【短編小説】嘘つき
ホテルの窓を開けると潮の匂いが部屋に流れ込んできた。
埃と虫の死骸で目の詰まった網戸の向こう、何も見えない闇の中で、波が寄せたり返したりしている音が聞こえる。
おれは網戸を固定する金具を外しながら、胸いっぱいに吸い込んだ潮の匂いは微生物の死骸が発するものだと言うことを思い出した。
いま、おれの肺は微生物の死骸でいっぱいなのだ。取り外して洗いたい気持ちになったが、金具が取れたので気持ちを切り替えた。
敷かれた布団に荷物を詰めて電気を消す。
「ワザとらしいな」
声が出るほど嘘っぽい偽装だ。
枕元に読書灯を点けて、急須と湯呑みもセットする。灰皿に火をつけたばかりの煙草を置くと、少しはマシに見えた。
「よし」
戸締まりも指差し確認をして、ようやく網戸を窓から外し、雨樋の留め具やベランダを伝ってに降りた。
砂利や鳴り石じゃなくて良かった。
戻る時はどうするか考えていなかったが、まぁ何とかなるだろう。早朝に散歩したとでも言い訳すれば部屋には戻れる。後は……問い詰められる前に逃げればいい。
薄明かりの付いたままになってる入り口から中の受付カウンターを見てみたものの、誰も立っていなかった。
そりゃあそうだ。
今夜は誰しもが部屋に引きこもっている。
──誰も見てはいけない神事を見てきてくれ。
まるで悪ガキのイタズラみたいな取材依頼だったが、前払いの金も悪く無かったし興味も湧いたので引き受けた。
聞いた事もない名前の町だった。適当に選んだ民宿は雰囲気があった。
「お仕事は何をされてるんですか?」
年季の入った民宿の婆は歓迎の態度が全く無い笑顔で俺に訊く。
当然だ。誰が見ても怪しさ満点の男が神事の直前に来た訳だからな。
おれは無知蒙昧な都会者の顔で「売れないラーメン屋をやってましてね、食材探しの旅に来たんです」と答えた。
婆の奥で爺が鼻を鳴らした。
そりゃあそうだ、納得なんかできる訳が無い。おれが爺の立場でも同じ感想を抱くだろう。
だが作家志望などと答えれば神事の取材を疑われて見張られるだろう。他に適当な言い訳が思いつかなかったのは、社会経験の無さだ。情けない話だが。
そんなやりとりを思い出しながら、遮音ケースに入れたカメラで周囲を撮影して回る。
住宅の門に置かれた餅だとか、玄関アプローチを模るかの様に置かれた石など、昨日までは目にしなかったものが多数あった。
それぞれに何かの意味があるのだろう。
あまりそう言った方面に詳しくないが、この仕事が終わったらその手の取材に回ってみるのも面白いかも知れない。
そもそも何故おれにこの取材を回したのかを何度か考えてみたが、オカルト好きだと”掛かる”からだろうと結論付けた。
駅から東西に伸びる幹線道路──と言っても二車線程度の狭いものだが──を山に向かって歩く。
目的は中腹にある神社だという話だった。
うるさい程の静けさが耳に詰め込まれる。
「窒息しそうな静けさかもな」
と独り言ちる。
おれも案外とビビり上がっているのかも知れない。
それは本当に誰もいないからだ。
何も存在しない。気配が無い。
野良猫や野良犬もいないし、鴎だとか鴎が路肩に落とした鰯を目当てに飛び回る蝿すらいない。
まるでこの世界で独りになってしまった気がする。
だが、そんな訳は無い。
さっきまで民宿には婆も祖父もいた。
近くの民家にだって灯りはついてた。
今夜が異常なのだ。これからその異常を見に行くのだ。それがおれの仕事だ。
硬く冷たい感触が靴下ごしに足の裏まで伝わる。むかしの家出を思い出して微笑んだ瞬間に緊張が走って身体が固まった。
光が揺れた気がする。
民家の影に身を潜めて様子を伺った。
錫杖か、それとも鈴か。
とにかく金属の何かが揺れてぶつかり合う音が聞こえる。何かがこちらに向かってきている。
「少し遅かったか」
山の中腹にある神社からはすでに出てしまっていたらしい。
仕方ない。街に降りてくるなら、その様子を写真に収めよう。
慣れない山では物音を立ててしまうと言う言い訳をして自分を落ち着かせた。
呼吸を潜めて見ていると、松明を持って先導する男たちの後ろを奇妙な被り物をした男が続いて歩いていた。
「一人じゃないのか?」
誰も見てはいけないというから、てっきり一人でやっている神事だと思った。
松明男の後ろで、神職の様な格好をしているが頭に黒く巨大な筒を被っており、それがゆっくりと左右に揺れている。
恐らくあれが本命だろう。
それを追うように、後ろ歩きをした二人の男たちがいた。
「確かに見てはいないな」
遮音ケースに収まったカメラの音でさえ聞こえるんじゃないかと思った。
本命の被り物男はまるで大風に煽られる木のようだった。
男たちはおれに気付かず、そのまま真っ直ぐに通りを歩いて行った。
じゃりん、と言う音が遠ざかる。
おれはその場を動けずにいた。
「ハハ……参ったね……」
背後から、錫杖か鈴の音が聞こえた。
いくつもいくつも連なったそれは、恐らく、真っ直ぐにおれを目指していた。




