プロローグ 夢界への招待
その夜、神原カナメは月を見ていた。
夏の終わり、蝉の声が遠ざかり、熱気に満ちた街が眠りにつこうとしていた頃。
彼の胸中には、説明のつかない虚無感が渦巻いていた。
「……また、か」
眠れない夜が続いていた。日常における小さな挫折や後悔――そんなものは誰にでもある。だがカナメの抱えるそれは、もっと根深いものだった。
――あの日、俺が助けられていたら。
――あのとき、違う選択をしていたら。
心の奥で燻り続ける“もしも”の炎が、彼の思考を焼き尽くす。
ベランダから夜空を見上げると、月がこちらを見ていた。
まるで瞳のように。
冷たい銀色の光が降り注ぎ、その中心に“縦に裂けた瞳孔”のような影が浮かんでいるのに気づき、カナメは息を呑んだ。
「……目、だと?」
次の瞬間、視界が崩壊した。
⸻
気づけば、彼は見知らぬ場所に立っていた。
空は深い藍に染まり、無数の星が回転するように渦を描いている。足元には石畳が続き、遠くには巨大な円形闘技場のような建物が浮かんでいた。
現実ではない――その直感が、肌を突き刺すほどの確信をもたらす。
「ここは……どこだ?」
答えは、すぐに返ってきた。
『ようこそ、夢界へ』
声がした。頭の中に直接響くような、不気味でありながら透き通る声。
カナメは反射的に周囲を見回すが、誰もいない。
『ここは人の心が形を成す世界。お前のように“未練”を抱いた魂だけが招かれる』
「……未練?」
『そうだ。お前の心はまだ決着を求めている。“過去をやり直したい”という渇望こそが、お前をこの舞台へと呼んだ』
空が裂け、そこから光が降りてくる。
その中に、一冊の本が現れた。表紙には銀色の瞳の紋章。
『創造主の書だ。お前の心を具現化し、武器とする権利だ』
カナメは本を受け取る。すると、意識の奥底から言葉が浮かび上がった。
「……“月の目”?」
次の瞬間、本が弾け飛ぶように光を放ち、カナメの左目に焼き付く。
視界が反転し、あらゆるものの“裏側”が透けて見える。
石畳の亀裂の奥には、暗い奈落に沈む恐怖の影。遠くの闘技場からは、無数の叫び声と歓声が重なって響いてくる。
『それがお前の力。“月の目”――ルナリス。相手の心を覗き込み、真実を暴く眼だ』
カナメは思わず息を呑む。
ただの夢だとは思えなかった。
あまりに鮮烈で、あまりに生々しい。
『勝ち残れ。最後の一人となった創造主には、願いを叶える権利が与えられる。過去でも未来でも、望むままに』
――願い。
――やり直すことができるのか?
頭の奥に浮かんだのは、あの日の光景。
助けられなかった、あの笑顔。
自分の手の届かなかった未来。
「……もし、それが叶うなら」
カナメは唇を噛む。迷いはなかった。
「俺は、この戦いを受ける」
答えた瞬間、空気が震えた。
闘技場の扉が音を立てて開き、黒い影が現れる。
最初の敵。すでに待ち構えていたのだ。
『おや、新入りか。……ようこそ、夢界へ』
男は薄笑いを浮かべ、チェス盤を模した武器を手にしていた。
駒が宙を舞い、影となって実体化していく。
「俺は城戸シオン。自称・“策士”だ。お前が最初の餌食になる」
挑発する声。
だが“月の目”を通して見えたのは――彼の胸の奥に巣食う、醜悪な“恐怖”だった。
策士を名乗りながら、裏切られることを恐れている。仲間を信じられず、孤独を抱えている。
カナメは気づかぬうちに口元を歪めていた。
「……悪いな。俺の眼には、お前の“弱さ”が丸見えなんだ」
初めての戦いが幕を開ける。
それは単なる力と力の衝突ではない。
心と心の裏をかき合う、心理戦の闘技場だった。