2.微かな目覚め
月が雲の端から顔を覗かせ始めた頃。
松田一家本邸の客間では、静けさの中に小さなしかしやや荒い呼吸音があった。
白い布団の中で、子どもがゆっくりとまぶたを開く。
見慣れぬ天井、柔らかい灯り、そしてかすかなアロマの匂い。
体を動かそうとするが、腕は重く、思ったように動かせない。
目だけで辺りを見回す。畳の部屋、窓の向こうから月明かりがかすかに見える。
隣には見知らぬ女性が目を見開き、声にならない声を上げ駆け出し、慌ただしい足音を響かせ転がるように出ていく。
――バタン。
転けた音だろうか。それと同時に声する。
「天音さんっ!起きました!あの子、起きました!」
さっきの女性の声と思われる声が廊下に響き渡る。
その勢いに、奥の方から別の女性の声で「静かにしなさい!」と怒鳴る声。
少しすると、襖が静かに開き水色の和服に身を包んだ女性が現れ、その柔らかな瞳が子どもを優しく見つめる。
「……目を覚ましたのね。よかった」
その人の声は、温かく穏やかだった。
まだ生きてると子どもは本能的に感じた。
しばらく経った頃、天音と成未が部屋に入る。
天音は持っていた盆をそっと畳の上に置いた。
「目が覚めたなら、まずは食事ね。話はそれからにしましょ」
盆の上には湯気の立つスープ。
天音は成未を見つめて、柔らかく微笑む。
「あなたが飲ませてあげて。ゆっくりでいいから、焦らずにね」
「……はい」
成未は少し緊張した声で答え、そっと子どもの隣に膝をついた。
優しく子どもを起こし、成未はスプーンでスープを掬い、小さく息を吹きかけスープを冷ます。
「熱くないよ……大丈夫。ゆっくりね」
スープの一口が、震える唇に触れる。
唇が動き、かすかな音を立てて飲み下された。
子どもの目に、ほんの少し光が戻る。
天音はその様子を見守りながら、静かに言葉を落とした。
「生きる力って、こうして少しずつ戻ってくるものなのよ。この子の中にも、まだちゃんと光が残ってる」
子どもはまだ言葉を発せず、ただ天音と成未の姿を目で追っていた。
湯気の立つスープが、ゆっくりと着実と空になっていく。
成未が差し出すたび、子どもは小さな唇で懸命に飲み込む。
その度に胸が上下し、やがて器の底が見えるころには、頬にかすかな血色が戻っていた。
「……えらいね、ちゃんと飲めたね」
成未が優しく微笑み、その子の頭を撫でる。
だが、その瞬間だった。
子どもが何かを言おうと、口を開く。
唇が震え、声を出そうと――しているのか。
しかし、空気が漏れるばかりで音にはならなかった。
焦りが走る。子どもは喉に手を当て、必死に息を吸い込み、口から空気が漏れるだけで声はどこにもなかった。
目に涙が滲み、肩が震える。
「ど、どうしたの?苦しい?痛いの!?」
成未が慌てて身を乗り出す。
傍にあった湯呑みを倒しそうになりながら、必死に子どもの体を支えの顔を覗き込む。
天音はすぐに手を伸ばし、成未の肩を押さえた。
「落ち着いて。……大丈夫、これは――」
天音は子どもの喉元をそっと見つめる。
声を出そうとしても空気しか漏れず、喉が小さく上下している。
息の通りはある。だが、音を作られていない。
「……声帯、かしらね。酷使か、あるいは……傷つけられたのかもしれない」
その声に、成未の目が見開かれる。
「そんな…この子、しゃべれないってこと……?」
天音は静かに首を横に振る。
「今は“出せない”だけじゃないかしら。時間をかければ、戻るかもしれない。でも何か、深い理由があるんじゃないかしら。心か、身体か……どちらか、あるいはその両方か」
子どもは涙をこぼしながら、何かを必死に伝えようとしていた。
声は出ない。
ただ、震える唇が言葉の形を作る。
天音はそれを見て、目を細める。
「“ごめんなさい”……そう言ってるのね」
成未の胸に、熱いものがこみ上げる。
「謝ることなんてないよ……! 大丈夫、もう怖くないから……!」
その声に子どもの目が揺れ、頬を伝う涙が畳に落ちた。
――静かな夜の中、
言葉にならない声が、確かにそこに響いていた。




