表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

波間に立つ灯火

作者: 海鳴雫
掲載日:2025/11/08

速見翔太が佳織と再会したのは、十一月の終わり、海沿いの小さな町だった。

 北風が港の防波堤を叩き、鈍い音を立てていた。潮の匂いが濃く、冬の海はもう、夏の観光客の賑わいなど跡形もなかった。


 駅前のバス停で降り立った翔太は、ポケットから古びた手紙を取り出す。差出人の名は「水上佳織」。大学時代の恋人であり、そして五年前に突然姿を消した女性だった。


 ——「もし、あの頃のことをまだ覚えているなら、十一月の最初の金曜日、灯台の前で会いたい。」


 手紙の末尾にそう記されていた。差出日は二週間前。

 宛先の住所は、かつて二人が通った大学の文芸部宛。翔太は今、その部のOB会の連絡係をしていた。だからこそ、この手紙が彼の手に届いたのだ。


 「……あの子、どうして今になって……」


 潮風に髪を揺らしながら、翔太は防波堤の先に見える白い灯台を見つめた。

 佳織はあの町で生まれ育った。海辺のカフェでアルバイトをしていた彼女は、詩を書くことを好んだ。大学の文芸部では、いつも彼女の詩だけが空気を変えた。どこか痛みを孕んでいて、それでいてやさしかった。


 ——「私ね、波って、人の心に似てると思うの。」


 そう言って笑っていた彼女の横顔を、翔太はいまだ鮮明に覚えていた。



 午後三時、灯台へ続く坂道を登る。

 海面は鉛のように鈍く、空の色をそのまま写していた。

 灯台の前には、古びたベンチがひとつ。そこに、佳織がいた。


 彼女は以前より少し痩せていたが、その瞳は変わらなかった。

 翔太を見ると、少し驚いたように笑った。


 「……来てくれたんだね。」


 「手紙をもらって、驚いたよ。まさか君から連絡が来るなんて。」


 「うん、私も、書くかどうかずっと迷ってた。でも、今しかないと思って。」


 佳織は膝の上に置いたスケッチブックを閉じ、海を見つめた。

 風に髪が揺れる。潮の香りと一緒に、あの頃の空気が蘇る。


 「五年前、何も言わずに消えたよね。あれから、どうしてたんだ?」


 翔太の声には、責める響きがあった。けれど、それを自分で抑えきれなかった。

 佳織は小さくうなずく。


 「ごめん。……あのとき、父が倒れたの。急に。

  それで、地元に戻って、看病してた。大学も辞めちゃって。」


 「そうだったのか……でも、手紙の一通でもくれればよかったのに。」


 「うん。わかってた。でも、翔太くんの夢、邪魔したくなかったの。」


 翔太は苦笑した。

 大学を出てから、彼は映像制作の仕事に就いた。学生時代から映画を撮っていた彼には、それが夢だった。だが現実は厳しく、仕事は次第に数字ばかりを追うようになり、情熱を失いかけていた。


 「夢なんて、もう遠いよ。今はただ、締切と上司の顔ばかり見てる。」


 「……そっか。」


 佳織の横顔に、ほんの一瞬、寂しげな色が差した。

 翔太はその顔に、五年前の笑顔を重ねる。



 日が傾き、灯台の光がゆっくりと点った。

 その瞬間、佳織が立ち上がり、スケッチブックを開いた。


 そこには、鉛筆で描かれた海の絵があった。

 波のひとつひとつが、光を宿すように細かく描かれている。


 「これ、見てほしかったの。」


 「君が描いたの?」


 「うん。詩も、もう書けなくなってね。でも、代わりに絵を描くようになった。

  この絵、灯台から見た波の記憶。——父が亡くなる前の日の。」


 翔太は息をのんだ。

 佳織は静かに微笑み、続けた。


 「人って、いなくなっても、波みたいに何かを残していくんだと思う。

  言葉とか、声とか、手の温度とか。……翔太くんも、私の中に残ってる。」


 灯台の光が佳織の頬を照らす。

 その光に滲む涙が、まるで海と溶け合っていた。



 「佳織、君はこれからどうするんだ?」


 「もうすぐ、町を出るよ。母の知り合いの画廊で、作品を手伝えることになったの。

  だから、最後にもう一度、翔太くんに会いたかった。」


 翔太は何かを言いかけたが、言葉にならなかった。

 彼の中で、過去と現在が複雑に絡み合っていた。


 佳織はスケッチブックから一枚の紙を破り、翔太に差し出した。

 それは波を描いた小さなデッサンだった。

 鉛筆の線が柔らかく、どこか温かい。


 「この波、翔太くんにあげる。

  また何かを作りたいと思ったとき、これを見て。」


 「……ありがとう。」


 佳織は微笑み、手を振った。

 翔太はその背中を見送るしかなかった。

 夕陽が沈み、空と海の境が消えていく。佳織の姿も、やがて波の向こうに溶けた。



 夜。翔太は町の小さな宿に泊まった。

 窓の外では、灯台の光が一定のリズムで瞬いていた。

 机の上に置いたスケッチを見つめる。波の線が、まるで呼吸のように見える。


 ——「人って、いなくなっても、波みたいに何かを残していく。」


 その言葉が胸の奥に響いた。

 翔太はノートパソコンを開く。

 何ヶ月も触れていなかった映像編集ソフトを起動した。

 ファイル名を「Wave」と打ち込む。


 そこから流れ出すのは、五年前に撮ったフィルムの断片だった。

 佳織が笑っている映像。風に髪をなびかせ、カメラに手を伸ばしている。

 その笑顔を見た瞬間、翔太は静かに泣いた。

 ——けれど、その涙はどこか温かかった。


 外では波が絶え間なく寄せては返す。

 灯台の光が部屋の壁をかすめるたびに、翔太は少しずつ前に進む勇気を取り戻していった。



 翌朝、翔太は海辺に立っていた。

 夜明けの光が水面を黄金色に染めていく。

 潮風は冷たいが、心の奥には小さな熱が灯っている。


 佳織はもういない。けれど、彼女が残した波の絵がある。

 あの言葉がある。

 翔太はポケットからその紙を取り出し、朝の光に透かした。

 鉛筆の線が柔らかく揺れ、まるで生きているように見えた。


 「……ありがとう、佳織。」


 彼はカメラを構えた。

 ファインダーの向こうで、朝の海がきらめく。

 新しい映像が始まる瞬間だった。



 灯台の光は今日も、静かに波間を照らしている。

 それはまるで、失われたものたちの記憶を導く小さな灯火のように。

 翔太はその光の下で、再びシャッターを切った。


 ——そして、その音は確かに、海の波音と重なっていた。


読んでくださりありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ