないだろ」 

「見えるもん。ほら、すっごくきれいだよ」


 僕はじっとベンチに座ったまま、腹の前で組んだ自分の両手を見つめていた。


「ねーえ、おにいちゃん! きれいだよ?」


 幼く甘ったるい声が、直接神経に響いてくる。


「悪いけど、そんな気分じゃないから」


 頼むから、そっとしておいてくれ。何でもない事に、はしゃぐのはやめてくれ。


「なんでぇ? きれいなのに!」

「煩いんだよ! ひとりで見てればいいだろ? わざわざ俺を巻き込むな!」


 ヒカリの顔が曇っていく。力を失ったブランコが、鳴き声に余韻を残してゆっくり止まった。今度こそ言い過ぎた。じわりじわりと歪んでいくヒカリの表情に、何とも言えないバツの悪さを覚えてしまう。

 けれど僕は、優しくなどなれない。優しくなんて、してはならない。

 だって僕は、恵を独りにしてしまった。恵が言った僕らの現実に、自分だけ背を向けて今ここに居る。もう後戻りはできないんだ。今さらこんな気持ちを抱けない。

 ヒカリに――、子供に。優しい気持ちなど、抱く権利はないのだ。

 

「俺は子供が嫌いなんだ。いらないんだよ、子供なんて!」


 きっと恵は、知っていたんだと思う。彼女は頭が良いから、例え電話越しでもきっと気づいたに違いない。

 二人の間に授かった子供を、僕が望んでいないということに。


――赤ちゃんができたの。


――嘘だろ?


 咄嗟に出た否定に値するそれに、恵を襲った感情はどんなものだったのか。今頃、何を抱いて僕を待っているのか。解るはずなどないのに、情けない胸はそれでも痛みを感じている。


「おにちゃん?」


 自分の両手がぼやけて見える。瞼が熱くなる感覚など、いつ振りに味わっただろう。近くなったヒカリの声に頭も持ち上げられず、涙は重力に従って落ちていく。


「泣かないで」


 自分だって、今にも泣いてしまいそうな声じゃないか。

 ふと頭に温かい感触がして、それは小さな範囲で何度も僕の髪を撫でた。よしよし、と言わんばかりに繰り返され、やっぱり少し、胸を締め付ける。


 なぜそんなに素直な行動ができるのだろう。たった今、自分に大声を放った人間に、なぜ優しくできるのだろう。なぜ、そんなに純粋でいられるのか。

 ヒカリが見せる純粋さに触れるたび、本当は心の一番深い場所で、それを愛しく思っていたのに。それを認めたくなかった。同時に気づく自分の愚かさを、受け入れられる強さが無くて。


「ごめん。ごめんな、ヒカリ」


 目線の高さに在るヒカリの頬に、できるだけ優しく触れてみる。見た目よりも、うんと柔らかい。それを受けたヒカリがくすぐったそうに笑うから、つられて笑った僕の顔は、恵に向けるそれと一緒だったと思う。

 すぐにヒカリは背を向け、先程まで自分が揺らしていたブランコへ再び駆けていった。ヒカリを乗せたブランコは、奏でる音とは裏腹に軽快に風を切っている。


 僕は変わらずベンチに座ったまま、ゆっくり空を見上げてみた。薄っすら掛かる雲の向こう、欠けた月が顔を覗かせている。汚染された空気が邪魔をして、月明かりはもちろん、星の光など届かない。

 星などみえないと、あんなに否定したのは自分じゃないか。それを目の当たりにして、どうして落ち込む必要があるのか。


「あのね、暗くてもお星さまはみえるんだよ」

「え?」


 僕の様子に気づいたのか、それともただのおしゃべりなのか。それでも僕は、ヒカリの言葉に耳を傾けた。


「曇っていても、空気が汚れていても。お星さまはちゃんと見えるんだよ。ちゃんと光ってるんだよ」


 騒音すら聞こえなくなった静寂の中で、ヒカリの声がブランコの音と共に響く。


「あれはね、命の光だから」


 命の、光?


「お星さまも生きてるんだよ。晴れてても見えないお星さまもいて、それはすごく小さくしか光っていないけど、いつか見つけてもらえるようにずっと向こうで光ってるんだ。光が届く日を待ってるの」


 いつしか僕は、首が痛くなるほどに夢中で天上を仰いでいた。何秒か目を凝らしていると、小さな小さな星を見つけた。

 星の光を僕らが見つける頃、その星はもう、宇宙に存在していないかもしれない。そんな授業を、恵と出会った頃に受けた気がする。


「命の光なの。精一杯輝いた、命の光」


 もしもあの小さな光が、遥か遠くの宇宙で今は存在していなくとも。今この瞬間に僕らの瞳に映っている光は、何百年もの時を経て、あの星が精一杯に生きてた証を伝える為のもの。

 ヒカリが繰り返す、命の光という言葉は、そういう意味なのだろうか。例え本人が難しい事を解っていなくとも、僕にはそう聞こえてならなかった。


 それから、僕らは互いにベンチとブランコで空を見上げ、汚れた空気の向こうに在る命の光を探していた。 


「なぁヒカリ。お前の親、心配しているんじゃないか」


 今さらながら不意に気になって尋ねた。


「ヒカリにはパパもママもまだいないよ」

「まだ?」


 優しく微笑むヒカリは、ブランコから身軽に飛び降り、僕の様子を伺うように頷いた。


「まだ。ずっと待ってたの。やっとママが見つけてくれたんだけど、パパはまだなの」


 その言葉の意味が、よく解らない。ただ、こちらに歩いてくるその足取りと声が震えている事だけは、はっきり解る。

 ヒカリに駆け寄ろうと、立ち上がった瞬間。僕の体は途端に言う事を聞かなくなり、脱力してベンチに崩れ落ちた。


「ずっと待ってたんだよ」


 体が動かない。ヒカリの言葉の意図も解らないまま。


「お星さまみたいにね、いっぱい輝いてみんなに見てもらう日を待ってたんだ」


 ヒカリの表情が悲しみに歪んでいく。大人になればきっと綺麗な女性になるんだろう。恵の泣き顔にどこか似ている気がして、訳も解らないのに胸が騒ぐ。


「待ってたんだけど……」


 暗闇の中はっきりしない視線の先で、ヒカリがとうとう溢れた涙を、不器用に自分の手の平で拭っている。その景色さえ色を失くしてく。


「パパ……パパはヒカリに会いたくないの?」

「ヒカリ、お前……」


 言い終わるより早く、僕は力を絞り出して小さな彼女を抱きしめていた。


 この腕の中にある温もりと感触を、幻になどしたくはない。

 腕の中で泣きじゃくるヒカリの髪に、僕は何度も頬をすり寄せた。あやす方法も、なだめてやる方法も、上手くは解らないから。霞む景色の中で、ただヒカリの温もりを抱きしめていた。

 僕が最後に見たものは、何も無い真っ白な世界に差し込む眩い星の光と、泣き笑いのヒカリの顔だった。



 次に目を覚ました時、僕はあまりの騒音に耳を塞いだ。


 重く響く音と、金属が悲鳴をあげるようなけたたましい音が、聴覚を奪う。

 目の前を急わしなく流れるのは、一方向へ向かって歩く人の群れと、それを運んできた何台もの列車。

 僕は、見慣れた、いや、何度も訪れ慣れたいつもの駅のホームで、ベンチの上に横たわっていた。頭上からは、朝日の光がホームのアーケードから漏れている。


「何で……」

「何で、じゃないわよ!」


 勢いよく飛び起きる。立ちくらみに似た感覚の向こうに、息を切らした恵が珍しく怒りを露にして立っていた。ご丁寧に、腰に手をあてそれを強調しているように思える。


「帰って来ないし、携帯繋がらないし! 会社に泊まったのかと思って向かったら、どうして駅で寝てるのよ!」


 人目も気にせずそう叫びながら、何度も地面をヒールで踏みならす。


「お前こんな靴履くなよ、転んだりしたらどうするんだよ!」


 情けない声で怒鳴ると、恵の腹に手をやった。膨らみもない、何の変化も無いここに、確かに命が宿っている。

 急に静かになった恵は、驚いたような表情を僕に向け、それでも泣きそうな顔をしている。あの少女に似ていた。


「ごめんな。赤ちゃんのこと……」

「私、産むからね」


 僕の言葉を遮って、恵は誇らしげに言った。


「私を選んでくれたの。絶対に産むわ」


 やっぱり、ヒカリに似ている。恵の瞳は、星を見上げるヒカリのあの輝きと同じように煌めいていて。僕は思った。恵は、ヒカリを見つけたのだ。命の光を見つけたのだ。


「これから忙しくなるな。俺も頑張って働かなきゃ」


 伸びをして、恵に目配せをした。鳴り響くベルの音を合図に、恵は声を堪えながら静かに泣いた。


「そうだ、名前。俺がつけてもいい?」


 アーケード越しに天を仰いで、太陽の日差しに眉をしかめながら呟く。


 今は見えなくとも、どこかで輝いているであろう命の光に、あの少女を重ねて。


 完

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 感動しました(TωT)!! 感情移入しちゃって、全く予想してなかった展開にやられましたww ただ読点の打ち方や日本語表現でちょっと読みにくかったり・・・ いや、気のせいです!!
2012/05/05 09:33 退会済み
管理
[一言] 初めて読ませて頂きました。 私も非現実的設定を含んだ命小説を書いたのですが、展開の仕方が上手いなと勉強になりました! ラストが少しあっさりしている気もしましたが、読後感がとてもよかったです。…
[一言] 読了しました。 ラスト、恵が泣くのが突然過ぎるような印象を受けました。 もう少し、主人公の発言に対しての描写が欲しかったです。 凄く丁寧に書かれていた中盤までに比べて、最後はサラっと終わって…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ