3.おじいちゃん先生
――松田一家本邸 玄関・夜
玄関先に、夜の闇を引き付けるように影がゆらりと騒めく。
司銀次。
白い髭を整え、やや濁った瞳に油断のない光を宿す老人がゆっくりとした足取りで現れる。
本邸の空気が、はっきりと変わる。
「銀次先生、お待ちしておりました。」
出迎えたのは中井。
背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げる。
銀次はわずかに頷き、杖代わりの黒い傘を軽く地面に突いた。
「顔を上げな、坊。……さて、その子はどこだい」
「こちらです」
二人は並んで廊下を進む。
松田本邸の空気は、外の喧噪を完全に遮断した静寂が包む。
古い木材の香りと、薄く焚かれた白檀の匂いが漂う。
客間の襖が開くと、天音と成未が座し、その前に横たわる小さな影。
薄い毛布に包まれ、息も浅い。
銀次は黙って膝を折り、子どもの隣に座り頬に手を添えた。
指先は驚くほど優しい。
「スープを先に与えたのか。いい判断だね」
天音が小さく頷く。
「まだそれしか飲めていません」
「それでいい。喉も、胃も、身体も……すっかり枯れていたろうに」
銀次は子どもの手首を握り、脈を測る。
ゆっくり、長く。
「極度の脱水と栄養不足だ。時間をかけりゃ戻る」
場の空気がゆるみかけたその瞬間、銀次が目を細めた。何かに気がつくように。
「…他に、気になることは?」
銀次の問いに応じたのは、天音。
「声が出せないようなのです」
成未が不安げに視線を落とす。
銀次の眼光が鋭くなる。
「ほう、それはいかん。どれ、口を見せな」
子どもは弱々しく口を開く。
銀次は口内を見て、それから喉元に指を当てわずかな痕跡と腫れを確かめた。
「ふむ…風邪か、強いストレスだろう。喉が拒絶しとる、こっちも時間が経てば治っていくじゃろ」
成未がほっと息をついた。
「ああ…よかった……!」
しかし天音も中井も、表情を緩めなかった。
銀次は立ち上がり、二人の方へ静かに歩み寄る。
声は小さく、うっすらとした笑みのまま。
「天音ちゃん、坊」
柔らかな声音。
だが中身は鋼のよう。
「年寄りの勘なんぞ外れてくれた方がええ。だがな―」
銀次の目だけが鋭く光る。
「明日、この子をうちへ連れてきな。…うちなら、ちゃんと診られる。」
「……“ちゃんと”ですか?」
天音の問いに、銀次は頷く。
「そうじゃ、ここで“風邪でした”で済ませりゃ楽だが……たまにおるんだよ。声が出んのが、身体のせいじゃない子がな」
中井の手が、無意識に袂へ触れる。
成未だけが気づかず、子どもの毛布を整えている。
銀次は去り際、振り返らずに言った。
「今晩は、その子の傍を離れるなよ。泣き声が出ん子は、助けを呼ぶ術もない」
「玄関までお送りします」
そう言って中井は銀次と客間から出ていく。
足音は静かに、だが存在感だけが重く残った。
客間に、風のない沈黙が落ちる。
天音は子どもの近くに座り直し、そっとその子の頭をなで、瞳を伏せた。
(――どうか、何でもありませんように)




