波間に立つ灯火
速見翔太が佳織と再会したのは、十一月の終わり、海沿いの小さな町だった。
北風が港の防波堤を叩き、鈍い音を立てていた。潮の匂いが濃く、冬の海はもう、夏の観光客の賑わいなど跡形もなかった。
駅前のバス停で降り立った翔太は、ポケットから古びた手紙を取り出す。差出人の名は「水上佳織」。大学時代の恋人であり、そして五年前に突然姿を消した女性だった。
——「もし、あの頃のことをまだ覚えているなら、十一月の最初の金曜日、灯台の前で会いたい。」
手紙の末尾にそう記されていた。差出日は二週間前。
宛先の住所は、かつて二人が通った大学の文芸部宛。翔太は今、その部のOB会の連絡係をしていた。だからこそ、この手紙が彼の手に届いたのだ。
「……あの子、どうして今になって……」
潮風に髪を揺らしながら、翔太は防波堤の先に見える白い灯台を見つめた。
佳織はあの町で生まれ育った。海辺のカフェでアルバイトをしていた彼女は、詩を書くことを好んだ。大学の文芸部では、いつも彼女の詩だけが空気を変えた。どこか痛みを孕んでいて、それでいてやさしかった。
——「私ね、波って、人の心に似てると思うの。」
そう言って笑っていた彼女の横顔を、翔太はいまだ鮮明に覚えていた。
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午後三時、灯台へ続く坂道を登る。
海面は鉛のように鈍く、空の色をそのまま写していた。
灯台の前には、古びたベンチがひとつ。そこに、佳織がいた。
彼女は以前より少し痩せていたが、その瞳は変わらなかった。
翔太を見ると、少し驚いたように笑った。
「……来てくれたんだね。」
「手紙をもらって、驚いたよ。まさか君から連絡が来るなんて。」
「うん、私も、書くかどうかずっと迷ってた。でも、今しかないと思って。」
佳織は膝の上に置いたスケッチブックを閉じ、海を見つめた。
風に髪が揺れる。潮の香りと一緒に、あの頃の空気が蘇る。
「五年前、何も言わずに消えたよね。あれから、どうしてたんだ?」
翔太の声には、責める響きがあった。けれど、それを自分で抑えきれなかった。
佳織は小さくうなずく。
「ごめん。……あのとき、父が倒れたの。急に。
それで、地元に戻って、看病してた。大学も辞めちゃって。」
「そうだったのか……でも、手紙の一通でもくれればよかったのに。」
「うん。わかってた。でも、翔太くんの夢、邪魔したくなかったの。」
翔太は苦笑した。
大学を出てから、彼は映像制作の仕事に就いた。学生時代から映画を撮っていた彼には、それが夢だった。だが現実は厳しく、仕事は次第に数字ばかりを追うようになり、情熱を失いかけていた。
「夢なんて、もう遠いよ。今はただ、締切と上司の顔ばかり見てる。」
「……そっか。」
佳織の横顔に、ほんの一瞬、寂しげな色が差した。
翔太はその顔に、五年前の笑顔を重ねる。
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日が傾き、灯台の光がゆっくりと点った。
その瞬間、佳織が立ち上がり、スケッチブックを開いた。
そこには、鉛筆で描かれた海の絵があった。
波のひとつひとつが、光を宿すように細かく描かれている。
「これ、見てほしかったの。」
「君が描いたの?」
「うん。詩も、もう書けなくなってね。でも、代わりに絵を描くようになった。
この絵、灯台から見た波の記憶。——父が亡くなる前の日の。」
翔太は息をのんだ。
佳織は静かに微笑み、続けた。
「人って、いなくなっても、波みたいに何かを残していくんだと思う。
言葉とか、声とか、手の温度とか。……翔太くんも、私の中に残ってる。」
灯台の光が佳織の頬を照らす。
その光に滲む涙が、まるで海と溶け合っていた。
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「佳織、君はこれからどうするんだ?」
「もうすぐ、町を出るよ。母の知り合いの画廊で、作品を手伝えることになったの。
だから、最後にもう一度、翔太くんに会いたかった。」
翔太は何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
彼の中で、過去と現在が複雑に絡み合っていた。
佳織はスケッチブックから一枚の紙を破り、翔太に差し出した。
それは波を描いた小さなデッサンだった。
鉛筆の線が柔らかく、どこか温かい。
「この波、翔太くんにあげる。
また何かを作りたいと思ったとき、これを見て。」
「……ありがとう。」
佳織は微笑み、手を振った。
翔太はその背中を見送るしかなかった。
夕陽が沈み、空と海の境が消えていく。佳織の姿も、やがて波の向こうに溶けた。
⸻
夜。翔太は町の小さな宿に泊まった。
窓の外では、灯台の光が一定のリズムで瞬いていた。
机の上に置いたスケッチを見つめる。波の線が、まるで呼吸のように見える。
——「人って、いなくなっても、波みたいに何かを残していく。」
その言葉が胸の奥に響いた。
翔太はノートパソコンを開く。
何ヶ月も触れていなかった映像編集ソフトを起動した。
ファイル名を「Wave」と打ち込む。
そこから流れ出すのは、五年前に撮ったフィルムの断片だった。
佳織が笑っている映像。風に髪をなびかせ、カメラに手を伸ばしている。
その笑顔を見た瞬間、翔太は静かに泣いた。
——けれど、その涙はどこか温かかった。
外では波が絶え間なく寄せては返す。
灯台の光が部屋の壁をかすめるたびに、翔太は少しずつ前に進む勇気を取り戻していった。
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翌朝、翔太は海辺に立っていた。
夜明けの光が水面を黄金色に染めていく。
潮風は冷たいが、心の奥には小さな熱が灯っている。
佳織はもういない。けれど、彼女が残した波の絵がある。
あの言葉がある。
翔太はポケットからその紙を取り出し、朝の光に透かした。
鉛筆の線が柔らかく揺れ、まるで生きているように見えた。
「……ありがとう、佳織。」
彼はカメラを構えた。
ファインダーの向こうで、朝の海がきらめく。
新しい映像が始まる瞬間だった。
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灯台の光は今日も、静かに波間を照らしている。
それはまるで、失われたものたちの記憶を導く小さな灯火のように。
翔太はその光の下で、再びシャッターを切った。
——そして、その音は確かに、海の波音と重なっていた。
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