第一章 夢界の闘争
闘技場に足を踏み入れた瞬間、神原カナメは全身に異様な熱気を感じた。
観客席には無数の影が座っている。だが顔はぼやけ、どれも“空白”のようだ。存在しているのに実体はない。ざわめきだけが渦を巻き、耳を打つ。
「……観客まで、心象なのか」
彼は自分に言い聞かせるように呟く。
ここは現実ではない。夢界――人の心が具現化した世界だ。現実で抱えてきた未練や後悔が、この場に形となって現れる。
正面に立つ男――城戸シオンは、長身で痩せた体を黒いコートで包み、口元には常に薄い嘲笑を浮かべていた。細い指で転がすチェスの駒が、闘技場の空気を切る音だけで存在感を示す。
「さあ、始めようか」
ルールは簡単だ。どちらかが戦闘不能、あるいは心を砕かれるまで続く。勝った者は、夢界での戦利品として願いを叶える権利を得る。
「俺はお前を“チェックメイト”に追い込む」
シオンの声は冷徹だが、その瞳には微細な揺らぎがあった。
その瞬間、床に広がった石畳が静かに変形し、闘技場全体が巨大なチェス盤となった。白と黒のマス目が整然と並び、その上に立つカナメの姿は、まるで駒の一つのようだった。
「……心象具現化、か」
シオンの創造物、白い兵士たちが一斉に実体化する。表情のない仮面をかぶり、槍を構えて一糸乱れぬ動きで迫る。
まさに“策士”と呼ぶにふさわしい布陣。
しかし、カナメの左目に刻まれた“月の目”が静かに輝く。
――視える。
シオンの心の奥底。外側の冷徹さに隠れた恐怖、裏切られることへの怯え、孤独に縛られた弱さ。
この力があれば、相手の心理を読み取り、揺さぶることができる。
「さあ行け、ポーン!」
シオンの命令と共に兵士が一斉に槍を突き出して突撃してきた。
カナメは後退しつつも、足元の石畳を踏み込む。
「創造せよ!」――その声に応じて、足元から黒い大鎌が形を取り、手に収まった。
「大鎌……?」
シオンの眉がわずかに動く。
「俺にとって“心を刈り取る象徴”はこれなんだ」
大鎌の刃が、兵士たちの影を切り裂く。攻撃の一瞬一瞬で、シオンの心の揺らぎを読み取り、攻撃の角度とタイミングを微調整する。
兵士たちは次々と消え、床のチェス盤も再び空白を取り戻した。
だがシオンも策士だ。すぐに新たな兵士を生み出し、攻撃を仕掛ける。
カナメは瞬間的に思考を切り替え、次の心理戦に備えた。
「お前……駒を動かすとき、ほんのわずかに躊躇してるな」
“月の目”がシオンの心を暴く。
兵士を駒として扱いながらも、裏切りの恐怖が頭をよぎる瞬間がある。
そのわずかな遅れを見逃さず、カナメは攻撃のタイミングを定める。
「違うか? お前の恐怖は、この動きに現れている」
シオンは動揺を隠せず、兵士の指揮が乱れ始める。
カナメは大鎌を振るい、一気に切り込む。
刃がシオンの喉元すれすれで停止し、兵士たちは砕け散った。
「なぜ……俺の策略が……」
シオンは膝をつき、悔しさに歯を食いしばった。
「策略は悪くない。ただ、心を偽れなかった。それだけだ」
勝利の余韻は短く、カナメの胸に冷たい予感が芽生えた。
この戦いは始まりに過ぎない。夢界には、より強大で歪んだ心理を持つ者が存在する。
その時、闘技場の空気が一変した。
遠くから、声もなく、奇妙な笑いが響く。
影のような人物が、ふわりと現れた。黒いフードの影、浮かぶ瞳は深紅。
(……次の敵は、普通じゃない)
カナメは大鎌を握りしめる。
この世界では、戦力は“心理の強さ”で決まる。
攻撃力や防御力ではなく、恐怖、焦り、裏切り、希望、絶望――人の心の揺らぎが具現化して戦力となるのだ。
「俺は……負けない」
カナメは心の中で強く誓う。
闘技場の月光が、彼の瞳を照らす。
“月の目”が、微かに瞬いた。
それは、戦いの果てにしか見えない真実を映す眼。
――これは、戦いの序章。
――心理戦の世界に足を踏み入れた、最初の一歩だった。