9.知らないでは許されない
──松田一家本邸 応接室・昼
応接室の扉が、再びノックもなく静かに開く。
入ってきたのは諏訪潤。
手には一枚の紙を携えている。
「立石様、先ほどのご発言に関する件でございます」
諏訪は恭しく頭を下げ、悠吏の了承を得るように一瞥し、ゆっくりと紙を卓上へ置いた。
立石はなんだ?とその紙に視線を落とす。
そして目が見開かれる。
そこには丁寧な書式で、絶望的な文字が並んでいた。
迷惑料請求書
名目:彩華町裏通りの秩序破壊及び治安崩壊への加担意図
金額:一億円
立石の喉が、からりと鳴る。
「な、なんだこれは…なんの冗談だ……?」
諏訪は柔らかな微笑みを浮かべたまま、首を横に振る。
「冗談ではございません。裏通りを“掃除する”と発言なされた。彩華において、それは外敵の宣戦布告に等しい言葉でございます。私どもにその掃除を協力させようとした。間違いありませんよね、それの“迷惑料”です」
あくまで淡々と、柔らかく。
だからこそ、その言葉は重く刺さる。
立石は顔面蒼白になり、震える指で紙を持つ。
「ふざけるな……払えるわけ――」
その瞬間、隣で秘書がため息混じりに低い声で呟いた。
「当然ですよ、先生。“裏通りを掃除する”など、ここでは最悪の禁句ですから」
立石は驚愕に目を見開く。
「おい、どういう意味だ……お前、知っていたのか?」
秘書は深く一礼し、静かに告げる。
「…申し遅れました。私は彩華の生まれでございます」
室内の空気が一段階、静まり返った。
悠吏の瞳が、興味深そうに細められる。
「なぜ先にこの人に教えてあげなかったの?」
秘書は胸の前で手を組み、微笑を崩さない。
「先日忠告はしました。“ここでは裏通りと軽々しく言葉にしないでください”と。ですが先生は聞き流してたみたいです」
立石の顔は羞恥と恐怖で歪む。
「て、てめぇ!なんでだ、それならもっとちゃんと……!」
秘書は真っ直ぐ立石を見つめ、感情を感じさせぬ声で言う。
「先生は彩華を侮辱する方、そんな人の味方はできません」
その言葉は、処刑宣告にも似ていた。
悠吏は扇子を軽く口元へ添え、優雅に笑う。
「彼は正しいですよ、立石さん。この町では、礼を欠いた者が代償を払う。それだけのことです」
立石の喉が詰まり、何も言えない。
彼の視界は揺れ、手の震えは止まらない。
呼吸すらままならない。
諏訪が穏やかに補足する。
「なお、お支払いは本日中に。拒否された場合は……彩華の作法にて対処いたします」
“彩華の作法”
その一言で、立石の足が崩れかける。
冷たく、静かで、抗えない力がここにはある。
それをようやく理解したのだ。




