五輪延期の悲劇
数年前まで俺は某イベント会社に勤めていた。
そこでの出来事を懺悔したいと思う。
いわば俺が犯した許されない罪の告白だ。
俺が勤務していた会社は、イベント会社と言っても零細企業だったので、従業員は4名程度、俺の直属の上司は専務だった。
しかも、その専務は社長の奥さんという家族経営の典型的なパターンだった。
ただ、彼女の能力が低いわけでは断じてない。
むしろ、社長夫人でありながら、彼女こそが会社を支えていると言っていいほどの才女だった。
国士館出の俺とは出来が違い、早稲田のインテリ。
おまけに、キー局のアナウンサーだと言われても誰もが信じるであろう、怜悧な美貌の持ち主だ。
彼女の性格を一言で表すなら、「完璧主義」が最も近い。
その日も、俺がタイムカードを押した瞬間、彼女は血相を変えてデスクから立ち上がった。
時計の針は、始業時間をわずか3分、過ぎていた。
「吉田君!」
陰で業界の人達からその美貌と冷たい雰囲気から「アイスドール」とまで言われている、本当に氷のように冷たい声に、俺は「またかよ」と内心で悪態をつきながら身構える。
「……あ、はい」
「〇通でどんなヘマをしたの? 村松さんから物凄い剣幕でクレームが入ったわよ!」
「へ?」
まったく、身に覚えがなかった。
「理由はどうあれ、先方を怒らせたのは事実よ。すぐに謝罪に伺いなさい!」
俺は、訳が分からないままタクシーに押し込まれ、汐留にある〇通の本社ビルへと向かった。
応接室で待っていた村松さんは、俺が腰を下ろすや否や、にやりと笑った。
「まあ、君にとっても悪い話じゃない」
その言葉で、俺はこれが単なるクレーム処理ではないことを悟った。
「オリンピックだけどさ、やっぱり延期になるらしいよ」
「あ、はい……」
それがなぜ、俺にとって良い話なんだ? 俺の疑問を読み取ったように、村松さんは続けた。
「葵のこと、抱いてみたいって言ってなかったか。前に飲んだ時」
「な、なにを……!滅相もございません!」
心臓が口から飛び出るかと思うほど、慌てた。
確かに言った。酔った勢いで、一度だけ。
何を隠そう、俺の毎晩のオカズは葵さんだった。
あのクールな美貌が俺のモノを咥え、乱れる姿を想像するだけで、意識が飛びそうになる。
「まあ、落ち着けよ」
村松さんは、身を乗り出して声を潜めた。
「君んとこの会社、オリンピック関連で相当ヤバい勝負に出てるの、知らないだろ?」
村松さんの話を要約すると、こうだ。
うちの社長と葵さんは、会社の金、いや、銀行から多額の融資を受けて、有明の土地を確保したらしい。
オリンピックに合わせた大規模なスポーツイベントを運営するためだ。
だが、コロナで全てが頓挫。会社は今、莫大な借金だけを抱えた完全な自転車操業状態にある、と。
「だから、俺が一つ、美味しい仕事を紹介してやったんだよ。オリンピックの開会式関連の、小さなイベントだけどな」「はい、それは聞いています。私も関わっています。」
「葵が陣頭指揮をとっているのだから、部下の君もそりゃ関わるよね。
じゃあ、知っていると思うが、葵はあの真面目な性格だ。
既に有名なクリエイターや芸能人なんかも抑えているわけよ。半分前金で払ってねw」
「あ!」
「気づいたかね、そんな状態で、オリンピックは延期だ。実際には、中止かもしれん。で、なぜ、君を呼んだかというとだね」
村松さんの目が、蛇のように細められた。
「オリンピックが延期になり切羽詰まっている葵に別の仕事を紹介するつもりなんだが、そこで、君には失敗して欲しい」「え?さ、さすがにそんなことは・・」
「白状したまえ、君だって、あんな美人と毎日仕事をしていてムラムラしているんだろ?」
「そ、それは・・」
「約束しようじゃないか、うまく行ったら君の目の前でストリップをさせた上に、好きなように抱かせてやる」
確かに、詳しく計画を聞くと成功しそうな気もした。
しかし、失敗したら、俺は職を失うかもしれない。
天国と地獄が、同時に目の前にぶら下がっている。
葵さんの裸体という天国。会社をクビになるという地獄。
だが、その時の俺は、もう正常な判断などできなかった。
脳を焼き尽くすほどの欲望が、ちっぽけな理性を、いとも簡単に飲み込んでしまったのだ。
―――そして、数週間後。
「いくら謝られても、ダメなもんはダメなんだよ!」
料亭の一室で、村松さんの怒声が響き渡る。もちろん、これは全て演技だ。
俺と葵さんは、畳に手をついて、ひたすら平身低頭で詫びを入れている。
いつもクールな葵さんが、この時ばかりは必死の形相で、かつての同期である村松さんにお酌をしようとする。
だが、村松さんはその盃に手を伸ばそうともしない。
「オリンピックで困ってるから、力になってやったのに、恩を仇で返されたよ、まったく」
「本当に、申し訳ございません……」
「なぜもっと注意深く、プロデューサーの過去を調べなかったんだ! ネットで検索しただけでも色々出てくるじゃないか!」
村松さんが叩きつけた週刊誌のコピー。
そこには、俺たちが選んだプロデューサーが、過去に障害者虐待で告発されていたという記事が、大きく掲載されていた。
~児童養護施設の子どもたちとのお料理会~
教育先進国イギリス、アメリカ、フランス、カナダなどとの国際親善交流の一つとして各国の児童養護施設の子供たちとのお料理を通じて触れ合いがテーマのイベントだった。
そのイベントのプロデューサーの一人が、過去に障害者を虐めていた事実がネット上に晒されてしまったのだ。
世界中の様々なSNSやメディアで批判が集中し、元請けの電〇はもちろん、下請けで実際にイベントを仕切っていた当社はまる焼けにされた。
当然、電〇に対して、当社は責任を取らなければならなかった。
その重圧に震える華奢な肩を、俺は、罪悪感と、そして、どうしようもない興奮と共に見つめていた。